小坂井敏晶『人が人を裁くということ』を再び読む。
ある研究。
取調べの場面を録画(録音)して、大学生と警察官に見せ、被疑者が本当のことを述べているかを答えさせた。
嘘だと誤判断した割合の場合、大学生46%に対し、警察官は67%だった(正しいと誤判断した場合の割合はあまり変わらず)。
この傾向は、捜査経験を積んだ人間ほど高くなる。
つまり、取調べの訓練の結果、人の言動に疑いを抱く傾向は強くなるが、判断力自体は向上しない。
なんてこった、取調べを重ねたベテラン刑事って、結局疑り深くなるだけなのね orz
(まあ、この実験に対しては、「大学生の場合に比べ、警察官の場合は、自分が取り調べを受ける可能性を考慮しないので、取り調べる側の立場でしか判断しかせず、結果、嘘だと誤判断する割合が高いのではないか」と考えたのですが、どうでしょうか?)
嘘発見器の正答率は60〜75%。
この正解率のため、嘘発見器の結果は、公判時の証拠として認められない(78頁)。
それでも米国では、嘘発見器がしばしば用いられる。
それは、「科学」を盾に、被疑者を動揺させるためだ。
こうした手段が、取調べでは用いられる。
取調べの環境について(80,81頁)。
無実の場合、事実無根の非難を受け、怒鳴られ、煙草を吸うこととも水を飲むことも許されず、背伸びや深呼吸も妨害される。
それを長時間、居心地の悪い狭い椅子に座らされ、音は刑事の取調べの声と机の叩く音だけが響くよう設計された部屋で、照明も不安を煽るような暗さのなかで行われる。
空気も悪いし、時計もない。
もはや拷問に等しい。
米国のミランダ警告も、実際はなおざりに読んで聞かされるだけらしい(95頁)。
警察は被疑者が警告を理解したかを確認もしないし、弁護士立会いの権利や黙秘権を放棄するかの確認も取らずに取調べに入る。
こんな状況にちゃんと対応できるのは、マフィアか政治犯ぐらいだろう。
本書では、日本以外の先進国における取調べの現状の酷さにも触れられており、必読といえる。
(本書によると、米国の司法取引も、結構冤罪の温床になるようだ。)
日本の場合、自白調書中心なため、文章の上手さが裁判に影響する。
調書は幾度の推敲を経て、犯人にしか知りえない事実が強調される一方、真犯人ならありえない供述は削られていく(98頁)。
多くの場合、検察官は、それを無意識のうちに行う(99頁)。
怖いのは、こうしたことが、無実の人間を犯人に仕立て上げようとする悪意ではなく、被疑者を犯罪者と信じる正義感によって行われることだ(102頁)。
なおのことたちが悪い。
本書の本当の問いは、冤罪が明るみに出る度に、捜査機関や裁判所が非難されるが、究極的には、冤罪というのは構造的な原因があり、一定頻度で必ず起こることだ、ということだ(189頁)。
著者は、別に冤罪がしょうがないといっているのではなくて、冤罪は社会的・制度的になくす努力はすべきだが、それでもなお、冤罪はなくならないだろう、ということだ(それは、社会学における「自殺」の位置づけに似ている)。
フランスの留置所の環境の酷さや、刑務所内での自殺者の多さは、いうまでもなく、改善されるべきところだ(73頁)。
正直、ぜんぜん人権先進国じゃない。反面教師にしたい。
それでも、日本が見習うべき所もある。
フランスのストライキ。
2008年夏、石油価格高騰に苦しむ漁民がストライキを起こしたが、このときは漁船団で石油備蓄基地を封鎖した。
長距離トラック運転手がストライキをして、高速道路に大型車を横倒しにして交通不能にする。
あるいは、石油備蓄基地の入り口を封鎖して、経済を麻痺させる。
2010年の年金制度改革に対する反対闘争では、交通手段の罷業のみならず、製油所の操業拒否までやった。
だが、国民の7割はこれを支持した。
政治を動かすために、どのような"賭金"が必要なのか、彼らは何よりわかっている。