「警察がRAAを作り、RAAから”夜の女”が出現し、その取り締まりのために婦人警察官が必要とされた」 -池川玲子『ヌードと愛国』について-

 池川玲子『ヌードと愛国』を読んだ。
 実に面白い。
 タイトルは、『ラーメンと愛国』を模したものだろうが、内容としては、『ヌードを通してみた、近現代日本における女性及び女性表象の扱い』みたいな感じである。
 本書には、僅かに、出光真子(某出光の経営者の娘であり、映像作家であったひと)の話も出て来るのだが、この人については、またいつかする(かもしれない)。

ヌードと愛国 (講談社現代新書)

ヌードと愛国 (講談社現代新書)

 以下、興味深かったところだけ。*1

大衆メディアとヌードとアリバイ

 女子のスポーツブームに便乗した大衆メディアは、女学生の伸びやかな身体を、「性的」なお楽しみとして読者に供給しはじめる (69頁)

 女性性のイメージの転換として大きかったのが、女子のスポーツブーム(むろん戦前)である。
 このブームを、大衆メディアは、お下劣に利用した。
 載っている画像が、まあ、アレである。*2
 この女性の表象の転換(大人しい「深窓」感ある女子から、のびやかな身体の女子への転換)と、竹久夢二の「抵抗」、そして「挫折」が本書で描かれている。

帝国とマイノリティと共犯

 板根は、アイヌの「伝統的な暮らし」がすでに失われているという致命的な事態に行き当たる。結局、普段は「ハイカラなジャケット」を着ているアイヌの人たちに、博物館から調達した厚司を着せて撮影 (126頁)

 北海道において、アイヌを取り上げた「ドキュメンタリー」である『北の同胞』(1941年)を撮った女性監督・坂根田鶴子のエピソードである。
 ここに、拭いきれぬ「帝国」の暴力がある。
 そして、女性の映画監督という「男社会」の中のマイノリティ(あるいは、社会的に劣位にある者)が、自分の力を発揮できる場所を見出していく結果として、「帝国」の力に手を貸してしまう、という痛ましい「共犯」的な行為がある。*3

ああ 憧れの満洲航路

 当時、農村の女性に期待された役割は、「良妻賢母」に対して「働妻勤母」と称されていた。家事は「二義的なもの」、育児は「片手間でしかできない」ものであった (135頁)

 実際、家庭内教育は片手間にしかできない現状があった。*4
 満洲国への女たちのあこがれは、背負わされる役割を打破できるのではないか、という願いにあった。
 著者は出典として、古久保さくら「昭和初期農村における母役割規範の変容 雑誌『家の光』をとおして」を挙げている。
 曰く、「農業を業としている夫を持ちながら、自らを農業労働力として以上に妻母役割を担う存在として位置づけ、自らの関心の対象が「家」にも舅姑にもなく、夫と子供にのみあるという農村女性のあり方は、まったく新しい農村家族イメージを示すものであった」。*5
 では、満洲国の現実はどうだったのか。

満洲の現実と帝国への荷担

 『開拓の花嫁』が作られた時期の「大陸の花嫁」たちの状況とは、手助けしてくれる親世代がいない状況で、産み、育て、働かねばならないというひどく過酷なものだった。(略)総動員体制と母性保護の矛盾は、(略)満洲の移民地においては、人口の急激な増加と医療インフラの不備が、その矛盾を極限にまで押し広げていた。 (138頁)

 先ほども話題に上がった坂根が、満洲で撮った映画『開拓の花嫁』(1943年)の話である。
 この映画は、実在の開拓団を登場させた、「宣伝映画」だった。
 満洲での明るい生活が描かれている映画なのだが、しかし、映画を撮影していた当時の満洲の実状は引用部の通りだった。
 『開拓の花嫁』の中で描かれた女たちにとっての夢のような生活というのは、当時の現実ではなくて、今後改善されるであろう(政府側の)政策的な「展望」を描いたものでしかなかった。
 坂根はまたもや、「帝国」に協力することとなった。

 なお、このフィクション映画に出演した、実在の「埼玉村開拓団の中で、子どもを連れて引き揚げることができた家族は一つだけだったと聞く」と著者は記している。

日米、現地の婦人警官の利用法

 敗戦以前から、日本には婦人警察官なるものをプロデュースした経験があったし、そのことを、当時の一般的な日本人たちはよく理解していた。(略)一転、日本は支配される側に立つことになった。マッカーサー率いるGHQ/SCAPが、「抑圧されている女性たちを解放する為にやってきた正義の味方」として「日本婦人の解放」を強力に推し進めたことはいうまでもない。  (152頁)

 日米における、現地の婦人警官の利用法である。
 日本も大陸現地で、婦人警察官をプロデュースしている。*6
 敗戦後、占領下で、日本は同じ方法を米国に適用されるに至った。
 そこにあるのは、「女性を解放する正義の見方」という立場である。
 この光景は、かつてインドのサバルタン問題(サティ問題)に重なる所がある、ような気がする。*7

警察のマッチポンプ

 うがった見方をすれば、警察がRAAを作り、RAAから”夜の女”が出現し、その取り締まりのために婦人警察官が必要とされたわけで、これはマッチポンプ (159頁)

 著者は、RAAを作っといて、その結果生じた「夜の女」たちの取り締まり(後始末)を婦人警官にやらせてた現実を批判する。
 その上で、当時の映画について、「二種類の女性は、なぜ同じフレームに収まることがなかったのか。これは、女性史の側から問われてよい問題である」と言及する。
 要するに、RAAの女性が登場する映画には、婦人警官は出現しないし、婦人警官が登場する映画には、RAAの女性は登場しないのである。
 この現実とのギャップは、何を意味するのか。*8

高村光太郎と「超自然=女性」

 女性に対して、超自然的な浄化能力を求めずにはおれないという光太郎の激しい要求は、(略)光太郎の創作そのものと一体化したものだった。ゆえに、戦争が終わっても、なんら変化しなかった。 (193頁)

 光太郎とは、南光太郎(=てつを)のことではなく、高村光太郎のことである。
 『智恵子抄』では聖女的な存在としてあった、戦争詩では祭祀の巫女的な存在としてあった、「女性像」。
 結局、超自然的な存在として女性を求めた高村光太郎
 もし今の時代に生きていたら、アニメに携わっていただろう(こなみ

武智鉄二アンビバレント(?)な「女性観」

 武智という人の女性観は、極限的にアンビバレントなものであった。男女関係を社会構造的にとらえる視点と、女性を軽蔑してやまない視点。その二つを抱え込んでいた (200頁)

 武智鉄二、この優れた芸術家の原動力は、アンビバレンスにあった。
 例えば、伝統と革新との軋轢*9であり、上にあるような、思想上の男女平等の理念と作品中の女性「蔑視」との軋轢である。
 根本的な女性改造は、社会制度や教育学の問題と連なっていると1950年代に既に述べている武智であったが、一方で創作の時には、女性への偏見が丸出しであり、このギャップが凄い。*10

もしかしたらネオリベ

 晩年の弟子である作家・松井今朝子によれば、彼は(略)「戦前の軍国主義を肌で知る人として、大きな意味ではその延長線上に戦後の官僚主義国家があることを指弾」し、「六〇年代安保を契機に、むしろ反米的な左派系の民族主義」の側に立っていたという
 (202頁)<<
 再び武智である。*11
 基本的には、反米の人なのである。
 もし武智が90年代、ゼロ年代を生きていたら、反官僚主義系のネオリベさんに、なっていたりしたのかもしれない。

(未完)

*1:以下、ページ数を記載した。また、適宜補足も行った。2021/1/11

*2:本書では、『サンデー毎日』1923年10月5日号(健康増進号)の画像が掲載されている。以上、2021/1/11

*3:著者・池川の『「帝国」の映画監督 坂根田鶴子』が参照されている。坂根についてはWikipediaに記述がある。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%A0%B9%E7%94%B0%E9%B6%B4%E5%AD%90

*4:詳細は、広田輝幸著を参照のこと。http://d.hatena.ne.jp/haruhiwai18/20140310/1394463090

*5:この「ああー 憧れの満洲航路」だが、元ネタはむろん「ハワイ航路」である。

*6:1942年の文化映画『女警』というのが、本書で例として挙げられている。以上、2021/1/11

*7:片や伝統を根拠に女性の「殉死」を賛美する現地男性、片や近代性を武器に女性を解放する存在として支配を正当化する支配者側男性、そこに置き去りにされる現地女性の声(意見)、という構図である。サバルタンの問題については、例えばhttp://blog.goo.ne.jp/origenes/e/998c4bfaad4dd6857bddfa121af2d204等を参照のこと。

*8:当時の映画において、女の役目というのは、男の添え物か見世もの、ということだったのか。あるいは、映画の「経済性」の問題上、「女」は二種類もいらねえよ、ということなのか。

*9:これが武智歌舞伎などにあらわれている

*10:詳細については本書を(ry

*11:松井今朝子の名前が間違っていたので、上記引用部を訂正した。以上2020/12/14