内容は、紹介文にある通り、「弓・石庭・禅など、日本文化の情報がどのように外国に伝わり、それが日本にどのように環流して、日本文化を組み替えていったか。意表をつく視点から日本人のセルフ・イメージを探る」という内容である。
「禅」という、日本文化を説明する際に便利すぎるこの言葉を疑う者には、必読の書である。
とりあえず、面白かったところだけ。
仏教の教えに反している
戦災にあった同国民の受け入れを拒否するのは、やはりどうかと思う。現代風にいうならば、「人道上の罪」というのだろうか。 彼が傾倒した仏教の教えにも反する。 (145頁)
『弓と禅』の作者・ヘリゲルは、ナチ党員となって、戦前に出世し大学学長にまでなっている。
しかし、戦後に書いた「弁明文」では「党員証なし」と偽って書いている。
そして、彼は戦中に大量の難民受け入れを三度も断った*1。
そのことに対する著者の痛烈な批判が、引用した箇所である。
ヘリゲルは己が修めたはずの仏教に反する振る舞いをしたというのだから。
入ってよかった龍安寺石庭
石庭は、入ってもよかったのだ。 (180頁)
造園学の権威・田村剛*2が龍安寺の石庭を手放しに誉めたことが日本の庭園史での評価の一つのスタンダードになった。
だが、その田村が、『造園学概論』(1925年)において写真で示した石庭は、熊手で掻いていなかった。
そして写真には足跡のようなものも残っていた。
著者はそこから、庭園には入ってよかったのだと推理する。
じっさい、1799年に刊行された『都林泉名勝図会』にも、僧侶が石庭内に踏み込んだ姿が描かれている*3。
画像を見る限りでは、僧侶だけでなく、僧侶でない者*4も庭に入っている*5。
というか、熊手で掻いていなかったとは。
西洋化の波と鈴木大拙
そもそも、西洋化の波を被らなければ、大学教育を受けた者が、在家のまま仏教を論じるという大拙の生き方そのものが、ありえなかったのではないか。 (316頁)
先のヘリゲルの弓道に対する実践は、じっさいには禅ではなく阿波研造*6という人物の個人思想であり、ヘリゲルの『弓と禅』にはヘリゲル自身の創作に近い箇所すらある。
だがヘリゲルと著作を日本人が好むのは、日本人が好むような日本の「古きよき伝統」をヘリゲルが見せたからである、と著者はいう。
西洋人の禅理解の源は鈴木大拙であるが、彼の思想の大部分は西洋哲学への応答として形成された*7。
西洋を熱狂させた「禅」は、じっさいは明治の「新仏教」の産物であり、霊的経験の強調や制度的形式の軽視など、西洋人にウケた側面は、大部分は西洋に由来するものだったのである*8 *9。
そして、引用部にあるように、鈴木大拙の生き方自体が西洋化のおかげだったのである*10 *11。
「禅」は日本文化のアヘン
日本文化を生き物に喩えるならば、禅はトランキライザーのように外部から与えられた薬物ではないし、日本の封建的な部分に作用したのでもない。禅は、戦後の日本が外圧のストレスに直面したときに、多幸感を生む麻薬として自己生成したもの――「戦後日本の脳内麻薬」だったといったほうが、しっくりする。 (343頁)
日本文化を何でも禅と結びつけてしまう悪しき傾向*12。
結果、多様だったはずの日本文化像がステレオタイプに押し込められ、窮屈なものになってしまう。
そして、弓道や石庭は「禅」としか言えなくなってしまうのである。
宗教が民衆のアヘンだという言葉に倣うのならば、ここでいう「禅」は日本文化のアヘンとでもいうべきだろうか。
(未完)
*1:ヘリゲルのナチスに対する協力ぶりについては、著者の論文、「オイゲン・ヘリゲルの生涯とナチス : 神話としての弓と禅(2)」https://ci.nii.ac.jp/naid/110000509883を参照されたい。
関根正美は、先の山田論文を踏まえつつ、「禅とナチス入党との関係は定かではない。あるいは両者は全く関係などなく,ただの偶然に過ぎないかもしれない」と述べている(「スポーツ哲学の先駆者たち(2)」https://ci.nii.ac.jp/naid/40019534261 )。以上、2020/10/8にこの項目について、追記・加筆を行った。
*2:重森三玲が作庭家になったのも、同郷の田村剛の助言を受けて作り始めたのがきっかけだったという。重森三玲自身が「予の枯山水三部作に就て」という1928年の記事で、そのように証言をしているようだ(鈴木誠「ランドスケープ・デザインにおける『枯山水』の考察」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004307857 )。
*3:国際日本文化研究センターが画像を公開している。http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/rinsen/page7/km_03_04_019f.html
*5:龍安寺の石庭が禅と関係づけることが困難なことは、実際に本書を読んでご確認いただきたい。
*6:阿波研造は「禅にさえ距離を置いた」人である。一方、「皇国主義と軍国体制の結びつきに対する批判には思いも及ばなかった」と諸岡了介「時代の中の弓と宗教 : 阿波研造と大射道教」は言及している。https://ci.nii.ac.jp/naid/120005898774
*7:ロバート・H・シャーフの論文が参照されている。シャーフの論文は、日本語訳(ただし原文よりも短くしている。)が存在している。ロバート・H・シャーフ「禅と日本のナショナリズム」https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000002669050.html
*8:それに対して、
近年、日本で進んでいる禅籍の思想史的解読の成果からみれば、初期の神会の禅も、唐の馬祖の禅も、宋の大慧の看話禅も、また、鎌倉時代の道元の禅も、江戸時代の盤珪や白隠の禅も、みな、それぞれの時代の必然性から生み出された、それぞれの時代の禅であった。今日では、20 世紀の大拙の禅も、その時代の相のなかで相対的に看ることが可能であり、また必要でもあるだろう
という、ステファン・P・グレイスの意見もある(「鈴木大拙の研究 : 現代「日本」仏教の自己認識とその「西洋」に対する表現」http://jairo.nii.ac.jp/0250/00022252 )。それについては一理あろうが、それが、大拙による、禅の日本文化への影響の過剰な誇張を正当化するものではないことは、言うまでもない。
*9:鈴木大拙の日本文化論に対して、戦後の早い時期に鋭い批判を放ったのは、梅原猛「日本文化論への批判的考察」であろう。ttps://twitter.com/hayakawa2600/status/1084581399649107968
*10:飯島孝良は小川隆『臨済録』への書評において、「著者によれば,『唐代の有意味な問答が,宋代禅の際解釈によって言語と論理を超えた理解不能のものとされるようになり』,それが鈴木大拙等の『二〇世紀の禅言説にうけつがれていった過程』(22頁)があると」し、
大拙は昭和の激動の中で,その禅思想が資本主義とも共産主義とも共存し得ると口にし, 戦争問題を肯定もし否定もすることとなる。この点について著者(引用者注:小川隆を指す)は,「伝統的な禅の体験(禅を生きる)を知的意識(禅によって生きる)と接合することで近代社会との高次の連動をはたそうとした『即非』の論理,それは戦争という圧倒的で非情な現実の前に限界を露呈せざるをえなかった」
と述べている(飯島孝良「書評 小川隆著『臨済録 禅の語録のことばと思想』(内山勝利ほか編,『書物誕生 あたらしい古典入門』)」https://ci.nii.ac.jp/naid/40019006784)。本稿とは直接は関係しないが、鈴木大拙に対する、禅研究の専門家の意見として参照すべきと思ったので、ここで紹介しておく。
*11:元永常「鈴木大拙における禅仏教の論理と民族主義」は、大拙が「徹底的に伝統の教団制度を否定しようとした.この教壇主義を捨てることによって,大東亜戦争に参戦することの意義を見つけた」のであり、「仏教の制度的教団組織は,歴史的,政治的に意味はあるかも知れぬが,それ以上は出ない」と否定したのだというhttps://ci.nii.ac.jp/naid/110007131066。この主張が正しいとすれば、大拙は、西洋化の恩恵によってその立場を得て、その立場から戦争に参戦する意義を見つけたことになる。
*12:いうまでもないが、問題は禅自体にあるのではなく、何でもかんでも禅で日本文化を説明しようとするあり方に問題があるのである。念のため。