陸奥の日清戦争に関する外交政策は、「陸奥神話」が形成される以前は芳しいものではなかった ―大谷正『日清戦争』を読む―

 大谷正『日清戦争』を読んだ(再読)。

日清戦争 (中公新書)

日清戦争 (中公新書)

  • 作者:大谷 正
  • 発売日: 2014/06/24
  • メディア: 新書
 

 内容は紹介文の通り、

朝鮮の支配権をめぐり開戦に至った日清戦争平壌の戦いをはじめ各戦闘を詳述しながら、前近代戦の様相を見せたこの戦いの全貌を描く

というもの。
 日清戦争というのは、あとの日露戦争やアジア太平洋戦争と比べて、その実相があまり知られていないかもしれないが、知るべきことは多い。

 以下、特に面白かったところだけ。

井上馨と甲申政変

 井上は竹添公使が暴走して朝鮮の内政に干渉したことを隠蔽して、日本側が政変の被害者であったことを朝鮮に認めさせ、謝罪と賠償を要求した。 (13、14頁)

 甲申政変において、井上馨はこうした振る舞いを行ったのである。*1

長崎とロシアの蜜月の時期

 ロシアとの関係が深まるとともにロシア系住民の数が増え、一九〇〇年頃の調査では長崎在住の外国人のなかで、ロシア系住民(多数のユダヤ人を含んでいた)は中国人に次ぐ数を誇っている。 (20頁)

 19世紀末、長崎はロシア船の寄港地であり補給地でもあった。
 長崎を経由して、食料品や日用品や石炭がウラジオストクなどに供給される。
 また、長崎からは多数のからゆきさんが向かった。
 冬の四か月間は、長崎の稲佐沖がロシア太平洋小艦隊の停泊地となり、稲佐は水兵のための遊郭が存在し、ロシア将校の日本人妻が居住する「ロシア村」の様相を呈した。*2 *3

後に引けなくなった日本側

 伊藤内閣は、派兵した軍隊を「空しく帰国」 (引用者略) させるわけにはいかず、何らかの成果を得て、局面を打開する必要があった。 (49頁)

 陸奥宗光日清戦争開戦支持派であり、川上操六参謀次長もまた同様であった。
 新聞も同様の立場をとっていた。
 既に漢城は平穏な状態で、農民軍は和約を結んで撤退した状態だった。
 にもかかわらず、日本は、既に兵士を送っていた手前、後に引けなくなったのである。

  陸奥日清戦争に関する外交政策は、「陸奥神話」が形成される以前は芳しいものではなかった。 (248、9頁)

 陸奥宗光は、イギリスとロシアの制止を振り切って強引に戦争を行った。
 過剰な領土要求を講和条約案に書き込み、予想された三国干渉への対応も拙劣だった。*4
 同時代の川崎三郎は、日清戦争は外交で失敗した戦争であって、陸奥はその責任があるとしている。*5 *6

削除された事件

 中塚明は福島県立図書館佐藤文庫に所蔵されていた『日清戦史草案』を検討することで、草案段階で詳細に描かれていた日本公使館と混成旅団が事前に計画して実行した王宮占領事件が、公刊戦史では書き換えられ、ここでも「歴史の偽造」が行われたことを解明している。 (61頁)

 中塚明『歴史の偽造をただす』より。*7
 すでに当時の有名なジャーナリスト川崎三郎『日清戦史』(全七巻)の第一巻で、その計画的な事件の事実が描かれており、当時の事件の実相を知る国民も少なくなかったという。

清側の敗戦原因

 平壌の戦闘では清軍の優秀な武器が効果的に使用されると日本軍は苦境に陥った。 (87頁)

 日清戦争は日本軍の兵器が優秀、というわけでもなかった。

 日本海軍に対して劣勢であったことが、清海軍の敗因であった。(241、242頁)

 日本は新鋭艦が多く、清側は旧式艦が多かった。などの事情がある。
 また、中国側は、4つの海軍部隊があり、統一して作戦する仕組みではなかった。
 そのため李鴻章が仕える船は制限されたのである。*8

川上操六の殺戮指示

 川上が命じたのは、東学農民とそれを支援する朝鮮農民に対するジェノサイド的な殺戮であった。その結果、朝鮮で反日意識が一層高まり、結果的に日本の朝鮮問題に対する失敗に帰結する。 (251頁)

 また、川上操六は、遼東半島割譲に固執していたという。*9

できるだけ多くの東学農民を殺す方針

 南大隊長は作戦後の「東学党征討略記」という講話録のなかで、井上馨公使と仁川兵站監伊藤中佐の命令を受け、できるだけ多くの東学農民を殺す方針をとったと述べている。 (110頁)

 第二次農民戦争の話である。*10

旅順事件

 そのなかには正当な戦闘による死者だけでなく、捕虜にすべき兵士に対する無差別な殺害や、捕虜殺害と民間人殺害(婦女子、子ども、老人を含む)が含まれていたことは確かな事実である。 (132頁) 

 日清戦争期の旅順攻撃の際、殺害人数は1万人以下、4500人を超えるという。
 「これらの従軍日記から見ると、 (引用者略) 上級指揮官が旅順攻撃の際には、清軍兵士のみならず民間人も殺害するよう指示していた可能性が高い」(134頁)。*11

三宅雪嶺「嘗胆臥薪」の真意

 「嘗胆臥薪」という言葉を使った三宅にはロシアへの敵愾心を単純に煽る意図はなかったが「嘗胆臥薪」は意味が同じまま、「臥薪嘗胆」として流布し、当初の意味を離れて、対露敵愾心と軍備拡大を煽る流行語に転じていく (222頁)

 三宅雪嶺は「嘗胆臥薪」を掲載したが、これは、国際情勢を読み誤って遼東半島割譲を求めた伊藤内閣の外交的誤りと責任を追及したものであった。
 三宅自身には、そうした使嗾するような意図はなかったのである。*12

味方だった人間さえも

 事件の詳細と日本政府の真実を隠そうとする不誠実な対応は、当時朝鮮を訪問していた『ニューヨーク・ヘラルド』紙の大物記者ジョン・アルバート・コッカリル(かつて『ニューヨーク・ワールド』紙の著名編集者。日清戦争期の『ヘラルド』紙は日本政府と関連を持って、旅順虐殺事件の弁護を行った親日新聞)の記事によって世界に伝えられ、厳しく批判される。 (235頁)

 朝鮮王妃殺害事件のことである。
 この事件は、味方も敵に変える程のものであった。*13
 事件の詳細については、金文子『朝鮮王妃殺害と日本人』等を参照。

軍備拡張路線へ

 賠償金の八割が軍備拡張に費やされた。 (254頁)

 過度の軍備拡張は、産業育成を不充分にさせた(石井寛治『日本の産業革命』)。*14
 民党は、アジアへの軍事侵略路線に同調し、増税や公債募集に賛成、行政府にいよいよ荷担していくこととなる。

根拠のない言説が氾濫する現代

 日本では日清戦争について、いまだに「日清戦争は朝鮮独立を助けた正義の戦争」、「日本軍は国際法を順守した」、「乃木希典は一日で旅順を攻め落とした」など根拠のない言説が存在する。 (259頁)

 一番目は、陸奥の『蹇蹇録』を見ればわかる。
 (実際、英国などからの和解案を拒否しているのである。)*15
 他は検討するまでもない。*16

 

(未完)

*1:なお月脚達彦は、金玉均が、竹添の甲申政変関与を暴露して日本政府を困らせるために、『甲申日録』を書いたと述べている(『福沢諭吉と朝鮮問題: 「朝鮮改造論」の展開と蹉跌』東京大学出版会、2014年。119頁)。

*2:宮崎千穂の述べるとおり、「明治 31 年の旅順租借以降、ロシア軍艦の長崎港碇泊日数の短縮により「ロシア村」は寂れつつあった」(「外国軍隊と港湾都市--明治30年代前半における雲仙のロシア艦隊サナトリウム建設計画を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001498454 )。

*3:中條直樹・宮崎千穂は次のように書いている(「ロシア人士官と稲佐のラシャメンとの"結婚"生活について」https://ci.nii.ac.jp/naid/110001876663 )。

稲佐がロシア人だけに開かれていることがさらに、ロシア人にとっては特別な意味を持った。外国人が稲佐へ入ろうとすると、「何だって外国人がロシアの稲佐をぶらついているんだ。」とロシア人によって喧嘩腰に追い払われる“危険”もあったようである

*4:著者・大谷は次のように述べている(大谷正「「日清戦争」研究を語る : 大谷正『日清戦争 : 近代日本初の対外戦争の実像』(中公新書2014年) によせて」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006793998 )。

彼が何であんなに日清開戦に執着するのかという点ですが、大石によると、一言でいえば、陸奥は条約改正に失敗したから、それで後は戦争に訴えるしかなかったということなんです。 (引用者中略) 日清戦争は開戦する必要がないのに戦争が始まってしまった不思議な戦争です。

著者は割と陸奥という人物に対しては同情的であるが、詳細は「『日清戦争』研究を語る」を当られたい。

*5:陸奥神話がどのように形成されたかについては、上掲「『日清戦争』研究を語る」で著者・大谷らによって語られている。

*6:土山實男は陸奥外交について次のように評している(「最終講義 リアリズム国際政治と日本」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006771171 )。

10 日にソウルに戻った駐朝公使の大鳥圭介は事態が沈静化に向かっているのを見て,後続部隊の派遣を見合わせるよう,またすでに朝鮮に送った軍隊を韓国に上陸させないよう外務省に公電しますが,陸奥は派遣した兵はもう日本に返せないと返電し,15 日に,朝鮮の内政を日清共同で改革するという清が受け入れるはずのない提案を清にします。 (引用者中略) なぜこんなことが気になるかと申しますと,陸奥外交にはやはり無理があるからです。 (引用者中略) 昨年,陸奥宗光論を出した若手外交史家の佐々木雄一氏は,陸奥は伊藤と違って清国や李鴻章への信頼がなく,だから伊藤よりも強硬だったと書いています。佐々木氏によると,陸奥は先を見通して手を打ったわけではないにもかかわらず,コストに見合うだけの対価を得ようとする強い意志を持っており,また窮地に追い込まれても打開策をつくる手腕があったので,結果的に日清間で妥協が難しくなった。

*7:日清戦史草案の「朝鮮王宮占領事件」の個所については、以下のホームページでおよそを知ることができる(http://kumando.no.coocan.jp/mj/nsn25111.htm )。

*8:ジョン・L・ローリンソンは次のように書いている(細見和弘訳「日清戦争と中国近代海軍」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006452210 )。

紙の上ですら,ナショナル艦隊は存在しなかった。間違いなく,艦隊を指揮するか,あるいは艦船を操縦する人々の心の中には,何一つ存在しなかった。忠誠心は,各省か個人に向けられたものであった。水師は,これまで統一されたことはなかった。おそらく航行速度の遅さが,そうした伝統的な軍隊における責任の分配に寄与した。航行速度の遅さは,近代的な艦隊にとって問題ではなかった。にもかかわらず,近代的な艦隊は,各省により組織されるか,あるいは―これはさほど有効でなかったが―李鴻章か,あるいは張之洞のような人物の個人的影響力の様式に従って組織された。

*9:井上勝生は次のようにインタビューに答えている(「旧日本軍による隠されたジェノサイドの真実 ~北海道大学名誉教授・井上勝生氏インタビュー(その2)」http://george743.blog39.fc2.com/blog-entry-1885.html?all )。

特に、日清戦争自身がのるかそるかの面もありましたから。川上操六(※30)が、兵站線の兵站総監で、責任者でした。彼が最初に出した命令というのは、蜂起した東学農民軍は、これから、『悉く(ことごとく)殺戮せよ』というものでした

*10:井上勝生は次のように書いている(「東学農民戦争,抗日蜂起と殲滅作戦の史実を探究して : 韓国中央山岳地帯を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006466654 *註番号を削除して引用を行った。 )。

翌 28 日, 慶尚道の洛東兵站司令部が,捕らえていた東学農民軍 2 人について,2 人は指導者とも思われないのだが,洛東部で斬殺して然るべきか,という確認の問い合わせをしたのに対して,南部兵站監部は,「東学党斬殺の事,貴官の意見通り実行すへし」と答えていた。このように仁川兵站監部の方針は,東学農民軍に対して「厳酷の処置は固より可なり」であり,大本営のこの「ことごとく殺戮命令」は,その後も取り消されることはなかった。

*11:司淳は次のように書いている(「日清戦争従軍兵士の自他認識」https://ci.nii.ac.jp/naid/40020998848 )。

旅順虐殺事件とは,11月 21日の占領後から 25日頃まで,市内および旅順・金州間で行われた敗残兵掃討の過程で,本来捕虜にすべき交戦意思のない兵士や捕虜,女性や子ども,老人を含む多くの民間人を殺害した事件です。「遠征日誌」にも,11月 23日の条に「我隊ニ於テモ敗兵五六ヲ銃殺ス」との記述がみられるほか,25日の条に「此日旅順ノ市街及附近ヲ見ルニ,敵兵ノ死体極メテ多ク,毎戸必ズ三四以上アリ。道路海岸至ル所屍ヲ以テ埋ム。其状純筆ノ能ク及フ所ニアラズ」と記されています。

*12:朴羊信は次のように述べている(「陸羯南の政治認識と対外論(2)公益と経済的膨張」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000963893 )。

わずか十日間でロシアに対する報復の世論が「嘗胆臥薪」のスローガンの下で形成されて、政府の失策を糊塗するのに役立っているが、それは自分の本意ではないとして、三宅は連載を中止したのである。もっとも、三宅が香いた「嘗胆臥薪」の趣旨は、対露復讐にあったのではなく、「現代の東洋は西洋に関連」するため、東洋に事を構えるためには西洋の状勢を把握して、それに対処できるように注意をしなければならないという点にあった。

*13:この点については、著者の『近代日本の対外宣伝』が参照されるであろう。ところで、著者のこの研究以降、朝鮮王妃殺害事件の報道に対する研究は進んでいるんだろうか。

*14:ウェブサイト・「カイゼン視点から見る日清戦争」(http://sinojapanesewar1894.com/920jmilitaryexpansion.html )は、石井寛治『日本の産業革命』を参照して、

海軍2.1億円、陸軍0.8億円、合計で3億円近い軍拡案が提案されたわけです。

と述べている。また、「3億円近かった軍拡費と比べれば、産業発展予算は半分以下のレベルにすぎなかった、と言えます」とも述べている。

*15:本山美彦は次のように書いている(「韓国併合と内鮮一体化論」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007628968)。

英国が調停案を提示したが,7月11日,伊藤内閣は,清との国交断絶を表明した。日清開戦の危機が一気に高まった。7月16日,日英通商航海条約が調印され,英国が日本の側に立つことになった(ただし,この条約が公表されたのは,1894年8月27日)。

依拠しているのは、藤村道生『日清戦争』や中塚明『司馬遼太郎歴史観』などであろう。

*16:本書を読めばおよそ明らかであろう。

聞き手の頭が朦朧として来て、席を立つ気力もなくなってきた頃を見計らって、怒涛の音の洪水を起こす。もはや洗脳である。 -岡田暁生『CD&DVD51で語る西洋音楽史』を読む-

 岡田暁生『CD&DVD51で語る西洋音楽史』を読んだ。

CD&DVD51で語る西洋音楽史 (ハンドブック・シリーズ)

CD&DVD51で語る西洋音楽史 (ハンドブック・シリーズ)

  • 作者:岡田 暁生
  • 発売日: 2008/08/30
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

グレゴリオ聖歌からハリウッド映画音楽まで?? 作品や史実のみならず、斬新な切り口で作曲家、指揮者、 演奏家をも語る。 新たな視点からの西洋音楽史入門!

というもの。
 既に言及されるとおり、同著者『西洋音楽史』(新書)の姉妹篇といったところである。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

グレゴリオ聖歌のもたらす「浄化」

 歌っていいのは男性だけ。伴奏楽器もハーモニーも、心地よいメロディ温かいサウンドも、情感を伝えてくれる旋律の起伏もない、単旋律の音楽。鳴り物や手拍子やしわがれた声といったノイズで溢れた「土着の」音楽に熱狂していた異教徒たちを、静けさに満ちたキリスト教神の国へと帰依させる。そんな使命を、聖歌は担っていたのだ。 (16頁)

 聖歌におけるこの抽象性を、著者は中世美術の聖者たちの無表情にたとえている。*2
 これが良くも悪くも、西洋音楽の出発点であった。

19世紀のムードミュージック

 十九世紀といえば、シューマンブラームスワーグナーブルックナーといった「大作曲家」の名前がすぐに思い出されるが、実はロマン派の時代に作られた音楽の大多数は、この種のBGMだった (113頁)

 19世紀の「お嬢様」にとってピアノが弾けることは必須の素養だった。
 で、彼女たちの定番は、リチャード・クレイダーマンのようなムードある曲だった。
 ロマンチックな題名を持ち、通俗的で甘い「似非高級ブランド音楽」である。*3
 優雅さが肝心であって、饒舌と難解と熱弁はご法度。
 そういう点で、ベートーヴェンの音楽とは対極にあった。
 今でも欧州の音楽専門の古本屋に行くと、これらのサロン音楽の楽譜が山積みにされて、二束三文で売りに出されている。
 リストやショパンの曲も、この伝統・慣習を基礎にしているのである。

ワーグナーの集団催眠術

 聴き手の頭が朦朧としてきて、席を立つ気力もなくなってきた頃をみはからって、怒涛の音の洪水が押し寄せてくるのである。それは宗教儀礼におけるイニシエーションのように、聴き手の意識下に強烈な作用を及ぼさずにはおかない。 (128頁)

 ワーグナーの楽劇*4には、ライトモチーフがたくさん出てくる。
 しかし、いつまでも音は統合されず、また、哲学談義のような晦渋な会話が続く。
 ワーグナー楽劇は、夕方午後4時頃に始まり、終わるのは、10時30分か11時頃である。
 10時過ぎごろから、ワーグナーは動く。
 聞き手の頭が朦朧として来て、席を立つ気力もなくなってきた頃を見計らって、怒涛の音の洪水を起こす。
 もはや洗脳である。

 

(未完)

*1:新書の方を取り上げてもよかったのだが、CDやDVDの紹介がよいので、こっちにした。

*2:大須賀沙織はこう書いている(「ガリア聖歌 : フランスで生まれた聖歌の源流を求めて」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005775086 )。

グレゴリオ聖歌がフランスの土地に根付く以前、メロヴィング朝時代(481-751)のフランク王国ではガリア聖歌と呼ばれる地方聖歌が歌われていた。カロリング朝ピピン3世(在位751-768)とその子シャルルマーニュ(在位768-814)によるガリア聖歌の廃止とグレゴリオ聖歌への統一により、ガリア聖歌の大部分は失われたとされるが、その一部はグレゴリオ聖歌に取り込まれる形で今日まで継承されてきた。

グレゴリオ聖歌には、かつて古代(共和政)ローマにとっての蛮族の名を冠した聖歌も、まじっているのである。

*3:そうした「BGM」の一種が、バダジェフスカ乙女の祈り」であろう。ただ、石本裕子は次のように書いている(「テクラ・バダジェフスカ(陽の当たらなかった女性作曲家たち・9)」https://wan.or.jp/article/show/6746 )。

18世紀末、ポーランドではピアノが人気のある楽器でした。良家の子女の結婚前のたしなみとして普及していきました。バダジェフスカも裕福な家庭の出身、ピアノを楽しんでいたのでしょう。「乙女の祈り」は1851年に作曲しました。ポーランド日刊紙に楽譜の広告の記録があります。バダジェフスカ自身が、自宅や音楽ショップで熱心に手売りもしていました。翌年には重版がなされ、その翌年には早くも第8版を重ね100万部が売れました。

甘い音楽も地道な営業努力でベストセラーとなったのである。

*4:ところで、「2013年 ヴェルディワーグナー 生誕200年記念座談会」には、次のような会話がなされている(http://www.ikaganamonoka.com/opera/vw/03.html )。

片山  だいたいワグナーの幕間は男性トイレのほうが混雑するんですよ。イタリアオペラだとやや女性、バレーだと圧倒的に女性のトイレが混む。/T女史 「ブルックナーライン」と呼ばれてるらしいですよ。もしくはワーグナーライン、マーラーライン。そういうコンサートは男性比率が高いので、男性トイレに行列ができるんです。 (引用者中略) I女史  確かにニューヨークでもワーグナーは男性の方が多いし、しかもみんなカップルで来てる

やはりこうした傾向は各国でも共通なのだろうか。

なぜ日本の賃金体系はこんなにも複雑なのか、日本型の雇用や査定制度はどのようにしてできたのか(*中級者以上向け) -金子良事『日本の賃金を歴史から考える』を読む-

 金子良事『日本の賃金を歴史から考える』を読んだ(再読)。

日本の賃金を歴史から考える

日本の賃金を歴史から考える

  • 作者:金子良事
  • 発売日: 2013/11/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 内容は紹介文の通り、

なぜわたしたちの賃金体系はこんなにも複雑なのか。日本型の雇用や査定制度はどのようにしてできたのか。そもそも賃金とはなにか、どうあるべきか。賃金についての考え方の変遷をその時代的背景とともに明らかにし賃金の重要性を問い直す。

 今からだとやや古い本になるが、しかし、今読んでもためになる本である。

 ただ、他の書評*1でも言及されているように、初心者には見通しがあまりよくはなく、しかし専門家にとってはもっと註を入れてほしい、という読者を選ぶ本でもあるように思う。

 以下、特に面白かったところだけ。

口入れ屋もつらいよ

 保証人には、労働者が逃げだしたら、捕まえて引き戻すか代わりの人を提供するかによって労働力を保証する義務があった。 (18頁)

 日本の一部企業に残っている身元保証人制度の原型である。*2
 これが明治に入ると、徐々に判例が積み重ねられて、雇用関係は現代では常識的と考えられているような、純粋な雇われるものと雇うものとの関係になっていったわけである。

科学的管理法のメリット

 むしろ、時間・動作研究の強みは、従来からおこなわれていた作業を可視化させることで、入職レベルでの訓練を容易にする点 (63頁)

 科学的管理法の功績を挙げるとすればこれであるという。*3
 ただし、実際の業務だと、内容が進歩してしまう(脱ルーティン化)ので、科学的管理法の真価(ルーティン作業の可視化)を生かせなかったという。

 そうした性質ゆえに、三年以内に大多数が辞める(そして女性が多い)紡績業において、入職レベルでの訓練を容易にする科学的管理法は、効果を発揮した。

 ただし実のところ、「紡績業でさえ、もっとも高度な技能は解析することができなかった」(120頁)。

戦前の日本の賃金は安くなかった?

 一九六〇年代以降の海外の研究では日本の賃金がイギリスと比べて、必ずしも相対的に安くなかった (71頁)

 著者は、1968年の山崎広明「日本綿業構造論序説」*4に依って、そのように述べている。
 近年の繊維産業史研究に携わる者にとって、戦前の日本の賃金は英国と比べても安くはなかったというのは、常識だという。*5
 低賃金というイメージは、山田盛太郎や『女工哀史』とかの影響だという。

電算型賃金と査定

 戦時期の工員月給制度の提唱にしても、戦後の労働運動において生活賃金を主張したことで大きな影響力をもった電産型賃金にしても、純粋に生活ベースの賃金ではなく、査定がついていた。 (101頁)

 電産型の場合、賃金の約七割は生活保障給だったはずである。*6 *7 *8

職務給の由来

 本体はコスト管理であって、その意味で標準原価の設定こそが画期というべき (107、108頁)

 職務給の話である。
 ところが、職務給を語る時、問題がモチベーションや労務管理の処遇などの問題に落とし込まれてしまった。
 職務給はむしろ、上記引用部のような、賃金切り下げを目的としていたのである。*9

メンバーシップの二類型

 日本と欧米を理念型化した場合、両者の違いは企業へのメンバーシップか、トレードへのメンバーシップかということなのである。 (121頁)

 なお、日本の大企業のメンバーシップが作られたのは、早くて、明治30年代から大正初期以降である。
 一方、ヨーロッパのトレード(職業・職種)は、産業革命以前の伝統を継承している。*10

トレードユニオンの歴史

 実際にはその連続性を示す決定的な証拠はない。 (122頁)

 ギルドとトレードユニオン*11の連続性についての話である。

 トレード・ユニオンの起源は、実際は18世紀末の産業革命ごろだという。
 19世紀の100年間をかけて、トレード・ユニオンはその意味を大きく変えていったのが実情である。*12
 元々、トレードユニオンは、労組的機能を有すると同時に、同業組合(仕事のプロジェクトを融通し合う)としての性格も持っていたのであり、時代を経て、前者の役割を重点的に担っていくのである。
 ただ、トレードユニオンは、同業組合的でもあった時代からすでに、仲間の共済機能だけでなく、賃上げや労働条件交渉(ストやピケを伴う場合も)を行っていた。
 また、熟練工の訓練プロセスを含め、熟練工の労働供給を掌握してもいた。

徒弟制度とその空洞化

 実際に、徒弟制度の空洞化というのは一九世紀どころかそれ以前から指摘されており、完全な労働供給の独占はおこなわれていなかった。 (124頁)

 徒弟制度の空洞化は昔から問題になっていた。*13
 そこで、不熟練労働者や女性など新しい労働者に対する処遇が問題となるが、この時、労組はそうした労働者を組織化して、労働者全体の労働条件を向上させる道を選んだ。
 今現在の話ではなく、19世紀末から20世紀初頭のイギリスでの出来事である。

生産性と労働強化

 一つ目の考え方は、増えた分の富が労働者に還元されるならば、それは良いことだと考える。じつはテイラーの科学的管理法の発想も同じである。これにたいして二つ目の考え方は、たとえ国民所得が増えそれが自分たちに還元されるとしても、それはかならず労働強化をもとなうものであり、それならば現状維持がよいと考える。これが技術革新にたいして反対する理由である。 (158頁)

 生産性向上運動に対して、右派の同盟や全労会議系は賛成、左派の総評は反対の立場をとった。
 生産性の向上とは、企業レベルでは効率よく利益を出すことであり、国家レベルでは効率よく国民所得を増やすことだった。
 19世紀以来の欧米のトレードユニオン的労働組合は、伝統的に後者の立場をとっており、左派が右派の強調的労使関係を批判してきた根拠もここにある。*14

生産性基準原理

 生産性基準原理はデフレ経済のもとでは影を失い、経営側に残されたロジックは企業レベルの支払い能力になっている。ただし、そうなっていくと、生産性がナショナル・レベルのテーマであったことが忘れ去られ、支払い能力、すなわち企業レベルでの問題にされてしまい、二〇〇〇年代以降の生産性の議論が付加価値性生産性になったことを考えると、本来目的とされた物価安定の意味がわからなくなってしまう。 (169頁)

 結果、合成の誤謬のようなことが起こり、デフレは脱却できないという仕組みなわけである。*15
 そもそも、ベースアップが行われたのは、ハイパーインフレがあったという歴史的背景があった。
 名目賃金を上げないと、実質賃金が低下するからである。
 インフレはすべての人に等しく影響するので、賃金表全体の数値を書き換える必要がある。
 インフレが労働運動を生んだ側面はあるのだと著者はいう。

ボランティアと報酬

 こうした輩こそボランティア精神ではなくエゴのかたまりである。しばしば自分の弱さを直視できないがゆえに、報酬を受け取らないという形式にこだわる。 (192頁)

 他者が報酬を受け取ることを批判し、報酬を受け取る者に対して罪悪感を与える者たち。
 そうした連中に対する批判である。*16
 高額の報酬を要求して、それを全額寄付すればよいではないか、という。*17

 

(未完)

*1:例えば仁田道夫によるものhttps://ci.nii.ac.jp/naid/110010050851 や、後述する赤堀正成によるもの。 

*2:中島寧綱『職業安定行政史』には次のように書かれている(http://shokugyo-kyokai.or.jp/shiryou/gyouseishi/01-1.html )。

番組人宿での申し合わせに、例えばこんなものがあった。/奉公人の身元をよく調べて、出所不明の者は紹介しないこと 利得に迷って、不正な紹介をしないこと 奉公人が逃亡したときは、人宿に代わりの者を差し出させ、同業者間でよく連絡をとり早急に尋ね出すこと (引用者中略) 奉公人には、奉公先の心得を守らせ、風儀をよくさせること

*3:中村茂弘「F.W.テーラーの科学的管理法に学ぶ」(https://qcd.jp/pdf/Kaizen-Base/TR-IE-09-Y20-4-19.pdf )には次のようにある。

実証実験に当たり、テーラー氏は当時の鉄鋼業で盛んに行われていたズク作業を選びました。その理由は、「ズク作業は、つらいが単純な作業であり、科学的管理法の成果が誰にでも明確にとらえることが出来る」と考えたためです。 (引用者略) 個人に分けると、優秀な者と遅い工員に分かれる。そこで、教師がつき、遅い者には、作業方法を指導する方式を進めた。

こうした言葉を読むと、著者の言わんとするところはよく理解できる。

*4:https://ci.nii.ac.jp/naid/40000833241 

*5:じっさい、後世の研究、たとえば、牛島利明・阿部武司「賃金」(西川俊作ほか編著『日本経済の200年』(日本評論社、1996年))は、山崎の意見に賛同している(当該著245、246頁)。

*6:工員月給制の実態について、著者は別の論文で、次の一文を引用している(「戦時賃金統制における賃金制度」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005255232 )。

「昇給にはたとへ同一年令とはいへ本人の勤怠,技能等により等差がつくのは産業正義からみても当然である」(渡部旭「賃金制より視たる月給制」,1940年,41頁)。

工員月給制度の提唱者とされる人物の言葉である。

*7:笹島芳雄は「電産型賃金」について次のように書いている(「生活給--生活給の源流と発展」https://ci.nii.ac.jp/naid/40018796729 )。

「電産型賃金体系」では,年齢で決まる本人給が44%,勤続年数で決まる勤続給が 4%に加えて,家族数で決まる家族給は 19%を占めている。当時の男性従業員の場合には,家族数は年齢と密接に関係していたから,賃金の 67%が年齢および家族状況で決まるという生活費を重視した生活保障型の賃金であった。

一方、能力給は約25%あり、査定自体はついているのである。

*8:遠藤公嗣は電算型の「能力給」の問題に言及している(『これからの賃金』旬報社、2014年。97頁)。具体的には、労組が能力給の査定基準を経営側に委ねてしまっていた点である。

*9:百科事典マイペディアによる「職務給」解説には、

技術革新の進行に伴い能率給が労務管理機能を果たせなくなったこと,労働組合がその生活給的側面を強調して維持しようとする年功序列型賃金による賃金上昇を抑え,労働力不足に対処するための賃金原資を確保する必要があること等を理由に,第2次大戦後米国から導入。

とある(https://kotobank.jp/word/%E8%81%B7%E5%8B%99%E7%B5%A6-80268 )。

*10:日本銀行調査統計局「北欧にみる成長補完型セーフティネット」(https://www.boj.or.jp/research/brp/ron_2010/ron1007a.htm/ )は、

スウェーデンフィンランドでは、失業保険制度が国家ではなく労働組合によって運営されている。北欧諸国の労働組合は産業別に組織されているため、失業しても労働組合のメンバーシップはなくならず、社会との繋がりを保ちやすい(社会から排除されにくい)と考えられる。

と述べている。

*11:職能別組合と訳されるであろう。後述するように、かなり歴史的変遷のある言葉なので、注意する必要があるのだが。

*12:『〝学習通信〟060501』は次のような文を転載している(http://kyoto-gakusyuu.jp/tusin06/060501.htm 出典は、「浜林正夫『パブと労働組合新日本出版社 p22-27 」である)。

一八三〇年代にイングランド北部の炭鉱主たちが組織をつくったことがあるが、このときに北部最大の炭鉱主で労働組合弾圧の急先鋒であったロンドンデリ侯がこの組織に加わったのを、ある労働者階級の新聞が「ロンドンデリ侯がトレード・ユニオンのメンバーになった」と冷やかしたことがあった。これなどはトレード・ユニオンが労働組合と業者団体との両方を意味することにひっかけたジョークであろう。 (引用者中略) 問題はトレード・クラブやトレード・ユニオンがどのようにして労働組合になっていったのかということである。仕立て職人の場合、先に述べたようにこのトレード・クラブはジャーニーマンテーラーのクラブであるから親方のギルドとは性格を異にする。むしろギルドの内部の組織であるヨーマン・ギルドのようなものであろう。しかし、もはやギルド内部で親方になることを求めているのではなく、あきらかに労働組合的な要求と運動を展開している。このことは、このクラブの活動のために損害をうけているとして雇用主側が一七二〇年に議会へ提出した請願書から知ることができる。

*13:オーグルヴィとエプスタインの論争において、オーグルヴィは、

徒弟制度と職人制度は技術の世代間継承に必須の条件とはいえない。ヴュルテンベルクのウステッド工業の事例では,徒弟に職業訓練を提供しない親方が処分されていなかったり,欠陥のある親方作品を制作した職人が親方資格を得ていたり,ギルドで公式の職業訓練を受けたことのない寡婦が合法的に営業していた。また,ギルドにおいて職業訓練を受けることを否定されている未婚の女性やユダヤ人などは,何らかの方法でスキルを修得していた。

と述べており、徒弟制度の有効性を疑っている(唐澤達之「ヨーロッパ・ギルド史研究の一動向--オーグルヴィとエプスタインの論争を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009435978 )。

*14:島西智輝「高度経済成長期における日本生産性本部の活動」には、

ここでの労働強化とは,単に仕事量や負荷が高まることではない。総評は,「職場が明朗化され,われわれの職場における自由,組合活動と闘争の自由が確保されること」を求めており,その上に生産性向上が成り立つと主張した。協力から反対までに共通する反応は,強弱の違いはあるが,「協力の代償」をめぐる不信感の表明である。この不信感は,職場の実感に支えられているがゆえに協力派にも共通していると言えよう

とある(https://ci.nii.ac.jp/naid/40019394053 )。

*15:馬小麗は、次のように書いている(「中国の最低賃金制度の状況と発展の新たな動向」https://www.jil.go.jp/foreign/report/2015/2015_0220.html )。

日経連は 1970 年からインフレ回避のために名目賃金上昇率を実質付加価値生産性の伸び率の範囲内とすることで、賃上げ分の価格転嫁によるインフレを起こさない「生産性基準原理」を提唱し、企業に徹底を求めてきた。これに対して労働側は、「実質賃金上昇率を実質付加価値生産性の伸び率に合わせる」(物価上昇分を賃上げに反映する)という「逆生産性基準原理」を主張し、反論してきた。なお、旧日経連の担当者の証言によると 1985 年のプラザ合意以降、急激に進んだ円高によって、為替減価で生産性をいくらあげても利益に結びつかなくなり、生産性基準原理による賃金決定が機能しなくなったことから、各企業の「支払い能力論」を新たな原理として打ち出したとしている(連合総研・調査報告書「日本の賃金―歴史と展望」2012 年)

*16:このボランティア論について、赤堀正成は本書書評において、

これは著者のボランティア経験があって初めて書かれた言葉だろう。このように「あえて価値観に踏み込ん」だ,強い情動を伴う主張は本書の中では例外的な部分である。

と述べている(「書評と紹介 金子良事著『日本の賃金を歴史から考える』」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005550188 )。

*17:卑近な例だと、いつぞやの新型コロナウィルス対策の特別定額給付金の時のことを思い出す。政治家も受け取らないのではなくて、貰って寄付をすればよかったわけである。

フルトヴェングラーに対してヒトラーが語った、反ユダヤ主義をやめなかった「言い分」 -奥波一秀『フルトヴェングラー』を読む-

 奥波一秀『フルトヴェングラー』を読んだ。

フルトヴェングラー (筑摩選書)

フルトヴェングラー (筑摩選書)

 

 内容は、紹介文のとおり、

本書は、ヴァイマル期からナチ期、そして戦後における音楽家の振る舞いと内面を同時代人たちとの関係を通して再検討した渾身の作品である。政治に対する倫理のありようを見定め、さらには、その音楽思想がいまなお投げかけてくるものを考察する。

というもの。
 十年は前の本だが、読みごたえがある。

 以下、特に面白かったところだけ。

退廃と芸術とゲッベルス

 「ろくでなし」だからこそ、うまく指揮できるのだ。「まじめ」なドイツ国民が必ずしもよい芸術を生み出せるわけではない、退廃・デガダンと結びついてこそ輝く芸術もある、とゲッベルスは考えているわけである。 (36頁)

 後年退廃芸術を排斥するゲッベルス、そんな彼の1923年ごろの話である。*1 *2

ナチスとゴシック

 ゲッベルスは以前、「民(族)が血の共同体を純粋に維持すればするほど、それが形成する芸術はますます偉大となる(ゴシック建築)」と記していた。が、クシュネルによれば、ゴシック建築はそもそもフランスで発明されたものである。 (引用者中略) しかし、ドイツに受け入れられ発展をとげ、ゲッベルスのいうように偉大な芸術となった (123頁)

 なかなか皮肉である。*3

ゲッベルスフルトヴェングラーと調性

 無調音楽はドイツ的ではないとのゲッベルスの言明の対偶は、フルトヴェングラーの好んだ主張、つまりドイツ音楽は調性によるとの言明そのものである。 (124頁)

 ドイツ音楽と調性の根源的関連を説く点において、ゲッベルスフルトヴェングラーは近かったといえなくもない。*4

 フルトヴェングラーの主張は、音楽的には、ナチの論理を拒めないようなつくりをしていたのである。*5 

ヒトラーの「言い分」

 われわれは七人の党員だった時代に、党が反ユダヤ的であるべきかどうかをはっきりきめたのだ。当時、三対四の票決で反ユダヤ主義にきまった。当時の全員が反対していればよかっただろうが (244頁)

 1933年、ヒトラーと二度目の対面を果たしたフルトヴェングラーは、反ユダヤ主義の行き過ぎを窘めようとしたという。*6
 それに対するヒトラーの言明が上記の言葉である。*7 
 もう党は動き出したから自分にも止められない、というのが、この時のヒトラーの言い分(言い訳)であったようだ。

 その言い分が事実に基づいているかはともかく。

フリッツ・リーガー

 亡命したユダヤアーレントは元ナチ党の音楽に深い感銘を受け、元ナチの指揮者は(略)イスラエル選手犠牲者の追悼式の指揮台にすら立つ。 (336頁)

 アーレントは、ヨーロッパ旅行中、夫に向け、手紙を書いている。
 内容は、ミュンヘン・フィルを聴いた感想で、「メサイア」が素晴らしかった、と。
 だが、その指揮者フリッツ・リーガーはかつてナチ党員だった。*8

トーマス・マンの転向

 作家トーマス・マンは「理想主義的な狂人ともいうべき野蛮人ども」のこの凶行に衝撃をうけ、共和国支持を公にする決心をした (49頁)

 1922年、外相ラーテナウが右翼により暗殺された。
 結果、トーマス・マンは転向することとなった。*9
 この年、政治家暗殺の謀議を厳しく取り締まるべく、共和国保護法が成立した。

 

(未完)

*1:ゲッベルスの1923年11月10日付の日記が参照されている。

*2:ゲッベルスユダヤ系のフリッツ・ラング(映画監督)を懐柔しようとしたことはよく知られている。ラングがアメリカへ亡命したことも含めて。 以下、Gessner Frank (山下秋子・冨田美香訳)の「バーベルスベルク:神話と真実1912-2006」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110006387805 )から引用を行う。

ナチスへの政権移譲と、ドイツ映画の保護者としてのヨーゼフ・ゲッベルスの宣伝省就任により、UFA幹部内のユダヤ人に対する圧力が強まりました。1933年春には国内の変動により、会社は無抵抗にユダヤ人職員を解雇します。エーリヒ・ポマーも解雇され、5月にはパリに亡命しました。 (引用者中略) フリッツ・ラングビリー・ワイルダーペーター・ローレなどはこの年にすでに亡命しましたが、遅れて亡命したものや、オットー・ヴァルブルク、クルト・ゲロンをはじめ多くの関係者がナチスによって殺害されました。

*3:例えば、ローゼンベルクは、「一般的で抽象的なギリシアの形態に対置されるのが, 神秘的で内的なゲルマンの魂であり, そうしたドイツ的な本質を表現する偉大な芸術様式として賞賛されるのが,ゴシックである」と主張している(田野大輔「古典的近代の復権-ナチズムの文化政策について- 」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005534196 )。

*4:クルシュネルの意見に対して、そう思われても仕方ない、という風な書き方を、著者はしている。

*5:そういえば、シェーンベルクヒンデミットもともに、米国へと亡命しているが、無調は基本好きでなかった後者は、なんとかして、ナチスと妥協をも考えていた。 以下、中村仁「ヒンデミット《画家マティス》におけるドラマと音楽形式」(https://ci.nii.ac.jp/naid/40020766673 )

ヒンデミットは1936年初頭には改めてヒトラーへの忠誠誓約に署名することもしており、最後までオペラのドイツでの初演の可能性を探っていたと言える。よってオペラの作曲経過をめぐっては台本作成と交響曲《画家マティス》の作曲が、ナチスによってヒンデミットが取り込まれていく過程で行われていたのに対して、交響曲初演後に本格化したオペラの作曲とその改訂作業は、ヒンデミットナチスによって攻撃され、それに対して名誉回復を試みていた時期にあたる。ナチスがオペラの初演を許可しなかったのは、決してオペラの内容に問題があったからではなく、ヒンデミット1920年代の先鋭的な作風、ブレヒトとの共同作業、挑発的なオペラなど過去の芸術活動が問題であり、《画家マティス》自体はそのドラマ、音楽ともにナチスにとっては受け入れられる余地は存在していたと思われる。

 ヒンデミットが基本無調を好まなかった点については、例えば『Kentaro SUZUKI's website』の記事http://kentarosuzuki.com/?p=1550 を参照。

*6:クルト・リース『フルトヴェングラー』(みすず書房、1966年)の103頁が参照されている。

*7:ただ、ヒトラーがナチ党の委員会で七番目の委員になったか否かというのは、証拠不十分である。以下、村瀬興雄『アドルフ・ヒトラー』(中央公論新社、1977年)の177頁参照。なお、村瀬は、当該書でティレル『太鼓叩きから指導者へ』を参照している。Albrecht Tyrell  の”Vom Trommler zum Führer”である。

*8:なお、リーガーは来日したことがある。以下、ブログ・『気楽じい~の蓼科偶感』より引用する。

初来日は1972年、当初バーツラフ・ノイマンが一緒に来日する予定だったが出国許可が下りなかったために急遽<ナチ党員でもあった>フリッツ・リーガーとともにやってくる。大阪での演奏は公演の最終日で同じフェスティバルホールで2月16日に行なわれた。

*9:マンに共和国支持を訴えかけさせたのは、ラーテナウ暗殺だけではないと、友田和秀は述べている(「トーマス・マン 1922年--<転向>をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/40004837358 )。 

1922年4月の公開書簡でマンがホイットマンにたいする態度を変化させているとするならば,その理由はひとつしか考えられない。「フマニテート」理念の獲得である。『告白と教育』においてマンがそれをおこなっていたからこそ、かれは新たに読んだライジガー訳のホイットマンに触発されて,「フマニテート」理念をくデモクラシーンと結合させることができた,いいかえるなら<デモクラシー>概念をドイツ的なものに向けて転換させることができたのである。ホイットマンが「副次的」であるとするなら,それは,『告白と教育』がく共和国>支持にたいして持つ意味の大きさにくらべてのことなのである。

フマニテート概念の実相については、友田論文を参照願う。

現実空間で仲間とつるむ場がないからネットに向かっている、という「若者」の現実。 -ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる』を読む-

 ダナ・ボイド『つながりっぱなしの日常を生きる』を読んだ(再読)。

 内容は紹介文の通り、

本書は、若者メディア研究の第一人者ダナ・ボイドが、若者、親、教育関係者を含む、166人のインタビューからソーシャルメディア利用の実態を読み解くもの。若者たちを観察してみると、ネットにはまっているわけでも、ヘンなことばかりしてるわけでもなく、親や教師が顔をしかめる“ネットの問題”は、大人の窮屈な監視をかわすための処世術だったり、現実空間で仲間とつるむ場がないからネットに向かっていたり……、ネットでつながる事情はなかなか複雑です。そんな、つながりっぱなしの若者たちの実情に深く迫ることで、じつは、わたしたちのネットとの付き合い方も透けて見えてきます。

という内容。
 デジタル技術がどんなに進歩してもなお、読む価値が本書にはある。
 なお、著者は姓名の頭文字を小文字で表記しているが、これはベル・フックスの影響だと訳者(野中モモ)は述べている。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

テクノロジーのせいにされ

 ミシンが導入されたとき、女性が脚を上下させることが何か性的な影響を及ぼすのではないかと恐れた人々がいた。ソニーウォークマンは、人々がお互いにコミュニケーションを取ることを不可能にし、別世界へ消え去ることを奨励する邪悪な機械として見られていた。 (29頁)

 テクノロジーというのは大体、悪いことの原因にされがちである。*2
 あるある。

友達と直接会う代替として

 ティーンの多くは自分で車を運転できるようになるまで家に閉じ込められている。 (引用者中略) かつてショッピングモールは郊外のティーンにとって主要な拠点だったが、以前に比べてずいぶんと行きづらい場所になっている。私有空間であるショッピングモールでは、経営者が望むままに気に入らない客の利用を拒否することができ、その多くが10代のグループの立ち入りを禁じている。 (37頁)

 10代が互いに集える公共空間が、減っている。
 そうした空間に入ることのできる機会も減っている。
 だからSNSが流行ったと著者は述べる。*3
 日本もおそらく、10代の居場所は似たことがいえるように思う。

忙しさゆえに

 直接に会うほうがずっといいけれど、日々の生活の過密スケジュールと肉体的移動の自由の欠如と親たちの恐れによって、そうした直接の交流を持つことがどんどん不可能になっている (38頁)

 現代人は忙しい。
 とうぜん子供も忙しい。*4
 それもまた、SNSに頼る理由である。
 彼らは、友達などと連絡を取るのを、SNSを使用する主目的にしている。*5

テクノロジーに通暁してるとは限らない

 ティーンがソーシャルメディアを楽々使っているからといって、彼らがテクノロジーによく通じているとは限らない。 (38頁)

 実際その通りであろう。*6

森を作る

 有名人の多くは、無制限にシェアしている見せかけによって、効果的にプライバシーが守られると考えている。 (120頁)

 見たところ露出癖とされかねない行いが、いかに彼女の人生のより親密な部分へ注目を向けさせないための余裕を与えているか  (121頁)
 自分から率先して情報公開してしまう。
 そうすることで、自分のプライバシーを守っている。
 「プライバシーは (引用者中略) 人々が印象や情報の流れや文脈を管理することにより社会的状況をコントロールしようとするのに用いられるプロセスなのだ。」(122頁)。*7
 木を隠すなら森を作るのである。

「介入」が悪化させる例

 大人たちは危機管理の手法として恐怖と孤立主義に飛びつくことによって、大人の提供する情報に対するティーンの信頼を損ない、自分らの信用を台無しにしている。 (203頁)

 強硬にただ排除する、と言うだけでは、効果はない。

 学校と親の介入はたいてい状況を悪くする。なぜなら大人は詳細を理解することなく関与してくるからだ。もし若者が、大人は大げさに反応し、人間関係の力学の複雑さを理解しないと思っていたら、彼らは自分たちが直面している困難をわざわざ伝えようとはしないだろう。 (220頁)

 外国にガンガン無遠慮に介入してくる、往時のアメリカ合衆国の外交を思わせるような言葉である。*8

デジタル自傷

 デジタル自傷は私が思っていた以上にさかんに発生しているようだった。 (229頁)

 調査によると、若者の9パーセントが自分をいじめるのにインターネットを使ったことがあるという。
 被害者になって注目を集めたい、といった動機であろうか。*9

 

(未完)

*1:ベル・フックスという筆名自体は、母方の曾祖母に由来しているという。ニューヨークタイムズの、 Min Jin Lee による 記事https://www.nytimes.com/2019/02/28/books/bell-hooks-min-jin-lee-aint-i-a-woman.htmlを参照した。

*2:19世紀後半には、ミシンによる大腿の運動が繰り返されることによって、

For this young woman, these different movements produced a considerable genital excitement that sometimes forced her to suspend work, and it is to the frequency of this excitement and to the fatigue it produced, that she attributed her leucorrhea, weight loss, and increasing weakness. 

といった影響があると、大まじめに書かれていたのである。出典は、Francesca Myman の ”The Mechanical Chameleon: Sex & the Sewing Machine in Nineteenth-Century France”で、大元の出典は、ダナ・ボイドも参照した、Judith Coffinの本である(http://francesca.net/SewingMachine.html )。

*3: 高谷邦彦は、本書(ダナ・ボイド著)を参照し、次のように書いている(「ソーシャルメディアは新しいつながりを生んでいるのか? : 女子学生の利用実態」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006305245 )。

2000年代半ば頃からの SNS の勃興によって、オンライン空間はもっぱら「友達同士でつながるための場所」(既存の友人関係を強化する場所)へと変容してきた。学校で直接会っている友達と、帰宅後の時間や休日にもオンライン空間でつながるようになったのだ。携帯電話からの手軽なネットアクセスが増えるにつれて、その傾向はさらに顕著になった。 (引用者中略)  LINE も含めて TwitterFacebook といったソーシャルメディアは、リアルな知り合いである「友達」や「フォロワー」を増やすシステムによって、オンラインとオフラインを地続きにする働きを促進してきたわけである。

*4:2013年時点での調査だが、「心や身体の疲れについてたずねた結果では、小学生51.2%、中学生64.8%、高校生70.4%が「忙しい」と回答」している(「中高生の8割以上が「もっとゆっくり過ごしたい」…ベネッセ実施の生活時間調査」https://resemom.jp/article/2014/09/24/20556.html )。

*5:この点は、平井智尚の本書書評の言葉に尽きるであろう(https://www.publication.law.nihon-u.ac.jp/journalism/journalism_15.html )。

ダナ・ボイドも同様に、ティーンのソーシャルメディア中毒は、「もし中毒だとしたら、それは友達同士お互いに中毒になっているのだ」 (引用者中略) と指摘する。このようにとらえるならば、若者のソーシャルメディア利用は恐怖、忌避、排除すべきものではなく、むしろ、諸問題を可視化し、それらを理解するための道筋を与えてくれるものである。

*6:実際のところ、

いわゆる「ネ申Excel」問題 (引用者中略) などは、「パソコンが使えない大学生」問題が実は「パソコンを適切に使わせる環境を整備できない大人」問題と地続きであることの傍証の一つなのかもしれない

というのが正しかろう(木村修平、近藤雪絵「“パソコンが使えない大学生”問題はなぜ起こるか ―立命館大学大規模調査から考える―」
http://pep-rg.jp/research/ )。

 パソコンが使えないのを、彼ら世代の問題、ととらえるのは誤りである。

*7:自己情報コントロール権説に親和的な話である。
 ところで、「自己情報コントロール権説は、我が国の憲法学における通説的位置にあり、既に所与の前提となっている」が、永野一郎は、

情報化社会の進展は、取扱う個人情報の質量を飛躍的に拡大した。大量な情報を一括的に取扱う、いわゆる「データバンク社会」において、個人情報の利活用を確保しつつ個人の権利利益を保護するためには、自己情報コントロール権としてのプライバシーから離れ、データ保護を直接の対象とするべきである。

とし、最終的には、

携帯情報端末の著しい発達や、クラウドコンピューティングによる情報インフラのコモディティ化等に伴い、情報システムのパーソナライゼーションがかつてない規模と現実味をもって進展している。パーソナライズされたシステムはもはや「データバンク」ではない。そこでは、大量一括処理を前提としたデータ保護や取締法規としての個人情報保護より、人格的自律の権利としての自己情報コントロール権が意味を持つ

として、人格的自立の権利としての自己情報コントロール権の側面は肯定している(「情報システムにおける脱・自己情報コントロールに向けた試論」http://in-law.jp/archive/taikai/2011/kobetsu3-2-resume.pdf *註番号を削除して引用を行った。)。
 少なくとも、自己情報コントロール権って中身が不明だよね、というのはその通りとしか言いようがない。

*8:ところで、子どもの育ちを支えるしくみを考える委員会「子どもの育ちを支えるしくみを考える委員会最終とりまとめ」(平成25年7月 最終報告書)には、次のような文言も見える(https://www.pref.nagano.lg.jp/kodomo-shien/shienjyourei/shien-jyourei.html )。

大人の介入でよくなることってほとんどない。大人の人たちが思っているより、ひどいことばっか。いじめをしてる子たちって、表面上はいいこちゃんばっか。だまされるなんてバカみたい。もっと人をうたがうことをおぼえたらどうですか。(中3女)

*9:Rebecca Lee の”What Is Digital Self-Harm?”(https://psychcentral.com/lib/what-is-digital-self-harm/ )によると、

According to the Journal of Adolescent Health, teens bully themselves as a way to regulate feelings of hatred and sadness in addition to gaining attention from friends and possibly family. Approximately six percent of students have anonymously posted a mean comment about themselves. Digital self-harm is predominantly done by males.

とのことである。
 デジタル自傷(ネット自傷)は、若者の中でも男性が行うケースが主であるようだ。

「ちゃう」という言い方は、20世紀はじめになって、関西中央部の若者の間でつかわれるようになった。 -井上史雄『日本語ウォッチング』を読む-

 井上史雄『日本語ウォッチング』を読んだ(再読)。

日本語ウォッチング (岩波新書)

日本語ウォッチング (岩波新書)

 

 内容は紹介文の通り、

「見れる」「食べれる」のようなラ抜き,「ちがかった」「うざい」「チョー」といった新表現,鼻濁音なしの発音….日本語が乱れてる-と嘆くのは早計だ.言語学の眼で考察すると,耳新しいことばが生まれる背後の言語体系のメカニズムや日本語変化の大きな流れが見えてくる.長年の調査・探究に裏打ちされた現代日本語の動向観察.

というもの。
 古い本にはなってしまうが、しかし、やはり読んで楽しいのは事実である。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

ら抜き言葉の広がり

ラ抜きことばが記録されたのは、意外に早く、昭和初期である。 (2頁)

 東京には中部地方から入りこんできた可能性が大きい。京都や大阪にも近畿地方の周辺部から入りこんだのだろう。 (引用者中略) まず中部地方そして中国地方に生れ、徐々に周囲に広がったと思われる。 (8頁)
 ら抜き言葉は割と早くに生まれている。*2
 本書では、ら抜き言葉が広がった理由(「合理性」)を説明しているが、詳細は、本書を読んでみてほしい。

「だ」と「や」

 「じゃ」から「や」が生まれたのは江戸時代末期で、一八四〇年代の京阪の若い女性の使用例が今のところ一番古い。 (40頁)

 「にてあり」から「であり」、そこから「である」、最後に「であ」と変遷していく。
 東の方だと、「であ」が「だ」になった。*3
 いっぽう、西の方だと、「であ」は「ぢゃ」から「じゃ」に、そして「や」になったということのようだ。

「うざったい」と多摩

 多摩地区の方言が郊外から都区内の若い人に広がってはいるが、あらたまった場では使いにくいことばらしい。 (88頁)

 青梅市の老人は「濡れた畑に入ったような不快な感じ」と身体的な感覚として説明するが、青梅の若者は漠然と「不快だ、いやな(人)」ととらえる。さらに山の手の若者は「面倒だ、わずらわしい」の意味で使う。具体的なよりどころがだんだんなくなって、一般的な不快感の意味で使われるようになったわけだ。 (90頁)

 今は「うざい」という短縮形まで生んでいる。ただこれも、都区内独自の動きではなく、多摩地区で先行していたようだ。 (92頁)

 「うざったい」の言葉の変遷である。*4
 もとは、青梅あたりの方言であったらしい。

関西弁の歴史性

 ほぼ今世紀はじめに関西中央部の若い人の間に「ちゃう」が登場し、その後関西地方の周辺部にも広がりつつあると考えられる。 (133頁)

 20世紀初頭の関西弁の落語のレコードには、会話で「ちゃう」は使用されていなかったようである。*5

平板ではなく頭高

 一九九〇年代では若者に人気のある音楽グループ「B'z(ビーズ)のアクセントが話題になった。 (180頁)

 本人たちは頭高と思っているが、ファンは平板でいう。*6 *7
 地名や人名の固有名詞も、専門家やよく接する人が先に平板化する傾向がある。
 これは外来語も同様である。

新しい言い方の普及

 新しい言い方は、親や周囲の抵抗の少ない地方でまず普及し、その勢力を背景に東京に入り込むと考えられる。 (202頁)

 たとえば、地方の親の場合、自分の言葉が方言だという意識があって、ことばについて自信がないと、直さないことがある。
 そのため、東京ではなくて地方の方でまず、新しい言い方が普及するというわけである。*8

 

(未完)

*1:もちろん、本書は20年以上の本なので、その後の研究の発展にも注意が必要である。例えば、以下の通りである(沖裕子「井上史雄著, 『経済言語学論考-言語・方言・敬語の値打ち-』, 2011年12月10日発行, 明治書院刊」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009687878 *註を削除するなどして引用を行った。)。

たとえば、「じゃん」の発生地を山梨県としているが、氏の先著『日本語ウォッチング』(1998年、岩波書店)では静岡県で生まれたとされている。新資料の出現に応じた修正であると推測はできるが、先著への言及がないため、読者には両論をつなげつつ、論点の不足を再考する余地がうまれている。

*2:高橋英也は次のように書いている(「可能動詞化の方言上の多様性について:ラ抜き言葉とレ足す言葉の動詞句構造の観点から」https://www.researchgate.net/publication/311736346_kenengdongcihuanofangyanshangnoduoyangxingnitsuiterabakiyanyetorezusuyanyenodongcijugouzaonoguandiankara *註番号を削除して引用した。)。

ラ抜き言葉は、大正~昭和初期にかけて、方言 (東海地方、中部地方、中国・四国地方など) で始まり、100 年近くかけて徐々に全国に広がった。( 渋谷(1993), 鈴木(1994), 井上(1998)など)

まさに、本書(井上著)が引用されている。

*3:岡智之「日本語存在表現の文法化認知言語学と歴史言語学の接点を探る―」(認知歴史言語学第1,2章(出版前原稿版)http://www.u-gakugei.ac.jp/~gangzhi/research/)には次のように書かれている。

断定の助動詞ナリ,デアル,ダの文法化日本語の断定の助動詞,あるいは指定表現といわれるナリ,デアルは,ニアリあるいは,ニテアリという存在表現から文法化したものだと言われている(春日1968,佐伯1954,山口2003)。奈良時代から平安時代にかけて,ニアリがナリに融合,交替していく過程がある。それからニテがニテアリと共起していくのが院政期頃,また同じころニテがデに交替し,デアルが室町期の口語において現れると言う。また,デアルはデアからヂャを経てダに至ると言うのが定説であるが,柳田(1993)では,室町中期の西部方言資料から「ヂャ」とともに「ダ」を多用した資料が見つかったことから,早くに「ダ」が生れ,遅れて「ヂャ」が発生したと推測している。その後,室町時代西部方言ではヂャが主に用いられ,ダも劣勢語として存在した。一方,東部方言では主にダを用いたが,ヂャも劣勢語として存在した。以降,東部方言ではダ,西部方言ではヂャが主に使われるようになる。

*4:著者(井上)は、2008年の『社会方言学論考―新方言の基盤』でも、同様のことを述べている(103頁)。

*5:金水敏は次のように述べている(「大阪弁の起源」https://ironna.jp/article/1603 )。

大阪らしい表現として挙げたいくつかの表現を、文芸作品などをもとにして初出の年代をたどっていくと、元禄ごろから使われていたことば、例えば「なんぼ」「…かいな」「あほ」「ほんま」はむしろ少数である。/18世紀後半には「…だす」「…さかい」「…よって」「おます」が登場、19世紀前半には「…や」「…なはる」「…がな」が出てきて、20世紀になって「…へん」「…はる」「…ねん」「わて」などが姿を現す。/このように大阪弁らしい表現が出そろったのは、明治から大正にかけての「大大阪」の時代であると考えていいだろう。

*6:正しくは頭高発音、と認知するファンも、もちろんいる。

*7:駒村多恵「B'z論争」(https://ameblo.jp/komatae/entry-10166361490.html )には、

「B’zに関する注意事項」。今まで注意事項の紙が回ってきたことがなかったのでそれだけでもびっくりしたんですがその中に「B’zのアクセントは平板ではなく頭高です。」という項目がありました。

とある。

*8: 「うざったい(うざい)」のような、方言由来の「新方言」がある一方で、「共通語の影響のもとで生まれた新しい方言の形も広まって」いる(「方言コスプレ、新方言、ネオ方言… 平成になって復権した理由とは?」https://withnews.jp/article/f0190409001qq000000000000000W05h10101qq000018925A )。

真田信治・大阪大名誉教授が提唱した「ネオ方言」です。/典型例として、「来ない」を意味する関西中部方言の「こーへん」があります。これは、共通語「こない」の影響を受けて、関西方言「けーへん/きーへん(きーひん、とも)」が変化した形だとされます。

なお、真田は、「井上史雄著, 『社会方言学論考-新方言の基盤-』」の書評も行っている(https://ci.nii.ac.jp/naid/110007593057 )。

差別意識が患者多発部落への地域差別と結びついたとき、水俣病問題の解決はいちばん困難な壁にぶつかった -色川大吉『日本人の再発見』を読む-

 色川大吉『日本人の再発見―民衆史と民俗学の接点から』を読んだ。

 内容は、紹介文の通り、

近代史家の著者が“自分史”運動を実践しながら、民衆の生活の場に視点をすえて展開する日本文化論、草の根からの日本人論。著者は民衆の一人として、歴史を作り支える役割を語りかける。

というもの。
 まさに色川史学といった感じの内容である。

 以下、特に面白かったところだけ。*1

水俣と日本窒素

 日本窒素の創業者野口遵が大口の近くに曽木発電所を開業して、安い電力エネルギーを金山に供給するようになった (194頁)

 政府は日露戦争後に塩の専売を施行して、製塩業を潰した。
 そのために、製塩業に依存して生活していた人々の仕事と収入は奪われた。*2 *3
 日本窒素肥料株式会社は、そうして路頭に迷った人々の労働力と、利用法を失った塩田跡を、安く買い占めて近代的な大工場を起こした。
 このようにして、日本窒素肥料は、水俣を支配することとなったのである。

水俣の中にあった地域差別

 地の者の流れに対する差別意識が患者多発部落への価値観をともなった地域差別と結びついたとき、水俣病問題の解決はいちばん困難な壁にぶつかった (209頁)

 チッソ水俣との利害関係だけでなく、こうした地域差別と結びついたことが、水俣病問題の根を深くさせることとなった。*4

 事実は、漁民は新鮮な魚を多食していた。その新鮮な上等な魚にも猛毒の有機水銀が浸入していて、罹病の原因となった。これは貧富の問題ではない。ところが行政や企業が地元住民の差別的な意識や偏見を逆手に利用して、こうした誤った情報や考え方を永い期間にわたって定着させてきた (242頁)

 水俣病がこじれた要因の一つである。

人生

 いま水俣病患者として認定されている生存者のなかで、最も高い水銀の汚染値を記録された人に安田さんがいる。 (285頁)

 彼女の毛髪水銀値は640ppmだった。
 安田さんは天草の貧しい家に生まれ、若い時から大阪に出て、工場や病院で働いた。
 大陸へ行けば高収入が得られると聞いて、朝鮮から大連へゆく。
 そこで体を売る仕事もしたという。
 戦争がはじまり、朝鮮で結婚する。
 その後日本軍に頼まれ、朝鮮人女性を慰安婦として組織し、中国各地の戦線を渡り歩く。
 かなりの金を貯め、故郷の島に戻ったが、敗戦によってその価値を失う。
 島では食堂を経営し、好物の魚や貝類を多食した結果、体内に水銀を蓄積していく。
 夫は妻を見捨てず看病をするが、やがて死去する。
 彼女は、ひとり天草で、大陸で自分が犯した罪を悔いながら合唱と念仏の日々を送った。
 弱者から「強者」の協力者となり、やがて高度成長期の犠牲となったのである。*5

 

(未完)

*1:今回は水俣病関連のことのみ、取り上げた。

*2:水俣病研究会編『水俣病事件資料集 1926-1968 上巻』には、

水俣市史』によると、日本窒素肥料株式会社(以下「日本窒」という)が進出する直前である一九〇〇年ごろ、水俣の産業で特筆すべきものは製塩業であり、近在の農家の数少ない現金収入源であった。 (引用者略)製塩業は、塩専売法施行(一九〇九年)とともに廃止された。

とある(以下を参照http://archives.kumamoto-u.ac.jp/minamata.html )。

*3:塩の専売について、『アジ歴グロッサリー』の「塩務局」の項目は次のように書かれている(https://www.jacar.go.jp/glossary/term3/0010-0030-0020-0020-0170.html )。

日露戦争のための財政収入と製塩業保護のため、1904年12月31日塩専売法が制定され、1905年6月1日から実施されることになった。そこで、同年1月大蔵省主税局に専売事業課、専売技術課が置かれ、塩専売の事務を統括した。 (引用者中略) 専売を統一するために、1907年9月25日専売局官制が公布されたことにより、9月30日で塩務局は廃止され、その業務は専売局に引き継がれた

*4:小松原織香「「公害問題」から「環境問題」へ」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006773758 )には、

鶴見 (引用者注:鶴見和子) は第一部で、統計調査と聞き取り調査のデータを駆使して、水俣地域の人々が「定住者」と「漂泊者」の二つの層に別れていることを明らかにする。両者は「じごろ」と「ながれ」と呼ばれ、地域社会の人間関係の鍵となる概念である。

とある。

*5:ところで、水俣チッソ、そして朝鮮とは、因縁がある。花田昌宣「新日本窒素における労働組合運動の生成と工職身分制撤廃要求--組合旧蔵資料の公開に寄せて」(https://ci.nii.ac.jp/naid/40018784930 *PDFあり)より引用する。

この時期,水俣工場には戦前から水俣工場にいた労働者と敗戦によって失われた朝鮮興南工場からの引き上げ労働者が混在しており,その関係がしっくりいっていなかったという。それは工場幹部内においてもそうであったが,また組合内でもそのような傾向が見られた。

また、

朝鮮興南工場において植民地の朝鮮人を牛馬のごとく使った手法を水俣においても同様に用い,水俣地元採用の労働者を牛馬のごとく扱っているとの告発であった。その矛先は経営者,なかんずく朝鮮帰りの幹部社員に向けられることとなったと考えられる。

といった文章も見られる。