目的のためなら自分も他者も手段として酷使する松陰 -一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末』を読む-

 一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末』を読んだ。


 内容は、紹介文の通り、「司馬が書いた小説を史実であるかのように受け取る人も少なくない。しかし、ある程度の史実を踏まえているとはいえ、小説には当然ながら大胆な虚構も含まれている。司馬の作品は、どこまでが史実であり、何が創作なのか」を、解説する内容である。

 以下、特に面白かったところだけ取り上げる。

吉田松陰天皇

 司馬遼太郎は松陰の天皇崇拝者としての言葉は引用しない (36頁)

 松陰の天皇*1や忠誠観*2、対外論*3についてはあまり詳しく論じないが、もし明治まで生きていたら、目的のために自分も他者も手段として酷使する組織の長になっていたと思う。

松下村塾は武士の塾

 松下村塾は、特権階級である武士の塾 (39頁)

 武士身分は、全体の83パーセントを占めていた*4
 少数派として、町人と僧侶、医者などもいたようである。

少年テロリストを求めた松陰

 テロリストに仕立てたいから、死んでも構わぬ少年がいれば三、四人みつくろって、早く送れと依頼している(41頁)

 同志あてに手紙を松陰が送ったらしい*5

「草莽」に百姓は入らない

草莽崛起」と「百姓一揆」は区別していた (55頁)

 松陰の「草莽」観の実際である*6
 彼が書いた手紙によると、草莽が一揆を扇動して変革の起爆剤にするのだと述べている。

奇兵隊の身分差

 藩は一見して身分が識別出来る方法を幾つも講じた。 (121頁)

 奇兵隊は、庶民が入っても武士になれるわけではない。
 刀や銃は持たせてもらえるが、姓は公認されなかった*7
 武士になりたいという庶民の野心を巧みに操作して、ほんの数人を武士に昇格させて広告塔として使うなどの方法を用いたようだ。
 それでも人数が足りず、藩は半強制的に兵を集めたりもしている。

奇兵隊と被差別民

 被差別民を除いたと明言している。 (123頁)

 奇兵隊は被差別民の入隊を認めず、それでも望んで身分を隠して入ったものを「手討」にしている。
 高杉晋作は、山県らへの手紙で、被差別民を除外したと明言している*8

女台場

 工事現場はファッションショーと化し (144頁)

 長州において、台場築造(女台場)に女性たちが駆り出された時の話である。
 この時、藩がOKを出したのがきっかけで、絹の着物を新調して女性たちが競い合ったという。
 藩はあわてて新規のあつらえを禁じた。
 このようにして、日ごろ外出もままならない武家の女たちには、開放的で楽しいイベントでもあったらしい*9

赤禰武人

 いまなお赤根の霊は、奇兵隊招魂場である下関市桜山神社にも、東京九段の靖国神社にも祀られていない (156頁)

 赤禰武人のことである。
 けっきょく、赤根は復権しなかった。
 後年、名誉回復の話も出たが、山県有朋が強烈に妨害したのである*10

坂本龍馬と「参議」

 その「職制案」には「参議」として「坂本(龍馬)」の名が出ている (232頁)

 龍馬とともに新政権の人事案を練った尾崎三良の回顧による。
 龍馬が新政府の「職制案」を作ったとき、自分の名前を名簿に載せなかった逸話について、実際は、名前は「職制案」にのっていた、という話である*11

脱退騒動

 山口県では百五十年近くを経たこんにちでも「脱隊騒動」をタブー視する風潮が強く (246頁)

 奇兵隊の「脱退騒動」のことである*12
 結果、武力で鎮圧され、百人以上の刑死者を出した*13
 故郷に逃げて捕えられて自宅の畑で首を斬られた者、処刑場で最後まで暴れて抵抗した武士もあったという。

(未完)

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*1:松陰の天皇観は、桐原健真がいうように、「松陰は、日本固有の天皇の存在自体に基づいていた国学の主張を受け入れ」、「『神勅』が真実であると信じることは、みずからの尊攘運動の成就を信じること」であり、「『天壌無窮の神勅』は『皇国』たる日本が、未来永劫独立不羈でありつづける『神聖な約束』にほかならないと、松陰には考えられた」といった内容である(「今日のお題:【要旨】吉田松陰研究序説――幕末維新期における自他認識の転回(東北大学大学院文学研究科提出2004年3月博士号取得」 http://www.kinjo-u.ac.jp/kirihara/log/eid620.html ))。ただし、松陰は、死んだ年である1859年に書簡「子遠に告ぐ」において、「草葬の臣切に謂へらく、聖上社稷に殉じたまひ、天下の忠臣義士一同奉殉せば、則ち天朝寧んぞ再興せざるの理あれんや」と書いており、これについて張惟綜は、「松陰は『信』の視座に立脚して日本の天皇(皇国)の尊貴さとその永続を謡歌するが、注目すべきは、天皇が社稜、すなわち日本のために殉ずべきだという叙述」であり、「あるべき様態を実現するために己を犠牲にするような自己否定的な行動に移ると同時に、他者にもあるべき様態を目指すよう厳しく要請するのである」とその内実を述べている(「吉田松陰草莽崛起の思想--「信」から「行」へ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000842538 )。松陰は、天皇にすら「社稷」に殉ぜよと言うことをためらっていない。そういったタイプの「天皇崇拝」なのである。

*2:武石智典は、松陰の忠誠観について、

天皇が頂点に位置し,次に藩主毛利敬親が位置している。松陰は,既存の封建社会下における身分制度を否定したわけではなく,組織と個人を分離し,個人との関係性から忠誠観を構成し直したと言える。 (引用者中略) ゆえに,『草莽崛起』論とは,松陰が最終的に至った忠誠観は,天皇―藩主毛利敬親―草莽という位置関係の下で草莽が起すべきという主張であり,能力がある人間が天皇や藩主に取って代わって良いという論ではない。 (引用者中略) 朝廷―幕府―諸藩の構造の水戸学的勤王論でもなければ,天皇―臣民といった国学的勤王論でもない。天皇―藩主毛利敬親―草莽という忠誠観は,松陰,独自のものであり,水戸学や国学に分類することはできない

としている(「吉田松陰経世論https://ci.nii.ac.jp/naid/120005358973 )。松陰の身分観・忠誠観を考えるうえでも重要な指摘である。先の指摘も考え合わせると、松蔭は藩主にも「奉殉」を迫るであろう。

*3:先の武石智典論文は、松陰の「雄略論」について、

松陰の対外認識及び政策は,武力で近隣に進出する『雄略論』から,近隣の各地に市を置き,西洋列強同様交易によって国力を蓄えるという『雄略論』へと変化している。しかし,西洋列強を脅威と認識し,日本の独立を現実に脅かす存在であると考えていたことに変わりはない。

という風にまとめている。しかし、もし国力を増すことができれば、「西洋列強」同様に、十分「武力で近隣に進出」することも、松蔭は否定しないのではないか。すなわち、

松前藩を除くと未封の地である蝦夷を開墾し,諸侯を封建し,カムチャツカを奪うべきだと説いている。更に琉球を諸大名と同じように遇し,朝鮮に対しては,古と同じように朝貢させるべきであると説いている。また,北は満州を南は台湾と呂宋の島々を手に入れて,進取の姿勢を示すべきだと説いている

と、武石が『幽囚録』を敷衍して述べているように、である。ブログ・「万年書生気分」は、桐原健真吉田松陰の思想と行動』を踏まえつつも、

 松陰がこだわりを捨てた武力による対外戦略は、次のヨーロッパ諸国の国際秩序の中では、うまく戦争を遂行する能力によって、相手の力を計るという共通認識があり(ポール・ケネディ『大国の興亡』)、日本は軍事強国として東アジアで戦争を行わなければ、その一員として認められない世界へと足を踏み入れた。松陰の『懾服雄略』からの脱却は、『皇国』論の枠組みではなく、次の西洋の国際法秩序の中で復活を遂げた

と述べている(http://denz.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-7dcc.html )。この「ヨーロッパ諸国の国際秩序」に松陰が乗るであろうことは、先の彼の思考からして、十分に予想できる。

*4:別のブログの書評(「観楽読楽-観て楽しみ、読んで楽しむー」 https://mirakudokuraku.at.webry.info/201403/article_2.html )では、「松下村塾は身分、年齢隔てなく入塾を認めとしているが、実際は武士(陪臣も含む)が中心。士分53名、陪臣10名、地下医4名、僧侶3名、町人3名、他藩人(医師)1名、不明8名。」と、より細かく参照している。著者自身も、「松陰は国を守るのは武士であり、武士こそが第一と考え、身分秩序を重視していた」と朝日新聞にてhttp://d.hatena.ne.jp/ujikenorio/20180302/p5 発言している。

*5:「史実では、松陰は伊之助の実兄にあたる小国剛蔵に「きみの塾からやる気があって命を惜しまない若い少年を3,4人見繕ってくれないかな?」という、少年兵スカウト的なことを頼んでおりますが、流石にそこまではやらないようです」と、サイト「BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)」の武者震之助氏は述べている。https://bushoojapan.com/theater/hanamoyu/2015/04/12/47213 

 なお、このエピソードは、著者の『時代を拓いた師弟:吉田松陰の志』(2009年)にも、載っているようである。以上、2020/2/10に追記した。

*6:著者の勤める萩博物館の「長州男児、愛の手紙」展のフライヤー(PDF)には、「『草莽』とは、松蔭の場合、藩政に参画できない下級武士のことらしい」とある。 http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/event/1504choshuloveletter/images/choshuloveletter_chirashi_s.pdf#search='pdf+%E4%B8%80%E5%9D%82%E5%A4%AA%E9%83%8E+%E8%8D%89%E8%8E%BD' 

*7:袖印によって「一般的に、諸隊は身分を問わないというイメージがありますが、実際は身分による区別が、はっきりと設けられていたことがわかります」と、山口県立山口博物館の「奇兵隊の軍服の袖印 奇兵隊士元森熊次郎資料」と題した解説シート(PDF)には記されている。  http://www.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/pdf/%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A%E3%81%AE%E8%BB%8D%E6%9C%8D%E3%80%90%E8%A7%A3%E8%AA%AC%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%88%E3%80%91.pdf#search='%E8%BA%AB%E5%88%86+%E5%A5%87%E5%85%B5%E9%9A%8A+%E8%A2%96%E5%8D%B0'

 なお、こうした奇兵隊の身分的表象の存在については、芳賀登『幕末志士の生活』等、既に先行研究の言及する所である。以上、2020/2/10に追記した。

*8:ブログ「革新的国家公務員OBが語りたいこと・伝えたいこと」は、

後年、慶応元年(一八六五)一月六日、高杉晋作大田市之進・山県狂介らにあてた手紙で、結成当時のことを振り返り、「新たに兵を編せんと欲せば、務めて門閥の習弊を矯め、暫く穢非の者を除くの外、士庶を問わず、奉を厚くしてもっぱら強健の者を募り」云々と、被差別民を除いたと明言している

と、本書書評において言及している。http://blog.livedoor.jp/shoji1217/archives/1010733148.html 

 こうした、高杉晋作の「暫く穢非之者を除~」という発言は、布引敏雄長州藩部落解放史研究』(三一書房、1980年、148頁)など、先行文献の言及するところである。

 以上、2020/3/19に追記を行った。

*9:ブログ「天然居士のとっておきの話」は、著者一坂の『長州奇兵隊』に載っていた話として、以下のように記している( https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/29709ad67853d00f7052d133b68d5603 )。

長州藩では、この工事に出る夫人たちの意識を鼓舞するため、それまで厳禁してきた絹類の着用を工事参加の時に限り許可します。絹の着物で工事が出来るのか、少し気にはなりますが。戸外に出る事が少なかった武家の夫人たちは、禁じられていた絹の着物姿で出掛けられる訳ですから、尊王攘夷とは全く関係なしに多くの人が集まりました。解放感に浸った女性たちは、互いの着物を競うようになります。これが過熱してしまったようで、長州藩では、絹類着用は持ち合わせのものならば良いが、 新たに誂えることは不心得であるとの通知を出しています。高杉晋作は、この事情を知っていたので、夫人に行くなと指示したようです。

*10:赤禰の地元・岩国市の公式の観光サイトhttp://kankou.iwakuni-city.net/akane-taketo.htmlも、「晋作は武力による撃破を主張。『赤禰は一農夫、自分は譜代の家臣である』と、晋作は奇兵隊員を説得した。身分の無意味を説いた松陰が聞いたら、なんと言っただろうか」、「明治に入り、武人の義弟は政府に贈位復権を請願。柳井、岩国がこれに続いたが、実現しなかった。反対したのは奇兵隊の同僚・山縣有朋。下関戦争で、『武人は敵前逃亡した』。最後まで前線で奮戦との史料が残るなか、その証言の真意は謎のままだ」と言及している。

*11:「職制案」は複数のバージョンが知られているが、寺島宏貴は、「作成年代の順にみるとAcは明治・大正期を通じて著された尾崎の回想における『職制案』の初見である。本稿は、この Acを『職制案』の原型とする」として、「参議」として龍馬の名前の載るAcの「職制案」が原型だとしている(「大政奉還と「職制案(新官制擬定書)」 : 「公議」の人事」 https://ci.nii.ac.jp/naid/120005327024 )。 

*12:須賀忠芳「高等教育一般教養科目における多様な歴史観・地域観構築の試み : 「学校歴史」から「地域歴史」へ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005444955 は、註において次のように指摘している。

幕末長州藩の動向に関して、地域の立場から多く発言してきた一坂太郎は、戊辰戦争後、奇兵隊に属した農民・商人出身の兵士らが、論功行賞が不十分であったことに憤慨して藩に対して反乱を起こし、藩から武力鎮圧された「脱退騒動」について、山口県から依頼された、県外向け広報紙で取り上げたところ、その部分がカットされていたということや、この「脱退騒動」が学校ではほとんど取り上げられていないことに触れ、「奇兵隊の歴史は、栄光の美談としてのみ教えられている」ことに驚愕するとともに、「晋作が四民平等を唱え、『人民軍』の奇兵隊を組織したといった、政治的イデオロギーに彩られた、噴飯ものの評価を信じている者がいまだにいて呆れる」と、厳しい口調で批判的に述べている。

*13:「『勝者』こそが『正義』であり、それは気持ちよいほど徹底している」(165頁)と著者は述べている。