ハムのお寿司があったり、化調が裕福な家庭で使われたりしていた「戦前」 -魚柄仁之助『食育のウソとホント』を読む-

 魚柄仁之助『食育のウソとホント』を読んだ。

食育のウソとホント 捏造される「和食の伝統」

食育のウソとホント 捏造される「和食の伝統」

 

 紹介文にあるように、「『旬』だからおいしい? 『日本型食生活』だから健康? 『食卓の団らん』が日本の伝統?・・・教育現場にしのみこむ怪しい「和食」賛美を、膨大な文献資料をもとに検証」するという内容である。

 著者の文体は独特であるが、それに慣れれば勉強になることは大変に多い。

 以下、特に面白かったところだけ。

砂糖が手に入らなかっただけの話。

 「砂糖は体に悪いから使わない」のではなく、「無いから使えなかった」だった (73頁)

 シュガーレス時代の日本人は、天然の果実や酵母や、酵素などでつくられたもので甘味を楽しんでいた。
 砂糖は国内では大量生産ができなかったし、輸入もできなかった。
 その代わりに、果物、味醂、甘酒、麦芽糖などを料理に使うしかなかった、と著者はいう*1
 じっさい本書によると、近代になって上層階級から徐々に砂糖を使いだしているようだ。
 砂糖は伝統的に(江戸期までは)日本人は使用してこなかった、という主張をよく聞くが、著者はそうではなく、本当は砂糖を使いたかったのに砂糖が十分になかっただけだと主張しているのである。
 確かにこの主張のほうが、明治期になって一気に砂糖を使いだしていく理由をより説明できている*2

白菜の近代

 白菜は江戸時代末期に大陸から伝わって来たものの、人びとが食べ始めたのは明治末期頃からです。しかも中華料理にならって、炒め物や煮物から始まったようで、その後漬物に使い始めます。 (150頁)

 著者によると、日本に入ってきたころの白菜は、今よりもっと硬く、その後品種改良*3されて結球型で柔らかい白菜となった*4
 なので、白菜漬が可能になった。

 戦前、ハムのお寿司、化学調味料

 ①ハムとかパンを使った米以外の寿司も和食として受け入れられていたし

 ②カラスミもどきとか梨もどき、鶴もどきなどのもどき食品は和食の得意技だった

 ③腐敗を防ぐための化学薬品は大正時代にはもう使われていたし

 ④化学調味料も有名料理店ではこぞって使い、裕福な家庭でも使っていた (220頁)

 「食の戦前回帰」とか言い出した飲食店チェーンに対して、それは史実に反していると著者はいう。
 実際、ハムについては、小泉清三郎『家庭鮓のつけかた』という明治43年に出た本に記載がある*5

 「パンを使ったお寿司」については、著者が別の著書で言及している*6
 カラスミもどきは「唐千寿」という名前で知られているし*7、梨もどきは馬鈴薯でつくるものがよく知られている*8
 鶴もどきの場合、1783年の『豆腐百珍続篇』に既に豆腐を油で揚げた「賽鶴羹(つるもどき)」という食品が載っているようだ*9
 腐敗を防ぐための化学薬品は、明治36年以降の省令においては、着色料や防腐剤等の使用は一般に自由で,有害物として特に指示されたものだけがその使用を禁止」された*10
 化学調味料は実際、たとえば「味の素」の場合、「昭和2(1927)年に宮内省御用達の認可」をもらっているほどである*11 *12
 なお、就活でその某社の説明を受けた人によると、その会社、「アレルギーなどは戦後生まれた=化学調味料や人工調味料などが原因であるという考え」らしい。
 それは既に回答されているように、「『味の素』社の創業は明治42年(1909)、アナフィラキシーという用語が提唱されたのは1902年、アレルギーは1906年。アレルギーが戦後のものとか化調が原因とかは現代の迷信」である*13

(未完)

*1:味醂については、「明治から戦前にかけては、一部一般家庭での使用が始まりますが、まだ贅沢品であり、日本料理店で使用されることが多かったようです」と全国味淋協会は書いている。 https://www.honmirin.org/knowledge/

*2:なお、鬼頭宏「日本における甘味社会の成立 : 前近代の砂糖供給」によると、「推計された最初の年である1874年の1人当り年間の砂糖供給量はわずかに1.4kgで、100年後の20分の1でしかなかった。1人1日当りに換算すれば4gに満たない。これは現在、コーヒー・ショップで出されるスティク1袋(3ないし4g)に相当する分量」だったのが、「明治初期から60年あまりで、供給量は11倍に増加した」という。そりゃ砂糖を使うわな。https://ci.nii.ac.jp/naid/110007057569

*3:仙台の松島湾の島で改良された。

*4:清水克志「大正期の日本におけるハクサイの普及過程:需要の高まりと種子供給体制に着目して」によると、「明治前期には,政府によって山東系のハクサイ品種の導入が試みられたものの,それは内務省勧業寮と愛知県に限定されていた.ハクサイを結球させることが困難であったため,内務省では試作栽培を断念し,唯一試作栽培を継続した愛知県においても結球が完全なハクサイの種子を採種するまでに約 10 年の歳月を要した」。そして、「結球種のハクサイよりもむしろ,栽培や採種が容易な非結球種の山東菜がいち早く周知され,三河島菜などの在来ツケナより優れた品質のツケナとして局地的に普及していった」というhttps://ci.nii.ac.jp/naid/130005635849山東菜は確か埼玉が有名だったはず。

*5: http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848995 の、本のページ数でいうと29頁目にその記載がある。肉を巻いた海苔巻きである。

*6:『台所に敗戦はなかった: 戦前・戦後をつなぐ日本食』に対する書評https://www.honzuki.jp/book/240737/review/159673/によると、

サンドイッチが日本の家庭に入ってきたとき、ありあわせのもので、パパッとつくるところから、日本人は「寿司」(特に重ね寿司)との類似性を感じたようです。オープンサンドは「握り寿司」。戦前のコメ不足の日本(都市部)で小麦を使ったサンドイッチは和風化が進みます

とのことである。

*7:たとえばこれhttp://www.tikaokaya.co.jp/syoukai/karasenjyusyoukai.html

*8:関本美貴,島田淳子「大正末期から昭和初期におけるじゃがいもの調理 ( 5)炒め物」
https://ci.nii.ac.jp/naid/110009485621 等を参照。やはり戦前からある料理である。

*9:久井貴世,赤坂猛「タンチョウと人との関わりの歴史」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007348666

*10:1967年の小高愛親「食品添加物行政の動向について」によると、

明治36年には「飲食物防腐剤取締規則」が生まれ,昭和3年に漂白剤を取締り対象に加えて「飲食物防腐剤漂白剤取締規則」になった。いずれも飲食物に有害物が使用されることを防止する目的で制定された点については現在の食品衛生法にもとつく規定と同様であるが,これらの省令においては着色料や防腐剤等の使用は一般に自由で,有害物として特に指示されたものだけがその使用を禁止された

という。指定されたもの以外の防腐剤の使用は自由だったのである。https://ci.nii.ac.jp/naid/130004110041

*11:味の素特別顧問・歌田勝弘氏がそのように証言しているhttps://www.foodwatch.jp/strategy/interview/37130。また、坂口由之「業種別広告シリーズ第11回 食品①調味料類」にも、「宮内庁御用達品 味の素」と記載のある伊藤深水画のポスターが載っている。http://www.yhmf.jp/activity/adstudies/40.html

*12:尾崎直臣「食品消費の地域差 (第4報) : 化学調味料https://ci.nii.ac.jp/naid/110004678343によると、戦前、「化学調味料は次第に受け入れられていった」。「戦前においては1930年代の後半にピークに達し(「味の素」の生産量でみても1937年の3,750トンが最高である)」た。ただし、戦前の消費は戦後のそれにくらべると桁違いに少なく、戦後の場合、1993年時点で化学調味料の国内供給量は1968年以降、ほぼ7万トン台を保っている。これは魚柄の言うように、有名料理店や裕福な家庭ばかりが使っていたことと関係するだろう。

*13:こちらのやり取りを参照のことhttps://twitter.com/tricklogic/status/1026474553260691461