「きれいな被害者」を求める社会は、幼稚だと思う。 -宮地尚子『トラウマ』雑感-

 宮地尚子『トラウマ』(岩波新書)を読んだ。
 トラウマとは何か、そしてトラウマに関する諸々を学べる良書。
 初心者にもとっつきやすい。

 興味を持ったところだけ書いていく。



 裁判などで「事件の次の日も平気で仕事に行ったのは不自然」ということで犯罪報告の事実が否認されることがありますが、被害者が事件の次の日に仕事に行くというのは珍しいことではありません。(略)あまりに衝撃が強く、感情が麻痺してしまうために、事件後の被害者や遺族が「冷静」に見えるということは、少なくありません。 (12頁)

 トラウマとは、人間が抱えるにはあまりにも大きすぎる。
 それは、"平時"に生きる人間には、推し量りづらいものだ。
 上記のくだりは、まさにそれを表している。
 犯罪被害者に対して上記の点を気を付けたい。



 トラウマに「慣れる」ということはなく、むしろ次のストレスへの耐性を弱め、他の人にはトラウマにならない些細なことがトラウマになりうるということは、これまでの研究からすでに明らかになっています。 (177頁)

 「トラウマ」は、経験として蓄積されるのではなく、経験して積もった地層を破壊し、傷跡を残す。
 トラウマは人を強くするのではなく、ひたすら弱い存在へと追い込む。
 人にできるのは、そうした弱さや傷と共に生き、付き合っていくことだけだ。
 (この点について、著者はトラウマを「耕す」という表現をとっているが、詳細は本書をあたられたい。)



 身体的暴力がまったくない場合、被害者もそれをDVだと思わないことがほとんどです。けれども、「モラハラ」(モラル・ハラスメント)という言葉を知り、その内容をネットなどで検索してみて、加害者の言動とあまりにぴったり重なることに驚く被害者もいます (116頁)

 日本の調査でも、加害者に「殴ったり蹴ったり」される例は少なく、「逆らったら殺すぞ」などと「言葉で脅かされた」り、「相手の体が大きいので逆らえないと思った」という被害者が多いことがわかっています。 (139頁)

 暴力が無くてもトラウマになる。
 当たり前のことだが、見過ごされがちの点である。
 特にDVの場合は。

 暴力が無くてもDVはDVである。
 覚えておこう。


 

 私は、公私の二分法の「私」を「親密」と「個」に分け、公的領域、親密的領域、個的領域の三文法に変形させて考えることにしています。そうすると、DVとは親密的領域における暴力と支配であり、それによって被害者の個的領域が奪われることだと、すっきり捉えることができるからです。 (121頁)

 公的領域(会社とかの公の場)ではまともな面をしているのに、家では横暴、みたいな奴がいる。
 こういうやつは大抵、その暴力性が社会にばれにくいので、厄介である。

 DVというのは、「公私」の二分法で考えようとすると混乱する。
 たとえば民事不介入の良い口実として扱われかねない側面があるからだ。
 そこで著者は「私」の領域を「親密」(家族とか友人とかの領域)と「個」(文字通り一個人の領域)に分けた。
 すると、どうなるか。
 第一に考えねばならない「個人的領域」が「親密的領域」における暴力に脅かされる、だからこそ、その暴力に対して対処せねばならない (公的であれ何であれ、何らかの「介入」が必要とされる)、ということが明確になる。 



 米国の研究によると、PTSDの発症率は、自然災害を受けた人の場合五%くらいですが、レイプの場合、女性で四六%、男性で六五%ととても高くなります。日本でもいくつかの調査で、被害者の半数以上にPTSDが発症するという結果が出ています。 (131頁)

 レイプのトラウマになる率は、震災を優に超す。
 それはなぜか。
 PTSDの発生率の高さについて著者は、「性暴力被害の場合、加害者との距離が非常に近く(というより密着され、侵入されるという意味では、距離がゼロかマイナスになります)、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚など、すべての身体感覚が侵襲された状況が長く続くからです。」(132頁)と説明している。
 レイプとは、相手の「自己」の身体へ、直接的に侵攻し痛めつける行為なのである。
 自分の身体から逃れられるものはいない。



 事件の判決で、神戸地裁は「被害者の落ち度」を理由に、求刑よりかなり低い刑を宣告しました。被害者がテレクラで加害者と知り合ったからだというのですが、テレクラで知り合った相手には手錠をかけられても許されると、法は社会に向かって宣言するのでしょうか。 (141頁)

 よく知られるとおり、2001年の「兵庫県監禁致死事件」の地裁判決の話である(「中国自動車道女子中学生手錠放置事件」とも)。

 「きれいな被害者」を求める社会は、幼稚だと思う。



 同じような悪ふざけを、下級生や部下に対してはするけれども、上級生や上司にはけっしてしないとしたら、それはやはり親しみではないでしょう。 (180頁)

 では何と呼ぶべきか。
 「かわいがり」と呼ぼうか。
 この社会には「かわいがり」が多すぎる。



 暴力を直接ふるうことに、たいていの人間は嫌悪や苦痛を感じるのですが、命令者と実行者を分けることで、心理的苦痛を最小限にできるというのです。 (191頁)

 グロスマン『戦場における「人殺し」の心理学』を参照して、このように述べられている。
 ミルグラム実験を想起すべきだろう。

 責任から外れると、人は容易に放埓になる。
 ギュゲースの指輪の話をも、思い浮かべるべきか。



 (未完)