レオナルドの手稿に記されている発明品が、彼独自の発想とは限らない -片桐頼継『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』を読む-

 片桐頼継『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話』を読んだ。 

レオナルド・ダ・ヴィンチという神話 (角川選書)

レオナルド・ダ・ヴィンチという神話 (角川選書)

 

 紹介文にあるとおり、「自らは画家を称したこのルネサンスの巨人は、しかし、いっさいフレスコ画を描かず、一方で、完成された作品の数に比して膨大な素描・スケッチの類を遺した」、「素描、それを駆使して生きた、『イメージ・クリエーター』としての人間レオナルドを描き出す」のが本書の狙いであり、その狙いは成功しているように思う。

 以下、特に面白かったところだけ。

 

 すでに親方

 ヴァザーリがこの作品を理由にレオナルドを早熟と評していることが誤りであることは、すでに諸研究者の指摘するところであり (33頁) 

 ヴェロッキオとの共作「キリストの洗礼」は有名である。
 だが、実際には、その作品の完成時、レオナルドは既に修業を終えて画家組合に登録されたころであるという*1
 ヴァザーリの紹介するエピソードで、レオナルドが「とりわけ早く画家としての成長を遂げたという証拠にはなりえない」。

 先人から学ぶ

 レオナルドは一種の自動車のスケッチを残しているが、そうしたアイディアの原型はすでに一四世紀に現れていて、そのスケッチも現存している。 (14頁)

 傘のような形状のパラシュート的なモノ、水上歩行器、潜水具などの「発明」も、彼よりも年長のシエナのフランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニによって、ほぼ同じタイプの道具が既に「発明」されていたらしい。
 じっさいスケッチが残っている*2
 この人はミラノに赴いて大聖堂のクーポラを設計しており、レオナルドもその時に、彼に接触している。
 レオナルドの手稿に記されているモノが、彼の発想とは限らない、という一例である*3
 また、「レオナルドの素描画に登場する機械は、当時の技術力では実現不可能であり、製作したとしても欠点が多い想像上での機械であった」*4

 レオナルドの構想は太古の遺産の研究に基づくもので、彼は古代の文献を読んで有益な情報を得ていた。 (127頁)

 これも同様である。
 舞台を回転させる、回転運動で構造物を開閉させる、といったアイディア自体は、すでに古代ローマ時代に製作されていた*5 *6。 
 ただ、どんなふうに作っていたのかは定かではなかったため、具体的なことはレオナルド自身が考えるしかなかったのである。

逡巡の男 

 レオナルドは先人たちの作品を入念に観察し、するどく分析していた。なにがすでになされ、どのような表現の可能性が残されているのか。解決すべき問題はなにか。(169頁)

 彼は、先人の仕事を入念に観察して、仕事をするタイプだった。

 たしかに物事を冷静かつ正確に把握しようという態度がそこにはある。しかし当時の職人社会では、そのために仕事が遅れるようでは役に立たなかったのだ。 (37頁)

 重大ではないものについても克明なスケッチとメモを残すレオナルド。
 この性格は、彼を生涯苦しめることとなった。*7
 一方、先輩のボッティチェッリや後輩のミケランジェロは、手早くあらゆる仕事をこなした。

 完全主義と優柔不断が相まって、制作に入ってもまだ全体の構図が決まらず、習作素描を何枚も描いてはあれこれ試行錯誤を繰り返し、制作途中で構図を大幅に変更することさえある。 (161頁)

 レオナルドには、いつでも好きな時に筆を入れて書き直しができる画法が必要だった。
 そんな彼にとって、フレスコ画は不向きだった*8 *9
 緻密な筆致に基づく描写を得意とするレオナルドには、フレスコ画は向いていなかったのであろう。

後世への影響

 レオナルドは西洋美術史上、馬の表現をもはや完成させてしまったといっても過言ではない。 (212頁)

 レオナルドは馬が大好きで、素描やスケッチを若い頃から沢山残している。
 その影響は後世の画家に及び、ラファエロからルーベンスまで、馬の表現の基本は、レオナルドに負っている*10
 後世に与えた影響は相当大きかった。

 レオナルドは、素描家・製図家として、完成された作品とは別の文脈で、彼の存命中から確たる定評を得ていた (236頁)

 レオナルドの素描は、ラファエロが模写するなど、早くから画家の手本として注目されていた。
 そして、15世紀からすでに、彼の素描や図は他の画家によって模写され、版画化されて普及し始めていた。
 そうした点においては、やはりレオナルドはすごい男だったのである。

イメージ・クリエイター

 現在ならばいわばクリエーターとしてそうしたさまざまな場でアイディアを練っては実現することに彼が愉しみを感じていただろうことは、彼が残した数多くの素描やスケッチからも明らかである。 (117頁)

 レオナルドはミラノ宮廷で、舞台芸術から、舞台衣装、祝宴での衣装や小道具、ヘアデザインなど、総合デザインをしていた。
 この舞台では、「甘美で優雅な歌や音楽がふんだんに奏でられていた。レオナルドが得意とする自動機械を使ったこの見事なスペクタクルは、ヴェネツィアフィレンツェナポリ、フェッラーラ、パリ、教皇国等に、それぞれの大使からその光景が伝えられたという」*11
 ただし、その舞台の内容は、「様々な本を読んでも、なんだか抽象的で、一体どんなすごい演出をしたのかさっぱりわかりません」というのが正直なところだ*12

モナリザと複眼視 

 <ジョコンダ>は3D画像であり、複眼視までも考慮に入れた視覚的なシミュレーションなのである。 (227頁)

 あまり油絵について言及していないので、一応触れておく。
 レオナルドは、単なる鑑賞目的で絵画を描いたのではなく、三次元空間を記述するための完成されたシステムを求めたのだという。
 スフマートの技法も、複眼視を考慮している、と著者は書いている。 
 著者は、「ジョコンダ」は、実在の人物を描いたというよりも、レオナルドの頭の中で合成・再構成された存在であり、背景にある風景も、実在の自然を写したのではなく、自然を再構成しようとした試みであるとしている*13

 スフォルツァ城の博物館(余談) 

 まるで進化の過程をたどった古代生物たちの標本を見ているような気持になる。それほど現代人の常識からするとずいぶん風変わりな楽器が並んでいる (141頁) 

 当時のミラノは楽器大国でもあった。
 スフォルツァ城は現在、博物館となっており、沢山の楽器が展示されている。
 そこに陳列されている楽器の大半は、発展途上で現れては消えていったものである。*14

(未完)

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*1:「キリストの洗礼」の制作を1473~75年とすると、それ以前の1472年に「フィレンツェの画家組合(聖ルカのギルド)に登録」されているので、彼は駆け出しだったとはいえ、いちおうは親方であった。https://kotobank.jp/word/%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%B3%E3%83%81%28%E5%B9%B4%E8%AD%9C%29-1614700 彼はすでに6年以上の修業を経験していたことになる。

*2:パラシュートについては、https://www.alamy.com/pen-and-ink-drawing-showing-a-man-with-a-parachute-della-providentia-della-chuera-early-16th-century-source-add-34113-f200v-language-italian-author-martini-francesco-di-giorgio-of-siena-image227157838.htmlで発見できた。

*3:ロベルト・ティロースィ「謎なきレオナルド」(講演) https://ci.nii.ac.jp/naid/110008151268 は、「レオナルドは、産業革命による技術革新を待ってはじめて実現可能となった数々の発明をおこなった天才科学者としての名声を得るようになるのである。彼が残したデッサンには、飛行機やパラシュート、ヘリコプター、戦車といった先駆的な技術的発明案を見ることができるが、これらの装置が現実のものとなるためには、それから4世紀もの時を待たなければならなかった。20世紀になって、レオナルドが画家としてよりも科学者として名声を得るようになったのは、まさにこれらの発明のためである」としているが、本書はそうした言説に論駁していることになる。

*4:http://suacleonardo.blog130.fc2.com/blog-entry-31.htmlより。この文は本書を参考文献として書かれている。

*5:レオナルドは、プリニウス『博物誌』からアイデアを得たようだ。

*6:なお、2017年の熊本大学の研究によると、「ギリシア演劇とローマ演劇では、いずれも回転する舞台装置が存在したことが古代文献で明らかになっています。このようにメッセネの劇場で今回新たに発見された石列と収納室は、ヘレニズム期の劇場に移動式の木造舞台が存在した可能性が極めて高いことを示す重要な遺構であることが明らかになりました」とのことである。https://www.eurekalert.org/pub_releases_ml/2017-07/ku-m071117.php

*7:そう考えると、彼は職人としては向いていない面があったかもしれない。「芸術家」としてはともかく。

*8:下地の漆喰がまだ乾かないうちに手早く塗らなければならないからである。実際、最後の晩餐はフレスコ画ではなくテンペラ画である。

*9:コスタンティーノ・ドラッツィオ『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』(河出書房新社、2016年)にも、レオナルドは順序だって、思慮深く作業をする作家ではなかった旨、書かれている(177頁)。

 以上、この註は2020/4/7に追記した。

*10:ルーベンスによる「アンギアーリの戦い」の模写はよく知られている。なお、久保尋二は、『アンギアーリの戦い』について、ルーベンスの中央部のコピーは、直接レオナルドの壁画からなされたのではなく、フランス滞在時に誰かのコピーからなされたと考えられるという(「レオナルド年代記」(『芸術新潮』1974年5月号、新潮社、25頁)。

 また、Phillip John Usherの著作 Epic Arts in Renaissance Franceは、ルーベンスの絵は、Lorenzo Zacchiaの版画を基にしているという(当該書68頁)。

 以上、この註は、2020/3/28に追記した。

*11:https://ameblo.jp/davinci-codex/entry-10531124686.html。余談であるが、七つの惑星(を模した人間)が登場する舞台で音楽が鳴るのは、当時の音楽観によるものだろう。「古代ギリシャより、天体の運行が音を発し、宇宙全体が和声を奏でているという発想があり、これが『天球の音楽』と呼ばれた。その響きはきわめて大きいが、つねに鳴り続けているため人間の耳には気づかれないとされる」http://artscape.jp/artword/index.php/%E5%A4%A9%E7%90%83%E3%81%AE%E9%9F%B3%E6%A5%BD。つまり、当時の考えでは宇宙には音楽が鳴っており、それを舞台で表現したものと考えられるのである。たぶん。 

*12:http://sugimatamihoko.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-33cf.html

*13:著者はこの2003年の本において、モナリザ=ジョコンダ説が一応の通説として、<ジョコンダ>という表記を選んでいる。近年の説だと、「モナリザ=ジョコンダ夫人ではなくパチフィカ・ブランダーニ夫人」というロベルト・ザッペリの説が出ており、研究者の斎藤泰弘もその説を認めているようだhttps://plaza.rakuten.co.jp/rkadono/diary/201707300000/。あと、斎藤の「背景に描かれている風景こそは、 (略) 地球物理学的モデルを絵解きしたものだ、という解釈」も興味深いところだ。 

*14:こちらのブログがたいへん詳しいhttps://oiseaulyre.exblog.jp/25089973/ 、 https://oiseaulyre.exblog.jp/25089985/ 、https://oiseaulyre.exblog.jp/25089990/ 。確かに風変わりで素敵な楽器ばかりである。