ヤスパースについて。
彼が1945年に「責任」について講義(ドイツ人自らが内面的な転換を図るもの)を行った時は、実は、その主張は世間の受け入れる所とはならなかった。
むしろ根拠のない誤解と批判に晒され、その真意、特に「形而上学の罪」について理解されるようになるのは、1960年代半ば以降である(75頁)。
ドイツでさえ、それだけの時間を必要とした。
1960年代後半、ヤスパースは「人道に対する罪」の概念をドイツ法に導入して、時効問題に根本的解決を図ろうと呼びかけている(194頁)。
ヤスパースは、きちんと現実へアンガージュした知識人でもあった。
では、ヤスパースを受け入れなかった当時のドイツの世論とはどのようなものだったか。
終戦直後からユダヤ人を標的にした暴力事件はドイツ各地で頻発しており、ユダヤ人墓地荒し事件は1949年だけで100件を超えた。
一方、1948年世論調査では、「ナチズムはよい理念だが、実行の仕方が悪かった」という意見にドイツ住民の58パーセントが賛同している(82、83頁)。
それが当時、戦後すぐの雰囲気だった。
アイヒマン裁判はイスラエルにとってどんなものであったのか。
スエズ動乱を機に、大量の東洋系ユダヤ人が近隣アラブ諸国からイスラエルに流入した。
東洋系ユダヤ人は、ホロコーストや欧州におけるユダヤ人の受難の歴史を知らない。
そんな彼らを統合するには、ホロコーストをイスラエルの国民統合の柱にする必要があった。
そして、シオニズムの正当性に疑念を持つ、イスラエル国外のユダヤ人に対しても、アピールの意味があった。
アイヒマン裁判は、そうしたイスラエルの存在意義を強化する効果を持った。
ただし、その「強化」は、歴史修正主義的な操作も伴っていた。
「ハウスナー主席検事は公判の冒頭諭告で、『ナチの犠牲となったユダヤ人はすべてイスラエル建国を求めていた』と論じた」(164、165頁)。
ドイツの影の部分について。
例えば、元ナチ裁判官は一切の不利益を受けることなく退職することが出来た(175頁)。
公務員、特に法曹関係者は、その過去を事実上免責されていた。
ナチ時代に権力の座にありながら、過去に頬かむりしたまま権力の座に居座るこうしたエリートを批判する動きは、1950年代後半には東ドイツが行なっていたが、その10年後には、西ドイツの学生たち、議会外反対運動の者たちに受け継がれることになった(203頁)。
ドイツの本当の「反省」は、この時期から始まっていると見てよい。
ブラントへの評価について。
国外からナチズムに立ち向かったブラントには、しかし、裏切り者などの誹謗中傷の言葉が浴びせられた。
国外で敵の攻撃から逃れた奴、というレッテルだった。
1960年代末までそれは続いた。
再評価は、ナチズムの時代との決別を求める上記のような戦後世代によって、行なわれた(216頁)。
ブラントの有名な、ポーランドでの「躓き」だが、この行為に対しても、西ドイツの世論は二分された。
1970年12月の調査によると、これを適切な振舞いと見なす回答者は41パーセントに留まっていた(220頁)。
この時期においてさえなおも、ドイツ国内の評価はせめぎあっていたことに、注意されたい。
西ドイツとイスラエル・アラブ諸国関係について。
1950年代の西ドイツでは、野党の社会民主党がイスラエルとの関係を重視していた。
第一次中東戦争の後も親イスラエルの立場だったのが、社会民主党である。
そもそも建国直後のイスラエルには、シオニズムとマルクス主義を結びつけるギブツという共同体経済が定着し、欧州左派陣営に共感を引き起こしていた。それが背景としてある。
イスラエルの社会主義者の間でも、ドイツ社会民主党は反ファシズムの伝統を継承する政党として評価を得ていた(253頁)。
一方の保守政党はどうだったか。
アデナウアーは、親ドイツのアラブ諸国との友好関係を保っていた。
だが一方、イスラエルへの経済支援も続行しており、武器輸出までしていた。
1956年、エジプトへのソ連の武器供与に対抗して、イスラエルが武器供与を要請する。
1960年には、ヘリコプター・対戦車砲など総額3億マルク分の武器供与が決まった。
さらに、ドイツ連邦軍によるイスラエル将校の訓練も実施した(254頁)。
こうしたイスラエル政策に対して、アラブ諸国は反発し、60年代中番に国交を断絶する国が数多く出現する。
そこで1970年代、西ドイツはイスラエルとの関係を維持しつつ、サウジアラビアやシリアなどアラブ諸国(各国、1965年に国交断絶)との関係修復に乗り出した(259頁)。
そして、1982年に始まったイスラエル軍のレバノン侵攻がパレスチナ人大虐殺を引き起こし、そのことによって、西ドイツ世論もイスラエルへの共感を失う事態となる(263頁)。
シーソーゲームのように、イスラエルとアラブ諸国との間でバランスを取りながら外交するのが、ドイツの常である。
レーガンのビットブルク訪問への反応について。
当時のアメリカ大統領レーガン大統領が、西ドイツのコール首相と、ビットブルクの軍人墓地を訪問した件である。
このビットブルクには、国防軍だけでなく武装親衛隊兵士も埋葬されており、この訪問をめぐって、国内外で論争が起こった。
実際、同盟国の対独感情は悪化した (そりゃそうだ)。
ドイツ国内メディアも分裂した意見だった。
いつもは保守系の、親米路線の新聞は、アメリカ批判を展開した。
曰く、アメリカには潜在的反ドイツ感情があるとした。
ビットブルク訪問反対の世論を喚起したのがアメリカのユダヤ系上院議員であったことも、ユダヤ人への不信感を煽った。
一方、反米色が強いはずの左系の新聞は、アメリカ世論に理解を示し、独米関係悪化は、レーガンとコールの責任だと攻撃した(280頁)。
日本でも2007年くらいに、同じような光景が展開されたが、あの時は、米大統領でさえも味方してくれなかったw
ポーランドにおける反ユダヤ感情について。
ポーランドの地域社会に根付く反ユダヤ人感情は占領期を通しても消えることはなかった。
占領期には、ポーランド人によるユダヤ人虐殺事件も起きていた。
戦争が終わっても、故郷に戻ったユダヤ人に対する暴力事件は絶えなかった。
1990年に大統領になったワレサは、ポーランドの反ユダヤ主義を認め、翌年イスラエルにて虐待を謝罪している(318、319頁)。
あまり知られていないらしいので、念の為書いておく。
(未完)