児童図書を監視する機関を提唱したり、童話集を出版したりした森銑三 -柳田守『森銑三』を読む-

柳田守『森銑三 書を読む“野武士”』を読んだ。 

森銑三―書を読む“野武士” (シリーズ民間日本学者)

森銑三―書を読む“野武士” (シリーズ民間日本学者)

 

 「民間史学者として立ち、手堅い実証と対象への温かい眼差しによる幾多の人物研究を遺した森銑三。だが彼は温厚篤実だけの人ではなかった」という紹介文にある通り、森の知られざる(正直よろしくない)面にも光を当てた書。*1
 特に面白かったところだけ。

山崎闇斎の矛盾

 自分らの価値観を基準にして、「沙汰のかぎり」とか「苦々しい」という見解が固定してしまっている (79頁)

 森自身ではなく、山崎闇斎に関する話題である。*2
 闇斎は、古代のことを後世の道徳的な考えなどで判断してはならない、という考えを持っていた。
 しかし、山崎闇斎日本書紀における近親相姦に関する記述については、(後世の道徳観では)「御徳義」が汚されてしまう、このような解釈はすべきではない、とした。*3

 この態度は、古代のことを後世の道徳的な考えなどで判断してはならない、という彼の持論とは矛盾してしまっているのである。*4

江戸川乱歩」の文章力

 ところがそれは、原文の語順のまま訳語を並べたに過ぎない、まさに横のものを縦にしただけの原稿で、文章の体をなしていなかった。 (83頁)

 森銑三江戸川乱歩という人物に小説の翻訳を依頼した。
 ところが、ポーの「鐘楼の悪魔」の翻訳はひどかったようだ。
 そのため森は、文章になるよう書き改めることになった。
 彼の語学は、当時すでに天才的だったようなのだが。
 ここでの江戸川乱歩とは、本名平井太郎、『怪盗二十面相』の作者のほうではなくて、辻村義介という別の人物である。*5

「児童図書を監視する機関」を提唱する森銑三

 児童図書を監視する機関の必要を感じざるを得ぬ (184頁)

 森の昭和8年の日記にある記述である。
 春陽堂の少年源氏物語に、森にとって不穏当な記述があった。
 これに森は、規制すべきではないか、と書き残している。*6
 池田亀鑑のように、自身の手で読まれるような児童図書を書くという発想はなかったのだろうか*7

武烈天皇と教科書

 従来は教科書にものっていた歴代天皇についての批判的な記述 (205頁)

 武烈天皇は「孕婦の腹を割きて其の胎を観す」、「人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう」などの悪行で有名であるが、この内容、明治12年の小学校の日本史にはまだ記載されていた。
 この事実が消されるのは後年の出来事である*8

田岡嶺雲社会主義

 田岡嶺雲(一八七〇 - 一九一二)を社会主義者とみる大かたの見解に不服をとなえている (213頁)

 森は左翼思想が嫌いだった。

 そのため、「田岡嶺雲の本領」などで取り上げた田岡嶺雲社会主義者とみる見方を好まなかった*9 *10

 だが、嶺雲は、詩人の題目は花鳥風月や恋愛だけではなく、少しは貧民問題を研究せよと述べている人物である。
 そうした問題を研究できるのは文学者だけだ、と。
 文明開化は貧民の職を奪い飢え死にさせるだけである。
 試しに貧民街に入ればだれでもその悲惨な生活に慄然とおののく。
 代議士も金持ちと強者の寡頭政治だし、彼らの多くは貧困状態を訴えるのに筆で訴えることはできない。
 彼らの舌となり絶叫できるのは文学者だけ。*11

 そうしたことを書いている人物なのである。
 やはり十分、社会主義にカテゴライズされるように思う*12 。

 少なくとも今生きていたら、熱湯浴に「サヨク」呼ばわりされていただろう*13

 

(未完)

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*1:実際、荒木優太氏は「森のこういった側面は、数少ない評伝にして決して森礼讃に終わっていない名著」と書いているhttp://www.en-soph.org/archives/43393758.html

*2:森が山崎闇斎について書いていることはよく知られていよう。森銑三著作集だと第八巻に収録されているようだ。http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000001232304-00

*3:アマテラスとスサノオとの近親相姦という「奥秘ノ伝」を唱えた吉川惟足に対して、保科正之(と山崎闇斎)が迫った。その結果惟足は、さらに深い秘伝では近親相姦ではない、というふうに弁明した。それを聞いた闇斎は、惟足のいう「奥秘ノ伝」など実は出まかせだったのだ、と疑ったという。

 このエピソードについて田尻祐一郎は、保科正之と闇斎は、ともに「倫理的な発想」で神話を解釈していたとする(田尻『山崎闇斎の世界』(ぺりかん社、2006年)132、133頁)。

 以上、この註については、2020/3/26に追記した。

*4:後世の、才能の劣る後輩たちも似たようなことをしているように思うが。

*5:なお、「江戸川乱歩平井太郎二銭銅貨』デビューの一九二三年の前に、一九二一年『高原』誌上に『間島方面の宣傳戰一班』、一九二二年『エポック』誌上で詩『アインシユタインの頌』を発表した『江戸川乱歩』とは、(筆者注:「野川」)隆の七兄・野川孟」であって、辻村義介ではないそうだ。詳細は、變電社社主の記事http://hendensha.com/?p=4401を参照。

*6:この点については、先の荒木優太氏も触れていた。

*7:森と池田亀鑑との関係について、猫猫先生がふれている。http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20160311

 なお森は、池田について、国文学者でありながら、私などの考える国文学には遠い人、と批判を行っている(「雑記帳」(『森銑三著作集 続編 第12巻 逸聞篇 3』、中央公論新社、365頁))。以上、2020/2/13に追記した。)。

 と思ってたら、森は1943年に、『瑠璃の壺. 支那童話』という本を出版していたようだ((http://iss.ndl.go.jp/books/R100000004-I000044320-00を参照。

*8:「明治初年の教科書にはあらゆる悪行の限りを尽くした天皇であれすべてあげていたのであるが、(引用者注:明治36年の)『小学日本史』においてはあくまでも『歴代天皇の盛業を教える』という要旨によって天皇が選択され、その「盛業」が延べられている」という(穴木黒助「歴史教育と『国民の物語』」)https://tadanorih.hatenablog.com/entry/20080327/1206561135 

*9:こちらのブログhttp://d.hatena.ne.jp/higonosuke/20120807によると、「森銑三は『田岡嶺雲の本領』(『明治人物閑話』中公文庫1988所収)で、『家永さんは必ずしもそうではないが』とことわりつつも、嶺雲を『社会主義者』の一言で片づけようとする風潮に異を唱えている」。

*10:森は、「田岡嶺雲の本領」(『新編明治人物夜話』(岩波書店、2001年) )において、嶺雲は「自分だけの社会主義」を唱えたのにすぎず、社会主義的運動に身を投じたりはしていない、と述べる(179頁)。また、皇室が国内外に誇るべき存在だと嶺雲が認めているとし(同188頁)、最終的に、彼の「花鳥風月」的な文学者たる側面を強調している(同191頁)。

 森の指摘する要素は事実であろうと思われる。ただし、柳田の指摘する嶺雲の文学的仕事を見れば、やはり、「社会主義者」とみることもまた、十分可能であろう。天皇を支持したとしても、「民主社会主義者」、とは言いうるのであろうし、運動しなければ社会主義者ではない、などという理屈も苦しかろう。

 以上、この註について2020/6/4に追記した。

*11:もちろん、こうした知識人による「代弁」というのは、「サバルタンは語ることができるか」という馴染の問題が絡んでくるであろうけれども、ここではそれについては論じることはしない。

 以上、この註について2020/6/4に加筆を行った。

*12:朱琳「田岡嶺雲とその時代 ある明治の青春」https://kuir.jm.kansai-u.ac.jp/dspace/handle/10112/6339にあるように、「嶺雲は自身が社会主義者と見なされるのを好ましくない」と思っていたし、「幸徳等は正統的な社会主義であつた、故に彼等は其主義として非戦論を唱へた。予は開戦論者で、此点に於て既に予は社会主義者たる資格を缺いてゐた」と嶺雲は自認していた。しかし、一方では、嶺雲は「予の思想を若し社会主義的なりとするも (中略) 予の社会主義(といひ得べくんば)は極めて簡単である。貧者に対する同情、只是だけである」、「予に社会主義の何たるを教へたものがありとすれば、カール・マークスでも無い、クロポトキンでも無い、寧ろヴィクトル・ユーゴーである、トルストイである、予の主義は科学から入つた者では無い、小説から注入せられた芸術的社会主義とでも謂ふべき者である」という風には言及している。そうした意味においては、やはり「社会主義者」と呼んで差し支えはないように思う。

 以上、2020/6/4に一部訂正を行った。

*13:さしあたり、研究者の西田勝氏のホームページから、参考になりそうな記事を紹介しておく。http://nishida-peace.world.coocan.jp/27a201108.jpghttp://nishida-peace.world.coocan.jp/28a201110.pdf