増田弘『石橋湛山』を再び読む。
リーダブルだし、面白い。
気になった所だけ。
湛山は新兵として苦労を重ねている(17頁)。
入営時に60kgほどあった体重は48kg台まで減り、在営中ついに回復しなかった。
湛山は軍隊に在籍した一年間に、戦争への嫌悪の情を深くすることとなった。
実弾演習にも恐怖感を覚えた。
彼の平和への思想は、そうした実体験にも基づいている。
当時作られようとしていた明治神宮に対して、かれは何といったのか(27、28頁)。
神社ぐらいで、「先帝陛下」を記念できると思っているのか。
ノーベル賞にならって"明治賞金"を作れ。
こんな風に提言しているのである(「愚かなるかな神宮建設の議」が出典)。
いかにもプラグマティックな石橋湛山、と言えるだろう。
尼港事件の報復措置として、日本軍は、北樺太を占領した(46頁)。
米国は日本に猜疑心を抱き、日米関係は悪化した。
これに対して、湛山は、日本政府側の姿勢を厳しく批判している(出典は「日露衝突の意味重大」、「尼港事件の悪用者」)。
尼港事件については、いろいろ言われたりするが、同時代の反応のひとつとして書いておく(尼港事件については、この記事も参照されたし)。
戦前、基本的に日本政府に批判的姿勢を貫いた湛山。
たが、当時の南京新政府が不平等条約破棄と臨時弁法実施を宣言し、日本側に日華通商条約の破棄を一方的に通告したときには、湛山も怒った(88,9頁)。
だが、米国は早速中国の関税自主権の回復を認め、蒋介石政権を承認した。
その後、英仏もこの動きに追随した。
湛山は、この米国の姿勢にも怒っている。
まあ、その後、やはり拡張主義的な日本政府のやり方に対して、批判的な姿勢に戻るのだが。
ともあれ、これは湛山の主張の中では珍しい事例であるので、一応書いておく。
戦後の話。
1959年、キャンプ・デービッドでの米ソ首脳会談での「雪解け」を、湛山は、「冷戦」の終わり、平和共存体制として、肯定的にとらえた(227、8頁)。
そして、日米と緊密な関係をしつつ、日中・日ソの協調関係をも、同時に築こうとした。
日米新安保は是認した湛山だったが、一方で、安保と憲法の矛盾を認めたうえで憲法の遵守を訴えた。
「冷戦」時代には非現実的だった第九条は、平和共存時代の今日には現実性を持っている、と論じたのである。
改憲指向だった彼の外交姿勢は、「護憲」(カギカッコ付)へと向かったのである。
湛山が生きていたら、彼は九条改憲を認めなかっただろう、多分。
湛山の晩年の外交姿勢については、姜克実『晩年の石橋湛山と平和主義』なども参照。
最後に、こちらの記事から引用。
ちなみに、この「引用文は、一九六〇年八月、病も癒えた湛山が日ソ協会の会長に就任するにあたって朝日新聞に寄せた論考から」のものである。石橋湛山『池田外交路線へ望む』一九六〇年
全人類の四分の一にも達する隣の大国が、今ちょうど日本の明治維新のような勢いで建設の途上にある。それをやがて破綻するだろうと期待したり、また向こうから頭を下げてくるまで待とうとするような態度が、はたして健康な外交であろうか。(以下略)
(未完)