マナーは思いやりではなくて、単なる他者との共存のすべである、という話。 -野矢茂樹編『子どもの難問』を読んで-

 野矢茂樹編『子どもの難問』を読んだ。
 幾人もの日本を代表する哲学者たちが、「子どもの難問」に、こたえていく内容。
 一つの問いあたり、二人の哲学者が担当しており、その対比も見どころ。

 じつは、最大の読みどころは、巻末に載っている哲学者たちの出身地と履歴だったりする(マテヤコラ。
 (あながちウソではない。みんな、当然だが、高学歴である。)。 

 本書の哲学者の回答の中から、特に興味深かったところだけ。
 誰がその回答をしたのかについては、実際に本書をあたられたい。



 「生きている」のは、「生きている」こと自体を深く経験するため。これが、あえて言えば、「なぜ」に対する私の答えです。/「あえて言えば」と言ったのは、「生きている」ことの自己目的性を強く意識しすぎると、それはそれで、深く経験することを阻害するようになると思うからです。ちょうど、眠ろう眠ろうと意識しすぎると眠れなくなってしまうように。 (78頁)

 生きることは味わうこと、それ自体が目的、とでもいうべきものだ。
 だがしかし、その自己目的性を意識しすぎると、かえって、生きることを味わえなくなる。

 味わうとは、何かのために味わうのでも、味わうために味わうのでも、ない。
 そういう「目的-手段」関係から距離を置くものなのである。

 この手の議論については、以前書いていた(のをさっきまで忘れていた)。



 誰にも見えない心の奥でキミは自分を育てている。そしてそのヒミツの一部をごくわずかな人に伝えることで、キミは濃淡のある人間関係をつくれる。これがプライバシーが大切にされてきた理由なんだ。みんなテレパシーで心の中が御見通しになったら生きやすいと思う? (82、83頁)

 キミは「僕の気持ちをわかってくれない」と思うだろう。この「わかる」は「知る」じゃない。「尊重する」とか「許す」だ。こっちの意味での「わかりあう」方がずっと大切じゃないかな。 (83頁)

 結構、意表を突かれた回答である。
 お察しの通り、これは自然主義を唱える哲学者による回答である。

 プライバシーは人間関係を築く礎として機能している。
 ある人と距離をとり、ある人と距離を縮めるための手段として、プライバシーは機能する。

 大切なことは、ある特定の人と距離をゼロにすることではなく(不可能だ!)、その距離を適度にコントロールできる自由を持てることだ。

 そして、適切な関係を築くことで、他者を尊重し、他者に尊重され、他者と尊重し合うことも、可能になる。
 相手に「僕の気持ちをわかってくれ」るようにするためには、相手との関係を再構築できるよう、自分の「ヒミツの一部」を伝えていくことが大事だ。

 分かってくれないなんて、不満に思ったって何も解決しないから、それよりも、自分がまだ相手に伝えていないことを、適切な形でちゃんと伝えるべきだ。
 (なんだか、人生論っぽくなってしまった、、、)



 科学が提供する「説明」は、基本的には「どういう仕方でそうなるの(how)?」という問いに対する答えであって、「なぜそうなの(why)?」という問いに対する答えではありません。 (100頁)

 科学の話だ。
 火をつけるとモノが燃える一連の現象(how)を説明はできても、なぜ火をつけるとモノが燃えるのか(why)には、突き詰めていくと、答えることはできない。

 こちらのブログさんの記事が紹介している。
 すなわち、夏目漱石が言うように、「科学はいかにしてということすなわち How ということを研究するもので、なにゆえということすなわち Why ということの質問には応じかねる」
 科学は、「いかなるプロセスで花が落ち、実を結ぶのかという一連の手続きの記述」にあり、「なぜ、花は落ち、実を結ぶのかは顧みない」。



 この配慮を思いやりややさしさと取り違えないでほしい。なぜなら、それは気持ちや自発性とは違って、豊かな共同生活に必要なスキル、身に着けるべきものだからだ。 (139頁)

 仮にそれが相手の何の役にも立たないとしても (略) やさしさは誰もそれを要求したり強制することのできないものだからこそ、素晴らしい (同頁)

 マナーと思いやりは、結構混同される。
 だが、混同してしまうと、結構息苦しい。

 マナーの基底にあるのは、他者への配慮である。
 だけど、その他者への配慮は、自発的でなくても可能だ。
 あくまで「べき」という社会的必要によるものだ。
 他者との共存、そのための単なるスキル(すべ)であり、慣習である。

 一方、思いやりや、やさしさというのは、自発性、非-強制性によって成立している。
 愛と同じく、自発的なものだからこそ、尊い
 愛は素晴らしいが、愛を強要するのは、おかしなことだ。

 二つのものは相異なるものであり、二つの混同は悲劇を招く。

 マナー良くふるまうには、自発性があった方が、そりゃ、やりやすいだろうが、無理に自発性を持とうとすると苦しいだけだ。
 敬語と同じで、突き詰めれば、敬意を持っている必要は無い(この議論の詳細については、滝浦真人『日本の敬語論』などを参照のこと)。

 少し似たようなことを「友情」を主題にして、書いたことがある。
 (いっそう冷めた見方だったけど。)



  僕らの発言や行動の全部を照覧して、その首尾一貫性を要求してくる存在という一種の幻想が生まれる。それが神。僕らが言葉を使って考え、一貫性をもたせようとすると、そこに不可避に生まれる錯覚 (171頁)


 嘘をつけない言葉を語る機会を、われわれ自身が必要としているからである。そういう機会を作らないと自分が何であるかわからなくなってしまうからである。/そのとき、われわれは言葉を超えた神に向かって言葉で語りかけることになる。  (174頁)

 二人の哲学者による、神の存在に対する説明である。
 結構似た回答だ。

 前者の場合、どこか、某社会学者の「第三者の審級」みたいな概念である。
 いわば、「保証人としての神」である。
 自分という首尾一貫性を保つためには、不完全たる生身の人間には事実上不可能。
 ならば神を要請するしかない、というわけだ。(カントかよ。)

 後者の場合、これもまた、「保証人としての神」である。
 嘘をつくには、真実の言葉と嘘を峻別できないといけない。
 しかし、それができないと嘘すらつけないし、言葉が混乱する。
 そこで、その真実の言葉を保証する存在が必要になる。
 もちろん、その必要とされた存在が、本当に存在するのかは、著者が述べるように、分からないのだけれども。

 神とは、寄る辺なき人間の不完全性に由来するものなのである。



 (未完)