不朽であることを望まなかった魯迅の文章が、今もなお読み継がれることの不幸(大意) -片山智行『魯迅』について-

 片山智行『魯迅』(中公新書)を読んだ。
 キーワードは、「馬々虎々」。
 本書の内容紹介を引用すれば、「欺瞞を含む人間的な『いい加減さ』」)のことであり、「支配者によって利用され、旧社会の支配体制を支えていた」もののことである。
 本書は、魯迅を「馬々虎々」と戦い続けた人と説く。

 魯迅はその著「阿Q正伝」において、「速朽」の文学である旨を書いた。*1
 不朽であることを望まなかった魯迅の文章が、今もなお読み継がれるべき強度を保っているのは、果たして幸福なことと言えるだろうか(反語)

魯迅―阿Q中国の革命 (中公新書)

魯迅―阿Q中国の革命 (中公新書)

 以下、面白かった箇所だけ。

「『フェアプレイ』は時期尚早だ」の背景

 魯迅は公平な第三者の立場に立ったような顔つきで権力者の側に立つ、陳源のような「学者」「文人」の卑劣な言論を徹底的に憎んだ。 (188頁)

 魯迅は、そういう人だった。*2 *3
 彼の有名な「『フェアプレイ』は時期尚早だ」は、この精神によるものである。*4
 「公正」である議論が結局一方向にしか機能せず、権力側に加担している点を問題視したのである。
 「自称中立」問題、といっても良いかもしれない。*5

最悪の「馬々虎々

 魯迅が中国の政治状況のなかで見出した最悪の「馬々虎々」が、この四・一二クーデターであった。 (212頁)

 増田渉は魯迅から次のことを聞いたという。
 最初は国民党を褒め、革命の恩人だとして、ソ連から来たポローヂンの前で学生たちに最敬礼をさせたりした。
 学生たちは共産党に入った。
 ところが今度は、共産党員ゆえに彼らを片っぱしから捕まえて殺した。
 殺し方も、刻み切り、生き埋め、親兄弟ごと殺す、など。

 どこかのちの反右派闘争にも似た光景が、展開された。

信じてないものを強要すること。

 魏晋の時代には、礼教を尊崇した者は、一見たいへん立派なようですが、じつのところは礼教を破壊し、礼教を信じていなかったのです。 (215頁)

 魯迅は、先の四・一二反共クーデターの三か月後、危険な状況で講演を行っている。
 表向きは、阮籍が司馬氏からの婚姻関係の申し出を酔いつぶれることで逃れた話。
 だが、ウラにあるのは国民党反動派への批判である。
 彼らの言う「革命」は、かつての権力者たちの「尊孔崇儒」と同じであった、という。

 日本の愛国者やら尊皇家のツラをする者にも、こういうのが多そう(こなみ *6

(未完)

*1:こちらのブログの文章http://henmi42.cocolog-nifty.com/yijianyeye/2008/10/post-bc92.htmlによると、「彼は決して“不朽”(後世まで残る)を求めず、自分の作品は“速朽”(早くなくなる)でよいと言っている。 彼は、自分の作品の中で描かれている不幸な現実が早くなくなり、将来にまで影響が残らないよう望んでいるのだ。」

*2:念のため(?)書いておくと、魯迅は、自分たちの陣営に近い人間も批判している。例えば、自分たちの「馬々虎々」を棚に上げて、他人を断罪、中傷する「革命」陣営(周揚ら)を批判している(230頁)。

*3:「公平な第三者の立場に立ったような顔つき」の輩を批判した文章、最近の優れたものとしては、http://b.hatena.ne.jp/entry/lite-ra.com/2015/06/post-1160.html等が挙げられるだろう。

*4:「『フェアプレイ』はまだ早い」を書くに至った彼の環境については、http://blogs.yahoo.co.jp/otiani/45247406.html参照。

*5:自称中立問題については、http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/CloseToTheWall/20080107/p1http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20150406/1428763248等を参照。

*6:なお、魯迅については、「わが節烈観」http://blogs.yahoo.co.jp/otiani/53701052.htmlや、「ノラは家出してからどうなったか」http://amanoiwato.info/?p=266もおすすめ。