共感だけじゃダメなのよ、あるいは、「聴く」とは何か、というお話。 -六車由美『驚きの介護民俗学』、向谷地生良『技法以前』-

 六車由美『驚きの介護民俗学』を読んだ。
 確かに驚く。
 ふつう、介護と民俗学は結び付かないから。

 本書は、サントリー学芸賞を受賞するほどの学者さんが、静岡の老人ホーム(のデイサービスセンター)で介護職員として勤めるようになり、その現場で高齢者たちから聞いた話が「民俗学」に凄く裨益するものだったこともあり、やがて「介護民俗学」を提唱するに至った、という凄い内容。(大学をやめられた経緯については、こちらの記事を参照あれ。)

 気に入ったところだけ少し書いていく。

驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)

驚きの介護民俗学 (シリーズ ケアをひらく)

「共感」だけでいいのか

 著者は、民俗学では、言葉の裏にある見えない「気持」を「察する」のではなく、相手の言葉そのものを聞き逃さずに、書きとめることに徹するという(99頁)。
 それ自体は普通のことに思えるかもしれない。

 だが、これまで介護の現場では、認知症の利用者の「心」や「気持ち」を察しようとはしていた(「回想法」のこと)が、語られる言葉を聞こうとはしてこなかったのだろうか、と著者はいう。
 認知省の利用者の言葉というのは、一見すると脈絡もなく、意味のないものとみなされてしまいがちだ。
 しかし民俗学における聞き書きのように、それにつきあう根気強さと偶然の展開を楽しむゆとりをもって、語られる言葉にしっかり向き合えば、自然とその人なりの文脈が見えてくる(110頁)。

 時間と余裕のない介護の現場ではどうしても、利用者の言葉を聞くことはできず、とにかく最小限の「心」や「気持ち」を察して、処理しようとする。
 だが、それによって、その言葉が持つ利用者の「その人なりの文脈」、つまり、その人が一定の思考能力と言語能力を持つ、尊厳ある主体であること、そういう意味での「人間」であることは、忘れられがちになる。
 そうした陥穽を、民俗学の根本が照らし出す。
 「共感」だけじゃ、十分聴いたことにはならないのではないか。(介護の現場での「回想法」の限界については、先の記事でも触れられている。)

 実は民俗学と介護、結構相性がよさそうなのである。

ガダルカナルへの従軍

 そんな「聴いた」成果を一つ。

 大正8年生まれで、ガダルカナルへ従軍した男性のある話。

 ジャングルの中で何人もの仲間が死んでいった。大きなヤシの木にもたれかかって痛いよ痛いよと叫んでいる兵士」を見ると「その兵士の口にはたくさんのウジ虫がわいていて唇の肉を食べていた。ウジ虫は唇とか鼻の穴とか皮膚の弱いところから入り込む。 (172頁)

 介護の現場で、まさかガダルカナルへの従軍者の貴重な話がきけるとは。
 人生、何があるかわからん。

 ちなみに、大正一桁生まれで、農家に生まれ育った女性たちは、立ちションの経験者である(74頁)という面白い話も出てくる。

 是非一読願いたい。

確かに、取扱注意な感じだけど

 本当なら、ここで終えてもいいのだが、もう一冊だけ書いておこう。

 向谷地生良『技法以前』について。 (ちなみに、この人の息子さんがツイッターをやっている。)
 
 本書は、江戸しぐさとか、無農薬リンゴとか、いろいろヤバめのものも肯定されていたりするが(とくに後者)、しかしそれでもなお、読むべきところを含んでいる。(実際、「べてる」から学べるものは多い。)
 
 以下に、その面白かったところだけ、書いていく。

おい、「研究」しようぜ

 研究という言葉には不思議な響きがある。
 「研究する」と口にすると、現実の困難を一時的に棚上げして眺め渡すような気分になってくる。
 さらに無為の毎日の中に「研究する」という仕事が生み出される。
 本人を「精神的な失業状態」から脱却させる力がある。(77頁)

 著者はそんな風にいう。
 確かに、研究とやると、自分や現実の苦しみを無理なく客観視できるし、しかも、研究という名前が付くことで、なにか達成感(やってる感)も出てくる。
 一石二鳥以上ある。
 
 「べてる」で当事者研究をやっているのは、こうした効能ゆえである。
 (その中でも特にすごいのが恋愛研究であるが、詳細は、以前書いた。)

患者のままでいたい

 私にとっては、病気じゃなくなるということは人とつながる手立てを失うことで、その恐怖感がありました (94頁)

 病気であることの「メリット」、それは、病気であることで得られた人的な関係である。
 でももし、病気が治ってしまったらその関係は切れてしまう。

 人とつながりたいがゆえに、病気のままで居続けたいと思ってしまう。
 そして、その意図が、ますます「患者」のままでいさせてしまう。

 同じように、

 A子さんの本当のつらさは、他人に自分のプライバシーを覗かれ、暴かれることではなくて、『自分が誰にも知られない』つらさだった (166頁)

 これも、関係を渇望してしまうことの悪循環である。この女性の場合は、「他人になりすまし、自分のプライバシーを暴露するという非常手段をとらざるを得なかった」。
 この女性は、ネット上で他人に成りすまして、自分のプライバシー(悪い部分)を暴露することをしていたのだが、彼女もまた、つながりたいがゆえに、ずっと「患者」のポジションから抜け出せない。

「開かれた」聴き方を目指して

 上のようなつながりたいという意思が病を招いてしまうからこそ、「べてる」の存在意義はある。
 そこで、当事者研究があり、その研究を取り上げるメンバーとの会議がある。

 そうした空間において、注意されていることは何か。
 それは、聴き方である。

 聴き方には、「閉じた」ものと「開かれた」ものがある(108頁)。
 「閉じた」方は、当事者とスタッフの両方で、自己完結する聞き方である。
 「閉じた」方は、当事者自身につかの間の充足感が得られるだけで、更なる不安や孤立感をもたらす。
 対して、「開かれた」方は、新しい人とのつながりや出会いの可能性に開かれた聴き方である。

 臨床における陥穽が「閉じた」ほうに現れている。
 つまり、結局新しい出会いの可能性に開かれておらず、結局自閉してしまう。
 ずっと病気でいたいと思ってしまうのは、こうした共依存的な「閉じた」聴き方を脱し切れていないからだ。

 また、ネットに自分の情報を漏出させる人もまた、おなじく「閉じ」ているのではないか。
 特に、「ネット上で他人に成りすまして、自分のプライバシー(悪い部分)を暴露」する方法では、新しいつながりも、出会いの可能性も開かれていないからだ。
 
 では、当事者研究の場合は?
 おそらく、「閉じ」てはいないと思う。
 なんせ当事者研究の場合、「幻聴さん」にさえ開かれているのだから。
 (「幻聴さん」の詳細については、Wikipediaの「べてるの家」の項目も、参照されたし。)

「共感」だけじゃ、ダメ。

 『聴いてほしい』という中には、自分の感情を何とかしてほしい、という気持ちに関わる動機と、問題を解決したい、という具体的な現実的な対処を知りたい動機とがある。
 多くの場合、気持ちに関わる部分はたくさん聞いてくれる。でも、現実的な対処について一緒に考えてくれる人は少ない(113頁)。
 
 著者はそのように述べる。
 感情は処理してくれるが、結局何の解決にもなっていない。
 そういうことが臨床の現場では多い。
 
 当事者の「気持」だけしか見ない、というのは、先の「介護民俗学」が批判した点に通じる。
 その背後にある、介助者側の多忙、というのも重要だろう。
 ともあれ、 「共感」だけじゃダメなのである。(あるいは、物足りない、というべきか。)

 べてるの場合、病気が重くなったりしても、それが普通であり、あるがままで良いととらえるような、施設全体の「レリゴー」な精神によって、それを乗り越えているように思う。(本書には、「べてる」に関わっている とある雇用主さんが、雇っている或る当事者のミスに対して、敏感にならずに受けとめてしまっている自分にふと気が付いてしまう、という挿話がある。)

 (未完)