ベトナムにも四季はあるし、上座仏教にも呪術はある -桃木至朗『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』を読む-

 桃木至朗『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』を読んだ。

わかる歴史 面白い歴史 役に立つ歴史 (阪大リーブル013)

わかる歴史 面白い歴史 役に立つ歴史 (阪大リーブル013)

 

 内容は、「日本史・アジア史・西洋史の全体をとらえ、歴史の魅力を探る。歴史によせる高校・大学・市民の期待に向き合う阪大歴史学の成果」と紹介文にある通りである*1
 AMAZONのレビューにもある通り、著者は専門の「東南アジア史」について、「決して世界の中心になりえなかった」ことこそが意義としており、そうした「周辺」から歴史を見る意義も、本書から学ぶことができる。

 特に面白かったところだけ。

四季を自慢する国

  ベトナムの生徒が同じことをベトナムだけの特徴と教えられている事実 (38頁)

 「美しい四季を愛でる心」はわが国固有、と考える国は、ほかにもあるのである。
 当たり前であるが。
 そもそも、「ベトナムは南国のイメージから常夏を想像されがちだが、それは南部の話で北部は四季がある」のである*2

上座仏教の大衆的基盤

 厄よけの呪術、乱世の救世主信仰(転輪聖王弥勒仏)などを取り込むことで、上座仏教は大衆的基盤を確立した。 (205頁)

 上座仏教も、根付いた土地では、このような土着化を行っているのである*3 *4

インディカ米と日本史

 戦国時代に九州・四国でインディカ米の栽培が急速に広がる (222頁)

 排水の困難な低湿地などの悪条件の場所だと、インディカ米は強いので普及したという。
 江戸期には衰退するが、明治まで続いたようだ*5

(未完)

*1:桃木先生といえば、歴史用語の精選案の件http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASKCM5T7PKCMUTIL019.html で知られているが、本稿ではこの話題については触れない。

*2:清水大格「ベトナムでの2年間」http://www.criced.tsukuba.ac.jp/jocv/report/sympo_h17/shimizu.pdf より。日本でも沖縄や北海道等は本土とはまた違う季節感があるので、その点似ているだろう。また、グエン・ヴー・クイン・ニュー「『古くて新しいもの』 : ベトナム人の俳句観から日本文化の浸透を探る」http://jairo.nii.ac.jp/0378/00002250/en は、「ベトナムにも時候、天文、自然観や年中行事などがあり、季語になる単語は豊富にあります」と言及している。

*3:小川絵美子「タイにおける占星術 -寺院における占星術師の活動を事例として-」http://jsts.moo.jp/thaigakkai/journal/ によると、「タイの民衆たちの間で信仰されている上座部仏教そのものにもヒンドゥ的民間儀礼、ひいてはホーラーサートに繋がる呪法を受容している部分が認められる」という。理由として「即時的な問題解決を望む在家信者の欲求に直接的に答えるため」などが挙げられるようだ。そして、「上座部仏教を信仰する他の東南アジア諸国では広く、占星術をめぐる類似の現象がみられ」るという。ただし、タイでは「呪物を販売したり、ひとの求めに応じて呪術を行う出家者は一歩誤れば世俗的とみなされ、民衆の尊敬を得られないばかりか、批判を受けることもありうる」という。

*4:転輪聖王思想は、上座部仏教スリランカを経て東南アジア大陸部へと伝播するなかでローカライズされていき、転輪聖王とは仏教を庇護するために武力をも用いて四大洲のひとつ贍部洲を統一・支配する王へと変化していった」と、川口洋史「トンブリー朝シャムの王権像とその文献的背景に関する覚書 : 転輪聖王と菩薩」 https://nufs-nuas.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=952&item_no=1&page_id=13&block_id=17 は、書いている。

*5:伊藤信博「室町時代の食文化考 : 飲食の嗜好と旬の成立」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005411096 によると、「中世には赤米種および白米種、糯米種、粳米種もある『大唐米』(占城稲)が流入し、気候条件に左右されず、どのような土地でも育つことから、新田開発の条件にも適し、低湿地帯や水はけが悪く、常に湛水状態の土地や洪水時に湛水しやすい土地、高冷地で盛んに栽培された」という。この中世から近世にかけて、「インディカ米である大唐米」は、「西日本から南で、かなり多く栽培され、江戸時代でも、日本の殆どの地区で栽培されている」という。じっさい、「享保三年(1718)刊行の『御前菓子秘伝抄』には、大唐米を使用したお菓子(あられや餅)が、合計十五種類も記されており、この写本が作られた時代は、糯米といえば、畿内では、大唐米の糯米種を使用することは当たり前だったと想像できる」と、けっこうポピュラーだったようだ。

「技術」についてプラトン、アリストテレスから核ミサイルまで -村田純一『技術の哲学』を読む-

 村田純一『技術の哲学』を読んだ。

技術の哲学 (岩波テキストブックス)

技術の哲学 (岩波テキストブックス)

 

 

 内容は、紹介文にあるとおり、「これまで主題的に取り上げられることが少なかった『技術』について哲学の立場から考察」し、「技術に関係する多様な要因を探り出し、技術の実相に迫ると同時に、技術についての従来の考え方の底にある『哲学』そのものの再検討を行う」というもの。
 紹介文は随分と抽象的だが、勉強になる本ではある*1

 以下、面白かったところだけ。

プラトンと「自然と人工」

 プラトンがもちだすのが、自然物もある意味では技術的に製作された「人工物」(ただし神(ないし魂)によって制作された「人工物」)であるという論点だった。 (37頁)

 他から動かされずに自らを動かす始動の存在をプラトンは想定する。
 そして、自然もまた何かによって制作された人工物ではないか、というのがプラトンの言い分である*2
 「自然/人工」という枠組みを固定化せずにものを考えるには重要な指摘である。

アリストテレスと観想と「技術」

 目的論の最高位に位置する観想という活動は、一見すると何もせず、自然の動きを眺めているのみの無為な活動のように見えながら、実は、そのような活動こそ最も「活動的」で、最も幸福な生活を実現するものであることが強調されている。 (47頁)

 アリストテレスは、「科学」と「技術」のうち後者を低く見ていた。
 しかし、そうした発想は、彼の「技術」の「暴走」にブレーキをかけるものにもなった*3
 観想は、神学や数学、自然学(人の選択意思では左右されない必然的なもの)と結びつくことになった。
 「技術」をそうした「科学」が抑制する関係、それが、アリストテレスの中にはあることになる*4

科学と技術の共犯性

 科学は、真理自体を求める、という理念を掲げることによって、その研究の範囲、成果に関してまったく社会的関係から切り離されているかのごとくに研究を進め、その規模を拡大することができた。他方、技術は、そのような仕方でもたらされる科学の成果を無制限に手にする自由を獲得できる (93頁)

 科学と技術とが、形式的に区別された結果、逆に両者は実質的に結合を加速させた。
 ラトゥールの議論に則してそのように著者は述べている*5

自転車とジェンダー

 この型の自転車は、スピードがよく出たので若い男性にスポーツ用として好まれた。ただし安全面では優れたものではなかったため、とりわけ女性の使用にはふさわしいものとはいえなかった。言い換えると、この型は、ヴィクトリア風の道徳、慣習には合致したが、女性解放の流れには逆らう機能と構造を備えていた (108頁)

 ペニーファージングという前輪が超大きく、後輪が小さい自転車は、ジェンダー的な差別をその機能のうちに内在させることとなった。
 だがその後、自転車は改良され、「若い女性に戸外のレクリエーションの機会をもたらしただけでなく,サイクリングとその服装(ラショナル・ドレス)を通じて女性解放を促進」するようになった*6

科学技術の論争にひそむ「政治」の問題

 部分的核実験停止条約が締結され、核弾頭を装備したミサイルによる実験がまったく不可能になると、この論争はパラドクシカルなことには、「批判的な仮説」には不利なように、そして他方、その当時のミサイルには信頼できるという主張には有利なように決着された (121頁)

 核弾頭を備えたミサイルは、これまで別々にしか実験したことしかなく、その信頼性を疑う批判的な仮説が存在していた。
 それが、条約締結によって「決着」されてしまった。
 外在的な政治の問題が、科学技術の論争に影響した実例である*7

大量生産が欲望を生む

  自動車が最初に発明されたときに、馬車より速く走れる乗り物に対する社会的要請があったわけではない。 (142頁)

 フォードTなどが出来て自動車が大量生産され、多くの人がのるようになって初めて、自動車は今のような一般的な社会的要請を満たす機能を備えた乗り物、という「意味を獲得した」のである*8
 「必要は発明の母」という言葉に対して、ここにおいては、懐疑的にならざるを得ない。

「技術」の可謬性

 技術者は原理的に確実な知識はもちえない (151頁)
 技術者は自らの誤りをチェックするためにこそ、「他者」として、使用者を含めた技術者以外の人々の力を必要とする (同頁)

 某電力会社に聞かせてやりたかった言葉である*9

デューイと「成長」

 デューイにとって、成長とは、何かあらかじめ存在する固定的な目標を目指した運動ではなく、むしろ、そのつどの状況を越えて進む運動にほかならない (176頁)

 「成長」という言葉にある奥深さと可能性を、デューイから学びたいところである*10

 

(未完)

*1:技術というより哲学の本である。

*2:プラトンの自然(環境)観については、瀬口昌久「コスモスの回復 プラトン『クリティアス』における自然環境荒廃の原因」が参照されるhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120005973868 。『ソピステス』から「すべての死すべき動物およびすべての自然物が (中略) 生じてくるのは,まさにはかならぬ神の製作活動によるものであると,われわれは主張すべきではないだろうか。 (後略) 」という言葉を引用しつつ、「自然環境荒廃」に対する人間の責任を問うプラトンについて、論じている。

*3:中島秀人は、藤沢令夫を参照して、

アリストテレスでは観想知であったはずの科学が製作知的な性格を強めて技術と合体し,こうして合体した科学技術は,没価値という科学の建前を保ったままで, 「人間の生物的生存と行動の直接的な有効化・効率化という価値をそれだけで追究する,効率至上主義の価値観を体現」するようになっている

と述べる。そして藤沢の「『科学技術』がひたすらに盲進してきたために起こったさまざまなやっかいなトラブルを,いまになって何もかも『倫理』に押しつけてくるとは何かが根本的に間違っているのではないか.」という言葉を引用しつつ、「古代に水車の利用が制限されていたように,その利用を制限することは原理的には可能である」と述べている(「技術者の倫理と技術の倫理 ラングドン・ウィナーを出発点として」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005973745)。

*4:本書とは別の文脈であるが、こうした古代哲学が現在の工学の専門家に寄与する可能性が十分にある。『科学技術者の倫理』の著者・Charles E. Harrisは、工学の専門職として求められるものとして四つを挙げる。「①リスクの感受性をもつ」、「②テクノロジーがもつ社会的文脈への意識」、「③自然の尊重」、「④公共善(public goods)への参与」。そして

これらは、禁止的な命令ではうまく説明できない。技術者に必要なこれらの4項目を養うためには、従来の技術者倫理では不十分である。ハリスは徳倫理学がこれら4項目の促進に役立つことを主張する。彼はアリストテレスの『二コマコス倫理学』を引いて、5項目のポイントを指摘している

という。以上、瀬口昌久「工学を専攻する学生のための哲学教育」を引用、参照したhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120002834657 。続きはそちらで。 

*5:ラトゥールの考え方については、「自然・モノと人間とを区別することで、悪しきハイブリッドを生んできた(例:ハイブリッドモンスター:原子力発電所)それを隠して、自然と社会を純粋化することで、生産性を向上してきたのが今の社会である」と、こちらのブログ https://harunopolan.wordpress.com/2016/06/15/%E5%A1%9A%E6%9C%AC-%E7%94%B1%E6%99%B4-%E5%85%88%E7%94%9F%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%EF%BC%A0domus-academy/ で触れられている。

*6:荒井政治「サイクリング・ブームと自転車工業の興隆 19世紀末イギリス」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006490575 

*7:別のブログの書評http://tayatoru.blog62.fc2.com/blog-entry-819.htmlが本書132頁を引用しているように、

合衆国の大陸間弾道ミサイルに関する技術的な実験事実は、国際政治の状況を構成すると同時に、その状況によって構成されたのである。技術的製品が設計され製作された社会・技術ネットワークが安定し、正常な環境の一部となると、それらが持っていた政治的性質は隠され、沈殿し、暗黙的なものとなる。しかし、このことは技術が本来持っていた政治的性質が消滅したことを意味するわけではなく、むしろその政治的役割が自明になるほどうまく機能するようになったことを意味している

なお、この点について、著者は、Donald A. MacKenzieのThe social shaping of technologyを出典として挙げている。(以上、この註については、2019/12/25に追加訂正を行った)

*8:石川和男「合衆国における耐久消費財の普及と背景(1)自動車社会の基盤形成と初期の自動車製造を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005744844は、

Fordに代表される大量生産によって、奢侈品であった自動車価格を毎年引き下げ、一般大衆に手の届く製品となったことが、多くの人々の生活に変化を与える影響が大きかった。この背景には、耐久消費財普及モデルともいえるような割賦販売の普及や、販売チャネルの増加、さらにはマーケティングの影響があったことも明確にされている。一方で、自動車が与える負の影響については、既に学者を中心として主張する者も現れてはいたが、それほど大きな影響にはならなかった

と言及している。ただし、石川論文の強調点は、当時の自動車企業のマーケティングに関する問題なので注意。 

*9:吉澤剛・中島貴子・本堂毅「科学技術の不定性と社会的意思決定──リスク・不確実性・多義性・無知」http://www.sci.tohoku.ac.jp/hondou/0826/img/Kagaku_201207_Yoshizawa_etal-1.pdf は、次のように述べている。

この評価と管理の分離は,科学は事実を発見し,事実は技術を決定するというように,知識は必然的に単線的な軌道を進むという見方にもとづいている。しかしそうした狭い科学観によるリスク評価の概念をもって,ある技術に対するリスクが厳密に定量化されたとしても,その技術がもたらす便益はどれくらいか, (引用者中略) どこまでそのリスクに対する防護措置を講じるのか,といったことは相変わらず質的熟議を要する。 (引用者中略) 開かれた手法による参加型実践を通じてのみ,重要な社会的懸念に焦点を当てた政策評価がより効果的になるだろう。

そして、科学と技術は本質的に異なる営みとし、日本では歴史的経緯から違いがあまり意識されてこなかったために、「関わる専門家側も,その技術的判断の内実を十分認識していないためか,唯一の科学的解答のごとく社会に伝え,混乱を招きがち」であったとしている。

*10:山本順彦「『常に現在である』過程としての教育 : デューイ『経験』概念の教育学的検討」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009550238は、「連続性という観点から『経験』を捉えるならば」、それは「成長しつつあるもの(growing)」であり「動いていく力(moving force)」である、と、デューイにおける「経験」概念を説いている。「話すことを学習した子どもは、新しい才能を獲得するとともに、新たな欲求を持つようになる。しかし、また同時に、次の学習の外的な条件を拡大することにもなるのである。読むことを学ぶならば、同様にまた、新しい環境を開発する」といった具合である。

戦後日本の脳内麻薬、あるいは、日本文化のアヘンとしての「禅」 -山田奨治『禅という名の日本丸』を読む-

 山田奨治『禅という名の日本丸』を読んだ。

禅という名の日本丸

禅という名の日本丸

 

 内容は、紹介文にある通り、「弓・石庭・禅など、日本文化の情報がどのように外国に伝わり、それが日本にどのように環流して、日本文化を組み替えていったか。意表をつく視点から日本人のセルフ・イメージを探る」という内容である。

 「禅」という、日本文化を説明する際に便利すぎるこの言葉を疑う者には、必読の書である。

 とりあえず、面白かったところだけ。

仏教の教えに反している

 戦災にあった同国民の受け入れを拒否するのは、やはりどうかと思う。現代風にいうならば、「人道上の罪」というのだろうか。 彼が傾倒した仏教の教えにも反する。 (145頁)

 『弓と禅』の作者・ヘリゲルは、ナチ党員となって、戦前に出世し大学学長にまでなっている。
 しかし、戦後に書いた「弁明文」では「党員証なし」と偽って書いている。
 そして、彼は戦中に大量の難民受け入れを三度も断った*1
 そのことに対する著者の痛烈な批判が、引用した箇所である。
 ヘリゲルは己が修めたはずの仏教に反する振る舞いをしたというのだから。

入ってよかった龍安寺石庭

 石庭は、入ってもよかったのだ。 (180頁)

 造園学の権威・田村剛*2龍安寺の石庭を手放しに誉めたことが日本の庭園史での評価の一つのスタンダードになった。
 だが、その田村が、『造園学概論』(1925年)において写真で示した石庭は、熊手で掻いていなかった。
 そして写真には足跡のようなものも残っていた。
 著者はそこから、庭園には入ってよかったのだと推理する。
 じっさい、1799年に刊行された『都林泉名勝図会』にも、僧侶が石庭内に踏み込んだ姿が描かれている*3
 画像を見る限りでは、僧侶だけでなく、僧侶でない者*4も庭に入っている*5
 というか、熊手で掻いていなかったとは。

西洋化の波と鈴木大拙

 そもそも、西洋化の波を被らなければ、大学教育を受けた者が、在家のまま仏教を論じるという大拙の生き方そのものが、ありえなかったのではないか。  (316頁)

 先のヘリゲルの弓道に対する実践は、じっさいには禅ではなく阿波研造*6という人物の個人思想であり、ヘリゲルの『弓と禅』にはヘリゲル自身の創作に近い箇所すらある。
 だがヘリゲルと著作を日本人が好むのは、日本人が好むような日本の「古きよき伝統」をヘリゲルが見せたからである、と著者はいう。
 西洋人の禅理解の源は鈴木大拙であるが、彼の思想の大部分は西洋哲学への応答として形成された*7
 西洋を熱狂させた「禅」は、じっさいは明治の「新仏教」の産物であり、霊的経験の強調や制度的形式の軽視など、西洋人にウケた側面は、大部分は西洋に由来するものだったのである*8  *9
 そして、引用部にあるように、鈴木大拙の生き方自体が西洋化のおかげだったのである*10   *11

「禅」は日本文化のアヘン

 日本文化を生き物に喩えるならば、禅はトランキライザーのように外部から与えられた薬物ではないし、日本の封建的な部分に作用したのでもない。禅は、戦後の日本が外圧のストレスに直面したときに、多幸感を生む麻薬として自己生成したもの――「戦後日本の脳内麻薬」だったといったほうが、しっくりする。 (343頁)

 日本文化を何でも禅と結びつけてしまう悪しき傾向*12
 結果、多様だったはずの日本文化像がステレオタイプに押し込められ、窮屈なものになってしまう。
 そして、弓道や石庭は「禅」としか言えなくなってしまうのである。

 宗教が民衆のアヘンだという言葉に倣うのならば、ここでいう「禅」は日本文化のアヘンとでもいうべきだろうか。

 

(未完)

*1:ヘリゲルのナチスに対する協力ぶりについては、著者の論文、「オイゲン・ヘリゲルの生涯とナチス : 神話としての弓と禅(2)」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000509883を参照されたい。

 関根正美は、先の山田論文を踏まえつつ、「禅とナチス入党との関係は定かではない。あるいは両者は全く関係などなく,ただの偶然に過ぎないかもしれない」と述べている(「スポーツ哲学の先駆者たち(2)」https://ci.nii.ac.jp/naid/40019534261 )。以上、2020/10/8にこの項目について、追記・加筆を行った。

*2:重森三玲が作庭家になったのも、同郷の田村剛の助言を受けて作り始めたのがきっかけだったという。重森三玲自身が「予の枯山水三部作に就て」という1928年の記事で、そのように証言をしているようだ(鈴木誠ランドスケープ・デザインにおける『枯山水』の考察」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004307857 )。

*3:国際日本文化研究センターが画像を公開している。http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/rinsen/page7/km_03_04_019f.html 

*4:画像には「細川勝元」という名前が見える。

*5:龍安寺の石庭が禅と関係づけることが困難なことは、実際に本書を読んでご確認いただきたい。

*6:阿波研造は「禅にさえ距離を置いた」人である。一方、「皇国主義と軍国体制の結びつきに対する批判には思いも及ばなかった」と諸岡了介「時代の中の弓と宗教 : 阿波研造と大射道教」は言及している。https://ci.nii.ac.jp/naid/120005898774

*7:ロバート・H・シャーフの論文が参照されている。シャーフの論文は、日本語訳(ただし原文よりも短くしている。)が存在している。ロバート・H・シャーフ「禅と日本のナショナリズムhttps://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000002669050.html 

*8:それに対して、

近年、日本で進んでいる禅籍の思想史的解読の成果からみれば、初期の神会の禅も、唐の馬祖の禅も、宋の大慧の看話禅も、また、鎌倉時代道元の禅も、江戸時代の盤珪白隠の禅も、みな、それぞれの時代の必然性から生み出された、それぞれの時代の禅であった。今日では、20 世紀の大拙の禅も、その時代の相のなかで相対的に看ることが可能であり、また必要でもあるだろう

という、ステファン・P・グレイスの意見もある(「鈴木大拙の研究 : 現代「日本」仏教の自己認識とその「西洋」に対する表現」http://jairo.nii.ac.jp/0250/00022252 )。それについては一理あろうが、それが、大拙による、禅の日本文化への影響の過剰な誇張を正当化するものではないことは、言うまでもない。

*9:鈴木大拙の日本文化論に対して、戦後の早い時期に鋭い批判を放ったのは、梅原猛「日本文化論への批判的考察」であろう。ttps://twitter.com/hayakawa2600/status/1084581399649107968

*10:飯島孝良は小川隆臨済録』への書評において、「著者によれば,『唐代の有意味な問答が,宋代禅の際解釈によって言語と論理を超えた理解不能のものとされるようになり』,それが鈴木大拙等の『二〇世紀の禅言説にうけつがれていった過程』(22頁)があると」し、

大拙は昭和の激動の中で,その禅思想が資本主義とも共産主義とも共存し得ると口にし, 戦争問題を肯定もし否定もすることとなる。この点について著者(引用者注:小川隆を指す)は,「伝統的な禅の体験(禅を生きる)を知的意識(禅によって生きる)と接合することで近代社会との高次の連動をはたそうとした『即非』の論理,それは戦争という圧倒的で非情な現実の前に限界を露呈せざるをえなかった」

と述べている(飯島孝良「書評 小川隆著『臨済録 禅の語録のことばと思想』(内山勝利ほか編,『書物誕生 あたらしい古典入門』)」https://ci.nii.ac.jp/naid/40019006784)。本稿とは直接は関係しないが、鈴木大拙に対する、禅研究の専門家の意見として参照すべきと思ったので、ここで紹介しておく。

*11:元永常「鈴木大拙における禅仏教の論理と民族主義」は、大拙が「徹底的に伝統の教団制度を否定しようとした.この教壇主義を捨てることによって,大東亜戦争に参戦することの意義を見つけた」のであり、「仏教の制度的教団組織は,歴史的,政治的に意味はあるかも知れぬが,それ以上は出ない」と否定したのだというhttps://ci.nii.ac.jp/naid/110007131066。この主張が正しいとすれば、大拙は、西洋化の恩恵によってその立場を得て、その立場から戦争に参戦する意義を見つけたことになる。

*12:いうまでもないが、問題は禅自体にあるのではなく、何でもかんでも禅で日本文化を説明しようとするあり方に問題があるのである。念のため。

日本の戸籍に見る「機会主義 (あるいはご都合主義)」について -遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史』を読む-

 遠藤正敬『戸籍と国籍の近現代史 -- 民族・血統・日本人』を読んだ。 

戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人

戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人

 

 内容は紹介文にもある通り、「日本国家は歴史的に『国籍』のみならず『民族』『血統』といった概念を、戸籍という装置を用いて操作してきた。戸籍*1は近代日本においていかにして誕生し、国籍と結びついて『日本人』を支配してきたのか」をまとめたものである。

 「入籍」と言葉は養子縁組をも含む*2、ということや、旅券が国籍の証明として国際的に共通の制度となるのは第一次大戦後の出来事、など基礎(豆)知識として読むべきところも多い。
 戦後の朝鮮籍の話*3 や戦後の国籍選択の話題*4 、ドイツにおける血統主義の変化*5等も取り上げたいが、今回は大きく取り上げることをしない。

 以下、特に面白かったところだけ。*6

苗字と徴兵

 人別帳や寄進帳などには庄屋から水呑百姓に至るまで苗字の使用例が確認されており、苗字の使用は庶民の間でも幅広く定着していたことがうかがえる。また、庶民が苗字を公称出来ない代わりに、職業上の必要から屋号や芸名を個人の呼称として用いることもあった。

 著者によると、私的な使用であれば、江戸期にも苗字は使用されていたという。
 公称以外はできたようだ。
 また、苗字は、明治になって権利から義務となった。
 なぜか。
 著者によると、徴税・徴兵の為であったようだ*7

旧姓を維持せよ、と命じていた明治政府

 1876年3月17日、太政官指令 (略) 妻は夫の家に入ってからも旧姓を維持すべきものとされていた。

 じつは、家系を示すため、別氏を容認せざるを得ないという政府側の事情があったため、別姓を維持せざるを得なかった事情があった。
 じっさい、井上毅も1878年に、内務省への意見書案において、戸籍法によって戸内の氏姓を統一しようとするのは、慣習に適合しない、と理解していた。
 1890年の旧民法人事編も、他の家から来た人がその家の氏を称すべきという慣習は、「古代と大に異なる所」と、正直に認めているさえいるのである。
 しかし、「近代的な民法典の制定は、1870(明治3)年から始められ」、最終的に「1898(明治 31 年)年、民法親族編・相続編が成立した」際には、「氏は家の名称となり、『戸主及ヒ家族・其家ノ氏ヲ称ス』(746 条)と規定され、婚姻によって夫の家に入る妻は、夫の家の氏を称し、その結果として、夫家の氏による夫婦同氏となった」*8
 そして、「明治民法は、個人の識別機能を有する氏が家に属するかどうかによって決定されるシステムを採用したのである。 (略) 夫婦同氏の積極的な根拠は何ら示されていない。家の論理が全てであり、根拠を示す必要もなかったのである」*9

戸籍における歴史的な「差別」

 戸籍簿には「族称」の記載事項が設けられており、「元穢多」とか「新平民」なる記載が戸籍上に維持された。 (123頁)

 戸籍簿とはこの場合「壬申戸籍」を指す。御一新なるものの実態がこれである。
 著者はネット上の記事において、

1872年に全国統一戸籍として「壬申戸籍」が編製されたが、これは動乱後の秩序を回復する目的もあって警察的な観点が強く、身許調査も兼ね備えていた。「士族」「平民」といった族称、前科、氏神神社などの記載がそうである。とりわけ被差別部落出身者について「新平民」「元穢多(えた)」、アイヌについて「旧土人」などと記載するなど、差別の意図が明らかな記録もあった

と書いている*10
 上記のような明らかな差別的記載は例外的であったにせよ*11、族称の記入はその後も続くこととなる。
 新たに大正3年に制定された戸籍法においても、族称欄は維持され、「華族」・「士族」等は記入される状況が続いた。
 昭和13年になっても、「『族称』という文字が印刷されていない空欄に、大正三年戸籍法第一八条第三号どうり、華族士族の場合はその旨を記載し、平民は記載しない。その点では、大正三年戸籍法の原則が変わったわけではなかった」のであり、 昭和22年の「『民法の応急的措置に伴う戸籍の取扱に関する件』(民事甲第三一七)の第二『戸籍法中適用のなくなる条文』」まで、族称は事実上続いたのである*12

戸籍における「機会主義」

 戦前の日本は、日中二重国籍を駆使する台湾籍民を、「日本人」としての愛国心など望めないことも計算ずくで、日本の国策に利用しうる人的資源として便宜的に「日本人」としての地位を保障した歴史がある。 (286頁)

 詳細については、著者による論文「台湾籍民をめぐる日本政府の国籍政策の出立 二重国籍問題と清国国籍法への対応を中心として」*13が参照されるべきだろう。
 そして、

 国策として開拓民を異郷の地に送り込んだときには戸籍に縛りつけて「日本人」として扱い、戦後に帰国事業を打ち切って未帰還の「日本人」の戸籍を奪ったのが日本政府である。国家との政治的・精神的紐帯とされる国籍であるが、それは戸籍を介して機会主義的に操作される (261頁)

 本書の肝となる箇所である。
 戸籍における「機会主義」こそ、本書のキーワードである。

植民地支配における戸籍の使い方

 「同族」であるか否かの標識となる「姓」と「本貫」を戸籍簿上に記録しておくことは朝鮮人と内地人を識別する上で必要であったわけである。 (225頁)

 朝鮮を植民地化した際の話である。
 ここでいう本貫とは朝鮮半島におけるものであり、宗族やその発祥の地を指す。
 支配権力にとって、こうした処置は好ましかったのである。
 つまり、彼らが朝鮮人であると分かる「スティグマ」となったのである*14

  同化主義を徹底するならばすべての「日本人」の戸籍を一元化すべきであるが、これは内地人という支配民族の純血性と優位性を顕示する上で阻害要因になるという認識が日本政府の底流にあったのである。 (230頁)

 大日本帝国は同化主義を徹底せずに、こうした二級市民的な扱いを継続することとしたのである。

満洲国は独立国家?

 日本人、朝鮮人はいずれも満洲国にあっても戸籍に緊縛されることで「日本臣民」であり続けた。「日本臣民」の証しとなる戸籍は、満洲国でも不可侵の扱いとされた (224頁)

 満洲国での事例である。
 「日本臣民」も、満洲国の「民籍」への登録によって日本国籍を失うことは、なかったのである。
 結局満洲国は、「日本臣民」の処遇にかまけて、国民も国籍も創出できなかったということになる。
 満洲国の人間になっても、日本人と朝鮮人それぞれ戸籍で縛られていたというのだから。
 この辺の詳細については、著者による論文「満洲国における身分証明と「日本臣民」:戸籍法、民籍法、寄留法の連繋体制」が参照されるべきだろう*15

無国籍の防止を優先したほかの先進国

 日本が採択した国籍選択制度は、1977年のヨーロッパ理事会閣僚評議会における重国籍防止の決議に倣ったものとされているが、ヨーロッパでこの決議に従って国籍選択制度を採用したのはイタリアのみであり、そのイタリアも1992年にこれを廃止している。

 イタリアにおいても、1997年のヨーロッパ国籍条約(2000年発効)により、出生を原因として異なる国籍を取得した子供には、権利として当然に、重国籍を許容するものとなった*16
 とにかく、無国籍の発生防止が優先された結果である。
 日本の現状は遅れている。

韓国での実例

 2005年2月に憲法裁判所は戸籍制度について、個人の尊厳と男女平等の憲法精神に合致しないものと決定し、これを受けて同年3月民法が改正されて戸主制度が廃止された。(略)戸籍に替わる個人別編製方式の家族登録簿の起草に着手し、2007年5月に家族関係登録法が制定 (291頁)

 韓国のケースである。
 著者はある講演にて

韓国は独立解放後も、日本統治時代の戸籍を引き継いで、これを基盤とした戸籍制度がしばらくありましたが、2008年に廃止されています。現在は『家族関係登録』という、個人ごとに婚姻や養子縁組などいくつかのことを登録するという形になっています

としている*17
 「戸籍制度の持つ様々な矛盾は、韓国や台湾では1980年代後半以降の民主化の流れの中で問題視され、両国では事実上廃止された」のである *18
 戸籍廃止については日本が大いに遅れている。

 

(未完)

*1:著者も本書にて述べているように、日本の戸籍制度と他の国の制度との違いは主に、1.身分登録を個人ではなく家族単位で行っていること、2.出生や婚姻などの出来事ごとに登録するのではなく、出生から死亡まで統一的に記録していること、3.出生や婚姻、離婚、死亡などの範囲だけでなく、親族関係まで登録させること、などである。

*2:ちなみに著者によると、「養子縁組による当然の国籍変更を認める立法は、日本以外では中華民国 (略) 以外にその例を見ないものであり、入夫婚姻に至っては、制度自体が諸外国にはない日本唯一のものであった」という。まさに「イエ社会」である。

*3:吉田茂在日朝鮮人の者たちを「不良分子」呼ばわりしたことがあったが、著者は「その大半は戦前から日本に滞在していた者であり、祖国に引き揚げたものの、やはり日本で築いた生活基盤によるべを求めて再び渡日してきたケースが多かった」としている。この引用部は1955年に出版された森田芳夫『在日朝鮮人処遇の推移と現状』に依っている。この『在日朝鮮人処遇の推移と現状』について、外村大は、「日華事変以後の戦時体制下にあって、政府は、朝鮮人を集団的に日本内地に強制移住せしめる策をとった」、「労務管理の不当であったこと、また契約期間の延長で安定しないこと」等の記述があることに言及しつつ、当該書が「朝鮮人労務動員が本人たちの意思に反し暴力的なものであったことを、少なくとも否定したものではないことは確かである」としている(「朝鮮人強制連行―研究の意義と記憶の意味―」http://www.sumquick.com/tonomura/note/2011_01.html)。

*4:著者は、大沼保昭の著作を参照して、「ヨーロッパにおける戦後の領土変更における国籍問題への対応をみると、領土住民に国籍選択の自由を与えて解決を図っている」と述べる。そして、インド、パキスタンビルマオーストリアなどをそのケースとして挙げている。日本はそうした国籍選択の自由を与える措置をとらなかった。鄭栄桓「植民地の独立と人権 : 在日朝鮮人の「国籍選択権」をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005298916 は以下のように書いている。

松本邦彦によれば、日本政府・外務省は1946年1月ごろから対日講和条約の具体的検討を始めるが、当初、在日朝鮮人の国籍の問題は送還とセットで考えられていた。このため、在日朝鮮人国籍選択権を与え、朝鮮国籍を選択した者については日本政府が「退去を命ずる権利」を有するとする案であった。しかし、1950年7-9月頃に、在日朝鮮人共産主義者日本国籍を取得することを忌避した吉田茂のイニシアチブもあり、国籍選択権を認めず日本国籍の取得は国籍法による『帰化』のみとする方針へと転換し、国籍喪失措置が採られることになった。

反共主義者は度し難い。

*5:著者によると、「ドイツは1999年に国籍法を改正し、子の出生の時点で親の一方が8年以上合法的にドイツに定住しており、すでに永住資格をもっているか、または3年以上の無期限滞在許可をもっていれば、子がドイツ国籍を取得するものとした」という。血統主義だったドイツもこのように変化している。なお、渡辺富久子「【ドイツ】 国籍法の改正」http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8802176_po_02610205.pdf?contentNo=1 によると、その後、「国籍法が改正され、外国人の子で、ドイツで出生したことによりドイツ国籍を有するものが一定の要件を満たす場合には、成人後も二重国籍を保持することができるようになった」。

*6:なお、本稿では、「氏」や「姓」、「苗字」などの厳密な区別はあえてつけないこととする。

*7:二宮周平が、2011年12月5日付の「意見書」http://www.asahi-net.or.jp/~dv3m-ymsk/ninomiya.pdfにて述べているように、

明治政府は、国内統一及び不平等条約の改正などの事情から、強力な中央集権国家を建設する必要に迫られていた。治安維持、徴税(年貢から金納)、徴兵(国民皆兵)、義務教育などのために、国民の現況を把握する必要があり、その方法として、国民すべてを「戸」を単位に掌握しようとした(井戸田・前掲書 10 頁)。それが、1871(明治4)年制定の戸籍法である。

ここでいう「井戸田・前掲書」とは「増本登志子・久武綾子・井戸田博史『氏と家族』(大蔵省印刷局、1999)」を指す。そしてその根拠として、

1875(明治8)年、陸軍省は、『僻遠ノ小民ニ至リ候テハ現今尚苗字無之者モ有之兵籍上取調方ニ於テ甚差支候』(地方の庶民にはまだ苗字をもっていない者があるが、兵籍の取り調べに非常に差し支える)と問題を指摘し、『右等ノモノ無之様御達相成度……比段相伺候也』として、苗字を名乗ることの徹底を求めていた(1 月 14 日 陸軍省伺)。

と、当時の陸軍省の見解を引いている。徴兵は芳しく進んだわけでもないようだが、ともかくも、政府側の狙いは明快だったのである。

*8:同・二宮周平「意見書 2011年12月5日」http://www.asahi-net.or.jp/~dv3m-ymsk/ninomiya.pdf

*9:同上

*10:遠藤正敬「『真正なる日本人』という擬制――蓮舫議員の二重国籍と戸籍公開をめぐって」https://synodos.jp/society/20253/

*11:ただし、著者はある講演にて、

例えば「平民」という族称は、1938年の司法省民事局長の回答で、戸籍謄抄本には載せないようにとされましたが、通達とかは全国津々浦々に浸透するわけではないので、この民事局長回答が出た後もしばらくは、部落出身がわかるような族称を書いてしまって交付される事件も見られたようですね

と言及しているhttp://www.bango-iranai.net/news/newsView.php?n=214-2

*12:井戸田博史「戸籍用紙『族称欄』族称文字の削除」より。https://ci.nii.ac.jp/naid/110000479325

*13:https://ci.nii.ac.jp/naid/120002315175

 また、本論文に対する評価として、岡本真希子「2010年日本における台湾史研究の回顧と展望」(http://kgpublic.tsuda.ac.jp/view?l=ja&u=100000260&a2=0000001&sm=affiliation&sl=ja&sp=2&c=ronbn&dm=0 )も参照のこと。以上、2020/7/31に追記した。

*14:ただし、吉川美華「旧慣温存の臨界 : 植民地朝鮮における旧慣温存政策と皇民化政策における総督府の『ジレンマ』」は、

日本との違いを助長するために採用された旧慣温存政策は,1939 年までの約 30 年もの間,その基本方針を変更することなく維持することで,統治側と被統治側を慣習によって明確に分かつ役割を果たしてきた。同時にこの政策は朝鮮の慣習,つまりは宗族の組織的なネットワークの強化に強く作用した。そのため,総督府の急激な政策方針の転換によって皇民化政策が進められても,小手先の制度改正とプロパガンダでは数値上は政策成績は上がっても,その本質には作用せず,むしろ定着した宗族ネットワークの再編に利用されたに過ぎなかった

と、日本側のその後の「誤算」に言及しているhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120005690473

*15:髙希麗は次のように述べている(「日本における「国籍」概念に関する一考察 : 在外日本人の側面から (東アジアにおける法学研究・教育のための国際集会」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006366540 *一部註番号を削除して引用を行った。)。

満州国は、1932 年に独立国家として建国され、多くの開拓民である内地人が満州国に移住・滞在した。満州国では、別途国籍法・戸籍法の整備が計られたが、身分登録としての民籍法がおかれていた。満州国において日本人は、台湾の民籍への登録を推奨されていたが、これは満州国国籍ではなく、民籍への登録は日本国籍の喪失に影響するものではなかった。こうして、満州国においても日本人は「日本臣民」とされたのである

上の引用について、著者・遠藤「満洲国草創期における国籍創設問題  複合民族国家における『国民』の選定と帰化制度 」が参照されている。

 以上、2020/8/3に追記を行った。

*16:大山尚「重国籍と国籍唯一の原則 」は、「欧州評議会の加盟国の間では、1997年の「国籍に関するヨーロッパ条約」において、出生や婚姻により重国籍となった場合には、これを容認しなければならない旨の規定が設けられて」いるとしているhttp://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2009pdf/20090801103.pdf

*17:http://www.bango-iranai.net/news/newsView.php?n=214参照。また、「韓国も家族関係登録法が施行されてからかれこれ10年近くなるのですが、そんなに大きな混乱が起こったという話も聞きません」とし、

おもに女性から草の根の「戸主制度廃止運動」みたいなものが起きるのですね。韓国が1987年に民主化して以降、大統領選挙のときも民法・戸籍制度の廃止というのも争点になるくらいで、いわば下からの運動で盛り上がっていきます。そして2005年に韓国の憲法裁判所が、戸主制度は憲法違反であるという判決を出して、それで立法が動いて2008年に戸籍法が廃止になった――という経緯だったと記憶しています

と背景を整理しているhttp://www.bango-iranai.net/news/newsView.php?n=213

*18:清原悠「『区別』という名の『差別』――遠藤正敬著『戸籍と国籍の近現代史――民族・血統・日本人』(明石書店、2013年)に見る、『戸籍制度』の持つ矛盾」http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/week_description.php?shinbunno=3196&syosekino=8079

ハムのお寿司があったり、化調が裕福な家庭で使われたりしていた「戦前」 -魚柄仁之助『食育のウソとホント』を読む-

 魚柄仁之助『食育のウソとホント』を読んだ。

食育のウソとホント 捏造される「和食の伝統」

食育のウソとホント 捏造される「和食の伝統」

 

 紹介文にあるように、「『旬』だからおいしい? 『日本型食生活』だから健康? 『食卓の団らん』が日本の伝統?・・・教育現場にしのみこむ怪しい「和食」賛美を、膨大な文献資料をもとに検証」するという内容である。

 著者の文体は独特であるが、それに慣れれば勉強になることは大変に多い。

 以下、特に面白かったところだけ。

砂糖が手に入らなかっただけの話。

 「砂糖は体に悪いから使わない」のではなく、「無いから使えなかった」だった (73頁)

 シュガーレス時代の日本人は、天然の果実や酵母や、酵素などでつくられたもので甘味を楽しんでいた。
 砂糖は国内では大量生産ができなかったし、輸入もできなかった。
 その代わりに、果物、味醂、甘酒、麦芽糖などを料理に使うしかなかった、と著者はいう*1
 じっさい本書によると、近代になって上層階級から徐々に砂糖を使いだしているようだ。
 砂糖は伝統的に(江戸期までは)日本人は使用してこなかった、という主張をよく聞くが、著者はそうではなく、本当は砂糖を使いたかったのに砂糖が十分になかっただけだと主張しているのである。
 確かにこの主張のほうが、明治期になって一気に砂糖を使いだしていく理由をより説明できている*2

白菜の近代

 白菜は江戸時代末期に大陸から伝わって来たものの、人びとが食べ始めたのは明治末期頃からです。しかも中華料理にならって、炒め物や煮物から始まったようで、その後漬物に使い始めます。 (150頁)

 著者によると、日本に入ってきたころの白菜は、今よりもっと硬く、その後品種改良*3されて結球型で柔らかい白菜となった*4
 なので、白菜漬が可能になった。

 戦前、ハムのお寿司、化学調味料

 ①ハムとかパンを使った米以外の寿司も和食として受け入れられていたし

 ②カラスミもどきとか梨もどき、鶴もどきなどのもどき食品は和食の得意技だった

 ③腐敗を防ぐための化学薬品は大正時代にはもう使われていたし

 ④化学調味料も有名料理店ではこぞって使い、裕福な家庭でも使っていた (220頁)

 「食の戦前回帰」とか言い出した飲食店チェーンに対して、それは史実に反していると著者はいう。
 実際、ハムについては、小泉清三郎『家庭鮓のつけかた』という明治43年に出た本に記載がある*5

 「パンを使ったお寿司」については、著者が別の著書で言及している*6
 カラスミもどきは「唐千寿」という名前で知られているし*7、梨もどきは馬鈴薯でつくるものがよく知られている*8
 鶴もどきの場合、1783年の『豆腐百珍続篇』に既に豆腐を油で揚げた「賽鶴羹(つるもどき)」という食品が載っているようだ*9
 腐敗を防ぐための化学薬品は、明治36年以降の省令においては、着色料や防腐剤等の使用は一般に自由で,有害物として特に指示されたものだけがその使用を禁止」された*10
 化学調味料は実際、たとえば「味の素」の場合、「昭和2(1927)年に宮内省御用達の認可」をもらっているほどである*11 *12
 なお、就活でその某社の説明を受けた人によると、その会社、「アレルギーなどは戦後生まれた=化学調味料や人工調味料などが原因であるという考え」らしい。
 それは既に回答されているように、「『味の素』社の創業は明治42年(1909)、アナフィラキシーという用語が提唱されたのは1902年、アレルギーは1906年。アレルギーが戦後のものとか化調が原因とかは現代の迷信」である*13

(未完)

*1:味醂については、「明治から戦前にかけては、一部一般家庭での使用が始まりますが、まだ贅沢品であり、日本料理店で使用されることが多かったようです」と全国味淋協会は書いている。 https://www.honmirin.org/knowledge/

*2:なお、鬼頭宏「日本における甘味社会の成立 : 前近代の砂糖供給」によると、「推計された最初の年である1874年の1人当り年間の砂糖供給量はわずかに1.4kgで、100年後の20分の1でしかなかった。1人1日当りに換算すれば4gに満たない。これは現在、コーヒー・ショップで出されるスティク1袋(3ないし4g)に相当する分量」だったのが、「明治初期から60年あまりで、供給量は11倍に増加した」という。そりゃ砂糖を使うわな。https://ci.nii.ac.jp/naid/110007057569

*3:仙台の松島湾の島で改良された。

*4:清水克志「大正期の日本におけるハクサイの普及過程:需要の高まりと種子供給体制に着目して」によると、「明治前期には,政府によって山東系のハクサイ品種の導入が試みられたものの,それは内務省勧業寮と愛知県に限定されていた.ハクサイを結球させることが困難であったため,内務省では試作栽培を断念し,唯一試作栽培を継続した愛知県においても結球が完全なハクサイの種子を採種するまでに約 10 年の歳月を要した」。そして、「結球種のハクサイよりもむしろ,栽培や採種が容易な非結球種の山東菜がいち早く周知され,三河島菜などの在来ツケナより優れた品質のツケナとして局地的に普及していった」というhttps://ci.nii.ac.jp/naid/130005635849山東菜は確か埼玉が有名だったはず。

*5: http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848995 の、本のページ数でいうと29頁目にその記載がある。肉を巻いた海苔巻きである。

*6:『台所に敗戦はなかった: 戦前・戦後をつなぐ日本食』に対する書評https://www.honzuki.jp/book/240737/review/159673/によると、

サンドイッチが日本の家庭に入ってきたとき、ありあわせのもので、パパッとつくるところから、日本人は「寿司」(特に重ね寿司)との類似性を感じたようです。オープンサンドは「握り寿司」。戦前のコメ不足の日本(都市部)で小麦を使ったサンドイッチは和風化が進みます

とのことである。

*7:たとえばこれhttp://www.tikaokaya.co.jp/syoukai/karasenjyusyoukai.html

*8:関本美貴,島田淳子「大正末期から昭和初期におけるじゃがいもの調理 ( 5)炒め物」
https://ci.nii.ac.jp/naid/110009485621 等を参照。やはり戦前からある料理である。

*9:久井貴世,赤坂猛「タンチョウと人との関わりの歴史」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007348666

*10:1967年の小高愛親「食品添加物行政の動向について」によると、

明治36年には「飲食物防腐剤取締規則」が生まれ,昭和3年に漂白剤を取締り対象に加えて「飲食物防腐剤漂白剤取締規則」になった。いずれも飲食物に有害物が使用されることを防止する目的で制定された点については現在の食品衛生法にもとつく規定と同様であるが,これらの省令においては着色料や防腐剤等の使用は一般に自由で,有害物として特に指示されたものだけがその使用を禁止された

という。指定されたもの以外の防腐剤の使用は自由だったのである。https://ci.nii.ac.jp/naid/130004110041

*11:味の素特別顧問・歌田勝弘氏がそのように証言しているhttps://www.foodwatch.jp/strategy/interview/37130。また、坂口由之「業種別広告シリーズ第11回 食品①調味料類」にも、「宮内庁御用達品 味の素」と記載のある伊藤深水画のポスターが載っている。http://www.yhmf.jp/activity/adstudies/40.html

*12:尾崎直臣「食品消費の地域差 (第4報) : 化学調味料https://ci.nii.ac.jp/naid/110004678343によると、戦前、「化学調味料は次第に受け入れられていった」。「戦前においては1930年代の後半にピークに達し(「味の素」の生産量でみても1937年の3,750トンが最高である)」た。ただし、戦前の消費は戦後のそれにくらべると桁違いに少なく、戦後の場合、1993年時点で化学調味料の国内供給量は1968年以降、ほぼ7万トン台を保っている。これは魚柄の言うように、有名料理店や裕福な家庭ばかりが使っていたことと関係するだろう。

*13:こちらのやり取りを参照のことhttps://twitter.com/tricklogic/status/1026474553260691461

いっそ、もうずっと「平成」でいいんじゃないでしょうかね(てきとう) -浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』を読む-

 浅見定雄『にせユダヤ人と日本人』を読んだ。

にせユダヤ人と日本人 (1983年)

にせユダヤ人と日本人 (1983年)

 


 紹介文にある通り、「ベンダサンこと山本七平氏の世紀の詭弁師ぶり」を喝破した名著。
 ある書評にある、「イザヤ・ベンダサンこと山本七平の文章は、あまりにもメチャクチャで本来は読む価値もないのだが、たとえ論理的でなくても・事実誤認があっても、自らの主張と方向性を一致するならば良しとする『読みたいように読む』人々からの支持はいまだにあるらしい」*1という言葉は、最近の某書への一部読者の反応を想起させる。
 本書もぜひ、図書館で借りてでもご一読いただきたい。

 以下、特に興味深かったところだけ。*2 *3

皮なめし人のシモン

 新約聖書にも「皮なめし人のシモン」などという人物が登場する(使徒行伝九、一〇章)。彼は名前から考えてユダヤ人である。それなのに他のユダヤ人が彼を差別していたのである。ここでは「ユダヤ人」自身が「日本人」的差別の加害者である (72頁)

 ユダヤ人内部の差別が存在していたことを著者は指摘している。
 「この皮なめしという仕事はユダヤでは忌み嫌われたようです。なぜなら、動物の死体をいつも扱っているからです。これは日本でも同じです。そしてこれが部落差別の一因となったと言われています」という或るキリスト者の言葉の通りである*4 *5
 その指摘をすることで、著者はベンダサン=山本七平を批判しているのだが、山本ベンダサンがどんな「ウソ」をついたのかは、本書をお読みいただきたい。*6

不評を買った英訳 

 ユダヤ人のふりをした日本人がぺテンで日本人をくすぐりつつ日本の現状肯定と再軍備をあおったこの本の英訳を、まず東京で作ってみた。ところが肝心のユダヤアメリカ人から不評を買って (中略) 「本国」アメリカでは売りものにならなかった。(166頁)

 例のベンダサン本の英訳についての話である。
 荒唐無稽かつ人種差別的な個所を削除して出版したことでおなじみのベンダサン本英訳の話である*7

靖国国営化反対と宗教団体 

 そこの信徒の多くは、日頃は自民党支持者です。その人たちが、あの戦前の国家神道の復活とその強制、そして自分たちの宗教への弾圧、そういう事態の再来だけはごめんだと反対した。だから自民党内部にもきわどいところでブレーキがかかったのです。 (177頁)

 ベンダサン=山本七平とは話題が少し離れる。
 靖国国営化(靖国神社法案)反対の件である。
 法案提出が初めてなされたのが1969年、最終的にとん挫したのが1974年である。
 仏教やキリスト教の宗派・団体のほか、PL教団などを加盟団体とする新宗連も、靖国国営化に対して反対した。
 じっさい、「新青連(新日本宗教青年会連盟)は七四年の参議院議員選挙直前に、始めて大衆的な靖国反対の大デモンストレーションを行い、また楠氏自身もそのデモの先頭にたったのである。ある意味ではこの新宗達の動きは靖国神社法案の死命を制する上で最も大きな役割を果たしたのである」*8
 この「楠氏」こと楠正俊は、新宗連の選挙支援を受けた自民党議員であった。

元号の変更はもうやめよう 

 「元号」も、明治以前は同じ天皇の代に何度も変わることがざらでした。 (略) 明治天皇の前の孝明天皇の代などは、二十一年間に何と六回、平均して三年半に一回の割で改元 (略) そうかと思うと、天皇の代が変わっても全然改元のなかった例もあります(淳仁、称光、明正、霊元の各天皇)。 (略) 仲恭天皇など、たった四歳で即位させられたものの、ニヵ月少々でやめさせられたため、新しい元号をひとつも持ちませんでした。  (同頁)

 日本史をちゃんと勉強した人は知っているだろうが、歴史的には、元号の変更と天皇の即位とはそこまで密接なつながりがあるわけではない。*9
 肝心なのは、天皇の代が変わっても改元しなかった例があることである。
 ただし、著者の意見は必ずしも正確ではなく、それぞれざっくりと調べた限り、淳仁の場合は即位も退位も改元なし、称光は即位後十年以上経過してから改元、明正は即位も退位も改元なし、霊元は在位途中で数度改元となっている。
 ともあれ、歴史的には、新しい天皇が即位すればその年に改元する、というわけでもないのである。
 昨今の混乱を見るに、何十代も元号を続けていく試みをすれば、民間での対応等もより楽になるのではないかと思う。
 もうずっと「平成」でいいんじゃないでしょうかね*10

 

(未完)

*1:https://bookmeter.com/books/183785の「北条ひかり」氏の評。

*2:なお、読んだのは朝日文庫版ではなく、オリジナル版のものである。よって、頁番号はオリジナル版の方である。

*3:本書には、井上純一の論文「反セム主義のステレオタイプ」(筧文生編『国際化と異文化理解』法律文化社、1990年)も参照されるべきであろう。

 この註は、2020/3/28に追記した。

*4:日本キリスト教団・逗子教会のホームページより。http://zushikyokai.holy.jp/sermon/ser_160626.html。 なお、ものみの塔 オンライン・ライブラリー(エホバの証人)では、「タルムードでは皮なめし工が,糞を集める者より低い階級とされていました。シモンは,その仕事でいつも動物の死骸に触れていたので,儀式上は絶えず不浄な状態にありました。(レビ記 5:2; 11:39)」と詳しく言及している。https://wol.jw.org/ja/wol/d/r7/lp-j/2011408 

*5:皮なめしの職業が当時、差別を受ける職業であったことについては、例えば大宮有博「ルカ文書の描く『越境する宣教』」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110002556593 )の36頁なども参照。以上、この注について、2020/10/15に追記を行った。

*6:ところで、「ベンダサン」を「ペンダサン」を間違いそうになるのだが、https://ci.nii.ac.jp/naid/40005126588で、こういう間違いを発見した。タイプミスなのだろうか。また、イザヤ・ベンダサンといえば「百人斬り競争」の件だが、こちらのサイトにも「イザヤ・ペンダサン」という表記が見受けられる。内容には異論なしなのだが。http://www.geocities.jp/yu77799/nankin/hyakuningiri/kaimaku.html

*7:「『私の日本人の友人K氏』がシカゴ大学留学中に一人のユダヤ人を含む学友たちと旅行に行き、さるホステルに泊まろうとしたところ『そこの主人がこのユダヤ人に、お前はユダヤ人だからとめてやらないと言った。K氏は彼の外観が他の人びととほとんど区別がつかないので不思議に思い、その主人にたずねたところ、『いや、においでわかる』といったという』というエピソードが語られ(119-120頁。ちなみに浅見氏によればこの部分は『日本人とユダヤ人』の英訳(笑)ではそっくり削られている)」とApeman氏が言及されている箇所https://apeman.hatenablog.com/entry/20060320/p1のことである。

*8:中島三千男「今日における政治と宗教」(1980年)の48頁参照 https://ci.nii.ac.jp/naid/120002693068 。こちらの論文では、「有事立法や靖国問題をめぐる右派教団と新宗達との間にはひらきがあるし、また新宗達加盟教団内部での幹部層と一般信者や青年層との問のひらきがあるであろう」と言及している(同55頁)。

*9:一世一元の制は明治時代からであることは言うまでもない。この件については、瀧井一博「元号法再読」が、「一世一元の制の確立は、伝統の継承ではなく、新たな伝統の創出であった。その意味するところは、江戸時代に天皇の唯一の権限と認められてきた元号制定権の剥奪である」と言及している。https://ci.nii.ac.jp/naid/120006415491

*10:まあ、元号法を廃止、もっといえば、天皇制を廃止すればいいだけなのだが。なお、元号法については、坪井秀人「僕が元号を使わない理由」にあるように、「一九七九年に成立公布された元号法という法律があるが、それは元号を使えとは言っていない。 (略) 国民や官公庁に対して元号を使用せよと強制する法的根拠はどこにも存在しない。官公庁の使用も慣行に属するし、政府(具体的には参議院での質問に対する一九八七年当時の首相中曽根康弘の答弁)の見解も、元号使用は〈国民への協力〉を呼びかける域内にとどまる」という点が重要だろう。https://ci.nii.ac.jp/naid/120006415488 

レオナルドの手稿に記されている発明品が、彼独自の発想とは限らない -片桐頼継『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』を読む-

 片桐頼継『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』を読んだ。 

レオナルド・ダ・ヴィンチという神話 (角川選書)

レオナルド・ダ・ヴィンチという神話 (角川選書)

 

 紹介文にあるとおり、「自らは画家を称したこのルネサンスの巨人は、しかし、いっさいフレスコ画を描かず、一方で、完成された作品の数に比して膨大な素描・スケッチの類を遺した」、「素描、それを駆使して生きた、『イメージ・クリエーター』としての人間レオナルドを描き出す」のが本書の狙いであり、その狙いは成功しているように思う。

 以下、特に面白かったところだけ。

 

 すでに親方

 ヴァザーリがこの作品を理由にレオナルドを早熟と評していることが誤りであることは、すでに諸研究者の指摘するところであり (33頁) 

 ヴェロッキオとの共作「キリストの洗礼」は有名である。
 だが、実際には、その作品の完成時、レオナルドは既に修業を終えて画家組合に登録されたころであるという*1
 ヴァザーリの紹介するエピソードで、レオナルドが「とりわけ早く画家としての成長を遂げたという証拠にはなりえない」。

 先人から学ぶ

 レオナルドは一種の自動車のスケッチを残しているが、そうしたアイディアの原型はすでに一四世紀に現れていて、そのスケッチも現存している。 (14頁)

 傘のような形状のパラシュート的なモノ、水上歩行器、潜水具などの「発明」も、彼よりも年長のシエナのフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニによって、ほぼ同じタイプの道具が既に「発明」されていたらしい。
 じっさいスケッチが残っている*2
 この人はミラノに赴いて大聖堂のクーポラを設計しており、レオナルドもその時に、彼に接触している。
 レオナルドの手稿に記されているモノが、彼の発想とは限らない、という一例である*3
 また、「レオナルドの素描画に登場する機械は、当時の技術力では実現不可能であり、製作したとしても欠点が多い想像上での機械であった」*4

 レオナルドの構想は太古の遺産の研究に基づくもので、彼は古代の文献を読んで有益な情報を得ていた。 (127頁)

 これも同様である。
 舞台を回転させる、回転運動で構造物を開閉させる、といったアイディア自体は、すでに古代ローマ時代に製作されていた*5 *6。 
 ただ、どんなふうに作っていたのかは定かではなかったため、具体的なことはレオナルド自身が考えるしかなかったのである。

逡巡の男 

 レオナルドは先人たちの作品を入念に観察し、するどく分析していた。なにがすでになされ、どのような表現の可能性が残されているのか。解決すべき問題はなにか。(169頁)

 彼は、先人の仕事を入念に観察して、仕事をするタイプだった。

 たしかに物事を冷静かつ正確に把握しようという態度がそこにはある。しかし当時の職人社会では、そのために仕事が遅れるようでは役に立たなかったのだ。 (37頁)

 重大ではないものについても克明なスケッチとメモを残すレオナルド。
 この性格は、彼を生涯苦しめることとなった。*7
 一方、先輩のボッティチェッリや後輩のミケランジェロは、手早くあらゆる仕事をこなした。

 完全主義と優柔不断が相まって、制作に入ってもまだ全体の構図が決まらず、習作素描を何枚も描いてはあれこれ試行錯誤を繰り返し、制作途中で構図を大幅に変更することさえある。 (161頁)

 レオナルドには、いつでも好きな時に筆を入れて書き直しができる画法が必要だった。
 そんな彼にとって、フレスコ画は不向きだった*8 *9
 緻密な筆致に基づく描写を得意とするレオナルドには、フレスコ画は向いていなかったのであろう。

後世への影響

 レオナルドは西洋美術史上、馬の表現をもはや完成させてしまったといっても過言ではない。 (212頁)

 レオナルドは馬が大好きで、素描やスケッチを若い頃から沢山残している。
 その影響は後世の画家に及び、ラファエロからルーベンスまで、馬の表現の基本は、レオナルドに負っている*10
 後世に与えた影響は相当大きかった。

 レオナルドは、素描家・製図家として、完成された作品とは別の文脈で、彼の存命中から確たる定評を得ていた (236頁)

 レオナルドの素描は、ラファエロが模写するなど、早くから画家の手本として注目されていた。
 そして、15世紀からすでに、彼の素描や図は他の画家によって模写され、版画化されて普及し始めていた。
 そうした点においては、やはりレオナルドはすごい男だったのである。

イメージ・クリエイター

 現在ならばいわばクリエーターとしてそうしたさまざまな場でアイディアを練っては実現することに彼が愉しみを感じていただろうことは、彼が残した数多くの素描やスケッチからも明らかである。 (117頁)

 レオナルドはミラノ宮廷で、舞台芸術から、舞台衣装、祝宴での衣装や小道具、ヘアデザインなど、総合デザインをしていた。
 この舞台では、「甘美で優雅な歌や音楽がふんだんに奏でられていた。レオナルドが得意とする自動機械を使ったこの見事なスペクタクルは、ヴェネツィアフィレンツェナポリ、フェッラーラ、パリ、教皇国等に、それぞれの大使からその光景が伝えられたという」*11
 ただし、その舞台の内容は、「様々な本を読んでも、なんだか抽象的で、一体どんなすごい演出をしたのかさっぱりわかりません」というのが正直なところだ*12

モナリザと複眼視 

 <ジョコンダ>は3D画像であり、複眼視までも考慮に入れた視覚的なシミュレーションなのである。 (227頁)

 あまり油絵について言及していないので、一応触れておく。
 レオナルドは、単なる鑑賞目的で絵画を描いたのではなく、三次元空間を記述するための完成されたシステムを求めたのだという。
 スフマートの技法も、複眼視を考慮している、と著者は書いている。 
 著者は、「ジョコンダ」は、実在の人物を描いたというよりも、レオナルドの頭の中で合成・再構成された存在であり、背景にある風景も、実在の自然を写したのではなく、自然を再構成しようとした試みであるとしている*13

 スフォルツァ城の博物館(余談) 

 まるで進化の過程をたどった古代生物たちの標本を見ているような気持になる。それほど現代人の常識からするとずいぶん風変わりな楽器が並んでいる (141頁) 

 当時のミラノは楽器大国でもあった。
 スフォルツァ城は現在、博物館となっており、沢山の楽器が展示されている。
 そこに陳列されている楽器の大半は、発展途上で現れては消えていったものである。*14

(未完)

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*1:「キリストの洗礼」の制作を1473~75年とすると、それ以前の1472年に「フィレンツェの画家組合(聖ルカのギルド)に登録」されているので、彼は駆け出しだったとはいえ、いちおうは親方であった。https://kotobank.jp/word/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%81%28%E5%B9%B4%E8%AD%9C%29-1614700 彼はすでに6年以上の修業を経験していたことになる。

*2:パラシュートについては、https://www.alamy.com/pen-and-ink-drawing-showing-a-man-with-a-parachute-della-providentia-della-chuera-early-16th-century-source-add-34113-f200v-language-italian-author-martini-francesco-di-giorgio-of-siena-image227157838.htmlで発見できた。

*3:ロベルト・ティロースィ「謎なきレオナルド」(講演) https://ci.nii.ac.jp/naid/110008151268 は、「レオナルドは、産業革命による技術革新を待ってはじめて実現可能となった数々の発明をおこなった天才科学者としての名声を得るようになるのである。彼が残したデッサンには、飛行機やパラシュート、ヘリコプター、戦車といった先駆的な技術的発明案を見ることができるが、これらの装置が現実のものとなるためには、それから4世紀もの時を待たなければならなかった。20世紀になって、レオナルドが画家としてよりも科学者として名声を得るようになったのは、まさにこれらの発明のためである」としているが、本書はそうした言説に論駁していることになる。

*4:http://suacleonardo.blog130.fc2.com/blog-entry-31.htmlより。この文は本書を参考文献として書かれている。

*5:レオナルドは、プリニウス『博物誌』からアイデアを得たようだ。

*6:なお、2017年の熊本大学の研究によると、「ギリシア演劇とローマ演劇では、いずれも回転する舞台装置が存在したことが古代文献で明らかになっています。このようにメッセネの劇場で今回新たに発見された石列と収納室は、ヘレニズム期の劇場に移動式の木造舞台が存在した可能性が極めて高いことを示す重要な遺構であることが明らかになりました」とのことである。https://www.eurekalert.org/pub_releases_ml/2017-07/ku-m071117.php

*7:そう考えると、彼は職人としては向いていない面があったかもしれない。「芸術家」としてはともかく。

*8:下地の漆喰がまだ乾かないうちに手早く塗らなければならないからである。実際、最後の晩餐はフレスコ画ではなくテンペラ画である。

*9:コスタンティーノ・ドラッツィオ『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』(河出書房新社、2016年)にも、レオナルドは順序だって、思慮深く作業をする作家ではなかった旨、書かれている(177頁)。

 以上、この註は2020/4/7に追記した。

*10:ルーベンスによる「アンギアーリの戦い」の模写はよく知られている。なお、久保尋二は、『アンギアーリの戦い』について、ルーベンスの中央部のコピーは、直接レオナルドの壁画からなされたのではなく、フランス滞在時に誰かのコピーからなされたと考えられるという(「レオナルド年代記」(『芸術新潮』1974年5月号、新潮社、25頁)。

 また、Phillip John Usherの著作 Epic Arts in Renaissance Franceは、ルーベンスの絵は、Lorenzo Zacchiaの版画を基にしているという(当該書68頁)。

 以上、この註は、2020/3/28に追記した。

*11:https://ameblo.jp/davinci-codex/entry-10531124686.html。余談であるが、七つの惑星(を模した人間)が登場する舞台で音楽が鳴るのは、当時の音楽観によるものだろう。「古代ギリシャより、天体の運行が音を発し、宇宙全体が和声を奏でているという発想があり、これが『天球の音楽』と呼ばれた。その響きはきわめて大きいが、つねに鳴り続けているため人間の耳には気づかれないとされる」http://artscape.jp/artword/index.php/%E5%A4%A9%E7%90%83%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD。つまり、当時の考えでは宇宙には音楽が鳴っており、それを舞台で表現したものと考えられるのである。たぶん。 

*12:http://sugimatamihoko.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-33cf.html

*13:著者はこの2003年の本において、モナリザ=ジョコンダ説が一応の通説として、<ジョコンダ>という表記を選んでいる。近年の説だと、「モナリザ=ジョコンダ夫人ではなくパチフィカ・ブランダーニ夫人」というロベルト・ザッペリの説が出ており、研究者の斎藤泰弘もその説を認めているようだhttps://plaza.rakuten.co.jp/rkadono/diary/201707300000/。あと、斎藤の「背景に描かれている風景こそは、 (略) 地球物理学的モデルを絵解きしたものだ、という解釈」も興味深いところだ。 

*14:こちらのブログがたいへん詳しいhttps://oiseaulyre.exblog.jp/25089973/ 、 https://oiseaulyre.exblog.jp/25089985/ 、https://oiseaulyre.exblog.jp/25089990/ 。確かに風変わりで素敵な楽器ばかりである。