知里真志保について書きたいと思う。
二つの「アイヌ」
知里『アイヌ民潭集』の後記(昭和10年2月18日)に次のようにある。
アイヌ民譚集―えぞおばけ列伝・付 (岩波文庫 赤 81-1)
- 作者: 知里真志保
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1981/07/16
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普通にいわゆる「アイヌ」という概念は、厳密にこれをいうならばよろしく「過去のアイヌ」と「現在(および将来)のアイヌ」とに区別せられるべきである。人種学的には両者はもちろん同一であるにもせよ。各々を支配する文化の内容は全然異る。前者が悠久な太古に尾を曳く本来のアイヌ文化を背負って立ったに対し、後者は侮蔑と屈辱の附きまとう伝統の殻を破って、日本文化を直接に受継いでいる。 (略) 当然に区別さるべき二概念が、「アイヌ」なる一語によって漫然と代表せられていることに起因する。 (167頁)
知里は、二つの「アイヌ」を対比させ、二つを混同するマジョリティたちを批判している(168頁)。
だが、注意しなければならない。
「悠久な太古に尾を曳く本来のアイヌ文化」という言葉にある極端な本質主義的匂いと、そして、「日本文化を直接に受継いでいる」という強すぎる言葉に。
「近代」と「日本」
新しいジェネレーションは古びた伝統の衣を脱ぎ捨てて、着々と新しい文化の摂取に努めつつあるのである。 (168頁)
「新しい文化」という。
だが、これは「日本文化」と言ってしまって本当に良いものなのだろうか。
僅かに残っている数人の老媼たちですら、今では全く日本化してしまって、その或者は七十歳を過ぎて十呂盤を弾き、帳面を附け、或者はモダン姿の綽名で呼ばれるほどにモダン化し、或婆さんは英語すらも読み書くほどの物凄さである。毎日欠かさず新聞を読んで婦人参政権を論ずる婆さんさえいるのである。内地人の想像さえ許さぬ同化振りではないか。 (169頁)
これが知里のいう「新しい文化」である。
これは「日本化」だろうか?
「同化」だろうか?
少なくとも「近代化」とはいえる。
だが、「日本化」と言ってしまってよいのだろうか?
「十呂盤」は日本起源ではないはずであるし、「モダン姿」は「日本化」とは言えないし、「英語」の読み書きはいうまでもない。
「新聞」も「婦人参政権」も同様である。
「日本化」よりも「近代化」というべきものばかりである。*1
「近代化」と言えばよい場面で、知里は、「日本化」と言ってしまっている。
彼の中で、「日本化」と「近代化」(「新しい文化」)とが混同されているのである。
マイノリティの「同化」と「近代化」
古い伝統を忘れ去って、一日も早く新らしい文化に同化してしまうことが、今ではアイヌの生くべき唯一の道なのである (略) それとともに、捨てて置けば当然に跡形もなく朽果ててしまったはずの古い生活の断片を、僅かながらも私自身の手に掻き集めて後世に残すことを得た愉快さを私はしみじみと感ずるのである。 (170、171頁)
やはり、「新らしい文化に同化」と「日本」とが、混同されている。
知里は、同時代のアイヌは「新らしい文化に同化」すべきであり、その上で、「捨てて置けば当然に跡形もなく朽果ててしまったはずの古い生活の断片を、僅かながらも私自身の手に掻き集めて後世に残す」ことを望んだ。
まるで、近代化を受け入れつつも、消されていく民俗の記録と記憶を残そうとした、日本の民俗学者たちのようである。
違うのは、知里にとって、「新しい文化」を取り入れることは、日本に「同化」することと不即不離だったということだ。
日本の民俗学者なら、近代文化を取り入れることと「日本化」を取り違えることはしない。
だが、知里の場合、二つは密着したものとしてあった。
彼の立場がそうさせた。
被支配マイノリティの知識人としての苦しみが、おそらくそこにある。
母語はアイヌ語ではなく
次に、知里の生涯についてみてみる。
藤本英夫『知里真志保の生涯』(草風館)を読む。
- 作者: 藤本英夫
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父母がアイヌ語を使ふのを殆ど聴いたことがなかつた。(略)亡姉幸恵は別として、私達兄弟は少年時代を終へる迄殆ど母語を知らずに通した。 (26頁)
これは、『アイヌ民譚集』の「後記」に書いてある。
彼にとって、母語はアイヌ語ではなかった。
彼の一家が、比較的日本に「同化」したアイヌの一家であったためである。 *2
「意識的にアイヌ語を学び始めたのは、実に一高に入ってから」(57頁)である。
いじめ
級長のとき、(略)あるとき、「右向けッ、右」と号令したところ、クラス全員が、いっせいに左を向いてしまった。旧友はみんな和人の少年たちだった。 (53頁)
体育の時間、成績が優秀だったゆえにクラスの級長をやっていた彼が受けた仕打ちである。
不登校になるレベルである。
そこで彼は、自分で成績をさげる努力をし、級長になるのを避けた。その手かげんを、苦痛の時間をサボることによってしていたらしい、と彼をしる人たちは当時をふりかえる (53頁)
彼はわざと自分の成績を下げた。
話術
話術の巧みな真志保の、得意な艶っぽい話を折りこんだ文学談が、女たちに人気があった (123頁)
知里は頭がいいだけではなく、話も面白かった。
そのため、後述のように、戦中期に樺太で学校の先生をしていた時の彼の授業は、厳しいながらも面白いという評価を受けた。
傲慢な(?)天才
しかし、「ありがとう、とはいわなかった」と、ミサオはくやしがる。 (133頁)
知里は、自分に献身的な妹にも、感謝の言葉を言わなかった。
原稿を失い、妹がしまっておいた「かきちらし」で難局を逃れた知里が見せた態度である。
天才ゆえの傲慢なのだろうか。
学問にプライドを持っていた知里の一面でもある。
樺太時代
こんなしつけのせいか、菊組は、全校の模範といわれたが、「私たちは身動きができなかった」と、いう。 (150頁)
授業は厳しかった。
先述した、樺太の女学校の先生をやっていた時代の話である。
引き揚げ後のクラス会で、いつもあの先生だけを呼びたくなったのは、言葉にはいえない魅力があったからかもしれない (155頁)
その女学校、樺太庁立豊原高等女学校二六期菊組の教え子たちの話。
実際、知里の国文法などの授業は面白かったらしい。
彼は、学生たちに好かれていた。
他民族を「土人」呼ばわりする知里。
知里さんは、ギリヤークやウィルタに関心がなかったわけではないが、強い関心を示さず、オタスにも二回ほどしかいかなかった。そしてギリヤークやウィルタは土人だ。アイヌより低い。アイヌには文学がある。アイヌにはものによっては日本人より高い、と荒い口調でいっていた (192頁)
親しかった研究者・山本利雄の証言である。
彼はウィルタやギリヤークを下に見ていた。
そうしてまで、アイヌの凄さを示したがった。
「アイヌに比較する対象を求めて、ふだん差別されている感情の息抜きにしていたのではなかったか」と山本はいう。
「アイヌにはものによっては日本人より高い、と荒い口調でいっていた」という言葉から見える悲しみ。
差別感情が連鎖するのを見た時、いつも、いたたまれなくなる。
孤独の人
氏はおそらく、日本人の学者たちの間で孤独であったばかりでなく、”選ばれたるもの”であったがために、同族の間でも孤独であったのだ (200頁)
これは、武田泰淳「知里さんの死をいたむ」の一文である。
知里が『アイヌ語入門』で同業者を激烈に批判したことはよく知られている。
また、彼はアイヌの中でもエリートに属し、一般の貧しいアイヌとはまた立場は異なった。
かれは、日本の学者たちの中でも、また、一般的な「アイヌ」からも、距離のある人物だった。
民族としての「アイヌ」
(アイヌは)明治以来の同化政策の効果もあって、急速に同化の一途をたどり、いまやその固有の文化を失って、物心ともに一般の日本人と少しも変わらない生活を営むまでにいたっている。したがって、民族としてのアイヌはすでに滅びたといってよく、厳密にいうならば、彼らは、もはやアイヌではなく、せいぜいアイヌ系日本人とでも称すべきものである。 (259頁)
平凡社『世界大百科事典』の「アイヌ」項、知里の執筆である。
この論法が正しければ、日本のマジョリティ(シャモ)は、例えば江戸系日本人のように、呼ばれるべきということになる。
この話題は、すでに論じたとおりだ。
そして、モテた(爆発s(ry
彼の葬儀では、その三人の女性が、生花に埋まった棺の前で嗚咽していた。 (262頁)
知里が結婚した女性三人を指している(三度の結婚、二度の離婚)。
知里は二度、己が原因で離婚している。
敬愛していた叔母にも、それで冷たい目を向けられたほどである。
最後に
ちなみに、藤本『知里真志保の生涯』には、「I」という名前で出てくる人間がいる。
これは、今井栄文である。*4
旧制一高でこの今井が、知里真志保をいじめていた。
事の詳細についてはこのページを参照あれ。
あと、旭川アイヌ給与地紛争事件で知られる天川恵三郎*5や、知里の盟友・山田秀三*6とのエピソードも出て来るし、風巻景次郎*7の名前も出てくるのだが、これらの話題は省略する。
アイヌの問題は、とうぜん、北方領土問題(先住民としてのアイヌたちの存在)にもかかわるのだが、それについても省略する。
(未完)
*1:おそらく、日本語とひらがなカタカナくらいである。
*2:少数民族の成員資格の問題については、http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20100327/1269679158等をご参照あれ。
*3:http://d.hatena.ne.jp/Mukke/20100311/1268289777の米欄によると、知里真志保の認識は「1960年代の民族概念」の「ナロードノスチやナーツィア」に似た把握であり、「ILO条約」も「1960年代は同化を善として把握し」ていたとのことだから、知里の考えは特異なものではなく、同時代的なものだったといえる。
*5:例えば、http://www.koubunken.co.jp/0375/0362.htmlなどを参照。
*6:山田は、Wikipediaの記述で分かるように、「戦前はエリート官僚として東條英機首相とも交友があり、戦後はアイヌ語地名研究家として」活動した異色の人物であり、藤本著の中でも、現地調査(アイヌ語の地名解釈)では知里を超える能力を持っていた、的なことが書いてある。