キリスト教の聖な おにいさん (聖人) となった釈尊 -石井公成『東アジア仏教史』を読む-

 石井公成『東アジア仏教史』を読んだ。

東アジア仏教史 (岩波新書)

東アジア仏教史 (岩波新書)

 

 内容は紹介文にある通り、「紀元前後、シルクロードをへて東アジアに伝えられた仏教は、西から東へ、また東から西へと相互交流・影響を重ねながら、各地で花ひらいた。国を越えて活躍する僧侶たちや、訳経のみならず漢字文化圏で独自に創りだされた経典、政治・社会・文化との関わりに着目し、二千年にわたる歩みをダイナミックにとらえる通史」というもの。
 広く、しかし浅くはない中身で、たいへん勉強になる。
 以下、興味深かったところだけ。

最初から超人

 こうした釈尊観はまったくの誤解とは言い切れない (57頁)

 『後漢紀』等の記述についての話である。*1
 その当時は、釈尊について、中国にはなかった輪廻と因果応報の教えを説き、黄帝老子のような超人、空を飛んだり姿を変化させたりできる異国の巨大な金色の神様、というふうに考えていた。
 だが、この釈尊観は全くの誤解、というわけでもなかった。
 というのも、インドの仏伝のなかには、釈尊が寿命を自在に伸ばすことができ、空も飛ぶ存在として出現するものがあるからである。
 仏伝が出た時点ですでに、釈尊は超人と化していたのである。 

「輪廻」の変化

 インドの初期仏教が説いた輪廻とは、業の存続であって、輪廻の主体となる何かが生まれかわっていくとする教えではなかった (73頁)

 しかし、のちには、「輪廻の主体となる何かが生まれかわっていくとする教え」に近い教義を説く部派も出てきた。
 また、中国において仏教を批判する者たちは、輪廻説を否定し、精神は肉体と一体であり、肉体が滅びれば精神も滅すると主張した。
 これに対して、仏僧たちは「神不滅(精神の不滅)」を主張するようになった。*2
 こうして輪廻の概念もまた、最終的に変容することとなった。

仏骨から「仏性」へ

 天から与えられたという意味合いが強い「性」の語に置き換えて、「仏性」と訳した (75頁)

 法顕が『大般泥【オン】経』*3を訳す際、すべての人は「ブッダ・ダートゥ」を持っているという箇所を、「一切衆生皆有仏性」と訳した。
 元は、仏の本質や原因を意味し、仏の骨のイメージも、重ねられていたものだったのを、「仏性」と訳した*4
 そちらの方が中国の知識人になじみやすかったためだと考えられる(孟子の「性」善説、など)。

仏教と牛糞

 南朝でも北朝でも、中国仏教はインド風な僧侶の生活様式を全面的に採用することはなかった。 (84頁)

 たとえば、インドでは、戒壇を清める際、牛糞を延ばしたものを使用していたが、中国では行われなかった。
 そして訳経の際には、「香泥」などと曖昧に訳されたのである。*5

仏教が恋愛文学を生む

 しかし、歌聖として尊崇される柿本人麻呂すら (182頁)

 『万葉集』は、日本人の純粋な心情をあらわしているとされるが、柿本人麻呂は、川の流れに数を書くような、すぐ消えてしまう命だからこそ、必ずあなたに会いたいと誓ったのだ、(巻11・2433) *6と歌っていたりする。
 『涅槃経』の比喩を用いて無常に触れつつ恋心を強調している。
 ただし、日本では、無常という仏教的概念は、季節の変移と重ねあわされ、情緒的にとらえられるようになったようだが。
 ともあれ、仏教が文学の恋愛的要素をはぐくんだのは間違いなさそうである。*7

インドからも参拝者がきた。

 インドや西域も含む諸国から参拝者が多数訪れた (190頁)

 宋の時代には霊場への巡礼が盛んになった。
 なかでも五台山は、『華厳経』で文殊が住むと記されている清涼山のこととされ、インドや西域などからも参拝者が訪れた。*8
 あまりにも多くの人が参拝に来たので、皇帝の許可制にしなければならなかった。

キリスト教の聖人になった釈尊

 仏教という点がぼかされて、ある苦行者の話とされた (243頁)

 釈尊の伝記が、中央アジアマニ教徒によって、古代ペルシャ語に訳された。
 その後、それは中世ペルシャ語に改められた。
 その過程で、名前は菩薩から「ブーダーサフ」という俗語形で表記され、仏教という点はぼかされた。 そのアラビア語版は10世紀にはバクダットの本屋の目録に載る。
 そして、イスラム世界に広まった物語は、キリスト教グルジア人によってシリア語に訳されたときに、名前を「イォダサフ」と誤記された。
 内容も、インド王子がキリスト教を信仰して伝道し父をも改宗させる話に変わった。
 これが東方教会の神父によってギリシャ語に訳された。
 さらに、名を「ヨサファット(ジョザファット)」と表記されたラテン語訳も出され、キリスト教の聖人の話に変わった。
 果ては、ローマ教会によって聖人認定まで受けることとなった。
 のちに仏教説話だと判明して認定は取り消されたのだが。*9

*1:金順子によると、その内容は以下のとおりである。

明帝が夢で金人を見た。それは長大で、項に日月光があった。群臣にそれは何かと問うたところ、西方に神があり、その名は仏であると申した。そこで使者を天竺に遣わして、その道術を問い、その形像を描かせたと言う。

以上、訳を引用した。(「仏教造形の伝播と展開 ― 作例と文献を通して ―」https://assets.fujixerox.co.jp/files/2018-06/d5c2159ba1c779f83d5069eab6df7187/906.pdf
 )。

*2:三桐慈海「神不滅論と宗教性」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005819209 によると、中国において神不滅が唱えられた理由の一つとして、修行本起経などの仏伝に見られる、ブッダの前世における菩薩として転生するという説話を挙げ、その説話と輪廻とを区別することなく受容してしまったことがある、という(論文71頁)。そうした菩薩の転生と衆生が輪廻することとは、教義上、別のことであるにもかかわらず、である。なお、「神不滅」の「神」を「冥冥のうちに維持していくはたらき」、「不滅の実体ではなくて作用性」という風に、「実体」ではないと解釈する慧遠の説ものちに出てくるという(論文72頁)。中国の仏教思想もけっこう奥深い。

*3: http://bauddha.dhii.jp/INBUDS/search.php?m=sch&uekey=%E5%A4%A7%E8%88%AC%E6%B3%A5%E6%B4%B9%E7%B5%8C&a= 参照。

*4:著者である石井はあるインタビューで次のようにまとめている( https://www.toibito.com/interview/humanities/science-of-religion/1813 )。

ダートゥというのは、要素、原因、鉱石などの意味を含むのですが、体の構成要素といったら骨でしょ?『ブッダのダートゥ』という言葉は、仏となる原因といった意味だけでなく、仏の骨という意味を含むんです。すると、あなたの体の中に仏舎利がある、あなたは仏塔、つまりは仏にほかならないということになるんですよ。 (引用者略) この「仏のダートゥ」という生々しい語が、中国風に「仏性(ぶっしょう)」と漢訳され、仏性説が東アジア諸国に広まっていきます。インドでは、すべての人は如来を内に蔵した存在だということで、「仏のダートゥ」よりも「如来蔵(タターガタ・ガルバ)」という表現の方が主流となりますが、この如来蔵思想も東アジアで広まっていく。

*5:『浄土宗大事典』http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%A3%87 では、「インドやチベットにおいては、もっぱら七日作壇法によって建てる土壇を用い、そこに香泥や牛糞を塗った」と説明されている。香泥と牛糞とは、別のものと考えられているケースもあるようだ。また、杉本卓洲「インドの宗教にみる像供養」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110000976187 )には、仏教の儀式に使う香水を作る過程で、「陸鬱金香・竜脳香・雲陵麓香」を燻して「浄石の上で磨し」、「香泥」を作るとある。香泥は、そうしたものを指すケースもあるようである。なお、インドでは牛糞は燃料や宗教儀式など様々に使われる。乾燥すればほぼ臭いはしないとのことである(三尾稔「牛糞燃料」http://www.minpaku.ac.jp/museum/showcase/media/tabiiroiro/chikyujin185 参照 )。

*6: 「水の上に 数書くごとき わが命 妹に逢はむと うけひつるかも」 

*7:詳しいことは、作者(石井)が既に書いてくれている。以下参照 石井「アジア諸国の恋愛文学と仏教の関係」 https://www.toibito.com/wp-content/uploads/2017/08/1aef5ed3ddf85982e74f2e6913b13be8.pdf 

*8:文殊菩薩の住地五台山の名は、中国だけでなく朝鮮、日本、中央アジアチベット、インドにまで伝わり、各地から巡礼者が訪れた」。以上、コトバンク( https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%8F%B0%E5%B1%B1%28%E4%B8%AD%E5%9B%BD%29-1537259 )より、佐藤智水の手になる解説。

*9:ルゥイトガード・ソーニーによると、「およそ 1859 年になってようやく、シッダールタ王子が保護されて教育されたこと、そして彼が老、病、死、出家者と四度の決定的な邂逅をしたことが、ヨサファトの物語の中核部分となっていることが認知された」(「世界を旅し経巡る物語 変装したブッダと井戸の中にいる男の寓話」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005695427 )。

「大学者、道学先生に説教される」の巻 -井上進『顧炎武』を読む-

 井上進『顧炎武』を読んだ。

顧炎武 (中国歴史人物選)

顧炎武 (中国歴史人物選)

 

 内容は、紹介文の通り、「異朝に仕えることなく、激動の明末清初を生きた顧炎武。彼の学問と生涯を通して、17世紀中国の真実をさぐる」というもの。
 顧炎武自身以上に、17世紀中国社会を描くことに力点が入っているようである。
 以下、面白かったところだけ。

大学者、無理な解釈をする

 顧炎武といえば清代考証学の開祖、これはもう定まった評価以上の、ひとつの事実であるとさえ言えよう。だがだからといって、彼の言うことは何でも考証ずくめで、確かな証拠にもとづくものばかりだ、とはならない。 (242頁)

 たとえば、『論語』の「われに乱臣十人あり」という周の武王の言葉である。
 この場合の「乱」は「治」という意味である。

 孔子は続けて「婦人あり、九人のみ」という。
 著者によれば、武王の母がいるので、実質九人という意味である。

 だが、顧炎武は周王朝を興すのに夫人の力が必要だったはずはない、伝写の誤りか何かに違いない、と書いたという。*1
 著者は、「この『婦人あり』に対する疑問など、文献的証拠は皆無、ありていに言えば、全くの臆説である」という。
 ただし、著者の言うように、「この様な全くの臆説と精密な考証は、決して相容れぬものではな」く、それどころか「古人の意」に関する臆説は精密な考証の前提ですらあった。*2

大学者、道学先生に説教される

 こんなことになったわけは、顧炎武が仏教を頭から排撃し、朱子学と仏教の関係を全く認めようとしなかったからである (248頁) 

 ある道学先生(李氏)と論争し、実質顧炎武は敗れた。
 その理由は、顧炎武が朱子学と仏教との関係を認めなかったためである(「体用」論に関することだったようだ)。*3
 そして、李氏は、程子の言葉を引き、内に求めず外に求めるのは聖人の学ではない、と古今の字句ばかりに執心する顧炎武を諫めた。
 大学者が、道学先生に説教されたのである。

清代考証学の背反

 新しい国家を夢想し、理学を否定しながら、しかも旧来の体制教学たる朱子学を護持した顧炎武は、真に清代考証学の開祖であった。 (262頁)

 清代考証学の立場では、古い注釈を尊重しつつ、文字、音韻、訓詰から経書を、文献学的に研究する。

 ところが、最終的に明らかにされるべき聖人の道、あらゆる行動を支配する規範は、欽定の正学「程朱」(朱子学)によってすでに与えられている、としたのである。
 彼らはひたすら、ものやことの考証に没頭したが、けっきょくのところ、朱子学を承認しつつ非朱子学の学問をやる、という背反を行ったのである。*4

 

(未完)

*1:『集注』には、「(引用者略) 其の一人を文母と謂う。劉侍読以為、子に母を臣とするの義無し。蓋し邑姜ならん。九人は外を治め、邑姜は内を治む」 (引用者略) とある」ようである。つまり、朱子は、武王の母ではなく、武王の妻である、という解釈をとった(「Web漢文大系」よりhttps://kanbun.info/keibu/rongo0820.html )。尊敬する朱子に対してさえ、字句の解釈に関してならば、顧炎武は異を唱えたのである。それもかなり合理的とは言えない理由によって。

 ところで、渋沢栄一は、「婦人とは殷人を指し」、「此の内膠鬲は殷の人なれば真の周の臣は九人のみである」としている。「支那の如き時々国体の変る国と万世一系の我が国とは比較にならない」というアレな言葉もつけて(以上、「デジタル版「実験論語処世談」」https://eiichi.shibusawa.or.jp/features/jikkenrongo/JR051a04.html

 ちなみに、安井息軒『論語集説』(の「泰伯第八」 https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E%E9%9B%86%E8%AA%AC/%E6%B3%B0%E4%BC%AF%E7%AC%AC%E5%85%AB )は顧炎武の言葉の詳細について言及しているが、その近くの箇所に、「衛氏古文、作有殷人焉。而韓退之直指為膠鬲」とある。もっとも、息軒はその解釈に与してなさそうに読めるのだが。

*2:その理由については本書を参照のこと。読めば、考証学の成立する知的環境が決して「イデオロギー・フリー」なわけでもなかったことが、わかるであろう。むしろ、そうした「臆説」があったからこそ、精密な考証が許されたという時代の背景も。

*3:A・チャールズ・ ミュラーは次のように述べている。 

朱子学者たちは、本来的には純粋な心とその種々の現れに対して体用関係を(主として「理気」の概念を経由して)適用しているが、 (引用者略) このパラダイムは、『大乗起信論』、『金剛三昧経』、東アジアにおける仏性に関する註釈の系譜、そして華厳教学の「理事」の形而上学の発展などを受けて初めて、「純粋な心と種々の現れ」という意味で適用されるようになるのである。朱子学のその他の重要な諸概念と同様に、「理気」の概念や、「体用」の朱子学的な理解などは、それ以前の中国仏教における展開を抜きにしては考えられない。

(「インド仏教の中国化における体用論の出現」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006411964 ) よく知られていることではあるだろうが、一応念のため。 

*4:渡邉大によると、「顧炎武の学問の特徴である、博学かつ実証主義的な手法は、必然的に対象の拡大や精度の向上を目指すものとなるため、実学を志向した顧炎武の学問の中には、当初から、考拠のための考拠へと向かう傾向が胚胎されていたのであった。」(「顧炎武の考拠と経世 : 『日知録』「郡県」条をてがかりに」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006533769 ) 考証学自体に当初から、「背反」を生む芽は存在したのである。考証の自己目的化である。

では、「党」なき政治は可能か、という問い。 -佐々木中『戦争と一人の作家』を読む-

 佐々木中『戦争と一人の作家: 坂口安吾論』を読んだ。

戦争と一人の作家: 坂口安吾論

戦争と一人の作家: 坂口安吾論

 

 内容は、紹介文の通り、「安吾を徹底的に読み直すことでその限界をあきらかにしながら、あらゆる安吾論を葬りさり、文学と思想の本質にせまる決定的な論考」という内容。
 安吾の礼賛で終わらないところが実によい。
 異論がなくはないが、大変刺激的で、読まれるべき内容。
 以下、特に面白かったところだけ。*1

「加害/被害」関係の希釈化

 安吾は「誰が」「誰を」突き放すのかいつも曖昧だ。 (引用者中略) 殺されるほうがいいんだ、しかし殺されるのは誰で、殺すことを強いたのは誰で、殺されることを強いたのは誰で、殺すの本当には誰なのか。ヒステリイと言うが、ヒステリイに陥っているのは誰で、ヒステリイを強いたのは誰で、ヒステリイの犠牲者になったのは本当には誰なのか。 (137頁)

 坂口安吾に一貫しているのは、被害と加害、主体と客体の、あいまいさである。*2
 安吾に対して、違和感を覚えるのは、このあいまいさである*3

安吾マッカーサー

 しかし、坂口安吾は一度も戦後の「アメリカ合衆国」の「指導」を指弾したことがない (144頁)

 安吾は、1951年の『読売新聞』にて、マッカーサーを称賛している。*4
 ほかの外国からの指導は、「キリシタン」や「共産主義」といったものを批判したにもかかわらず、である。
 ちなみに、同じ紙面には、佐々木信綱のマッカーサー礼賛の短歌も載っている。*5

美学的反共主義の閉域

 だが、彼が真に政治に反抗する文学を書いたことがあるか。 (162頁)

 安吾は「続堕落論」の最後で、「堕落は制度の母体」と書きつつ、その「独創」から「政治」を引きはがして、「文学」やら「愛情」やらの「真実の生活」を提唱している。*6

 それは美学的反共主義の閉域のなかにのみ生存を許される制度的創造性でしかなくなる。 (163頁)

 政治から逃走し、「美に感謝」する安吾
 結果として、文学は制度に囲われた「創造性」でしかなくなるのである。
 著者は、安吾は敗戦を消去するために美学的閉域に立てこもったのだとする。

「党」なき政治は可能か

 政治を論ずるかに見えて最終的には「政治」を消去するこの作家 (174頁)

 安吾の発想の根本には「党」への懐疑がある。
 徒党が嫌いなのである。
 だから、革命もストライキも嫌い、というのは不自然ではない。
 ならば、当然、「党」なき政治が可能なのか、と問うべきではなかったか、と著者は喝破する。
 よくぞ言ってくれた。*7 *8

凡庸な手口

 むしろ近代文学では凡庸な手口にすぎない (186頁)

 いろんな矛盾(非合理)をすべて「女」に投影して拝跪する所作は、近代文学ではありきたりである。*9
 いってしまえば、これは漱石から大谷崎にまで、言えることではあるが。

押し付けられたものをこそ、武器に変える

 まさに「無理強い」されたと言われる「新憲法」によって「外国の指導」を退けうる時こそ、模倣が発見となる瞬間に他ならない (216頁)

 日本国憲法(の第九条)の話である。
 押し付けられたものをこそ、武器に変える。
 安吾の論理を突き詰めていくと、こうした"回答"となる。*10 *11

(未完)

*1:以下、安吾を批判する内容が多めだが、「天皇陛下にさゝぐる言葉」( https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42818_26242.html )の安吾の言葉は現在でも読まれるべきだろう。

たゞ単に時代自身の過失が生んだ人気であって、日本は負けた、日本はなくなった、自分もなくなった、今までのものを失った、その口惜しさのヤケクソの反動みたいなもので、オレは失っていないぞと云って、天皇をカンバンにして、虚勢をはり、あるいは敗北の天皇に、同情したつもりになってヒイキにしている、その程度のものだ。 (引用者略)  天皇が人間ならば、もっと、つゝましさがなければならぬ。天皇が我々と同じ混雑の電車で出勤する、それをふと国民が気がついて、サアサア、天皇、どうぞおかけ下さい、と席をすゝめる。これだけの自然の尊敬が持続すればそれでよい。天皇が国民から受ける尊敬の在り方が、そのようなものとなるとき、日本は真に民主国となり、礼節正しく、人情あつい国となっている筈だ。

*2:本書は、ウェブのある書評( https://bookmeter.com/reviews/60823158 参照 )が書いているように、「自らをも含め世界を笑うことによって世界を肯定する『ファルス(戯作)』をマニフェストに掲げた安吾によって観客として戦争を眺め賛美した安吾を「それってアンタの文学的立場と矛盾してないか?」と内在的に批判し尽くしていく」ものである。本書の良い点は、こうした点にある。

*3:たとえば、安吾「特攻隊に捧ぐ」https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45201.html での

強要せられたる結果とは云え、凡人も亦またかかる崇高な偉業を成就しうるということは、大きな希望ではないか。大いなる光ではないか。平和なる時代に於て、かかる人の子の至高の苦悩と情熱が花咲きうるという希望は日本を世界を明るくする。ことさらに無益なケチをつけ、悪い方へと解釈したがることは有害だ。美しいものの真実の発芽は必死にまもり育てねばならぬ。

といった、「崇高」による被害と加害の非対称的な関係の「希釈」である。そしてこの引用箇所は、別の問題点をも含有する。すなわち、戦死者を、おめおめ生き延びた者(たち)が都合よく利用している点である。一ノ瀬俊也『戦艦大和講義』等を読めば、こうした「欺瞞」は明らかであろう。

*4:既にほかの書評(ブログ「「癒しの島」から「冷やしの島」へ」https://earthcooler.ti-da.net/e9244618.html )でも取り上げられているように、本書199頁には次のように書かれている。

ファルスにおいていつも安吾は誰が誰を突き放しているのか曖昧であり、ゆえにそれがその失敗の原因ではないかと述べてきたが、米軍こそが戦争において安吾を「突き放し」「ヤッツケ放題」にしているということを遂に彼は語らない。

*5:坂口安吾全集 第12巻』(筑摩書房、1999年)の解説によると、

大いなる功績、黄金の文字をもてわが新日本の歴史に永久に 心の花束をしもうけませとこそ 国新たに栄えむ春を秋を又来ませと待つらむ花も紅葉も (551頁)

という感じらしい(ふりがなは面倒なので省略)。 

*6:「続堕落論」の文章の弱さは、例えば次のようなところに現れている(https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42619_21409.html )。

あの生活に妙な落着おちつきと訣別けつべつしがたい愛情を感じだしていた人間も少くなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。私の近所のオカミサンは爆撃のない日は退屈ねと井戸端会議でふともらして皆に笑われてごまかしたが、笑った方も案外本音はそうなのだと私は思った。闇の女は社会制度の欠陥だと言うが、本人達の多くは徴用されて機械にからみついていた時よりも面白いと思っているかも知れず

 「筈」、「案外本音はそうなのだと私は思った」、「と思っているかも知れず」、このくだりのフィクショナルな弱さについて、安吾は自身を糾弾すべきであろう。

*7:ところで、安吾サルトルについて、わずかな期間で評価を変えている。1946年11月には、

私は今までサルトルは知らなかつたが、別個に、私自身、肉体自体の思考、精神の思考を離れて肉体自体が何を語るか、その言葉で小説を書かねばならぬ。人間を見直すことが必要だと考へてゐた。それは僕だけではないやうだ。

と書いていた( https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42906_23101.html )。肉体自身の思考、として肯定していたのである。それが、1947年7月には、

サルトルの生に対する消極的態度からは、私は一流の文学は生れる筈はないと信ずるもので、さういふ意味では、文学はともかく生存の讃歌、生存自体を全的に肯定し、慾念を積極的に有用善意の実用品にしようとする人生加工の態度なしに、文学の偉大なる意味は有り得ない。

と書くに至る( https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42872_31181.html )。この変化が何によるものかはここで問題としない。それよりも、安吾サルトルほどには「党(徒党)」の問題に向き合ってこなかったことのほうに、注目すべきであろう。安吾が1955年には亡くなってしまう、という点を考慮してもなお、そうである。

*8:安吾と党派、そして「公共圏」の問題については、また機会を設けて、論じたいと考えている。

*9:先の註で言及したような、「私の近所のオカミサン」や闇の女」も、それにあたるであろう。

*10:こうした論運びに納得できない方は、ぜひ佐々木著を読んでみてほしい。批判的にせよ、読まれるべき本なのだから。

*11:言及されているのは、安吾の「もう軍備はいらない」https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45748_24336.htmlだが、その中にこうある。「軍備や戦争をすてたって、にわかに一等国にも、二等国にも、三等国にも立身する筈はないけれども、軍備や戦争をすてない国は永久に一等国にも二等国にもなる筈ないさ。」

「現実が見えてないのはどっちだ」という話 -魚川祐司、プラユキ・ナラテボー『悟らなくたって、いいじゃないか』を読む-


 魚川祐司、プラユキ・ナラテボー『悟らなくたって、いいじゃないか』を読んだ。

悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)

悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)

 

 内容は紹介文にある通り、「では出家したくないのはもちろん、欲望を捨てたくない、 悟りも目指したくない『普通の人』は、 『苦』から逃れられないのか? 『普通の人』の生活に、ブッダの教えはどう役立つのか? 瞑想をすると何が変わるのか? タイで30年近く出家生活を送る日本人僧侶と気鋭の仏教研究者が、 スリリングな対話を通して『実践する仏教』の本質に迫る」という内容。
 タイトルが実に刺激的だが、内容は、なるほど、と思わせるもの。

 特に面白かったところだけ。*1

「責任」を他人に預けるな

 これは宗教的実践に関する「価値相対主義」とは、もちろん真逆の話です。(57頁)

 唯一の正しいことを常に教えてくれる誰かを想定することで、価値判断の責任を他者に預けてしまってはならない、というのである。
 自分が立っている現在地と目的地を正確に把握して、歩いている己の判断と責任に常に自覚的である仕方で実践にかかわることが望ましい、と。
 宗教というものにかかわる際、忘れてはならない大事なことだと思うので、ここに紹介しておく。
 そして、これは宗教に限らない話でもある*2

現実が見えてないのはどっちだ

 彼らにとっては、むしろ仏教を理解しない凡夫のほうが、煩悩によるイメージに鼻先を引き回されて、ありのままの現実を直視することから逃避し続けている存在 (89頁)

 仏教を現実逃避だと評価する人たちについての話である。
 僧侶側からすれば、ミャンマーの瞑想センターで指導している人たちは、現実に正しく対応するために瞑想を教えている。
 つまり、僧侶の方からすれば、現実が見えていないのは、非難をしてくる「凡夫」のほうなのである*3

選択できる余裕を

 仏教的な意味での自由というのは、基本的にこの「選択できる余地」をつくるもの (179頁)

 気づきの力が育っていれば、縁によって生じる煩悩にそのまま従ってしまうことはない。
 強烈な衝動の支配力にストップをかけて「これは本当に私を幸福にしてくれるのか」と冷静に判断して選択する心の余裕ができる、という。
 いっそサティを学校の必修科目にする手もあるかもしれない*4 *5

 「欲」というものが「怒り」という減少に転じていく機序 (204頁)

 例えば、ある人に「早く会いたい」という願う場合。
 その願いが満たされないと、切なさや悲しみが生じる。
 その悲しみを自分が受け止められないと、I want toではなく、You have to と、相手の責任に転嫁してしまう。
 もし、I want toという欲が生じてきたら、それに気づいておけば、怒りに発展することもない。

いまここを楽しむ

 「遊び」には力を抜いて、本来の結果や利益などに囚われず、「いま・ここをただただ楽しむ」というニュアンスがあります。 (201頁) 

 サティは、「遊ぶように行う」べしという。
 「遊ぶように行う」こと、タイ語では「タム・レンレン」という。
 そうすると、集中しすぎたり、特定の意味や状態にこだわることが自然に減り、囚われのない自由な感覚で楽しみながら気づいていけるという*6

人を見て法を説く

 でもそれは当然のことなんですね。 (223頁)

 ブッダの「対機説法」の話である。
 救いを求める人の資質や能力や状況といった「機」に対して適切な法を説くことが、ブッダの言わんとするところだという*7
 そのため、一つ一つの説法を比べると、矛盾するところも見える。
 しかし、それは当然ではある。
 現代の世界に伝わる様々な形の「仏教」(宗派)も、そのようなブッダ臨機応変に説かれた法の内容をそれぞれに受け継いでいると考えれば、それらが実際の人々の苦からの解放に役立っている限り、否定する必要はない。
 逆に、それらの「機」に応じた説法を、言葉の定義を固定化させて解釈を一義的に統一すると、説法に 存在していた生き生きした教えの可塑性や柔軟性は失われ、凝固した教えを金科玉条のように奉って他者に押し付けるようなことになってしまう。
 そうして、苦の種をさらに増やしてしまうかもしれないのだ。

(未完)

*1:今回も例によって、それが対談する二人のどちらの発言であるのかは、あえて伏せておく。まあ、読めばわかる人にはわかる。

*2:山も山(宮田秀成)氏は、本願ぼこりについて、次のような話をしている(ブログ「安心問答(浄土真宗の信心について)」よりhttps://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/20100325/1269458649 )。

「親に叱られるから」と思っている子供は、親が叱らないとなればやりたい放題にやるでしょう。「叱られるとか」「叱られない」は、子供視点の理屈です。本願をほこり、悪をやりたい放題にするというのは、阿弥陀仏大慈悲心を忘れた言い方です。「親が悲しむか」「悲しまないか」は、親視点のことです。そうなれば、世の中での振る舞いは、決して悪にほこるようなことになってはならないところです。

他者に価値判断の責任を預けないためには、引用部にある「親視点」を心がけることが重要なのかもしれない。というのも、他者に価値判断の責任を預けてしまうのは、とても「自己中」なことだからである。 

*3:「私たちが生きるとは、そういう苦悩する人生を生きることなのです。その意味では、仏教は私たちを苦悩から逃避させるのではなく、苦悩の正体に目覚めさせ、苦悩する人生を引き受けて立ち上がらせていく教えなのでしょう」という尾畑文正の言葉(東本願寺ホームページよりhttps://www.higashihonganji.or.jp/sermon/word/word30.html )にも通じる(やや文脈は違うのだが)。

*4:国語算数理科サティ。いや、宗教色をぼかして、「マインドフルネス」という名前になるかもしれないが。

*5: 日本テーラワーダ仏教協会は、「サティと感情のシャットアウトの違い」として、以下のように回答しているhttps://j-theravada.net/dhamma/q&a/qahp73c/

実在に今の瞬間にこころに、怒り、欲、悩み、などの感情があるのです。それが悪です、煩悩です。それも退治する。「感情・感情」と実況する。又は、どのような感情かと解っているときは、その感情の名で実況する。例えば怒りだと解ったら、「怒り、怒りか怒りの感情か」ですね、実況の言葉は

もちろん、このラベリングをするタイプのサティのオルタナティブ(代替案)として、本書の著者の一人であるプラユキは、チャルーン・サティをも薦めているのだが。これについては、詳細、本書をご参照ください。

*6:著者の一人であるプラユキ・ナラテボーは、師から次のように言われたという(以下、ブログ・「ヒデユキナカオのblog」の記事からの孫引きhttp://blog.livedoor.jp/hideyukinakao/archives/9290508.html )

タム・レンレンでな。空腹感や欲、いらだちや焦り、そのような感覚や感情、また思考が生じてきても、あるいはそういったものにわれを忘れてしまっても、マイペンライ(気にしなさんな)。『ありがとう』と言って、そこから学ばせてもらえばいいんだぞ

*7:アルボムッレ・スマナサーラ(長老)は、次のように述べている(「対機説法は最上の特効薬」https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-139/ )。

対機説法とは、相手の性格や能力、素質に応じて、相手が理解できるように法を説くことで、これはちょうど医者が病人に的確な薬を処方するのに似ています。風邪をひいている人には風邪薬を、胃の調子が悪い人には胃薬を、頭が痛い人には頭痛薬を与えるように、お釈迦さまは出会う人々の性格や能力、素質に応じて、その人の問題が解決するように的確に教えを説かれたのです。

そして後述されるとおり、本書では、その対機説法の理が、仏教が各宗派に分かれている現状に対しても適用されることになる。著者の一人・魚川の玉城康四郎論(論文「玉城康四郎の仏教哲学--死生観と他者論を中心として」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001700500 )も、そうした文脈において読まれるべきであろう。 

物乞いまで余儀なくされている「半分」が、なぜ富める「半分」に反抗して決起しないのか -コンパニョン『寝るまえ5分のモンテーニュ』を読む-

 アントワーヌ・コンパニョン『寝るまえ5分のモンテーニュ』を読んだ。 

寝るまえ5分のモンテーニュ 「エセー」入門

寝るまえ5分のモンテーニュ 「エセー」入門

 

 内容は、紹介文にある通り、「知識人の教養書として不動の地位を占める世界的名著『エセー』。味わい深いモンテーニュの言葉を豊富に引きながら、その大著のエッセンスを見事に凝縮した40章。本格派の入門書」という内容。
 もとはラジオ番組*1がもとになっているという。

 特に面白かったところだけ。

不公平と文明

 インディオにとっての第二の衝撃は貧富の差である。 (24頁)

 インディオが欧州に来たときのこと。
 いくつものことでかれらは驚いたという。
 その中でも、欧州が貧富の差が激しく、そうして貧困にあえぐ人々が、こうした不公平を耐え忍んで、富める者の喉元に掴みかかったり、その家に火を放ったりしないのが不思議だったという*2
 そのまま日本にも同じことがいえそうではある。

俗語で書くことと、読者

 彼がフランス語で書こうと決めたのは、女性に読まれることを願ったからだ。 (66頁)

 ただ、彼はラテン語からの引用をやめようとはしなかったのだが(ラテン語は男性ばかりが読める言語だった。)*3

楽しんで読む。楽しんで書く。

 対象を完全に知りつくしたと思ったとすれば、それは幻想にすぎない。モンテーニュは、あちこちに手をを出しては、どんなものでもそのほんの一側面だけを扱う。本気で、まじめに、覚悟を決めて書いているというのではなく、あくまでも自分の楽しみのために書いているのであり、ときには以前に書いたことと矛盾することもある (163頁)

 そして、魔術のように自分の力では白黒つけがたい主題については判断を中止する。
 彼はいつでも軽やかである*4

(未完)

*1:5分のラジオ番組が一章分に当たるようだ。

*2:本書の訳者の一人、宮下志朗は、ウェブにて次のように書いている(「モンテーニュ『エセー』を読む第12回」https://www.hakusuisha.co.jp/news/n18539.html )。

国王が新大陸先住民に、フランスの感想を問う。モンテーニュは彼らの答えを二つだけ書き留めているのだが、とても興味深い。第一が、屈強な人々が、子供のような王(シャルル9世は若干12歳であった)に従っているけれど、なぜ自分たちで支配者を選ばないのかという疑問で、第二が、貧困にあえぎ、物乞いまで余儀なくされている「半分」が、なぜ富める「半分」に反抗して決起しないのかという疑問である。

ただし、モンテーニュインディオを理想化している点については、川田順造が厳しい見方をしている(「ヒトの全体像を求めて―身体とモノからの発想―」『年報人類学研究』第1号 2010年 http://rci.nanzan-u.ac.jp/jinruiken/publication/nenpo.html )。

初めて出逢った異郷人は、理解が十分でなかっただけにかえって、ヨーロッパ人の視点で理想化されさえした。 (引用者中略) モンテーニュは、アメリカに長く暮らした友人や、フランスの港町ルーアンに連れてこられた 3 人の「野蛮人」について言われていることを、彼らの一人からあまり忠実でない通訳を通して聞いた話など、極めて限られた知識に基づいているので、それだけになお、彼の視点からの理想化が容易だったとも言える。

*3:モンテーニュの熱心な愛読者」であったデカルトは、そうした点において、モンテーニュの後継者だった。久保田静香は以下のように書いている(「古典レトリックと『方法序説』-諺・皮肉・本当らしさ-」http://www.waseda.jp/bun-france/vol22.htm (読みやすくなるよう、原文の一部の注記を削除した。))

思い起こすべきは、デカルトが『方法序説』を執筆するさいに念頭においていた読者層である。デカルトの言葉をかりればそれは「すべての人 tout le monde」、──これでは一見あってなきがごとくの規定にみえるが、つまるところ、ラテン語を知らずとりたてて専門といえる知識ももたないが「まったく純粋に自然の理性を働かせることのできる」一般教養人=オネットムのことであり、そこにはとくに「女性」も含まれる。デカルトはこの女性も含めたオネットムたちの知性につねに並々ならぬ信頼をよせていた

*4:モンテーニュは、学問の目的が「自己の判断」を形成するためだとしつつ、一方で、野放図な読書(例えば旅に書物を携行しつつも読まずにいることも自由、といった読書)や楽しみのための読書も奨励している。こうした点について、山上浩嗣は、以下のように述べている(「モンテーニュの「気をそらすこと」とパスカルの「気晴らし」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006558912 )。

それはモンテーニュにとって,目的論的な思考を超えることによってしか,真の目的には到達できない,ということである。遊戯性,無目的性こそが真の判断形成の条件だというのである。これは,人間をとりまく「世界」があまりにも大きく,人間のわずかな知性や知識の条件で設定される目的に従えば,視野はかえって狭くなる恐れがあるからではないか

 彼の「楽しみ」に対する態度は、たいへん奥深い。いうまでもなく、山上は本書の訳者の一人でもある。

「悟り」とは何か、そして、沙門は「ニート」か学徒か。 -魚川祐司『仏教思想のゼロポイント』を読む-

 魚川祐司『仏教思想のゼロポイント:「悟り」とは何か』を再読。 

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

仏教思想のゼロポイント: 「悟り」とは何か

 

 内容は紹介文にある通り、「ブッダの直弟子たちは次々と『悟り』に到達したのに、どうして現代日本仏教徒は真剣に修行しても『悟れない』のか。そもそも、ブッダの言う『解脱・涅槃』とは何か。なぜブッダは『悟った』後もこの世で生き続けたのか。仏教の始点にして最大の難問である『悟り』の謎を解明し、日本人の仏教観を書き換える決定的論考」という「仏教の悟り」論である。

 とりあえず、気になった箇所だけ*1

求めても求めても、足りない

 「苦」という用語が単に苦痛のみを意味しているわけではなくて (51頁)

 「苦」(dukkha)は、欲望の充足を求めても常に不満足に終わるしかない、という欲望が尽きない事態を示している。
 あらゆる現象は因縁によって形成されており、そのすべては無常である。
 ならば、その現象に依存する欲望を追及しても、無常である以上、満たされるはずはないのである*2

無我と「身体」

 「己の支配下にはなく、コントロールできない」ということ (53頁)

 無我についての話である。
 例えば我々の身体は我々の意志に反して老いていく。
 けっして思い通りにはならない。
 もし色(身体)が我であるなら、病にかかるはずもない。
 そういった、いわば色(身体)の他者性において、仏教は「無我」であると著者はいう*3

気づきと禅定

 気づき(sati)の実践 (127頁)

 自分の行為に意識をいきわたらせ、貪欲があればそれに気づくこと。
 それを日常化させることで、習慣化している行為(煩悩の流れ)を「せき止める」ことが気づきの実践(サティ)となる*4

 禅定は智慧の前提なのである (138頁)

 しかし、欲望によって織り上げられた世界は、凡人には、いくら言い聞かせても現実として立ち現れるのであって、認知はなかなか変わらない。
 理性で暴力を前にした時の身体の硬直をとめられないように。
 この事態を打ち破るには、意識の変化させることが重要である。
 そのためには、強力な集中力が必要であると著者はいう*5
 そうして、禅定(=心が動揺することがなくなった状態)を得るのである*6
 禅定を得て、意識が変化し、悟る道が開ける。

軽やかな、無償の「慈悲」

 「意味」からも「無意味」からもともに離れること (175頁)

 愛することも嫌うことも、共に執着であり、どちらからも離れることが解脱だという。
 解脱を達成した者たちは、存在することを楽しもうとする。
 利他の実践は、その境地から始まるとする。

 あくまでも自由な選択として、である*7

ニートになれ」、なのか

 「異性とは目も合わせないニートになれ」と要求するもの (205頁)

 『スッタニパータ』でのブッダの教説は、労働と生殖の放棄、現象を観察して執着から離れれば、涅槃に至れるというものである。
 ただしその場合、弟子たちに、異性と関わらないニートになれと言っているようなものである、と著者はいう。
 ところで、原義上「ニート」とは、就学も就労も職業訓練も行っていない者を指すわけであるが、仏門に入った者は「就学」したも同然ではないか、という素朴な疑問がある*8

 

(未完)

*1:個人的には、「どうもゴータマ・ブッダらの食べ物を捨てることに対する忌避感は、さほど高くなかったようで」(25頁)というのが一番面白かった(面白い、といっていいのかどうかはわからないが)。ちゃんとパーリ経典に載っているようだ。釈尊が生きていた世界には、モッタイナイ運動はなかったようなのである。

*2:アルボムッレ・スマナサーラ氏は、以下のようにDukkhaを説明している。

苦(Dukkha)は、こうした人間の満足が得られない世界のことを言っているのです。決して苦しみだけを言っているのではありませんが、常に変わっていくものに対して人間が求めるものは、求めた段階でもうその対象たる物や事、人は変化してしまっているので、追い求めた人間はいつも不満で、満足が得られない状態に置かれてしまうのです。満足が得られないから、苦しくなっていくのです

(「四聖諦②」https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-002/ )

*3:著者は、常に実態として存在する「主宰」するような「実体我」の存在を否定する。その一方、生成消滅を繰り返すなかで一時的に立ち現れた情報(目や耳などの感覚器官から入ってきた情報)が認識されることによって、経験が成立する「場」を、そうした流動的な「場」(≒「経験我」)を、肯定している。そのため著者は、桂紹隆のいう「無記説」、すなわち我の有無についてどちらとも言えない(というか「言わない」)、という説を支持している。ここでいわれる「場」というのは、永井均的な<私>に近いものなのだろうか(同じではなさそうだが)。なお、永井には、他の者との共著で、『〈仏教3.0〉を哲学する』という本が存在する(既読)。

*4:林隆嗣は、「念と正知をもって身心を隅々まで見つめながら理解を深めていくことが、悲しみや怒りやこだわりから心を解き放ち、身体の苦痛までも緩和、鎮静させることができると一貫して考えられてきたことはパーリ文献によって確かめることができる」と述べている(「意識を向けていること、じゅうぶんに理解していること : パーリ仏教における念と正知」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006622441 )。ここでいう「念」は、サティを指す。

*5:もちろん、強力な集中力を必要とするために、「瞑想ノイローゼ」になってしまう人もおり、著者はその後の著作で、その問題についても扱っている。

*6:藤本晃「色界第一禅定の入り方」https://ci.nii.ac.jp/naid/130003832129 は、禅定の入り方について簡潔に解説している。本文は英語だけど。

*7:著者によると解脱者たちの「遊戯三昧」は、

子供の「遊び」よりももっと混じりけがない。彼らの生きる時間はその全てが純粋な「遊び」であり、さらに己自身も含めたあらゆる現象が「公共物」であることを徹見している以上、彼らは利他の実践のために、場合によっては自分の命も捨て去ることを決して厭いはしない。彼らにそれができるのは、慈悲の行為が彼らにとって「遊びではない」からではなくて、むしろそれが「何かそれ以外の大切なもの」をどこかに確保しておくことの全くない純粋な「遊び」そのものであるからだ

ということになる(177頁)。何かのための手段とすることのない、軽やかな「無償性」こそ重要なのであろう。

*8:そういえば、『「ニート」って言うな!』が出版されたのは2006年だから、もう10年以上経過しているのである。

明日やるべきことを今日やってしまうのも、「なまけ」。 -高野秀行, 清水克行『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』を読む-

 高野秀行, 清水克行『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』を読んだ。

  内容は、紹介文にある通り、「『面白い本を読んだら誰かと語り合いたい』から始まった辺境ノンフィクション作家と歴史家の読書合戦。意図的に歴史と文字を捨てた人々『ゾミア』、武士とヤクザが渾然として一体だった時代の『ギケイキ』、キリスト教伝道師をも棄教させた少数民族『ピダハン』…。古今東西の本を深く読み込み、縦横無尽に語り、通説に切り込む。読書の楽しさ、知的興奮、ここに極まれり」という感じである。
 関係ないけど、上の紹介文にある本、すべてカタカナである。

 とりあえず、特に、面白かったところだけ。(基本面白いところばかりであるが)

頼朝軍団の真実

 当時鎌倉にあった頼朝邸は御家人たちのたまり場みたいになっていて、御家人同士がすごろくをして遊んだり、酒を飲んでドンチャン騒ぎしたりしていた。つまり幕府は部活やサークルの部室とか、居酒屋とかカラオケボックスみたいな場だった (129頁)

 例の細川重男本のことである。
 あれ、いいよね。*1

「懈怠」と「懶惰」

 夏休みの宿題を七月のうちに全部片づけちゃって、八月はずっと遊んじゃう子供っていますよね。ああいうのは「勤勉」とは言わないじゃないですか。あれはあれで怠けている。 (152頁)

 中世の日本人が書いた辞書についての話である。
 その辞書では「懈怠」と「懶惰」という二つの言葉の意味が解説されており、懶惰と懶怠はしいて訳せばどちらも「怠ける」という意味である。
 しかし、中世では、懈怠は「今日やることを明日やること」、懶惰は「明日やることを今日やること」だったとしている。
 中世人は、未来のために今苦労してしまう近代人的な考えにも否定的だった。*2 *3

照葉樹林文化論への批判

 そもそも東日本は照葉樹林じゃないし、西日本には照葉樹林が多いけど、住みにくかったらしくて、人口が全然少なかったというんだから。 (略) 縄文時代中期ぐらいまでは、東日本と西日本の人口比は三〇対一もあって、東日本のほうが豊かだったんですよね。 (略) 照葉樹林文化論って、当の文化人類学の研究者たちも、なんとなく間違っていると思ってはいながら、なかなか明確に否定できないんですよね。 (略) 現在、日本で最もよく納豆を食べている北関東と東北地方は照葉樹林帯ではないし、タイやミャンマーの納豆食が盛んなエリアも熱帯雨林が多いからそれでは説明がつかないのに、照葉樹林文化論で思考停止になっているごとが多いんですよ。 (176頁)

 照葉樹林文化論のあやうい点である。
 というか、あれは「論」と呼べるのだろうか。*4

離乳食と人口増加の関係

 農耕が本格化すると人口が増える理由として、穀物を用いた離乳食を赤ん坊に食べさせられるようになるから、出産間隔が短縮されると説明しているでしょ。 (略) 離乳食がないと、子どもが三歳、四歳になってもずっと乳をあげなきゃいけなくて、授乳している限り女性は妊娠しないという特性があるから、出産間隔が長くなって、子どもがたくさん生まれない。 (略) 農耕を始めた時代には、離乳食を子どもに食べさせるようになったから人口が増えて、それによって農耕がさらに促進されたという可能性もあるわけでしよう。最近の考古学って、そういうことまで考えるんですね。僕らが歴史の授業で習ったのとはずいぶん違う。 (179頁)

 離乳食と人口の関係については、最近否定的な研究結果を見たが、さてどうなのか。*5

鉄がほしかったので奴隷を求めた

 吉田孝さんという古代史研究者が『日本の誕生』(岩波新書)で、弥生の戦争は「生口」という奴隷を獲得するためでもあったんじゃないかという説を唱えているんですよね。日本列島にはこれといった資源や特産物がないじゃないですか。だから、弥生のクニは、中国や朝鮮半島の鉄と交換してもらう対価物として、最も手近で相対的に高価な奴隸を手に入れようとしていたんじゃないかということです。 (略) 一五世紀からアフリカでやられていたことと同じじゃないですか。 (略) 鉄と交換するために人問をさらうようになって、争いが起こったということですね。農耕社会の成立によって身分ができたのではなくて、奴隸を求めて戦いが起きて、結果的に身分ができたとも言えます。 (192頁)

 鉄はそれほどにまで魅力的だったのだろう。

 本書も、吉田孝本もそうであるが、どちらも、「辺境」が過去を思い描く際の媒介となっている*6

現代語の終止形の誕生

 係り助詞を使っていないのに文末が連体形で終わる文が室町時代に一般化したんです。たとえば他人から何かもらうとき、現代語では「頂戴する」だけど、古文では「頂戴す」でしょ。ところが室町時代あたりから、これを現代語と同じように「頂戴する」と言うようになった。古文の「~する」は連体形だから、本当はその後には体言が続かないといけないのに、連体形終止という形で使われるようになり、それがやがて現代語の終止形「~する」になっていったわけですね。 (212頁)

 室町時代が転換点だったという*7

 内藤湖南ではないが、やはり様々な分野において、室町が転換点なのだな。

(未完)

*1:細川氏は、今年5月に体調を崩されhttps://twitter.com/UYE6bd8Np9Necw1/status/1130875540766724096、その後休養を続けている、と6月ごろに情報を得た。それはそうと、細川作「ムカつく北条氏をブッつぶすから、みんな、集まれ!」は最高。http://nihonshi.sakura.ne.jp/shigeo/index.html 

*2:出典は佐竹昭広『古語雑談』である。ところで、「懶」という字については、根本駿「『懶』の字における意識の変化 -字形による区別とその展開- 」https://www.kanken.or.jp/project/investigation/incentive_award/2014.html が実に面白い指摘をしているので、是非。

*3:2019/11/15追記。なお、尾崎雄二郎、島津忠夫、佐竹昭広『和語と漢語のあいだ』において、佐竹自身は、そうした「懈怠」と「懶惰」の引用したような解釈は、そういう考えが当時一部にあったというのであって、どのくらい普遍性を持った解釈だったかは疑問だとしている(162頁)。つまり、中世において、その解釈が一般的だったかは不明なのである。また、佐竹自身が、岩波新書版『古語雑談』(1986年)に出典として記しているのは、「科註妙法蓮華経抄」である。以上、念のため追記しておく。

*4:田畑久夫「照葉樹林文化論の背景とその展開(3)」には、

照葉樹林文化論に対して疑問点などが続出したのは,照葉樹林文化論はあくまで作業仮説なので,その仮説を構築する段階において種々提唱者の方から異議の申したてなどがあり,重要な点に関して変更されてきたことも原因の1つといえよう

とある。もしそうであるなら、「照葉樹林文化論」ではなく「照葉樹林文化仮説」を名乗るべきではなかったのか、と思うのだが、どうなのだろう。

*5:「蔦谷匠 理学研究科・日本学術振興会特別研究員、米田穣 東京大学教授らの研究グループは、縄文時代後晩期の吉胡(よしご)貝塚(愛知県田原市)から出土した子供の古人骨を安定同位体分析」をした結果、「集団として土器や植物質食物を利用していたにも関わらず、これまで言われてきた仮説とは反対に、吉胡貝塚の人びとの離乳の終わりの年齢は早くなってはいませんでした。過去の人びとの離乳年齢は、単純に土器や植物質食物の利用のみで決まるわけではなく、社会構造やライフスタイルなどにも影響されると考えられます。」という研究結果を発表している(「縄文時代の離乳年齢 -離乳食の利用は離乳を早めたか?-」http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2016/161110_3.html )。 

*6:「時代も場所も全く異なるが、近年のアフリカで、輸出用の奴隷を獲得する目的で部族間の戦争が激化したことはよく知られている。弥生時代の倭においても、交易の対価としての生口を獲得するための戦争がなかったかどうか、今後の大きな課題である」と、吉田孝自身も、アフリカでの事例を想起していたようである(ブログ・「買書とつんどくの日々」よりhttps://plaza.rakuten.co.jp/shov100/diary/201905270000/ )。「近年」がどのあたりを想定しているのかは、わからないが。

*7:菊田千春によると、「一般に,日本語が古典語から近代語への転換期を迎えるのは中世,室町期とされている。中でも近代語への転換として重要なのは,連体形終止の拡大・一般化が進んで係り結びの消失が決定的になったことと,格助詞ガが,明確に主格表示として用いられるようになったことが挙げられる」とのことである(「主格ガの確立と近代日本語の成立:助詞のプロファイルと制約の競合という観点から」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004088590 )。研究上の常識であるのは間違いない。