山県有朋の処世から、陸軍が投げた大ブーメランまで -大江志乃夫『日本の参謀本部』を読む-

 大江志乃夫『日本の参謀本部』を再読した。
 もう古典になった気もするが、まだまだ読むべきところは多い。
 ちなみに、Apemanさんも感想を書いている

 面白かったところだけ。



 山県が(略)その地位を保持することができたのは、情報政治に負うところが大きい。山県は近代日本きっての情報政治家であった。 (28頁)

 山県が情報政治家として成功した原因のひとつは、(略)そのダーティーな職責を果たした人物を決して使い捨てにはしなかったことにあるといえよう。森鴎外もその一人であったといえるかもしれない。 (30、31頁)

 諜報、情報の人間として、山県有朋が出世したのはよく知られている。
 その秘訣が、後者の引用部である。

 少なくとも山県は、これのおかげで、暗殺や失脚の恐怖におびえることなく済んだ側面がある。
 使った人間に恨まれなければ、例え他の人間に恨まれたとしても、そうそう揺るがない、ということでもある。

 一方、諜報の世界において、上司の不慮の死によって使い捨てにされたのが石光真清である。



 軍籍を去って日露戦争開戦まで特別任務に服した石光真清歩兵大尉も田村の死によって、日露戦争後の陸軍から見すてられた一人であった。 (72頁)

 このブログさんの記事から引用するに、
 「日露戦争後、石光を待っていたのは苦難の道であった。ロシア留学の際、今信玄と呼ばれた参謀本部の田村怡与造に将来悪いようにはしないと言われていたこと、また同僚の陸軍士官連中の焚きつけ(としか思えない)もあり、石光は軍籍を去っていた。」
 彼は上司の不慮の死のせいとはいえ、報われなかったのである。



 情報操作・情勢作為によって自己の政治的地位を高めてきた山県のもとでそだった情報将校たちは、正確な軍事情報の入手よりも、情勢を作為するための謀略に重きをおく傾向をつよめた。 (112頁)

 一方で、その山県が招いた弊害もある。
 すなわち、「作戦の立案者がみずから情報を取捨することの危険性」である。
 満州や大陸で何が起きたのかは書くまでもない。



 ドイツ参謀本部の前身は戦時に編成される兵站部であった。 (55頁)

 近代大衆軍隊の成立が事態を一変させた。(略)人口密度がたかいヨーロッパの農村を戦場とするかぎり(略)食料の現地調達が可能かつ不可欠となり、(略)主要な機能は、兵站から分割された大兵力の合理的な管理運用に変化した。 (56頁)

 (注:日本には)軍隊の忠誠をつなぎとめるものが兵站であるという歴史の経験がなかった。 (56、57頁)

 これが、日本の参謀本部が一方で兵站を軽視した背景である。

 ドイツ参謀本部の原点とは兵站であった。
 それに対して、日本の参謀本部は、その歴史的経験を持つことがなかった。
 先の大戦での日本側の兵站の軽視の一端は、ここにある。



 日露戦争で陸軍の大山総司令官の起用がうまくいったために、大山は日本型将帥のモデルとされるに至った。 (101頁)

 これもよく知られていよう。
 すなわち「将帥たるもの、作戦に関しては幕僚を信頼し、一任して口を出さず、意思決定の責任を負うだけという態度」は、日本型の組織の上司の理想像として、語られがちだ。

 だが、史実を見ると、注意が必要になってくる。

 実際、児玉総参謀長の不在中に起きた「沙河の会戦」では、「大山総司令官は情勢および幕僚の討議の内容の報告をくわしくもとめ、みずから総司令部スタッフの掌握につとめた。 児玉総参謀長が総司令部にあるときとは別人の観があった」。
 スタッフの長である児玉が不在の時には、非常時ということで、自分からバシバシとスタッフの任務もこなそうとした。

 普段は児玉にスタッフの任務を預けていた大山だったが、いざとなれば、やれる意思があり、能力があった。
 だが普段は、トップの権限とスタッフの任務の分担に気を配った。
 自分が部下の権を侵すことによる混乱を避けたのである。
 (ちなみに、「児玉総参謀長もまたトップの権限とスタッフの任務を峻別した」が詳細については本書を当たられたい)

 いざとなれば自らスタッフ側に回る能力がなければ、実は、日本型組織の長は務まらない。
 もしそれができなければ、無責任体制が蔓延する。



 参謀総長天皇の裁可をえて奉勅命令を発することによって、はじめて国外への軍事力発動が可能となる。しかし、天皇の裁可をえるには、事前に閣議が出兵費用の支出を承認していることが必要であった。統帥権独立といっても、予算の臨時支出を閣議が承認しなければ軍も動きがとれなかった。 (151頁)

 これが統帥権独立の一側面である。
 内閣はある程度抵抗できた。

 そこで、参謀本部は次の手を使った。
 「軍事力の発動という既成事実を先行させたのちに内閣にたいして出兵費用の支出を要求した」(153,154頁)のである。
 既成事実を作ることで、無理を通したのである。

 現場の暴走は、既成事実の作成から始まる。



 日露戦争のロシア陸軍の敗因の主要な原因が、一八七七−七八年の露土戦争でロシア軍がトルコ軍の歩兵火力に苦しめられたにもかかわらず、ロシア軍の銃剣突撃の無敵の威力を信じつづけて火力戦を軽視したことにあると指摘したのは、ほかならぬ日本陸軍であった。 (145頁)

 有名な話だが、特大ブーメランである。
 上記リンクで、Apemanさんが指摘しているように、「日露戦争時の日本軍は『編成、装備、戦法がロシア軍にまさっていた』とし、『精神力』についていえば『むしろロシア軍の方が戦場では勇敢であった』」わけだが、「ノモンハン戦争」では、立つ位置が逆になる。

 (「ノモンハン戦争」については、森山康平『はじめてのノモンハン事件』が入門として薦められるが、この本のAMAZONのレビューにあるように、「両軍の死者数だけで、日本軍は惨敗ではない、というような論調が目立ち始めているが、死傷者数のみでこの戦闘を捕らえて良いわけがない。この時の関東軍の目標はなんであったのか、停戦時にどちらに有利な決定がなされたか、一目瞭然である。」というのが重要である。)



(未完)