「疑わしきは罰せずはわが東大医学部には通用しない」とか言われたら、そりゃ決起するやろ 山本義隆『私の1960年代』を読む(続編)

 前の記事の続き*1

私の1960年代

私の1960年代

 

法の常識が通用しない医学部

 疑わしきは罰せずとは法の常識ではあっても、わが東大医学部には通用しない  (112頁)

 もともと、東大医学部の学生処分問題が、著者の学生運動にかかわるきっかけとなった。
 実は、医局長とのトラブルの件でなされた処分者には、実際にその場にはいなかった学生までも含まれていたという。*2
 この件に対して、医学部長が言い放った言葉が上記のものである。*3
 「私たちが求めていたのは、処分が誤りであったことを認めたうえで、その責任を明らかにすることを当然含意していた」(277頁)。

「安全パイ」

 私は、どの党派の色もついていない安全パイみたいなもので (155頁)

 著者が東大全共闘代表というリーダーになった経緯である。
 もともと東大闘争は医学部中心であるから、医学部から代表を出すべきということになった。
 しかし著者は、代表に選ばれた。
 ①どの党派にも属さしていない、②学生から見れば「歳を食っていた」、③調整役としての役割に終始していた、といった理由で自分は代表に選ばれた、と著者本人はみている。*4

日大全共闘への評価

 本当の意味での「全共闘」を作りあげたのは日大です (156頁)

 日大全共闘は、その圧倒的動員力、機動隊や武装右翼とのゲバルトで強かっただけではなかった。
 学生大衆の正義感と潜在能力を最大限に発揮し、戦後最大の学生運動を成し遂げたのだと著者はいう。*5
 日大全共闘秋田明大氏も、こういう良本をいま書いてくれないだろうか(マテ

安保世代と全共闘

 東大全共闘の中心にいた全闘連と青医連の中枢、そして助手共闘のメンバーは、ほぼすべて六〇年安保闘争の経験者 (162頁) 

 ある「日本現代史のある研究者」が東大闘争における安保世代と全共闘世代の対立、のようなことを書いていたことに対する反論である*6
 じっさい、例えば今井澄の経歴をみれば、よくわかることである*7

『東大闘争資料集』

 コピーなりマイクロフィルムに複製して各大学の図書館に配布しておくべきではないのでしょうか。 (123頁)

 丸山真男に対しての言葉である。
 「古新聞」が世界に一部しかない貴重な歴史資料だというなら、それを一つの大学の一つの学部が独占所有するのはおかしいし、だれでもアクセスできるようにしなければならないのではないか、と著者はいう。
 じっさい、著者自身はそうしたのである。*8
 そして、この件については、完全に著者が正しい。

大学で今まさに起こっていること

 とくに大学のトップにおける事務官僚との癒着により、それはより容易に促進される (287頁)

 学内の「官僚機構」の整備と意思決定システムの中央集権化、情報管理の一元化は、大学が国家の官僚機構に直結し、その末端に包摂される道を開くものである、と著者はいう。
 そして、そうした動きは全共闘時代から既に始まっており、その延長線上に今があると著者は述べている*9
 この点は、ウェブで見た限り、他の書評ではあまり取り上げられていなかったように思うので、念のため書いておく。

 

(未完)

*1:自分でつけといていうのもなんだが、タイトルが実にひどい。

*2:「研修カリキュラムを自分で作りたいと言っても大学は話し合いに応じない。病院長を捕まえようとしたら医局長が割り込んできて小競り合いになった。学生、研修員が大量に処分される。局長だけに事情聴取をするが、学生には事情聴取なし。その場にいなかった学生まで処分された。」というのがより詳しい流れである。https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/32196031.html

*3:「学問の自由」が完全に「大学の自由」にすり替わってしまっているように思われる。この件については、http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20111210/p1等参照。

*4:全共闘は『いくつかの政治党派の活動家と無党派の活動家の複雑な関係』(149頁)から成り立ってもいた」というが、そうした「党派」関係について、本書であまり詳しく触れられていない。(小杉亮子「語る、語らない、語りえないのあいだ 山本義隆『私の1960年代』を読み解く」http://gendainoriron.jp/vol.08/rostrum/ro06.php) 調整役としての苦労のもっと具体的な点は、確かに気になるところである。

*5:実際、「60年安保社学同委員長」は、「党派とか前衛意識とか、そういうものから離れた日大の闘争は、そういうものとは無関係なものだなと、本当に新しい学生たちが自分たちで闘争を盛り上げて行く、とても素晴らしい闘争だなと、唐牛とも話をしたのを覚えています」。という風に言及している(「No373 日大930の会公開座談会「日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」(後編)」『野次馬雑記』https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/32414233.html)。この座談会では、「国際的な労働運動を見れば、どこかの工場がストライキに入れば、他の工場も連帯ストに入る、そういうものが問われていたと思う」や、「中大の学費値上げ反対闘争の勝利の段階と同じような気分になって帰ってきたが、翌日に佐藤首相の介入があって白紙撤回した。日大闘争を権力闘争にしたのは政府側である。大きな節目は9・30だったのではないかと感じた」といった重要な言及が見られ、是非読まれるべきである。

*6:「日本現代史のある研究者」が誰のことなのかは明記されていないが、おそらくは『1968』を著した小熊英二であるように思う。実際、小熊は安保闘争については肯定的な書き方をしていたはずである。

*7:今井も安保闘争にかかわりがある。

*8:自費で『東大闘争資料集』を23巻にまとめて国会図書館などへ納本した。https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000002337700-00 その苦労は、https://kingfish.hatenablog.com/entry/20160426で引用されているように、「1990年の頃に何年もかけて、東大闘争のビラ等の資料全5000点あまりを蒐集し、その『東大闘争にかんする唯一の一次資料』、いまでは掛け値なしに『世界に一部しかないもの』を、誰でもその気になれば閲覧することができるように、ゼロックス・コピーでハードカバー製本、全23巻(別巻5巻)の『東大闘争資料集』として、マイクロフィルム3本とともに国会図書館に収めました」。「さらに、そのマイクロフィルム大原社会問題研究所にも寄贈し、また、まさに世界に一部しかないその数千点の資料原本を、マイクロフィルムとともに、千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館に寄贈しました。もちろんそのためには、相当の労力と時間を費やしましたし、またそれに要した経費は相当の額になりますが、すべて私の自腹です」というものである。

*9:或る書評は、「『総長室』が情報を独占的に管理し、すべてを取り仕切る体制=『加藤近代化路線』が完成した。学部長会議や評議会は単なる事後承認機関に成り下がった。文部省や中教審が意図してきた『管理』と『教育・研究』の分離を大学の側から先取りするものであった。併行して『学部自治』、『教授会自治』は解体していった」とまとめている。http://kazurinn-2012.blogspot.com/2015/11/blog-post.html

科学者は場合によってはその権利を行使して研究をサボタージュしなければならない 山本義隆『私の1960年代』を読む

山本義隆『私の1960年代』を読んだ。

私の1960年代

私の1960年代

 

 元東大全共闘代表による、自身の「1960年の安保闘争からの歩みと経験」を記した回顧録のような著作である。*1
 自身の学生運動の経験が語られるほか、近代日本の科学技術の歩みにおける問題点なども指摘されている。そして権威主義的な日本の大学に対する批判などにも話は及んでいる。

 読みどころは多いが、さしあたり、特に興味深かったところだけ触れておく。

国策への協力

 そのことにたいして、戦後にどのような反省がなされたのでしょうか (212頁)

 東大の理工系の学部は、創設以来、国策大学の国策学部として存在していた。
 特に工学部は、戦時下において軍事科学の研究と教育に密接な関連を持っていた。
 こうした事実に対して、反省はなされていない。*2
 それどころか、敗戦したのは「科学的真理」を無視した精神主義のせい、という理屈を以って反省の機会を逃したのである。
 戦争に加担したこと自体は不問にされてしまったのだ。

 教育学者も戦争翼賛 

 「軍務も一つの大きな教育の場」 (114頁)

 1944年、文系学生の徴兵猶予が停止され、学生が軍隊に徴集された。
 そのときの、文学部教育学部の海後宗臣(当時助教授)の言葉である。
 なお、戦後に教授になっている(日本教育学会会長も務めた)。
 戦後も日本教育史家として活躍したこの人物についても書きたいことはあるが、今回は省略する。*3

仁科芳雄永井隆

 科学者が未曾有の殺傷力と破壊力を持つ兵器を生みだしたことにたいする悔恨や罪悪感、あるいは畏怖の感情等は、片鱗も見あたりません。 (74頁)

 仁科芳雄永井隆も広島、長崎の惨状を目の当りにしており、放射線の危険性をよく知る立場にあった。
 また、永井は放射線医学の専門家で、原爆で被爆する以前から放射線障害による白血病を患っていた。
 にもかかわらず、二人はともに、「原子力」の将来に対して信頼を寄せていた。*4 *5

研究のサボタージュ

 このような状況下でなおかつ科学者が主体性を維持できるとするならば、むしろ私たちは、研究を放棄する権利を有していることを自覚し、場合によってはその権利を行使して研究をサボタージュしなければならない (79頁)

 研究者としての自己否定を著者は提唱している。*6
 科学研究が体制にすっぽり取り込まれている時代において、自分の研究がどのような社会的関連の中で営まれているのかに反省的なとらえ返しをせず、科学至上主義を語ること。
 それは、現状肯定・追随のうえに研究者としての既得権を擁護することでしかないし、普遍的な価値を持ちえないのだという。
 現代日本において、果たして、この真摯な言葉がどれほどの科学者の心に響くだろうか。*7

放射性廃棄物

 技術は技術に固有の領域、理論的な理解や根拠づけの困難な領域をかならず残しています (240頁)

 科学技術が科学に基礎づけられた技術だとしても、科学の原理論と同じレベルの合理性を有しているわけではない。
 二〇世紀になってからの化学、特に原子や分子に基礎を持つ科学の場合、廃棄物の問題はずっと深刻になる*8
 にもかかわらず、日本で原子力発電をめぐる議論が始まった当時(1953、54年頃)、物理学者の間で行われた議論では、「廃棄物の事などまったく議論され」なかった(254頁)。*9 *10

原子炉の安全性

 それが本当に設計どおりに作動するかどうかを実験的に検証することはできません (252頁)

 原子炉には、重大事故を止めるための緊急炉心冷却装置がある。
 その装置は、実際に様々な条件下で実験して、一度でも設計通り働かないことが示された場合、大事故に直結する*11
 いうまでもなく、そうした実験は実施できない。*12
 またコンピュータシュミレーションによる模擬実験にしても、数値実験であって、モデルの取り方によって結果が大きく変わるし、同じモデルでも、インプットするパラメータの値にはかなりの恣意性がある。
 つまりそうした意味において「不可能」なのである。

電力業界からのカネ

 「審査には影響しない」などというふざけた言い訳は絶対に通用しません (268頁) 

 班目春樹らの電力業界から受け取ったカネについて。*13
 公害問題を巡る訴訟で裁判官が一方の企業から「判例研究のための研究費」等の金をもらっていたら、裁判の担当から外されるし、免官されるだろう、と著者はいう。
 どうやら、<法>の常識が通じないのは「医学部」だけではないようである*14

 

(きっと続く)

*1:余談だが、著者に関するwikiがなかなか面白かったので、リンクを貼っておく。https://pchira.wicurio.com/index.php?%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E9%9A%86もちろん、著者がタイガースファンだという話も書いてある。

*2:なお益川敏英によると、朝永振一郎は「表面上は軍事協力に協力して成果を出している振りをしながら、肝心なところは手渡さず、毒にも薬にもならない研究をして、「はい」と涼しい顔で論文を提出していた。しかし、量子力学を専門にしている人間が見れば、明らかに「意図的にこのレベルに抑えているな」ということが分かる」という(「あのノーベル賞科学者が安倍政権の軍学共同政策を批判! 軍事に手など貸すものか! 戦争協力への動員はもう始まっている!」『LITERA』https://lite-ra.com/2015/10/post-1559.html)。興味深い方法だが、これが今の学者にも応用できる方法かどうかは、楽観視できないように思われる。

*3:海後の戦争翼賛の教育学者としての側面については、松浦勉「海後宗臣の中国占領統治= 植民地主義教育の政策構想 -十五年戦争と日本の『講壇教育学』-」等が読まれるべきであろう。https://ci.nii.ac.jp/naid/110009561553  海後は、戦中に「外務省や軍部の要請に応えて、文部省より数次にわたり中国に派遣され、日本(軍)の占領統治=『文化工作』の一環をなす占領地教育制度を構想・提言」したりするなど、「戦争翼賛」の言葉通りの活動をこなっている。

*4:実際、仁科芳雄は、1947年の時点で、原子力の安全性について、「危険なのは前述の放射線であって、これは発生装置からも、それから取り出す物質からも多量に放射せられ人体に危害を及ぼすものである。これには充分の注意を払わねばならぬが、現在原子爆弾の製造工場ではこの害を防ぐことが知られているから、それと同様の措置を講ずれば好い」という楽観的な見解だった。以上は孫引きとなる。出典は、https://ameblo.jp/ohjing/entry-11182022774.htm。そして、「作家たちや庶民」も、「軍事的利用としての「原爆」には否定的な立場をとりつつも、平和的利用としての「原子力」には肯定的だった」という点も踏まえねばならない。出典は同様。

*5:「『原爆は神の摂理』『原子力であかるい未来』とのべた永井の作品の思想のベクトル(つまり核の平和利用)がアメリカ・日本の政治的ベクトルとおなじ方向とみられうる資質をもっていた」がゆえに、永井隆による原子力を"礼賛"する言説は、原発推進派から利用された。小西哲郎「核の『平和利用』と永井隆https://ci.nii.ac.jp/naid/110008894921 を参照。

*6:「1966年5月 日本物理学会主催の半導体国際会議 開催費用の一部に米軍から資金提供を受けたことが明るみに」出た件に対して、「日本物理学会は今後一切軍隊を関係を持たない」とする決議が可決される。「『場合によっては研究をサボタージュすべきだ。』という考えが、学者の内部から出てきたのは、あの運動が初めて。」だと、著者の山本は講演において述べたという。https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/32196031.html

*7: 軍事研究の問題については、杉山滋郎「軍事研究,何を問題とすべきか : 歴史から考える」が読まれるべきだろう。https://ci.nii.ac.jp/naid/120005768805

*8:著者の『福島原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと』に対する或る書評は、「完全に科学理論に領導された初めての純粋な科学技術、それがまさに原子力であった。その際、理想状態における核物理学の法則から現実の核工場までの懸隔を架橋する過程は巨大な権力に支えられて初めて可能となった。その結果、それまで優れた職人や技術者が経験主義的に身についてきた人間のキャパシティーを踏み越えたと論じている」という風に言及している。http://yokoken001-note.hatenablog.jp/entry/2018/01/20/154909

*9:軍事利用、核兵器開発につながるのではないか、という議論はなされたようだが。

*10:著者は、講演において、「科学は自然界ではありえない理想的な状況をつくって特定の現象を法則化するが、それを技術として利用する際には公害などの様々な弊害が生み出される。いまは誰でも知っている放射性廃棄物の問題も、原子力発電の研究に携わっていた研究者は誰も考えようとすらしなかった。こういう弊害の責任は科学そのものにもあるのではないかということが60年代後半から徐々に明らかになってきた。/東大闘争の中でも、そういうことをやっている研究そのものとはいったい何なんだろうという問題意識が生まれてきました。」と述べている。http://yamazakiproject.com/events/2015/01/10/968

*11:そもそも軽水炉というもの自体が、「出力密度向上」によって「安全性をぎりぎりまで削って獲得した」存在であり、「冷却に失敗すると直ちにそれがメルトダウンにつながるような」「シビアアクシデントの特徴」を持つものだという(「舘野淳著『シビアアクシデントの脅威』を読んでみた」『Yama's Memorandum』https://memorandum.yamasnet.com/archives/Post-5600.html)。

*12:そうした言及は、過去に別の著書で言及したことがあったようだ。http://www.geocities.jp/out_masuyama/dokusyo30.htm参照。

*13:班目について、不破哲三は2011年に「原子力安全委員会の委員長の班目(春樹)さんは、この任につく前だったと思いますが、浜岡原発の安全性をめぐる裁判があった時に、なんと電力会社側の証人として法廷に出て、浜岡原発は安全だ、あなた方(原告側)のようなことをいっていたら原発などつくれませんよと大見えを切った、そういう人がいま原子力安全委員会の委員長です」という風に言及している。https://www.jcp.or.jp/web_policy/2011/05/post-170.html 後年の衆議院議員による質問主意書からもその事実は裏付けられる。http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a180156.htm 

*14:詳細は追々書く予定の続編記事を参照。

自由も自治も自発性も、日本の総力戦体制の中にすでに組み込まれていた 中野敏男『詩歌と戦争』を読む。

 中野敏男『詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」』を読んだ。

詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」 (NHKブックス)

詩歌と戦争 白秋と民衆、総力戦への「道」 (NHKブックス)

 

 内容は、紹介文にあるように、「官僚がつくる『唱歌』に猛反発した北原白秋は『童謡』を創生し、震災後の社会に受け入れられて国民詩人の地位を確立する」が、その歌は「国民に奉仕を求める国家、みずから進んで協力する人々、その心情を先取りする詩人、三者は手を取りあうようにして戦時体制を築いてゆく」、というものである。*1
 「“抒情”から“翼賛”へ」という流れを指摘することで、「戦前・戦時・戦後そして現在の一貫性をえぐり出」そうとしている。*2
 「下」からのデモクラシーに潜む「下」からのナショナリズム、「下」からの「(軍事)体制協力」を焦点としている。

 いろいろ読まれるべきところはあるが、特に面白かったところだけ。*3

明治国家は知っていた

 この教科書を作る側の人々は、「故郷」が語る郷愁というテーマが小学校生徒にとって「了解に苦しむ」ような難しい題目であることを確かに理解していました。それにもかかわらず、「郷土を愛するの念」を「国家を愛するの念」と等置して「吹き込む」ために、そのステップとして「郷土を離れたものの愛郷の情を想像させる」訓練をしようというわけです。 (45頁)

 著者は、明治期の唱歌に潜む人工性を指摘している。
 それどころか、体制側は、その人工性に気づいていたというのだ。
 そうした不自然さを承知で、国家側はうえつけて、訓練し、馴致させようとしたのだ。

 こうした人工的な唱歌に対して反発し、より、受け入れやすい、非人工的な(装いを持った)歌を作ろうとしたのが、北原白秋だった。

大正期・自由主義に潜む罠

 この童心主義は、郷愁という感情を本然的なものと認めることで、それを課題とするのではなく内在する前提にしているのです。だからこの「自由主義」には、確かに上からの押しつけはないと言えるわけですが、そこでは別様な人間の存在可能性が認められず、むしろ当然のことのように母を思慕し故郷を愛するようになる存在としての人間たちが、その意味ですでに社会化されている人間のみがいるということになっているわけです。 (58頁)
 明治期の国家主義においては「国民にする」という訓育が課題であったのですが、 大正期のこの自由主義においては「国民である」ことがすでに前提になっているということです。 (同頁)

 北原白秋の歌にある童心主義。
 彼のつくる歌のなかにある郷愁は、その郷愁がまるで当然であるかのような装いをもって、歌われた。
 あって当然のものである、と。
 あって当然のものなら、押しつけであるわけがない、ということになる。
 しかし、そこには、郷愁を持たない人間は排除される。

 その「郷愁」の中に、排除の論理が潜んでいたのである。
 白秋が活躍したのは、国民であることが自明になってしまった時代だった。

「自発性」を餌にした総力戦体制

 自由にしても自治にしても個性にしても自発性にしても、「戦後民主主義」において初めて大切にされるようになったと考えられてきたいくつもの価値が、実は震災から戦争へ向かって組織された日本の総力戦体制の中にすでに組み込まれていて、むしろそれを支える重要な要素にすらなっていたことが分かります。 (280頁)

 個性や自発性、こうした戦後の価値観は、すべて既に、総力戦体制の中に組み込まれていた、と著者はいう。*4
 これが戦争協力の実情だった。
 自発性というものは、そこで煽られ、総力戦体制の餌にされていたのである。*5

*1:本書の方法論については、いちおう疑念は呈されており、http://d.hatena.ne.jp/nikubeta/20130601/p1においては、「たとえば民衆とはなにを名指すのか。新興中間層として民衆の範囲が絞られる後半部はのぞくとして、前半部は民衆という言葉の規定がゆるく、統一的な歴史的主体として民衆をとりあつかうことの妥当性が問題となりえます。また本書で明らかとなった創作者、民衆、時代状況のあいだの連関のあり方を、照応、同型といった言葉を超えてさらに厳密に確定することができるかもしれません」と言及されている。

*2:似たような問題意識として、村岡花子を論じたケースが挙げられるだろう。http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/702469

*3:今回は諸々の事情で、本書の、白秋の歌の具体的な分析には踏み込まないことを、お断りしておく。

*4:引用部にある「自治」については、「民衆の歌への要求は、民衆の組織的な暴力として朝鮮人を虐殺した『自警団』の経験が、震災後町内の自治を自発的に強化する町内会出生の秘密ともつながっていることを、本書は『震災後の社会変化の核心』として描き出す」と、こちらの書評http://chosonsinbo.com/jp/2012/08/0810s/でまとめられているように、「自警団」の存在を視野に入れなければならない。

*5:自発性というものが決して麗しいものではないことを、我々はブラック企業問題等で承知しているはずである。

江戸期の「商業捕鯨」が「鯨の無駄のない利用」を生んだ、というような話 -中園成生『くじら取りの系譜』を読む-

 中園成生『くじら取りの系譜』を読んだ。

くじら取りの系譜―概説日本捕鯨史 (長崎新聞新書 (001))
 

 内容はすでに紹介文にある通り、日本人と鯨のかかわりを、「かつて西海捕鯨の拠点として栄えた長崎県生月島に暮らす著者」が解説したもの。
 著者は執筆時点で、「長崎県平戸市生月町の博物館『島の館』学芸員」とのこと。*1

 以下、特に面白かったところだけ。*2*3

捕鯨の歴史の実相

 戦国時代以降に始まった古式捕鯨業ですら、西日本中心の限定された漁場で行われ、遠隔の大消費地を対象とした商業捕鯨の側面が大きかったこと。そのために鯨食文化も西日本中心に偏っており、関東以北では房総半島など例外的な地域を除いて、鯨肉食が普及したのは明治末以降の比較的新しい時代 (5頁)
 ノルウェー式砲殺捕鯨法が導入された後の近代捕鯨業では、伝統という生やさしい形容がはばかれるほど激しい資源の収奪が、日本近海さらには南氷洋を舞台に繰り広げられ、その結果、多くの鯨類を絶滅の危機一歩手前まで減少させるのに、ほかの捕鯨国とともに大きく荷担してしまった過去 (同頁)

 戦国期以降の捕鯨業ですらも、商業捕鯨の側面がすでに大きかったのだと著者はいう。
 それも西日本に偏っている、と。
 さらに、鯨肉食の普及は近代だとすら言う。
 そして、近代の非伝統的ともいえる「ノルウェー式砲殺捕鯨法」による捕鯨は、「資源の収奪」といえるものだった、と。*4

 捕鯨問題に関心のある人ならばすでに承知のことと思うが、大事なことなので、いちおう引用しておく。

食鯨の習慣

 畿内には中世以来、希少食材として鯨肉を食べる習慣があった (141頁)
 関東以東では、房総半島の槌鯨漁場の周辺で干肉(タレ肉)として食べるのを例外として、戦後の食糧不足の時期を除けば、それほど鯨肉の嗜好はなかったようである (142頁)

 そして著者は、畿内においても、鯨肉を多く食するようになるのは江戸期からだとしている。*5

「鯨の無駄のない利用」と「商業捕鯨」との関係

 西海漁場の突組は、当初は皮身を利用した鯨油生産がほとんどで、肉や骨は、油の取り方もわからず肉食としての需要も少なかったため、その大部分を海に捨てていたことになる。 (59頁)

 明暦(1655~1658)の頃は、このような様子だったようだ。


 鯨を全て無駄なく利用するという現象*6は、さらに後の時代の話である。
 大規模かつ恒久的な加工施設が、それを可能にしたのだが、その時代は捕鯨がだんだんと商業捕鯨の側面を大きくしてきた時代でもあった。*7*8
 「鯨の無駄のない利用」と「商業捕鯨」との関係は、実は、こうしたものだったという。*9

ジョン万次郎と捕鯨

  幕府に対しておこなった洋式突取捕鯨法の導入についての建議の中で、日本在来の捕鯨は人数が多い割に漁場は沿岸に限定され、利益に結びつかない現状を指摘し、少ない人数により遠洋でおこなう欧米の捕鯨法を導入すれば、今は外国船に奪い取られている日本近海の捕鯨による莫大な富が国内にもたらされるだけではなく、欧米の航海術を学ぶ機会としても益するものが大きいと説いた。 (121頁)

  この建議をおこなったのは、ジョン万次郎である。
 彼は、アメリカの捕鯨母船に乗り込んでいたので、アメリ捕鯨業に詳しかった。
 じっさい、小笠原近海で捕鯨もしている。*10
 ただし著者によると、彼が建議をした時点では洋式突取捕鯨法は広まらなかった、とのことである。

 

(未完)

*1:著者は「潜伏/かくれキリシタン」の研究も行っており、それは「禁教期の潜伏キリシタンとそれを継承する現代のかくれキリシタンの信仰活動は、禁教前の宣教師の記録に表れているキリシタンの信仰活動と比べても大きな差異はない」という興味深いものである。http://www.tokyo-np.co.jp/article/book/shohyo/list/CK2018042202000181.html

*2:なお、現代日本捕鯨問題については、こちらのBBCの記事https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-35529672が、およその事実を伝えていると思われる。

*3:本書が重要なのは、この書評で取り上げた事実もそうなのだが、それ以上に、日本捕鯨協会とも仲の良い著者https://www.whaling.jp/isana/isana28.htmlですら、そうした事実は認めている、という点であろう。

*4:実際、https://togetter.com/li/977982にあるように、「明治以降の日本の捕鯨によって朝鮮のコククジラが絶滅に近い状態に追いやられていった」。

*5:その詳細については上記に述べたとおりである。

*6:これは、肉や髭や尾っぽの筋などをすべて利用し、捨てる部位がない、といった意味である。

*7:Amazonの書評にある、「とかく『完全利用』が喧伝される我が国の“伝統的な”鯨利用についても、実は古式捕鯨の前期にはもっぱら製油が目的で、欧米の捕鯨と同様、肉や内臓の多くが捨てられていた事を知って、驚くことになるかもしれない」とは、こうした事態を指すものであろう。

*8:また、「『当時(江戸時代前期(※引用者注記)流通した鯨製品としては、食用の塩蔵鯨肉もあるが、とくに灯油としての鯨油が大きな割合を占めたと考えられ、また細工物に使われる鯨鬚や筋などの需要もあった。』(くじら取りの系譜 136p) 」https://twitter.com/hydehydesan/status/646216815027159040 

*9:著者・中園氏自身が登場する記事において説明http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/no54/07.htmlされているように、「鯨油は農薬として九州諸藩に販売され、食用の部位は関門海峡を抜けて瀬戸内海沿岸や大坂に出荷されている。益冨組は手船(てぶね)と呼ばれる運搬船保有し、行き来するなかでさまざまな物資も購入し、生月島に戻っていく。生産と流通を一体化した益冨組は現代の企業と変わらない、先進的な活動を行なっていた」と商業化はすでに江戸期において進んでいた。

*10:こちらのブログhttp://www.catv296.ne.jp/~whale/isana-toru-gyogu.HTMLでは、「幕末に漂流し、アメリカの捕鯨船長にまでなったジョン万次郎はこの銃を使い小笠原近海で捕鯨を行ない、 幕府に捕鯨で利益があがることを推奨したが失敗に終わった」と説明している。引用部の「この銃」とは、パーカッション式捕鯨銃を指す。

なぜ文革後の中国において、「日本画」の技法が取り入れられるようになったのか、という話。 荒井経『日本画と材料』を読む

 荒井経『日本画と材料 近代に創られた伝統』を読んだ。*1

日本画と材料 近代に創られた伝統

日本画と材料 近代に創られた伝統

 


 紹介文にあるように、「日本画アイデンティティともされる『岩絵具』や『和紙』。それらの歴史は、意外なほど浅い」というのが本書の主意であり、それらの材料がどのように近代において変化したのかを主に解説している。
 日本画に興味のある人は、是非一読してほしい。

 以下、特に面白かったところだけ。

日本画の定義

 遠近法や陰影法を使いながらも墨や胡粉、膠といった日本在来の材料と技法で描いた近世絵画には、セミナリヨイエズス会の小神学校)で描かれた初期洋風画や、司馬江漢 (略) らが描いた第二期洋風画があるが、西洋由来のキリスト教蘭学を背景にした洋風画 (略) は日本画の前史に位置づけられてはいない。 (82頁)

 たとえば、膠や墨などを使うことが日本画(あるいは西洋画と対比される日本の絵画)の特徴である、とよく言われる。
 しかし、日本近世の洋風画においても膠などの伝統的な画材は使用されている。

 じっさい、「フランシスコ・ザビエル肖像画」(神戸市立博物館蔵)の場合、「純然たる油絵ではなく、基本的には日本画材料によるとみられるが、絵の表面には照りがあり、顔料の接着には膠【にかわ】に油性の液を混ぜて用いていると推測される」という。*2
 また「第二期洋風画」においても、小田野直武は「墨と伝統的な絵具を用いて」描いている。*3

 こうしたことから、著者は、日本画が必ずしも膠などを使って描く技法によって定義されてしまうわけではないという。
 すると、いよいよ日本画アイデンティティは揺らいでくる。*4

 岩絵具が砂っぽい由来

 彩度の高い鮮やかな青色や緑色を得るためには、あえて使い勝手の悪い砂状に留めておかねばならないのである。さまざまな化学合成によって鮮やかな色材がつくられるようになる近世までの世界では鮮やかさは掛け替えのない価値であった。(118頁)

 伝統的な岩絵具の群青と緑青における砂状の粒子は、先述のように彩度を保つための苦肉の策であり、決してマティエール(マチエール)を演出するためのものではなかった。 (同頁)

 群青と緑青は細かく砕けば砕くほど、彩度が下がる。*5
 そのため、彩度が高い状態にするには、あえて使い勝手の悪い砂状にせざるを得なかった。
 これが近世までの日本の絵画において、岩絵具が砂状にされた主因である。
 ところが、近代においては、その砂状のマティエール(質感)にアイデンティティが求められるようになった。

 彩度を得るために砂状にせざるを得なかった、砂のテクスチャー自体の価値は関心の外だったのに、である。

印象派と朦朧派

 二〇世紀絵画がそれまでにない展開を見せることになったのは、印象派がメティエのたがを外したからにほかならない。朦朧体は、筆墨やそこから生み出される「線」という伝統絵画のメティエを放棄した点でも、印象派と重なっている。つまり 、現代日本画に水墨画を復興しようとすることは、約百年前に天心一派が朦朧体で訣別したはずの前近代的なメティエを復興することとも解せる (246頁)

 以前のメティエ(技術)から脱したという点で、印象派と朦朧体は重なっていると著者はいう。
 もちろんこの見方は印象派の一面でしかない*6し、あまりにおおざっぱな指摘ではあるのだが、興味深い。

 じっさい、印象派アメリカで「受けた」のは、「『アメリカン・トーナリズムという輪郭線をぬいた単色の色調の作風が(当時は)流行していた』ため、アメリカには『朦朧体の画風を受け入れる基盤があった』」からであるという。*7
 印象派に限らず、メティエを脱しようとする現象が西洋画壇を中心に起っていたと考えるべきであろう。

文革後の中国において、「日本画」の技法が取り入れられた理由

 現代の中国画は、模写の対象となっている古典絵画の系譜に位置づけられるということである。したがって中国画の模写観に立てば、古代壁画の模写をしている日本画は古代壁画の系譜ということになる。こうした模写観から、留学生たちにとって奇妙な絵画だった日本画は、中国では継承されなかった古代壁画の系譜として合点されたのである。 (略) さらに不可思議な色材だった岩絵具も古代壁画に使われた古典材料として重要視されるようになった。 (266頁)

 現代の中国には、「岩彩画」というジャンルが存在する。

 これは、日本で日本画を学んだ画家たちが始めたものである。

 もともと、中国には鉱物顔料を使った色彩ゆたかな画が存在した。
 そしてその絵が日本に伝わり「やまと絵」となった。
 しかし、宋代に水墨画が起こり、鉱物顔料による絵画技法は中国の地において、主流ではなくなってしまう。*8*9

 時は流れて、文革の終了後に日本に留学した画学生たちが、岩絵具による絵画技法を学ぶようになった。 
 日本画家・平山郁夫のもとで日本画を学んだ学生たちは、その授業の一環として、敦煌壁画を模写するようになる。
 敦煌の壁画は、中国留学生にとって忘れられていたものだったが、彼らはその模写を日本画の技法で行うことで、自身を古代中国絵画の系譜に位置付けていった、という。*10*11
 彼らは日本画を通して、自分たちの国の古代絵画の伝統を継承しようとしたのである。

*1:なお、著者は画家兼研究者である。http://www.kgs-tokyo.jp/interview/2006/060304a/060304a.htm 本書表紙も彼自身の絵をもとにしている。

*2: http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/158378より。ただし、http://ccs.tsurumi-u.ac.jp/bunkazaigakkai/27nenndo-shunnki-kore.pdfによると、「復元に際し膠と油を混ぜたが分離して全く混ざらず、テンペラのように卵を仲立ちにすると成功した」という。「ルネサンスの 15~16 世紀には部分的に艶をつけるなど卵黄テンペラから油性テンペラへの転換期が来ており、この時代にニコラオが来日していることからこの転換期の技法が伝わっていた可能性は高いだろう」とのことである。

*3:http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/205989より。ただし、司馬江漢の場合は、「荏胡麻の油を用いた油彩の技法」を用いたという。

*4:もし仮に、膠や墨などを使っていればたとえ洋風画であっても「日本画」に含む、とするならば、今度は、司馬江漢は含まないのに小田野直武は含む、という奇妙な状況になってしまう。「日本画」というのは、もっとゆるく、ウィトゲンシュタインのいう「家族的類似」として、とらえるべきなのだろうか。

*5:ほかの絵具については、細かく砕くほどかえって彩度が上がるものも存在する。詳細は本書を参照願う。

*6:例えば、ドガは線を重視した画家であったはずである。

*7:https://ameblo.jp/mariodifuoco/entry-12287089508.htmlのより孫引きとなる。出典は「小島淳、横山大観「月明かり」の解説。p.53, 『飯田市美術博物館 所蔵日本画選』」とのこと。なお、引用にあるトーナリズムとは、「19世紀末から20世紀初頭にかけて米国に現われた風景画の一様式」であり、代表格である「ホイッスラーは輪郭線を曖昧化し、朦朧とした大気に覆われた世界を描くことで抽象絵画の表現に接近することとなった」という。http://artscape.jp/artword/index.php/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0

*8:「岩彩画」については、http://www.peopleschina.com/zhongrijiaoliu/2008-04/07/content_108952.htmも参照。これによると、「唐の時代に鉱物顔料で描かれた『重彩画』(濃厚な彩色画)は、日本に大きな影響を及ぼした。」

*9:この辺の流れ、特に水墨画が中国絵画史に与えたインパクトと、それに対する日本側の受容については、例えば、戸田禎佑『日本美術の見方―中国との比較による』などもご参照。

*10:著者によると、模写する対象というのは、中国においては、その流派にとって決定的に重要なものだという。敦煌壁画には、鉱物顔料(ラピスラズリなど)が使用されていたことも、念のため言い添えておく。

*11:ただし、http://www.peopleschina.com/zhongrijiaoliu/2008-04/07/content_108952.htmによると、「日本の巨匠たちが鉱物顔料を使っており、その作品の中に中国の伝統的な要素を内蔵していることを発見し、喜んだ。そして多くの中国の留学生が続々と海を渡って日本へ美術の勉強に行った」とある。留学の前から中国古代絵画の要素には気づいていたような記述である。

よし、Do You Know The Way To San Jose を日本の国歌にしようぜ、というような話(ではない)。 -増田聡『聴衆をつくる』を読む-

 増田聡『聴衆をつくる』を読んだ。
 ぜひ手に取って読んでいただきたい。

 さいきん、増田先生で話題になったことと言えば、戦略的な「パクリレポート課題」*1の話題か。

 とりあえず、特に面白かった箇所だけ

聴衆をつくる―音楽批評の解体文法

聴衆をつくる―音楽批評の解体文法

音楽批評と形容詞

 形容詞はすぐさまコード化され、言葉を制度的な意味空間の中に閉じ込めようとする。 (15頁)

 ロラン・バルトが参照されている。
 音楽は、荒々しい、いかめしい、悲しげな、などの形容詞を介して言語と出会う。
 音楽の価値を、即自的、万人にとっての価値であるかのように話す言説である。
 だが、それは「愛」ではないのだ、と著者は言う。
 「愛」は、そうやすやすと他人に理解されるはずもない。

 音楽批評から形容詞や隠喩を取り除いたとき、本当の「愛」が試される。*2

「Jポップ」成立以前の音楽のくくり

 その概念成立前の八〇年代当時は「歌謡曲」と呼ばれ、ニューミュージックやロックなどと異なるジャンルにカテゴライズされていた沢田研二ピンク・レディーの音楽 (60頁)

 「Jポップ」という概念が成立する前、90年代半ばごろの状況である。
 ニューミュージックってユーミンとかのことである。
 
 Wikipedia先生は、、「1978年の国民的番組『NHK紅白歌合戦』では「ニューミュージック・コーナー」というあたかも隔離された一つのコーナー」があったことを伝えている。

「音階」なんて、聴いてないよ

 佐藤は明治以降の西洋音楽の導入史を踏まえつつ、戦後の歌謡曲において「土俗的」に響いた長二度上がり(「ソ - ラ」)のエンディングが、同時期のアメリカのポップスでは逆に、黒人音楽の影響下で「かっこいい」響きとして先端的なコノテーションを持っていた事実を指摘する。 (84頁)

 佐藤良明は、70年代歌謡曲に民謡音階(二六抜き短音階)が出現した、という小泉文夫の主張に対する反論をしている。
 「七〇年代歌謡曲に出現した二六抜き短音階と四七抜き長音階は対立させられるべき敵同士なのではなく、ロックの影響下で世界的な広まりを見せた「マイナー・ペンタトニック」と「メジャー・ペンタトニック」の二つの相補的音階に過ぎない」というのである。*3
 引用部は、アメリカ由来の長二度エンディングが、「かっこいい」ものとして受容された、という話である。
 本題はその後である。

 佐藤は「音階」を中立レベルに無条件に含んだことによって、サウンドやビート、声などの(略)音楽的諸要素を軽視する結果となった (
92頁)

 詳細は註で挙げた論文に書いてある。
 小泉や佐藤などの「専門家」は、自分たちだけが聞き取れる規範譜の「音階」を特権視している。
 しかし、「素人」は、音階よりも別の要素を気にしているのである。
 それを忘れてはならない、という話である。

 もちろん、音階は音楽の重要な要素の一つ*4であるが、それが音楽を受容する人にとって、最重要なものになるかと言えば、そうではない。
 人は意識して音階を聴いているわけではないし、それが音楽を決めてしまうようなものでもない、という当たり前だが忘れられがちな話である。

 演奏者や熟達した聴者の優位を前提とした音楽を論じるのではなく、例えば、「素人」にとって音楽はどのように受容されるのか、そうした音楽と「社会」との接点を探ることを、著者は試みている。

日本語ロック論争の実際。すれ違いと行方

 日本/西洋の区別を排した「普遍的な音楽」としてのロックを英語派は志向する。 (121頁)

 日本語ロック論争の話である。
 意外に、その意義は知られていない。

 まずは、「英語派」としてくくられた内田裕也の主張である。
 彼はロックの美学、すなわちサウンドの強度によって、歌詞の意味を超えて「何か判りあっちゃう」音楽を目指していた。
 彼の狙いは実は日本語歌詞そのものではなかった。

 内田の懸念は日本語歌詞そのものよりも、それが象徴する「ロックの日本化」のありかた−−端的には従来の芸能会的興行システムに組み込まれてしまうこと−−にこそ向けられている。 (123頁)

 芸能界的なシステムにロックが流用された「GS」も下火となった時期、今こそ同時代的な英米の対抗文化へ直に接続を図ろう、そうした意図が内田にはあった。
 内田の狙いは、言語(の翻訳)によってサウンドの強度が弱められてしまうことへの懸念、そしてなにより、音楽の商業主義の打破だった。

 大滝が音楽的な独自性の欠如(英米ロックとの同化主義)を理由に懐疑的なスタンスを取っている (125頁)

 (「大滝」は原文ママである。)
 対して「はっぴいえんど」側の主張である。
 
 大瀧詠一は、ロックにおける西洋性/日本性の対立の中で、後者へ向かおうとした。
 正確には、英米ロックへの同化主義に対して距離を置こうとした。
 そして、日本にロックを根付かせ、日本独自のロックを目指した。

 日本語ロック論争は、その問題意識の違いによって、最初からすれ違っていた。

 実は、歌詞よりサウンド重視は両社とも一致していた。
 だが、商業性/対抗文化的問題ではすれ違う。

 彼らは、フォーク的なメッセージ主義から帰結される母国語自然主義にも同意しない。 (128頁)

 実際、松本隆は、ロックという枠組み自体が、歪められた母国語で歌うことを迫るようなものである旨を、述べている。
 じっさい、n音や二重母音化をはっぴいえんどは多用することになった。
 「日本語の母音の多さが日本語詞ロックを実現させる上での技術的な問題点の一つであることは、この時期の日本のロック音楽の関係者に広く認識されていた」(208頁)。

 なお、日本語か英語か、という問題圏自体は、キャロルの日本語英語混交と、日本語の英語風詠み(サザンへの系譜)で、一応の「終結」を見せた。

 改めて指摘せねばならないのは、

 現在の日本においては、ドイツ・リートやジャズは原語(独語、英語)で歌われることが普通なのだから、ロックがそうならなかったことは、決して歴史の必然だったとはいえない。 (208頁)

 ということである。
 当時、日本のロック音楽の市場はほとんどなく、海外進出は経済的側面からも重要であった。
 これが英語派の主張の論拠の一つだった。*5

日本の著作権法に見る、「クラシック音楽」優位の残滓

 ベルヌ条約の上では、「名誉又は声望を害するおそれのあるものに対して」しか、同一性保持権を認めていない。 (169頁)

 一方、日本の場合、著作者の意に反する改変、という大きな括りでも禁止できる。
 むろん、ベルヌ条約はあくまでも最低ラインを提示しているだけであって、各国の国内法がこの最低水準を上回る保護を権利者に与えることは可能ではあるが。

 現在の著作権法が想定する音楽の存在論は、「楽譜と演奏と録音の間に記号論的な差異を認めない音楽」 すなわちクラシック音楽的な音楽観に依拠している。 (175頁)

 要は、ジャズのように楽譜を逸脱する演奏を、著作権制度の中で禁じることが出来てしまうのが、日本の著作権法なのである。
 「大地讃頌」事件を参考に、そのように著者は述べる。*6
 
 最近の著作権法の話だと、二次使用の話題がよく出るが、一応こういう話も覚えておいてほしい。(こなみかん)

よし、Do You Know The Way To San Jose を日本の国歌にしようぜ。

 原曲の壱越調律音階から長調へと移し替えられることによって、冒頭部分がバート・バカラックのヒット曲「サンホセの道」(一九六七)とほとんど「同じ曲」になってしまう。(略)小西のアレンジは、君が代をそのような文脈から救い出し、音楽そのものの姿を聴く者の前に提示する。 (147頁)

 小西康陽版「君が代」の話である。
 小西は君が代に込められてきた政治的意味を壊して、音楽をとりだそうとした、という風に著者は述べる。
 音楽を救い出そうとしたのだ、と。

 だがしかし、そんなことが本当にできるだろうか。
 著者は、佐藤良明になんと言っただろうか。
 聴衆が音階は勿論のこと、音そのものすらロクに聞かないことがあるのは、作者自身が承知なはずである。
 小西たちの「試み」は、けっきょく失敗してしまうだろう。*7

 正しい戦い方は、バート・バカラックの「サンホセの道」を、日本の国歌に変更するよう働きかけることである(マテヤコラ

(未完)

*1:詳細はhttp://b.hatena.ne.jp/entry/headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150216-00000050-zdn_n-sci等をご参照あれ。

*2:ここで肝心なことは、形容詞が、送り手と受け手とが「同じ共同体に属しているという同属意識の保証」としてしか機能していない、ということであり、形容詞そのものが悪いというわけではない。参考になるかはわからないが、http://yokato41.blogspot.jp/2014/04/blog-post_18.htmlを挙げる。

*3:この内容はウェブでも見られる。http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1073/

*4:ネットサーフィン(死語)してたら、こういうのを見つけためう。http://www.konami.jp/mv/hinabita/talk_25.html?n=25

*5:英語派に対して優れた反論をしたのが、ミッキー・カーチェスである。彼は、英語で作るべきだというコンテンポラリーロックの連中が、新しいロック音楽(英語)を作らず、いつまでも輸入された英語ロックを歌おうとしている、と嘆いた。この問題が解消されるのは日本語ロック論争の後、海外進出する英語派の出現によってである(ような気がする)。

*6:詳細は、http://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1321/等。

*7:なお、この論が最初に世に出たのは2005年である。

「きっと何者にもなれないお前たち」のための、あるいは、「負けない」ための、競争論について語ろう(てきとう) -井上義朗『二つの「競争」』を読む-

 井上義朗『二つの「競争」―競争観をめぐる現代経済思想』を読んだ。
 隠れた良書である。
 是非、一読してほしい。

二つの「競争」―競争観をめぐる現代経済思想 (講談社現代新書)

二つの「競争」―競争観をめぐる現代経済思想 (講談社現代新書)

 以下、面白かったところだけ書いていく。

他者との比較を気にしない、昔の「競争論」

 完全競争論における経済主体は、自分以外の他人という存在をそもそも意識していませんから、自分と他人の利益を見比べようとする、比較の目線を持っていません (75頁)

 ある時期まで、競争論の主役は「完全競争論」だった。*1
 その競争論というのは、他者との比較を気にしない、という現実の経済活動とは、離れている仮定をしていた。
 ワルラス一般均衡理論とかもそうだが、実際の経済と乖離しているのである。*2

競争論の主役交代

 企業の「質」は決して一定不変ではない(略)こうした研究は、完全競争論の系譜を引き継ぐ競争論から現代の競争論へと、経済学者の認識を変えさせる大きなきっけにもなりました。 (105頁)

 デムゼッツやブローゼンらの1970〜80年代の研究によって、十年間トップ企業の顔ぶれが変わらない業界を見つけるのが難しい、という事実が「発見」された。
 この事実は、経済人ら非経済学者たちの経験則にも合致するものだった。
 「完全競争論」からは、大企業による独占・寡占が想定されたのだが、「現代の競争論」では、そうした事態は起こらないだろう、されたのである。
 奴らはあくまでも暫定的な勝利者に過ぎない、と。*3
 
 このとき、主役は交代した。
 以降、主役は「現代の競争論」に移った。
 では、この交代の何が問題となるのか。

二つの競争。コンペティションとエミュレーション

 ハイエクは、明らかにコンペティションとエミュレーションの差異を踏まえたうえで、新古典派経済学における市場認識の欠如を突いています。 (143頁)

 コンペティションは、競争の本質を淘汰性に見出し、競争の抑制も必要とする概念。
 一方、競争の本質を「模倣性」*4の中に見出し、競争の促進を必要と考えるのが、エミュレーション。
 経済を巡る西洋思想には、まるで違う二つの「競争」の考え方が存在し、時に混在している。

 前者は「完全競争論」につながり、後者は「現代の競争論」につながる。
 要は、これまで競争は抑制すべき(という規範。独占禁止法はその発想につながる。)とされていたのが、1970-80年代には、実証したけど大丈夫だろ、競争促進しちゃおうぜ☆、というネオリベな流れに代わったのである。

 だが、これでいいのか、というのが本書の問題意識である。
 すなわち、「競争」(エミュレーション)の陰に隠れる、規範としての「競争」(コンペティション)の意義を、思想史的観点から考察するのである。

残酷な資本主義のテーゼ

 エミュレーションには容赦もなければ、慈悲もないのです。 (183頁)

 そう、エミュレーションはブレーキを持たない。
 すると、優位に立った企業は、劣位になった企業の事業や顧客を際限なく、吸収する。
 でも、抑制はかからない。
 そういうことをエミュレーションは想定していないのである。
 やめられない。とまらない。

 著者は、こうして、コンペティションにも十分存在理由があることを示していく。 
 それは、既に示唆したような、暴走に対してブレーキをかける役割だけではない。
 それは競争の、経済学にとどまらない哲学的、思想的意義にもかかわる。
 

自分を見つめ直せ

 「卓越」とは、他者との比較をむしろいったん脇において、他人はどうであれ、あくまで自分自身の内面のありかたとして「徳」を身につけること、そしてそれを日常の生活行動に反映させていくこと (152頁)

 先に、「完全競争論における経済主体は、自分以外の他人という存在をそもそも意識していません」という言葉を引用した。
 それは、実は、他者を気にしない独りよがりを意味しているのではない。
 あえて他人の評価・比較を離れることを、重視しているのである。
 他者との比較をあえて脇におくという点は、コンペティションと相性が良い。

 「卓越」は、プラトンからストア派に受け継がれた理想である。
 後世のアダム・スミスが、ストア派の思想を重視していたことはよく知られている。
 後述するが、ここに「卓越」の思想史的系譜が存在する。

自分を見失うな

 勝つための競争は、(略)自分自身を見失わせる契機をも含むものです。私たちがエミュレーションに見いだしたものは、こうした力強さと危なさの表裏一体の関係でした。 (228頁)

 エミュレーションの「模倣」(と「差別化」)の弱点は、まさに引用部の通りである。
 勝ち続けていくうちに、徐々に自分自身を見れなくなってしまう、その危うさが、エミュレーションには隠れている。
 

自分のことに専念すること、「卓越」と「分業」

 「利己心」とは (略) もともとは、他者に不利益を及ぼさないための心得を述べようとした概念だったと言っていい (181頁)

 著者によれば、アダム・スミスの「利己心」の考えは、伝統的な「卓越」の概念に連なっている。*5

 実は、プラトンの思想にも、「自分のことだけをする」、つまり、他者の利益を損なわないように注意しながら、各人が各人の生業に専念して、その成果物を交換し合う、という考えが出てくる。
 分業と協業である。
 古代ギリシア人は、一人一人がそのような存在の仕方をすることに徳を見出した。
 これが「卓越」につながる。

 アダム・スミスの「利己心」(と分業)と、古代ギリシア以降の「卓越」(と分業)の伝統は、つながっていたのである。
 他者(の利益)のためにも、あえて、自分のことに専念するという姿勢。
 コンペティションは、実はすぐれた哲学的な思想・発想なのである。*6

負けないラジ、、、「負けない」競争観。

 コンペティションは「負けないようにする」競争観であるのにたいし、エミュレーションは「勝とうとする」競争観である (226頁)

 前者では、結果的に負けないことが重要となる。*7
 別に怠けているのではなくて、他者に負けるよりまず、自分がベストを尽くせないことへの自己反省を重んじる。
 コンペティションの良い所とは、ここである。*8
 先の「卓越」につながる話である。

 著者によれば、「スミス的なコンペティションは、そうした勝者や強者が一時的にせよあらわれることを当然視するものではなく、むしろその出現自体をむずかしくするための抑制装置として競争を捉えてい」る。*9
 「同業者に後れはとるまいと必死に努力はするが、あえてそれ以上を求めようとはしない、そういう人びとで作られる社会」。

 例えば、別に手を抜いているわけでもないのに、もっと優秀な奴が現れたら、市場から退場せよ、と言われる。
 みんなのためだ、と。
 いい理屈だ。
 ミルトン・フリードマンの思想そのものである。*10
 だが、「自己の領分に自己の尊厳をかけて生きようとすること、そうしたささやかな生のありかたに、絶対的な価値を見いだそうとする思想」は見直されるべきではないか。

(未完)

*1:完全競争論について知りたい人は、経済学の教科書を読もう(丸投げ)。

*2:ただし、ワルラスの問題意識は、実際はこんな感じhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%82%B9#.E4.B8.80.E8.88.AC.E5.9D.87.E8.A1.A1.E7.90.86.E8.AB.96であるので注意。

*3:コンペティションの考え方では、淘汰をくぐりぬけて生き残ったのは、企業の「経営手法」などであって、企業それ自身ではないと考える。

*4:なお、模倣性には、文字通り模倣することと、相手との差別化を図ることも含まれている。マーケティングして他社商品と差別化を図るのも、この「模倣性」に含まれるから、注意してほしい。

*5:引用部についての解説は、めんどくさいので省略する。

*6:ただし、プラトンらが、奴隷もその天性に応じた存在とみなしていたことを、忘れてはならない(129頁)。彼らの思想は、奴隷制を肯定する帰結を招きかねない。こうした点を考えると、「自分のことだけをする」というのは「自律」と表現した方が含意に近い、という著者の主張(75頁)は正しいと思われる。「奴隷」は「自律」していると言い難いわけだから。

*7:なお、著者の議論は、コンペティションのエミュレーションに対する優位を説くものではなく、むしろ、二つが補完関係にあることを説いている。実際、詳述はしないが、「コンペティションというのは、じつは密かにエミュレーションの先行を期待しているところがある」(203頁)。

*8:他のブログさんhttp://d.hatena.ne.jp/Toshi-shi/20121106/1352152378が引用しているように、「完全競争論がそもそもあらわしていたのは、誰もが自分の生業、「自分のことだけ」をしていれば、それなりに生きていくことができるという、そういう社会の理念であり、そういう経済のありかた」であり、「いま必要なのはもしかすると、完全競争論の復権なのかもしれません。(P215)」ということである。

*9:以下、こちらのサイトにも、http://d.hatena.ne.jp/kingfish/20121101引用されている。

*10:ミルトン・フリードマンの競争観については、http://d.hatena.ne.jp/haruhiwai18/20121230/1356796872も参照。フリードマンは、競争において、そもそも努力云々というものに興味を持っていない。