敵の物理的なプレッシャーがかかっても、練習通りのことを淡々とこなすのが本物の技術 -千田善『オシムの戦術』を読む-

 千田善

オシムの戦術

オシムの戦術

』を読んだ。
 著者の親戚の関係である吉田戦車が、表紙を書いている。
 ジャケ買いしちゃうぜ(マテヤコラ

 以下、面白かったところを。

驚異の記憶力

 オシムのそうした努力がまわりから分からりにくいのは、自分でメモを取ろうとしないことにも原因がある。試合中もそうだし、何かのメモを持って練習に現れたところも見たことがない。つまり、すべてが頭の中に仕舞い込まれているのである。  (66頁)

 オシムは凄い記憶力のある人なのである。

 ところで、新入社員は、よほど記憶力に自信がない限りは、メモを取る(取る振りをする)方がいいぞ!w

飽きさせないために

 意識して、トレーニングのメニューを毎日変えていた。この日本中で一番サッカーがうまいと思っている人間たちに、どうやったら真剣にトレーニングに取り組んでもらえるのか、知恵をしぼっていたのである。 (72頁)

 オシムのトレーニングにおいて、考案されるアイデアの豊富さの裏側には、これがある。
 実際、練習を「飽きさせない」ために、2チーム同士でなく、3チーム同士でゲームをさせたことさえある(97頁)。

体で覚える

 あるときの紅白戦でオシムは、「同じ色のビブスの選手にパスを出してはならない」という条件を決めた。 (86頁)

 工夫の一つ。
 意図は、FWやMFへの横パスを禁ずることで、縦パスへの意識を自然に身につけさせることである。
 肝心なのは、その練習の中で、選手に自然と意識付けをさせる、という点だ。
 だが、

オシムはあまり縦パスを意識した練習はくり返さなかった。縦パスばかりを意識すると、日本人選手の場合、攻め急いで不十分な態勢からでもシュートして満足することが多かったからだ。 (87頁)

 あくまでも、ゲームの中で学ばせる理由はこれである。
 言葉ではなく、ノンバーバルに、ゲームの中で体験させて体で覚えさせることを、何よりも大切にした。
 言葉はよく、意識を過剰に縛ってしまう。

ゲームのルールとその意図

 一人では何もできないのだ。だから、味方が近寄ってやる必要がある。パスを出した後、近寄ってサポート。そういう習慣が自然に身につく。選手は自然と「走らされる」ことになる。 (93頁)

 ワンタッチゲームの場合、こうした意図で行った。
 つまり、フォローの習慣づけである。
 一方、

 少なくとも二人がサポートに行かねばならなくなる。パス交換も三人いなければ成り立たないからだ (93頁)

 これが、リターンパス(パスをくれた相手への戻しのパス)禁止の場合の意図である。
 つくづく、よく考えられているなあ、と思う。

ツータッチの場合

 そうすると、ボールをもらってからパスを出すまでに、相手のプレッシャーがかかるのだ。(略)それを意識しながらうまくトラップしてパスするという、ボールコントロールのトレーニングにもなる。 (94頁)

 今度は、ツータッチゲームの場合。
 つまり、絶対2回タッチをすることを義務付け、ワンタッチでのパスを禁止した場合である。
 トラップ時に周りを見る意識付けができる。

ボールに触りたい

 ボールなしのランニング(素走り)は嫌がるくせに、ボールを追いかけながら、ゲームの中で有利なポジションをとるためなら、喜んで走る。 (93頁)

 こうしたサッカー選手の特性を生かしたのが、オシムである。
 まあ、素人でもそんな感じではあると思うけれども。
 みんなボール触りたいもの。

言葉は人を引きずる

 ヒントだけ与えたのは、選手に気づかせる、考えさせるための工夫、知恵の使い方だったのだろう。 (97頁)

 ゲームの中で考えさせた。
 言葉ではなく体で。
 なぜか。

いま冒していいリスクなのか、どこまで「深追い」していいリスクなのか、知恵を使えということなのだ。 (129頁)

 試合において、最終判断は選手が行う。
 でもその判断基準自体は、教え切ることはできない。
 言葉をかけて誘導させることはできる。
 でもその言葉で意識が誘導されてしまって、判断が引きずられてしまうこともある。
 だからこそ、練習の中で、身につけさせた。

パワハラ度皆無

 口が裂けてもメディアの前で選手の批判をすることはなかった。批判をする必要があると感じたら、直接その選手に言う。しかも、ミーティングで名指ししないでナゾをかけたり、食堂で偶然(を装って?)すれ違った時にポツリとぼやく、など相手(いずれもプライドの固まりだ)や問題の性質に応じて伝え方や表現にも気をつかっていた。(略) そもそも、オシムが口にする批判めいた発言のほとんどは、助言に近いものだった。 (132頁)

 実に見事な指導である。
 彼は選手に対してとにかく鋭く、しかし繊細に、応対したのである。

 どこぞのブラック企業のトップとはえらい違いやで。

 なお、

 コーチや選手たちを叱った。どちらも、ほんの一分か二分ほどの「説教」だった。 (147頁)

 短いっ(こなみかん。
 ちなみに、著者によると、本気の雷を落としたのは、代表監督在任中で、二回しかなかったという。

「叱られないためのプレー」と「日本社会」

 彼ら(日本人選手)は、何か、叱られないためのプレーをしているように見える。『こうしなさい』と言われるのを待っている選手も多い (147頁)

 なぜこうなってしまうのか。
 叱られてばかりだと、叱られるのを避けるためにリスクあるプレーを避けるようになる。
 すると、こうしろという監督の指示を仰ぐことで、叱られるリスクを減らそうとする。
 これは、日本人の特性云々ではなく、叱りすぎる日本社会が生み出した結果なのだろう。

「負荷なき練習」の罪

 単純にボールを止める、しかも相応のスピードで走りながらそれをやることのほうがずっと大切だし、難しい。(略)果たして日本人はどうだろう?(略)実際のゲームではメンタルなプレッシャーに加えて、敵の物理的なプレッシャーもかかってくる。そうした状況下でも、練習通りのことを淡々とこなすのが、本物の技術なのだと、オシムは強調していた。 (152頁)

 小手先のテクニックではなく、あくまで実践で使える技術であることを求めた。
 常に相手のプレッシャーのかかる状況での練習をさせる理由が、これである。

 無負荷の状態の技術など、試合ではほとんど役に立たない。
 日本のサッカーの練習では、結構忘れられている(みんな分かっていてもなかなか改善できてない)ことだ。

 (未完)