「アジアのルソー」は本当にラディカルな人だった(天罰論批判とか。) -戸崎哲彦『柳宗元 アジアのルソー』を読む-

 戸崎哲彦『柳宗元 アジアのルソー』を読んだ。

柳宗元: アジアのルソー (世界史リブレット 人)

柳宗元: アジアのルソー (世界史リブレット 人)

 

  内容は紹介文にある通り、「中国唐代の思想家柳宗元は、安史の乱後、動揺する政治を改革しようとした一派のオピニオンリーダーでもあった。改革に失敗し追放されたあとも『生民は国家・君主に優先する』『君主は人民に推戴される』という政治思想を貫いた。その人となり、思想のありようを追う」というもの。

 柳宗元のラディカルさを知るにはオススメの一冊。

 以下、特に面白かったところだけ。

天罰論の誤り

 古代の聖人の御世で一〇年に九回の水害、八年に七回の旱魃があったが、天はことごとく聖人を懲罰したのか、これが柳の弁であった。  (24頁)

 柳宗元は、当時の上司にそのように言い返した。
 "統治"の責任は行政長官たる上司にあって、土地神ではない、と。*1 *2
 どっかの天罰論者に行ってやりたいセリフである。
 天罰論については諸々書きたいこともあるが、それはまたいずれ。*3 *4

中国の「天皇機関説」?

 官僚制は、さまざまな用具・部品が規則に従って機能していく装置である。 (引用者略) 「君」もそのなかの一つであり、最高に位置するが、「官」と同じ、さらには (引用者略) 「器」にすぎないのであって、すでに血統として一個人に付着したカリスマ性によるものでも、一個人の私物でもない。 (78頁)

 柳宗元にとって、君主は天皇機関説の機関みたいな扱いである。*5 *6

諸葛亮

 民にとっては劉も曹もない。したがって諸葛亮は、「劉宗(劉家による漢王朝の再興)を私するに匪らず、唯だ元元を活かさんのみ」で行動すべきであり、ただ臣下として劉家のために尽忠した私的な使用人にすぎず、結果として多くの部下や民とその生活が犠牲となった。唐でも理想的忠臣として廟祀されていた第一級の英霊を冒涜する所以である。 (80頁)

 これは柳宗元ではなく、呂温の意見である。*7
 ここでいう「元元」は人民を指すものであろう。
 諸葛亮は民のために仕事をすべきであったのに、劉家のために尽忠した私的な使用人として働き、けっか多くの民や部下が犠牲となった、と。*8
 厳しい、しかし、間違っていない意見である。

 

(未完)

*1:柳宗元の「天」観は、「天の運行と人事の営みは, まったく別々」とするものであり、

それぞれの功績は自らの実績であり, 禍も自ら招いたもので, 賞罰を天に求めることが大きな間違いであり, 天を呼んで願いが聞き入れられず恨んだり, 天が哀れんでいつくしんでくれることを願うことなどはさらに大きな間違えであると言える

というものである(宮岸雄介「中唐の古文思想にあらわれた儒学の新傾向 : 韓愈と柳宗元の対話の一断面」https://ci.nii.ac.jp/naid/40019300588 )。

*2:なお、笠原祥士郎によると、後漢王允は、「悪政が行われても災害に見舞われないどころか、堯の洪水や湯の旱魃の例から明らかなように「聖君の世」にも時には災害が発生することがあるのだ」と言う考えだったという(「王充における天と人」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006605598 )。ただし、王允の考え方は、

しかし他方で、限定的範囲内で人間が「陰陽の氣」に何らかの影響を及ぼし「氣」の調和や不調和を齎すことは認めていた。その意味では、董仲舒の天人感応思想のうち神格的・人格的天の働きは否定したが、「天の氣」による天人の自然感応は王充も支持したこととなる

とあるように、あくまでもあくまでも人格的な天の否定がメインであった。以上、柳宗元の思想的源流を考えるうえで重要と思ったので、書いた次第である。

*3:ブログ・「ひじる日々」の記事http://naagita.hatenablog.com/entry/20110924/p1 によると、

パーリ仏典の註釈レベルでは、生命にかかわる現象の要因は、気象(自然環境の変化)、種子(生殖・遺伝)、心(心理的働き)、業(善悪の結果をもたらす自覚的行為と結果)、法(無常・苦・無我、因縁により変化し続けるという法)、の五つに分別できる(五決定)とされています。/このうち広義の「震災」(おそらく末木先生が仰っている「震災」に近いと思います)には心と業の問題が関わってくることは確かでしょう。いわゆる「心と行いの問題」ですね。仏教では霊的存在も含む自然界の一切生命との関係を重視しますから、そこで「震災」を受けて、荒れてしまった一切生命との関係を結び直す儀式を行う、というのは仏教的な文脈ではしぜんな流れです。 (引用者中略) 佐藤剛裕さんがサンガジャパン6号で紹介したように、ダライ・ラマ師が震災犠牲者の法要で「大地の主と四大の女神たちへの供養文」を読んだというのも、仏教的にしぜんなプロセスでしょう。

とのことである。「震災」に対する仏教の考え方(パーリ仏典による)は、実際はこのような感じである。仏教と天罰論が必ずしも結びつかないことを知るうえで重要なものと思うので、ここに引用しておく。それにしてもこの考え方、どこか、先の王允の「天」論に近いな。

*4:例えば清水幾太郎は、渋沢栄一のような「天譴」論(≒天罰論)の被害を被ったようだ。

しかし、私は、平静な気持ではなかった。いや、仮に笑われなかったとしても、もし先生の説明を受け容れるならば、このクラスで私だけが天物暴殄の罪を犯して、私だけが天譴を受けたことになるのではないか。

以上、清水幾太郎地震のあとさき」より(ブログ・「鵜の目タカの眼」からの孫引きhttp://takakist.cocolog-nifty.com/otibohiroi/2011/03/post-9d4e.html となる。)。

*5:もちろん、天皇機関説は、国家が法人として統治権を持ち、天皇はその法人の最高「機関」である、という説であって、柳宗元の発想はその点とは関係を持たないのであるが。

*6:國分典子は、美濃部の天皇機関説(というか国家法人説・国家有機体説)について、次のように述べている(「美濃部達吉の「国家法人説」 : その日本的特殊性」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005893794 )。

その時々の多数の心理によって正義の内容が変化するということであって.そこにはなお国家のなかに存在する個、あるいは少数者に対する保障は含まれていない。つまり、個人のために国家権力を制限する絶対的な基準は何ら示されていないのである。ここに美濃部の理論の上杉、穂積らの国家論と親近性、国民精神への信頼がみられる。こうして、日本の有機体論および法人説に内在する保守性は、美濃部においても基本的に踏襲されているのである。

美濃部の天皇機関説がもつ「弱点」であった。

*7:なお、戦前の白河鯉洋(次郎)の『諸葛孔明』(敬文館、1911年)も、呂温の『諸葛武侯廟碑』を高く評価しているようである(294頁)。

*8:著者・戸崎自身の論文によると、以下のとおりである(「最澄と陸淳(下)"邊州"の儒佛交渉と陸淳門下およびその韓愈門下との相反」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006599657 )。

「生人」主義者は天命思想を顛覆させただけでなく、当然、忠臣・臣民の儒教的伝統価値をも倒壊させる。呂温「諸葛武侯廟記」はかの諸葛孔明の英霊をその廟前にて面罵する。 (引用者略) 孔明がその身を挺して仕えて世に称される“忠”などというものは劉氏一家のための“私”による愚行に過ぎず、民を救済し民心を収攬せんとする“公”より発した義挙ではない。

排仏論者だった韓愈が僧侶から「カウンセリング」を受けるに至るくだりとか、実に面白いので、是非ご一読を。

ウォール・オブ・サウンドの録り方、あと、録音マイクの「距離」などについて -中村公輔『ロックのウラ教科書』を読む-

 中村公輔『ロックのウラ教科書』を読んだ。

 内容は、紹介文の通り、「録音機材の進化と、破天荒なエンジニアが生み出したブレイクスルーを詳細に解説。名盤をより深く聴くための、リスナー向け録音マニュアルがついに登場。ロックのウラを知りたいあなたのための1冊」というもの。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

ウォール・オブ・サウンドの秘密

 一発で演奏したものをミキサーでまとめているだけで、楽器は多重録音ではないのです。 (26頁)

 フィル・スペクターの録音方法について。
 演奏者を集めて、マイクをたくさん立ててミキサーでまとめて、ダイレクトにレコーダーに録音していた。
 真近にあるマイクだけでなく、隣接した別の楽器用のマイクにも音が漏れて録音され、それが重なり合って壁のように聴こえるのがウォール・オブ・サウンドだという。*2
 ディレイされた別の楽器の音が一つあたりのマイクに入ってくるわけである。

マイクの距離で大きく変わる

 欧米の場合は例えば、セックス・ピストルズのレコーディングの際にエンジニアのビル・プライスはマイクを15センチの距離に。もうちょっと空間の音までパッケージして奥行きを出したいスティーブ・アルビニは30センチの距離に。 (引用者中略) 入り口のところで空間演出までした上でのマイク・アレンジをしているようです。やっていることはいたって普通ですが、この辺をしっかりやるかどうかが最終的な出音で差になって現れる気がしますね。 (140頁)

 ピンク・フロイドの楽曲を、アラン・パーソンズがエンジニアとして担当した際は、マイクからの距離は1.2メートルだったという。*3
 一方日本だと、基本はスピーカーのグリルにべた付けが多いようだ。
 そして、空気感がほしい場合は、後処理のエフェクトで対処してしまう。
 この差が、大きく出てしまうという。

ドラムンベースと『キャッチ・ア・ファイア』の共通性

 1990年代に流行したドラムンベースと同じ仕組みですね。ドラムをサンプラーで録音し 、千切ってからピッチを上げて再生、がら空きになった重低音のスペースに、ベースを唸るような低さで入れるというのがドラムンベースのシステム (168頁)

 のちのドラムンベースの方法を、ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズの『キャッチ・ア・ファイア』はすでに実践しているという。
 たとえば「コンクリート・ジャングル」の場合、クリス・ブラックウェルが、ロックと同じようなテンポになるようにテープの回転数を上げている。*4 *5
 その結果、楽器のピッチが上がり、バスドラの音も上がった結果、ベースの低音が目立つようになった(さらにイコライザーを使って目立たせた)、ということのようだ。*6
 ベースの低音を大いに生かすためには、ベース以外の低音は削らざるをえないのである。

テクノとロックの意外な関係

 当時はロック系のリスナーやミュージシャンは、電子楽器を嫌悪すろ向きもありましたが、それでも彼らが受け入れられて爆発的に売れた理由として、ギター・アンプを通っているためテクノでありながらロックの延長線上で聴けたことがあげられると思います。 (254頁)

 ケミカル・ブラザーズエイフェックス・ツインマッシヴ・アタックなどのテクノ系の人たちの話である。
 当時のこうしたアーティストは歪みを取り入れており、ギター・アンプに通した音作りをしていたのである。*7
 それによってできた音は当然ロックファンにもウケた、というわけである。

 

(未完)

 

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*1:密林のレビューに「編集者の手腕もあると思うが、ターゲットが広いのか、狭いのか、どっちつかずな印象は拭えません。」というものがあった。この部分はあっていると思う。

*2: ブログ・「『心の扉』Vol.2」http://t-akagi.hatenablog.com/entry/2015/02/15/160145によると、

では、どのようにしてスペクターはあの重厚なサウンドをつくったのか。答えは”人海戦術”とでも言えば良いのでしょうか?ギターを4人、パーカッション4人、ピアノ2人、ベース、ドラム、サックス等々十数人のミュージシャンをスタジオ内に押し込んで一発録りをして作っていました。

とのことである。参考文献として、キングズレー・アボット音の壁の向こう側 フィル・スペクター読本』が挙げられている。

*3:ジェイク・シマブクロは、アラン・パーソンズをプロデューサーに迎えてレコーディングした時のことを次のように語っている(「ニューアルバム『GRAND Ukulele』とは」http://www.kamakaukulelejp.com/feature/grand_ukulele1.html )。

楽器の目の前にマイクを配置しなかったエンジニアと仕事するのは初めてだったんだ。おもしろいんだけど、彼は楽器の上と下にマイクを置いたんだ。一本のマイクは僕の右耳のそばで、楽器のボディーの上にあって、もう一本はネックの下にあって上向きに配置して。こういう形でレコーディングをする人に出会うのは初めてだったから、本当に驚いた。 (引用者略) 彼が録った音は、アコースティックでウクレレを弾いている時に僕自身に聞こえているサウンドそのものだったから。これまで、レコーディングのサウンドはライヴのものとは別物なんだと受け入れてきたから、彼のおかげでそのギャップが縮まったし、驚くような経験だった。

エンジニアとしてのアラン・パーソンズのすごさを語るエピソードとして引用した次第である。

*4: 「uDiscoverJP」の記事(「ボブ・マーリー『Catch A Fire/キャッチ・ア・ファイア』」https://www.udiscovermusic.jp/essentials/bob-marley-catch-a-fire )の記事によると、次のような感じだったらしい。

ボブ・マーリーがロンドンに戻り、マスターテープを引き渡すと、クリス・ブラックウェルはその出来に満足せず、すぐさまプロデューサー役を取って代った。クリス・ブラックウェルはセッション・ギタリストであるウェイン・パーキンスの演奏をオーバーダブで加え、アレンジやミックスに手を加え、ベースが強すぎるところを和らげた。彼は、バンドのルーツに忠実でありながらも、当時のメインストリーム・ロック・マーケットでも通用するよう、サウンドを整えたのだ。

ベースが強すぎるところを和らげた、というあたりが、本書の内容と齟齬をきたしているような気も。

*5:牧野直也は、「コンクリート・ジャングル」のアイランド版とオリジナル版を比較して、両者のテープ速度の差は少ないとし、オリジナル版がゆっくり感じられるのは、歌いなおしたヴォーカルのスピード感の違いなどに由来すると考えられる、と述べている(『レゲエ入門』音楽之友社、2005年。140頁)。牧野の考えがおそらく正しいと思われる。以上、2021/2/25に追記を行った。

*6:ちなみに、英語版ウィキペディアのCatch a Fireの項目によると、クリス・ブラックウェルが手を加える前のマスターテープは、8トラックあった。

Engineer Sylvan Morris put the songs on eight-track tape, and allocated tracks with the drum mixes on one track and piano and guitar together on another.

もし本書の説が正しいとしても、実際はもっと単純な話であって、バスドラのほうは、スネアやハイハット等ほかのドラム音とミックスされた状態だったため、イコライザーで低音を目立たせるのを断念しただけ、という可能性も、なくはないような気もするのだが。

*7: sanodg(佐野電磁)氏は、「ケミカルブラザーズが全てのサンプルネタを一度ギターアンプで鳴らしマイクで拾った」と耳にしたとのことである(出典は、https://www.wikihouse.com/sanodg/index.php?%C5%B4%B7%FD3%20%2F%20Tekken3 )。

 また、 Brian Tarquin の " The Insider's Guide to Home Recording: Record Music and Get Paid " には、ケミカル・ブラザーズは、セカンドアルバム・『Dig Your Own Hole』で、ギター用エフェクターを全般にわたって使用した旨が書かれている。

利休は何がすごかったのか、そして織部には何が継承されたか -矢部良明『古田織部の正体』を読む-

 矢部良明『古田織部の正体』を読んだ。

古田織部の正体 (角川ソフィア文庫)

古田織部の正体 (角川ソフィア文庫)

 

  内容は、紹介文にある通り「千利休亡きあと茶の湯の天下一宗匠となった古田織部。侘びから一転、豪快にして軽妙洒脱な織部焼をはじめ、茶の湯に新奇の流行を巻き起こした武将織部の数寄の極致と、慶長年間の乱世を生きた実像を描く」という内容。
 織部の実像を、厳密に史料批判をして堅実に描いている良書。*1

 以下、面白かったところだけ。*2

利休は何がすごかったのか、そして織部

 現在の通念では、茶碗と建盞・天目を上格とし、単に茶碗といった場合、その他もろもろ以下雑多の下格を十把一からげにした呼称であった。 (引用者略) もともと室町時代の正統の茶の湯では、和物の道具は一体に低く評価されていた (引用者略) ところが千利休が出て、唐物中心の名物茶碗ではなく、新たに茶碗を創案して安価にて多くの茶人に供給し、かつ正統の茶の湯の美学だけは備わっていなくてはならないと考えるにいたって、日本の創作茶碗が建盞・天目を超えて正格の茶碗と認知されることとなった。 (92頁) 

 よく知られた、利休の画期的な功績の話である。*3
 また、茶碗や花入や水指、建水などにも、利休は工夫を凝らした。
 室町時代茶の湯の価値観からすれば、茶壺や茶入れ、墨跡や釜などが第一級であり、茶碗や花入などはそれ以下の扱いとなっていたが、第二級のそれらにも、利休は光を当てた。
 そして著者曰く、織部はそうした師の「画期」の方向性を受け継ぎつつ、師のコンセプチュアルな「不易」の茶の湯ではなく、ファッショナブルな「流行」の茶の湯を志したとする。
 二人の連続的な面と断続的な面である。

茶の湯は、「貧乏プレイ」

 もともと茶の湯は大金持ちの道楽であったし、常にその趣きをもって今日におよんでいる。特に武野紹鴎が指導した天文年間(一五三二五五)から弘治・永禄・元亀年間を経て天正十年まで、豪華一点張りの会席料理が風摩 (引用者中略) 天正十年、六十歳の還暦を迎えた千利休は、忽然と質素倹約の支持もあって茶人たちを納得せることに成功した。世にいう「一汁三菜」の思想である。これについても『山上宗二記』は、「会席の料理は、金品をかけて、一見、粗末を装うようにせよ」と記す。ここには、利休思想の本音と建前が見え隠れする。 (218頁)

 利休の茶の湯改革は、あくまでも大金持ちの数寄者が主役であった。
 利休は、質素さを強調したが、あくまでも、それは「装い」であった。
 茶の湯は基本、そういう「装い」の芸であった。*4

織部と武人の茶

 織部発案の鎖の間はこうして、武家式正の茶席として江戸幕府のもとにあって確定したのであった。室町時代の唐物尊崇の歴史が鎖の間で蘇ったのである。その基本態をセットしたのもまた、織部であった。ここに武将茶人織部の面目が映っている。/かぶく時代相のもとで、創意にふけって人心を酔わせた魔術師・織部ではあったが、 実は、唐物を主体にした武家式正の古典茶の湯を復活させるという一面もあったことは、忘れることはできない。 (250頁)

 けれん味あるイメージでとらえられがちな織部だが、とうぜん武人であり、こうした側面を持っていた人である。*5 *6

(未完)

*1:利休と織部の近代における受容については、依田徹『近代の「美術」と茶の湯』が大変興味深い。この本によると、利休が、現在のような「茶の湯の中心的存在」として語られるようになるのは昭和期から(長谷川等伯に対する評価の上昇とも相関しているという)であり、織部が再評価されるのは戦後からのようだ。

*2:織部のことについては、ブログ・「なにがし庵日記」が本書(の原本版)書評https://plusminusx3.hatenadiary.org/entry/20090313/1236898166 を書いているので、ぜひそちらをどうぞ。

*3:趙容蘭は次のように言及している(「数寄道具の一考察 『山上宗二記』の茶道具目録を中心に」(PDF)http://www.japanese-edu.org.hk/sympo/upload/manuscript/20121015074859.pdf )。 

茶の湯の始まりは、厳しい茶の湯美学の原理に従って中国到来の唐物が主役だったが、侘び茶の時代になってその美意識が深化され、千利休の目聞きによって和物の道具や朝鮮の道具にも意味を与え、数寄道具が名物以上の価値を持つようになった。これは唐物が大流行して所有者が急増し、輸入の限界による唐物の品切れ現象の対応する新しい試図としても解釈できる

*4:石塚修によると、「明治期に「金持ちの貧乏人ごっこ」と揶揄された茶人たちのあり様を、西鶴は早くに認め、活写している」という(「『西鶴諸国ばなし』巻五の一「灯挑に朝顔」再考 茶道伝書との関係を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000840731 )。やはり、茶は「プレイ」なのである。

*5:四国新聞」の2016年9月15日付の報道https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/print.aspx?id=20160915000399 によると

武将で茶人の古田織部(1615年没)の親族の家譜に、徳川秀忠織部に格式を重んじる武家流の茶法を定めるよう命じたとする記述があることが15日、古田織部美術館(京都市北区)の調査で分かった

ちなみに秀忠は、ブログ・「なにがし庵」https://plusminusx3.hatenadiary.org/entry/20140412/1397262834 によると、

織部の直弟子で、自分の代で徳川の茶の湯を完成させ、終了させてしまった男。/旗本の子孫の方々が、茶の湯の正統を千家や遠州石州でなく、秀忠で終わったと認識しているのもむべなるかな、という事なのかも知れない。

という感じの人である。

*6:ただし、神津朝夫『茶の湯の歴史』によると、武家以外でも同時代において鎖の間は使用されているという(当該書204頁)。また、武家がみな、いつも鎖の間を使っているわけでもないようだ。

「軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし」と、荷風は書いた。 -三谷太一郎『人は時代といかに向き合うか』を読む-

 三谷太一郎『人は時代といかに向き合うか』を読んだ。

人は時代といかに向き合うか

人は時代といかに向き合うか

 

  内容は紹介文にある通り、

近代日本の形成に関わった政治家、科学者、宗教家、文芸家等のそれぞれの時代との交渉を追跡し、政治史家としての研鑽に裏打ちされた著者の同時代観を提示する

というもの。
 
 以下、特に面白かったところだけ。

スペンサーの意に反した「家族国家論」

 したがってそれは、本来「家族国家論」とは正反対の趣旨であった (100頁)

 スペンサーの思想は日本近代に大きく影響を与えることとなった。

 例えば、穂積陳重家族法の議論等への影響は大きかった。

 しかし、スペンサーは、産業社会の発達に伴って、家族の持つ教育的機能が国家に簒奪されることを憂慮し、その見地から家族の復権を説いていた。
 スペンサーは国家教育とその発達に批判的(反義務教育論)で、そうした国家教育が、家族による道徳教育を後退させたと考えていたのである。*1
 スペンサーが森有礼に日本の家族制度の尊重を説いたのはそうした見地においてであって、これは日本の「家族国家論」とは正反対であった。*2
 しかし皮肉なことに、スペンサーの見解が、穂積の「祖先崇拝」・「家」の重視を正当化し、「家族国家論」に貢献することとなった。

グナイストの「仏教国教化」提案

 グナイストは、日本は仏教を国教とすべきだと具体的な勧告をした。 (引用者略) ところが、憲法起草者である伊藤は、既存の日本の宗教の中には、ヨーロッパにおけるキリスト教の機能を果たしうるものは見出すことができないと見たわけです。すなわち伊藤によると、日本においては宗教というものの力が甚だ弱い。 (引用者略) そこで、「我国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ」という断案を下す。  (254頁)

 結局、グナイストの案は、伊藤によって採用されることはなかったのである。*3 *4
 なお、信教の自由(プロイセン憲法第十二条)は日本の憲法ではなく法律に入れるべきだともグナイストは勧告している。

 信教の自由を封じやすくしようとする措置であろう。 

軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし

 ある待合の女将が陸軍から、陸軍の半額出資で北京において陸軍将校用の慰安を目的とする料理屋兼旅館を開設するようすすめられた。このことを、その女将から直接にきいた荷風は、次のように感想を記している。「世の中は不思議なり。軍人政府はやがて内地全国の舞踏場を閉鎖すべしと言ひながら戦地には盛に娼婦を送り出さんとす軍人輩の為すことほど勝手次第なるはなし。」 (303頁)

 もちろん、永井荷風の『断腸亭日乗』の記述である。
 一九三八年八月八日付である。*5 *6
 随分な優遇である。

(未完)

*1:図式的に言えば、スペンサーはリバタリアン(より正確には古典的自由主義者)だったのである。

*2:スペンサーの実際のスタンスは以下のとおりであるようだ。

彼(引用者注:スペンサーのこと)が絶対に伝えたかったメッセージは、新しい夜明けをもたらすために弱者・不適者は取り除くべきだということではなく、個々人が一生懸命努力して未来の世代が約束の地にたどり着くために必要だと思われる習慣を身につけることなのである。彼のメッセージは、このような未来の状態をもたらす共同の営みではなく、自己改善の有効性に関する完全に反政治的なメッセージなのである

以上は、藤田祐「バーカーの呪縛? スペンサー解釈の論点」(https://researchmap.jp/fujitayuh/を参照 )からの引用であり、Michael W Taylorに依拠したものである。 

*3:林淳は、

国家の公的な儀式は、必ず仏教の形式でとりおこない、仏教以外の宗教の聖職者は平民として扱うべきであるという。グナイストは、カトリックはかつてプロイセンでも禁止になった事実を付け加え、その危険性を説いた

としている(「近代日本の 「 信教の自由 」」https://zenken.agu.ac.jp/research/48/09.pdf )。また、

日本の場合、近代国家の強制力によって脱・伝統宗教化が押しすすめられ、その結果として世俗的国家が実現した。世俗的国家になったが故、天皇ナショナリズムが、公共空間のなかで醸成されやすい条件が整い、国民統合の求心力として機能した

と林は述べる。林の説によるならば、「国家神道」という言葉より「国家的イデオロギー」といった用語が、より似つかわしそうである。

*4:先の註で、林が参照したグナイストの主張(「グナイスト氏談話」)について、これが誰に向けての談話だったのか、という問題に関しては、堅田剛「ルドルフ・フォン・グナイストの憲法講義 『グナイスト氏談話』を読む」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005978129を参照。 

*5: 荷風の一九三八年八月八日付の言葉を引用した石田憲は、一九四一年六月一五日の日記もまた、引用している(「文学から見た戦争 エチオピア戦争と日中戦争をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005929238 )。

日本軍は暴支膺懲と称して支那の領土を侵畧し始めしが、長期戦争に窮し果て俄に名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用ひ出したり。……然れどもこれは無智の軍人ら及猛悪なる壮士らの企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。国民一般の政府の命令に服従して南京米を喰ひて不平を言はざるは恐怖の結果なり。……元来日本人には理想なく強きものに従ひその日その日を気楽に送ることを第一となすなり。今回の政治革新も戊辰の革命も一般の人民に取りては何らの差別もなし。

石田論文は、日伊両国の文学者の戦争に対する姿勢を比較しており、興味深い内容である。ご興味あればぜひ。

*6:但し、そんな荷風でさえ、一九三一年一一月一〇日時点では、次のように述べていた。「今日吾国政党政治の腐敗を一掃し、社会の気運を新にするものは盖武断政治を措きて他に道なし、今の世に於て武断専制の政治は永続すべきものにあらず、されど旧弊を一掃し人心を覚醒せしむるには大に効果あるべし」(以上、『摘々録 断腸亭日乗http://hgonzaemon.g1.xrea.com/dannchoutei.htmlより孫引き)。

「千島のおくも おきなわも 八洲のうちの まもりなり」、近代日本の帝国主義と「蛍の光」 -伊藤公雄ほか『唱歌の社会史』を読む-

 伊藤公雄ほか『唱歌の社会史』を読んだ。

唱歌の社会史: なつかしさとあやうさと

唱歌の社会史: なつかしさとあやうさと

 

 内容は紹介文にある通り、「『唱歌』という、今までにはあまり類のない視点から読み解く日本近現代史」であり、

今も人々に愛唱されている唱歌の数々を例示しながら、唱歌の成り立ち、植民地政策のなかで歌われた歌詞、戦後の占領政策のなかで黒塗りされた軍国的な歌詞、また官製の唱歌に対抗した『童謡』などをいとぐちに、国文学、社会学、法制史学、また詩人の立場から、近代日本の社会史を広くみていきます

という内容である。
 唱歌に興味のある人、あるいは、日本の近現代史に興味のある人は、読んでみてほしい。

 以下、特に面白かったところだけ。*1

蛍の光」と帝国主義

 『蛍の光』を研究していて、一番衝撃的だったのは、沖縄に行き、第二次世界大戦における沖縄地上戦の激戦地に建立された『平和の礎』を訪れたときのことです。 (60頁)

 記念公園の中にある「沖縄県平和祈念資料館」を見学すると、その最初に唱歌蛍の光」と軍国主義との関係を告発する展示があったという。
 実際、「蛍の光」の4番の歌詞が問題であった。

千島のおくも おきなわも やしま(八洲)のうちの まもりなり いたらんくにに いさおしく つとめよわがせ つつがなく

 その後、大日本帝国の領土拡張にあわせ、文部省の手で「蛍の光」は何度か改変されている。*2

 一方朝鮮半島では「蛍の光」のメロディーは、抗日愛国歌として歌われた。*3

単純な「別れの歌」ではない

 国への忠誠を求めた国家義的な歌詞です。曲はやさしいけれども、この詩はとても勇ましい。この歌詞のままでは、戦後の「蛍の光」の拡がりはありえなかったでしょう。 (124頁)

 再び、「蛍の光」の4番の歌詞についての話である。*4
 大正期には、この歌詞が普通に受け止められており、当時の人々は到底、「別れの歌」と単純化することはできなかっただろうという。
 そして、ドラマ「マッサン」のような描写は当時現実には無理だっただろう、と著者は指摘する*5

口語化と帝国

 定番となった歌の改作まではしていなかったのです。しかし、いよいよ戦争が始まったときに、一気に口語に統一していったのです。 (151頁)

 「春の小川」は1942年に口語に変更になった。*6
 口語はわかりやすいが、そのわかりやすさを、兵隊の予備軍として少国民を育成するために使った時代があったのである。*7

 

(未完)

*1:引用したのは結果的に、すべて中西光雄執筆・発言部分だけであることを、あらかじめお断りしておく。ちなみに、中西氏は中西圭三の兄上であり、本書にも弟が登場している。本書は中西圭三ファンの人もぜひどうぞ。

*2:

琉球処分によって、琉球藩を日本に強引に編入沖縄県としたのは一八七九(明治十二)年のことであった。稲垣が、音楽取調掛に任命され、唱歌の作詞に着手したのは 一八八〇(明治十三)年のことだから、実に血なまぐさい政治的ニュースを唱歌の歌詞に詠み込んだことになる。 (略) やがて「蛍の光」四番出だしの歌詞は、台湾で歌われるべく「千島のはても台湾も」と、日本の植民地支配の実態にふさわしい歌詞に改変され、一九〇五(明治三十八)年のポーツマス条約で北緯五十度以南の樺太が日本領となった後に「台湾のはても樺太も」とさらに改変された。

以上は、永澄憲史「唱歌の社会史 なつかしさとあやうさと」からの、中西光雄『「蛍の光」と稲垣千頴』の孫引きである。なお、永澄は、本書の著者の一人でもある。

*3:実村文によると朝鮮半島での「蛍の光」の扱いは以下のとおりである(「英詩における賛美歌・聖歌・民謡」https://ci.nii.ac.jp/naid/40005885655 )。

朝鮮半島では,「蛍の光」のメロディーにまったく別の歌詞がつけられ,なんと抗日愛国歌として歌われていたのである。 (引用者略) 「蛍の光」改め「愛国歌」は,現在でも韓国で唱歌として親しまれており, 日本においてと同様、この歌がスコットランドに起源をもつことなど,あまり自覚されていないそうである。むしろ, 韓国のナショナリズムを代表する歌として,「韓国映画では, 日本の要人を暗殺する場面で必ずと言っていいほど使われるテーマ音楽」になっているという

*4:なお、「蛍の光」の作者である稲垣千穎については、本書著者の一人・中西光雄の手になる丁寧な解説が、本人のブログにあるのでぜひご覧いただきたい。「蛍の光の作詞者 稲垣千穎」http://mid-west.cocolog-nifty.com/blog/2008/03/post_e65a.html 

*5:ブログ・「たーさんの公私記ブログ」によると、件の連続テレビ小説の、「第21週~22週では、一馬の出征にあたり、『蛍の光』とその原曲である『オールド・ラング・サイン(Auld Lang Syne)』を歌うシーンが度々登場」するとのことである。なお、「スコットランド在住の方に質問したところ、出征の際には『オールド・ラング・サイン』は歌わないであろうという回答でした。一般的には新年を迎えるときやパーティーの締めに歌われるそうです」とのこと(以上、http://tarsan.txt-nifty.com/official_note/2015/03/post-3c31.html を参照した。)。

*6:レファ協http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000244413 によると、

「春の小川」は高野辰之作詞、岡野貞一作曲。1912(大正元)年12月15日刊行の『尋常小学校唱歌 第四学年用』所載。1942(昭和17)年3月30日刊行の『国民学校初等科音楽(一)』収録の際、国民学校初等科3年では、口語体でなくてはならないと、文部省が林柳波に命じ改作した。

とのことである。参考にされた文献は、レファ協の当該ページを参照。

*7:ところで、

「すみれ」や「れんげ」は春の季語でも、「めだか」は夏の季語である。「春の小川」という言葉から春の情景であることは間違いなく、もはや季語に固執せずに作詞を行っていることが窺える。

と、佐藤慶治は指摘している(「明治期の唱歌歌詞における「日本の美」 : 季語とナショナル・アイデンティティhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120006502444 )。たしかに、メダカの季語は夏である。

結局のところ「聖徳太子」って何がスゴかったのか、というような話。 -東野治之『遣唐使』&『聖徳太子』を読む-

 東野治之著『遣唐使』と『聖徳太子』を読んだ。(厳密には再読なのだが)

遣唐使 (岩波新書)

遣唐使 (岩波新書)

 
聖徳太子――ほんとうの姿を求めて (岩波ジュニア新書)

聖徳太子――ほんとうの姿を求めて (岩波ジュニア新書)

 

  内容は、それぞれ紹介文にある通り、

国家の使節として、また留学生・留学僧として海を渡った人々は何を担い、何を求め、何を得てきたのだろうか。遣隋使と遣唐使を統一的にとらえる視点から、七、八、九世紀の約三百年にわたる日本古代外交の実態と、その歴史的な意義を読み解いていく

 

誰もが知っているのに、謎だらけの存在、聖徳太子。偉人か、ただの皇子か、「聖徳太子」か「厩戸王」か…、彼をめぐる議論は絶えません。いったいなぜそんな議論になるのでしょう。問題の根っこを知るには、歴史資料に触れてみるのが一番。仏像、繍帳、お経、遺跡などをめぐり、ほんとうの太子を探す旅に出かけましょう


 というもの。
 それぞれ実証を踏まえて書き記されている新書である。
 後者は手堅い実証を踏まえつつ、そこから中々大胆に踏み込んだ仮説を立てているように思うが、やはり読んでみてほしい一冊。
 以下、各々面白かったところだけ。

「日出づる処」とは東のこと

 かつては「日出づる処」と「日没する処」という対照的な言い回しに、倭の隋に対する優越意識を見る解釈が普及していた。この説明は一見まことしやかだが、「日出づる処」「日没する処」は仏典の『大智度論』(巻十)に使われている表現を借用したもので、「東」「西」の文飾に過ぎず、とくに優劣の意味は込められていない (『遣唐使』、25頁)

 「日出づる処」というのは「東」の文飾(仏典由来)であって、優劣の意味はない、というのが著者の説である。
 そして、怒ったのは「天子」という名乗りであったとする。*1

遣唐使船が難破する政治的背景

 出発や帰国の時期を自由に選ぶことが許されなかったことに大きな原因があった。そのような条件に拘束されない遣渤海使の往来では、季節の気象条件を利用して、成功率の高い航海が逹成されているし(上田雄『渤海使の研究』)、九世紀の外国商船の往来には、日本人が同乗することも多かったのに、目だった遭難が起こった様子はない。渡海で水没、遭難した人々の多くは、国際政治や外交の犠牲者だったというべきだろう。 (『遣唐使』、100頁)

 なぜ遣唐使の船は頻繁に水没、遭難したのか、という話である。
 端的に言えば、政治的理由で水没していったのである。*2 *3

太子の「功績」①:否定の論理

現実を肯定してなんの疑問も持たない当時の人々にとって、こう明言することは革命的なことだったでしょう。 (『聖徳太子』、114頁)

 世の中のことは空しく仮のもの、仏法だけが真実、という聖徳太子の主張である。*4
 それは伝来当時の人々には革命的だった。
 家永三郎が『日本思想史に於ける否定の論理の発達』において、現実を超えて心理を探る否定の論理は太子に始まる、と論じているほどである。*5

太子の「功績」②:女人成仏

 その法華経を広めた太子に、女性たちの信仰が集まったのはよく理解できます。 (『聖徳太子』、203頁)

 橘三千代などの女性たちは、太子が法華経などに通じ、女性の救済に思いが深かったことを理解していた。
 本来、阿弥陀浄土へ往生できるのは男性だけであった。
 しかし、法華経の一章を占める薬王菩薩本事品には、女性も男子に変じて往生できると説かれていたのである。
 女性を救う法華経、そしてその法華経を広めたのが太子、となれば、信仰が集まるのも道理、というわけだ。*6

 

(未完)

*1:河上麻由子『古代日中関係史』(中央公論新社、2019年)は、この「天子」という名乗りについて、仏典に由来した用語であり、菩薩天子(仏教を尊ぶリーダー)という意味だったとしている。河上はすでに2013年にはこの説を提示しているようで、それを参照したウェブページ「日本史のとびら」の記事http://www2.odn.ne.jp/nihonsinotobira/sub6.html は、

煬帝が倭の国書に不快を示したのは、中華思想の「天子」を倭王が僭称して対等外交を求めてきたからでなく、仏教の後進国たる倭の王が、仏教先進国の隋の皇帝と同じく「天子」を名乗ったことに原因があったと考えられるのです。

としている。

 もっとも、さかのぼると、河上は既に2004年時点で、自説(の原型)を提出してはいるのだが(河上「遣隋使と仏教」https://ci.nii.ac.jp/naid/110002366011 )。 

*2:佐藤信弥(先生)も、本書『遣唐使』書評https://blog.goo.ne.jp/xizhou257/e/7149f92fdeb02cab3e1f880993216285で以下のように書いている。

遣唐使船は従来考えられていたのよりも高度な技術により建造されていたことが明らかになってきた。遭難が多かったのは朝貢・朝賀使節としての外交的な制約により、航海に適切な出発・帰国時期を選べなかったため。

ところで、その書評に「辻善之助という人の説だということですが」という記述があるのだが、やはり、中国古代史の研究者には辻善之助はマイナーなのだろうか。辻は、特に日本仏教史ではメジャーなのだが(但し、佐藤の記事は2007年時点のものである)。

*3:上田雄も、「遭難・漂流は唐からの帰国の際に起きています。これは、帰国の際は強い冬の季節風を利用しているので比較的弱い夏の季節風を利用する往路よりも遭難、漂流することが多かったからだと考えられます」と述べている(「遣唐使・その航海」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009431812 )。

*4:実際の聖徳太子が存在するとしても、どの程度の業績があったのかは研究者においても判断が分かれており、今回の記事で書いた太子の「功績」も、ある程度は、後世仮託されたものかもしれない。

 三経義疏にしても、太子自身が書いたということは、現段階ではまだ確実というわけではない。ブログ・「moroshigeki's blog」の解説http://moroshigeki.hateblo.jp/entry/20090103/p1によると、

(『国産』が何を表すかにもよるが)「国産」で決定とは言っていない。渡来人による述作なども含めた再検討が必要。

とのことである。

*5:家永の『否定の論理』には、末木文美士の指摘するように、キリスト教ヘブライズム)における「否定の論理」が想定されているものと思われる。(末木「家永三郎 戦後仏教史学の出発点としての否定の論理」、オリオン・クラウタウ編『戦後歴史学と日本仏教』、法蔵館、2016年 )。一方で、家永自身、国体論からは脱していても天皇制国家の宗教性からは自由ではなかったのではないか、との指摘も存在する(星野健一「オリオン・クラウタウ編『戦後歴史学と日本仏教』」http://www.hozokan.co.jp/cgi-bin/hzblog/sfs6_diary/2337_1.pdf、222頁)。

*6:植木雅俊は、

日本でも仏教伝来以来、『法華経』は重視されてきました。飛鳥時代奈良時代を見ても、聖徳太子は『法華経』の注釈書『法華経義疏(ぎしょ)』(六一五年)を著し、七四一年に創建された国分尼寺(こくぶんにじ)では『法華経』が講じられました。尼寺ですから、女人成仏が説かれた経典として注目されたのでしょう。

としている(「思想として『法華経』を読む」https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/75_hokekyou/guestcolumn.html なお、一部の引用符を省略して引用した。)。日本における法華経信仰は遡れば確かに太子に行き着くことになる。

 一方、インド古典学者・小林信彦による、日本的「女人成仏」に対するインド仏教的観点からの批判も存在する(小林「日本人の考えた「女人成佛」 執拗なまでの異文化拒否」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004698155 )。興味のある人は読んでみてほしい。

入江泰吉とビニール鹿の関係、それから、古都税の顛末、ついでに信仰について。 -碧海寿広『仏像と日本人 宗教と美の近現代』を読む-

 碧海寿広『仏像と日本人-宗教と美の近現代』を読んだ。

仏像と日本人-宗教と美の近現代 (中公新書)

仏像と日本人-宗教と美の近現代 (中公新書)

 

 内容は紹介文にある通り、

明治初期に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐、すべてに軍が優先された戦時下、レジャーに沸く高度経済成長期から、“仏像ブーム”の現代まで、人々はさまざまな思いで仏像と向き合ってきた。本書では、岡倉天心和辻哲郎土門拳白洲正子みうらじゅんなど各時代の、“知識人”を通して、日本人の感性の変化をたどる

という内容。
 近代において、「美術」という近代的な見方・考え方と、信仰の対象であった仏像とが、どのように関係していったのか、大変読み応えあり。
 仏像好きの方は絶対に読んでおくべき本ではないだろうか。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

奈良の風景写真とビニール

 だが、こうした入江の写真に描かれた世界は、現実の奈良には存在しない。 (179頁)

 入江泰吉の仏像写真はほとんどが、奈良の風景写真とセットである。
 入江は、周囲のビル群やビニールハウス*2などは構図から外したり、靄や薄闇のなかに紛れ込ませたりして、風景を撮った。
 同時代の人々も、撮影した大和の風景から徹底的に排除した。
 そうした意味でのフィクション的「古代」の世界なのである。*3

信仰と模倣・追体験

 けれども、その信仰の本質について自信をもって語ることが、彼女にはできたのである。 (209頁)

 白洲正子は自分が仏像に対して感じる美しさには、かつての信仰と通じる部分があると信じることができた。
 それは、巡礼した昔の人々の行動を、彼女が反復し、彼らの内面を何度も模倣したからである。
 模倣というのは、実は本書の重要なテーマではないか。
 信仰とは、特に仏教は、「師」(釈迦や各宗派の祖、等々)の言行を模倣・追体験するものであるのだから、当然のことではあるのだが。*4

古都税と観光

 そこを訪れる人びとの大半は、その寺院が存続しなければ自らの信心の場が奪われる信仰者ではなく、寺院の一時的な楽しみしか求めていない観光客だ。 (221頁)

 嵯峨野の常寂光寺の事例である。
 古都税廃止後も、志納金方式での参拝を続けた結果、拝観収入が大幅に減収し、1988年4月から定額拝観を復活させることとなった。
 実はその半年前に、志納の目安額を出入り口に掲示したらしいが、200円に対して、志納額の一人当たり平均は116円であり、目安には届かなかった。
 「お布施」だと、信者ならざる観光客にはその額くらいしか払わないのである。*5 *6

 

(未完)

*1:著者については、五来重論などが、大変面白く読めた(「仏教民俗学の思想 : 五来重について」https://ci.nii.ac.jp/naid/110006292175 )。ぜひご一読を。

*2:あまり関係のない話題であるが、奈良でよく売ってるビニール鹿の話をしたい。

 産経新聞の記事https://www.sankei.com/west/print/150922/wst1509220009-c.html
によると、「杉森社長によると、ビニール鹿は、大阪府池田市の業者が商品開発し製造。業者の廃業に伴い一時期、台湾で作られたが現在は中国製」だという。しかも、「ビニール鹿がいつ誕生したかは不詳だが、大和路を愛した写真家、入江泰吉が昭和30年に撮影した1枚の写真が手がかりになりそうだ」とのことである。

 入江は、ビニールハウスは構図から外しても、ビニール鹿はちゃんと撮影したようである。さらに、「昭和56年以降からは現行のデザインに定着」したようで、「男はつらいよ」第1作目(昭和44年)の作品には、マイナーチェンジをする前のビニール鹿が登場している(以上、ブログ・「Magical Mystery Nara Tour」の記事http://naratour.blog.jp/archives/1073329643.html を参照した)。 

*3:しかし、ビニールハウスの後ろに古墳、というのも、いかにも奈良らしい光景ではあるように思う。ブログ・「日本妖し巡遊紀行」https://himepius.exblog.jp/5505272/ の掲載された画像がまさにそれに当てはまる。 

*4:模倣・追体験という点については、例えば、著者自身の論文「哲学から体験へ : 近角常観の宗教思想」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007657966 の次の一説を想起すべきであろう。ただし、こちらの論文の場合は、「言語」が主題である。

釈尊親鸞といった真宗仏教史における至高存在の体験の言語に、 自己の人生を投影した近角の体験の言語、 それに対しまた自己の実体験を重ね合わせ、 さらなる体験の言語を生成していく信徒たち。 この体験の言語空聞を、近角は自らが生きる時代に構築し、 自身の宗教活動の基盤とした。

*5:とあるブログhttp://saysei.dreamlog.jp/archives/9951752.html を見ていたら、

出入り口にかつて多くの寺が古都税反対で拝観お断りをしたときに、それをしないでお志だけいただくという「志納金」の形をとってオープンさを貫いた常寂光寺のような見識のあるお坊さんがいた寺がありました。植物園などは志納金制度にしてもいいんじゃないだろうか、という気がします。

との言葉が載っていた。しかし、実際は本書に載っていた通りである。まあ、府立植物園は良いところだと思うが。 

*6:当時の住職・長尾憲彰によると、志納金制度は、古都税の話の前からやりたいと思っていたことだったようだ(長尾「寺の再生 常寂光寺に立って」(『思想の科学』1986年9月号、思想の科学社、81頁)。

 以上、この註は2020/3/28に追記した。