「疑わしきは罰せずはわが東大医学部には通用しない」とか言われたら、そりゃ決起するやろ 山本義隆『私の1960年代』を読む(続編)

 前の記事の続き*1

私の1960年代

私の1960年代

 

法の常識が通用しない医学部

 疑わしきは罰せずとは法の常識ではあっても、わが東大医学部には通用しない  (112頁)

 もともと、東大医学部の学生処分問題が、著者の学生運動にかかわるきっかけとなった。
 実は、医局長とのトラブルの件でなされた処分者には、実際にその場にはいなかった学生までも含まれていたという。*2
 この件に対して、医学部長が言い放った言葉が上記のものである。*3 *4
 「私たちが求めていたのは、処分が誤りであったことを認めたうえで、その責任を明らかにすることを当然含意していた」(277頁)。

「安全パイ」

 私は、どの党派の色もついていない安全パイみたいなもので (155頁)

 著者が東大全共闘代表というリーダーになった経緯である。
 もともと東大闘争は医学部中心であるから、医学部から代表を出すべきということになった。
 しかし著者は、代表に選ばれた。
 ①どの党派にも属さしていない、②学生から見れば「歳を食っていた」、③調整役としての役割に終始していた、といった理由で自分は代表に選ばれた、と著者本人はみている。*5

日大全共闘への評価

 本当の意味での「全共闘」を作りあげたのは日大です (156頁)

 日大全共闘は、その圧倒的動員力、機動隊や武装右翼とのゲバルトで強かっただけではなかった。
 学生大衆の正義感と潜在能力を最大限に発揮し、戦後最大の学生運動を成し遂げたのだと著者はいう。*6
 日大全共闘秋田明大氏も、こういう良本をいま書いてくれないだろうか(マテ

安保世代と全共闘

 東大全共闘の中心にいた全闘連と青医連の中枢、そして助手共闘のメンバーは、ほぼすべて六〇年安保闘争の経験者 (162頁) 

 ある「日本現代史のある研究者」が東大闘争における安保世代と全共闘世代の対立、のようなことを書いていたことに対する反論である*7
 じっさい、例えば今井澄の経歴をみれば、よくわかることである*8

『東大闘争資料集』

 コピーなりマイクロフィルムに複製して各大学の図書館に配布しておくべきではないのでしょうか。 (123頁)

 丸山真男に対しての言葉である。
 「古新聞」が世界に一部しかない貴重な歴史資料だというなら、それを一つの大学の一つの学部が独占所有するのはおかしいし、だれでもアクセスできるようにしなければならないのではないか、と著者はいう。
 じっさい、著者自身はそうしたのである。*9
 そして、この件については、完全に著者が正しい。

大学で今まさに起こっていること

 とくに大学のトップにおける事務官僚との癒着により、それはより容易に促進される (287頁)

 学内の「官僚機構」の整備と意思決定システムの中央集権化、情報管理の一元化は、大学が国家の官僚機構に直結し、その末端に包摂される道を開くものである、と著者はいう。
 そして、そうした動きは全共闘時代から既に始まっており、その延長線上に今があると著者は述べている*10*11
 この点は、ウェブで見た限り、他の書評ではあまり取り上げられていなかったように思うので、念のため書いておく。

 

(未完)

2019/10/24:追記。詳細は註にて。

*1:自分でつけといていうのもなんだが、タイトルが実にひどい。

*2:「研修カリキュラムを自分で作りたいと言っても大学は話し合いに応じない。病院長を捕まえようとしたら医局長が割り込んできて小競り合いになった。学生、研修員が大量に処分される。局長だけに事情聴取をするが、学生には事情聴取なし。その場にいなかった学生まで処分された。」というのがより詳しい流れである。https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/32196031.html

*3:「学問の自由」が完全に「大学の自由」にすり替わってしまっているように思われる。この件については、http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20111210/p1等参照。

*4:追記(2019/10/24):「疑わしきは罰せずとは法の常識ではあっても、わが東大医学部には通用しない」という言葉について、同時代の文献では複数のバージョンがあるようである。生越忠『東大 東大紛争の原点』(1968年)のように、「疑わしきは罰せずというのは英国の常識であり、わが医学部は、そのような道理に支配されない」としているもの、あるいは、折原浩『大学の頽廃の淵にて 東大闘争における一教師の歩み』(1969年)のように、「『疑わしきは罰せず』などとは英国法の常識であって、わが東大医学部は、そんな道理には支配されない」であるものがある。『嵐の中に育つわれら 東大闘争の記録』(1969年)、佐藤友之ほか『東大閥』 (1972年) などは、「英国の常識」のほうを採用している。疑わしきは罰せず(in dubio pro reo)は、その言葉がラテン語であることからわかるように、元はローマ法にまでさかのぼる概念である。「英国の常識」というのは、現時点ではその発言意図は不明である。ちなみに、発言者が豊川行平であることはどの文献も一致する所である。

*5:全共闘は『いくつかの政治党派の活動家と無党派の活動家の複雑な関係』(149頁)から成り立ってもいた」というが、そうした「党派」関係について、本書であまり詳しく触れられていない。(小杉亮子「語る、語らない、語りえないのあいだ 山本義隆『私の1960年代』を読み解く」http://gendainoriron.jp/vol.08/rostrum/ro06.php) 調整役としての苦労のもっと具体的な点は、確かに気になるところである。

*6:実際、「60年安保社学同委員長」は、「党派とか前衛意識とか、そういうものから離れた日大の闘争は、そういうものとは無関係なものだなと、本当に新しい学生たちが自分たちで闘争を盛り上げて行く、とても素晴らしい闘争だなと、唐牛とも話をしたのを覚えています」。という風に言及している(「No373 日大930の会公開座談会「日大闘争は全国の全共闘からどのように見られていたのか」(後編)」『野次馬雑記』https://blogs.yahoo.co.jp/meidai1970/32414233.html)。この座談会では、「国際的な労働運動を見れば、どこかの工場がストライキに入れば、他の工場も連帯ストに入る、そういうものが問われていたと思う」や、「中大の学費値上げ反対闘争の勝利の段階と同じような気分になって帰ってきたが、翌日に佐藤首相の介入があって白紙撤回した。日大闘争を権力闘争にしたのは政府側である。大きな節目は9・30だったのではないかと感じた」といった重要な言及が見られ、是非読まれるべきである。

*7:「日本現代史のある研究者」が誰のことなのかは明記されていないが、おそらくは『1968』を著した小熊英二であるように思う。実際、小熊は安保闘争については肯定的な書き方をしていたはずである。

*8:今井も安保闘争にかかわりがある。

*9:自費で『東大闘争資料集』を23巻にまとめて国会図書館などへ納本した。https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I000002337700-00 その苦労は、https://kingfish.hatenablog.com/entry/20160426で引用されているように、「1990年の頃に何年もかけて、東大闘争のビラ等の資料全5000点あまりを蒐集し、その『東大闘争にかんする唯一の一次資料』、いまでは掛け値なしに『世界に一部しかないもの』を、誰でもその気になれば閲覧することができるように、ゼロックス・コピーでハードカバー製本、全23巻(別巻5巻)の『東大闘争資料集』として、マイクロフィルム3本とともに国会図書館に収めました」。「さらに、そのマイクロフィルム大原社会問題研究所にも寄贈し、また、まさに世界に一部しかないその数千点の資料原本を、マイクロフィルムとともに、千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館に寄贈しました。もちろんそのためには、相当の労力と時間を費やしましたし、またそれに要した経費は相当の額になりますが、すべて私の自腹です」というものである。

*10:或る書評は、「『総長室』が情報を独占的に管理し、すべてを取り仕切る体制=『加藤近代化路線』が完成した。学部長会議や評議会は単なる事後承認機関に成り下がった。文部省や中教審が意図してきた『管理』と『教育・研究』の分離を大学の側から先取りするものであった。併行して『学部自治』、『教授会自治』は解体していった」とまとめている。http://kazurinn-2012.blogspot.com/2015/11/blog-post.html

*11:1970年の東大学生自治会中央委員会改革問題小委員会「東大改革の現状と展望」(大学問題資料調査会編『大学問題総資料集 5 』(有信堂、1972年)所収)には、すでに「総長室体制」という語が見える。
 以上この註は、2020/3/28に追記した。