明日やるべきことを今日やってしまうのも、「なまけ」。 -高野秀行, 清水克行『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』を読む-

 高野秀行, 清水克行『辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦』を読んだ。

  内容は、紹介文にある通り、「『面白い本を読んだら誰かと語り合いたい』から始まった辺境ノンフィクション作家と歴史家の読書合戦。意図的に歴史と文字を捨てた人々『ゾミア』、武士とヤクザが渾然として一体だった時代の『ギケイキ』、キリスト教伝道師をも棄教させた少数民族『ピダハン』…。古今東西の本を深く読み込み、縦横無尽に語り、通説に切り込む。読書の楽しさ、知的興奮、ここに極まれり」という感じである。
 関係ないけど、上の紹介文にある本、すべてカタカナである。

 とりあえず、特に、面白かったところだけ。(基本面白いところばかりであるが)

頼朝軍団の真実

 当時鎌倉にあった頼朝邸は御家人たちのたまり場みたいになっていて、御家人同士がすごろくをして遊んだり、酒を飲んでドンチャン騒ぎしたりしていた。つまり幕府は部活やサークルの部室とか、居酒屋とかカラオケボックスみたいな場だった (129頁)

 例の細川重男本のことである。
 あれ、いいよね。*1

「懈怠」と「懶惰」

 夏休みの宿題を七月のうちに全部片づけちゃって、八月はずっと遊んじゃう子供っていますよね。ああいうのは「勤勉」とは言わないじゃないですか。あれはあれで怠けている。 (152頁)

 中世の日本人が書いた辞書についての話である。
 その辞書では「懈怠」と「懶惰」という二つの言葉の意味が解説されており、懶惰と懶怠はしいて訳せばどちらも「怠ける」という意味である。
 しかし、中世では、懈怠は「今日やることを明日やること」、懶惰は「明日やることを今日やること」だったとしている。
 中世人は、未来のために今苦労してしまう近代人的な考えにも否定的だった。*2 *3

照葉樹林文化論への批判

 そもそも東日本は照葉樹林じゃないし、西日本には照葉樹林が多いけど、住みにくかったらしくて、人口が全然少なかったというんだから。 (略) 縄文時代中期ぐらいまでは、東日本と西日本の人口比は三〇対一もあって、東日本のほうが豊かだったんですよね。 (略) 照葉樹林文化論って、当の文化人類学の研究者たちも、なんとなく間違っていると思ってはいながら、なかなか明確に否定できないんですよね。 (略) 現在、日本で最もよく納豆を食べている北関東と東北地方は照葉樹林帯ではないし、タイやミャンマーの納豆食が盛んなエリアも熱帯雨林が多いからそれでは説明がつかないのに、照葉樹林文化論で思考停止になっているごとが多いんですよ。 (176頁)

 照葉樹林文化論のあやうい点である。
 というか、あれは「論」と呼べるのだろうか。*4

離乳食と人口増加の関係

 農耕が本格化すると人口が増える理由として、穀物を用いた離乳食を赤ん坊に食べさせられるようになるから、出産間隔が短縮されると説明しているでしょ。 (略) 離乳食がないと、子どもが三歳、四歳になってもずっと乳をあげなきゃいけなくて、授乳している限り女性は妊娠しないという特性があるから、出産間隔が長くなって、子どもがたくさん生まれない。 (略) 農耕を始めた時代には、離乳食を子どもに食べさせるようになったから人口が増えて、それによって農耕がさらに促進されたという可能性もあるわけでしよう。最近の考古学って、そういうことまで考えるんですね。僕らが歴史の授業で習ったのとはずいぶん違う。 (179頁)

 離乳食と人口の関係については、最近否定的な研究結果を見たが、さてどうなのか。*5

鉄がほしかったので奴隷を求めた

 吉田孝さんという古代史研究者が『日本の誕生』(岩波新書)で、弥生の戦争は「生口」という奴隷を獲得するためでもあったんじゃないかという説を唱えているんですよね。日本列島にはこれといった資源や特産物がないじゃないですか。だから、弥生のクニは、中国や朝鮮半島の鉄と交換してもらう対価物として、最も手近で相対的に高価な奴隸を手に入れようとしていたんじゃないかということです。 (略) 一五世紀からアフリカでやられていたことと同じじゃないですか。 (略) 鉄と交換するために人問をさらうようになって、争いが起こったということですね。農耕社会の成立によって身分ができたのではなくて、奴隸を求めて戦いが起きて、結果的に身分ができたとも言えます。 (192頁)

 鉄はそれほどにまで魅力的だったのだろう。

 本書も、吉田孝本もそうであるが、どちらも、「辺境」が過去を思い描く際の媒介となっている*6*7

現代語の終止形の誕生

 係り助詞を使っていないのに文末が連体形で終わる文が室町時代に一般化したんです。たとえば他人から何かもらうとき、現代語では「頂戴する」だけど、古文では「頂戴す」でしょ。ところが室町時代あたりから、これを現代語と同じように「頂戴する」と言うようになった。古文の「~する」は連体形だから、本当はその後には体言が続かないといけないのに、連体形終止という形で使われるようになり、それがやがて現代語の終止形「~する」になっていったわけですね。 (212頁)

 室町時代が転換点だったという*8

 内藤湖南ではないが、やはり様々な分野において、室町が転換点なのだな。

(未完)

*1:細川氏は、今年5月に体調を崩されhttps://twitter.com/UYE6bd8Np9Necw1/status/1130875540766724096、その後休養を続けている、と6月ごろに情報を得た。それはそうと、細川作「ムカつく北条氏をブッつぶすから、みんな、集まれ!」は最高。http://nihonshi.sakura.ne.jp/shigeo/index.html 

*2:出典は佐竹昭広『古語雑談』である。ところで、「懶」という字については、根本駿「『懶』の字における意識の変化 -字形による区別とその展開- 」https://www.kanken.or.jp/project/investigation/incentive_award/2014.html が実に面白い指摘をしているので、是非。

*3:2019/11/15追記。なお、尾崎雄二郎、島津忠夫、佐竹昭広『和語と漢語のあいだ』において、佐竹自身は、そうした「懈怠」と「懶惰」の引用したような解釈は、そういう考えが当時一部にあったというのであって、どのくらい普遍性を持った解釈だったかは疑問だとしている(162頁)。つまり、中世において、その解釈が一般的だったかは不明なのである。また、佐竹自身が、岩波新書版『古語雑談』(1986年)に出典として記しているのは、「科註妙法蓮華経抄」である。以上、念のため追記しておく。

*4:田畑久夫「照葉樹林文化論の背景とその展開(3)」には、

照葉樹林文化論に対して疑問点などが続出したのは,照葉樹林文化論はあくまで作業仮説なので,その仮説を構築する段階において種々提唱者の方から異議の申したてなどがあり,重要な点に関して変更されてきたことも原因の1つといえよう

とある。もしそうであるなら、「照葉樹林文化論」ではなく「照葉樹林文化仮説」を名乗るべきではなかったのか、と思うのだが、どうなのだろう。

*5:「蔦谷匠 理学研究科・日本学術振興会特別研究員、米田穣 東京大学教授らの研究グループは、縄文時代後晩期の吉胡(よしご)貝塚(愛知県田原市)から出土した子供の古人骨を安定同位体分析」をした結果、「集団として土器や植物質食物を利用していたにも関わらず、これまで言われてきた仮説とは反対に、吉胡貝塚の人びとの離乳の終わりの年齢は早くなってはいませんでした。過去の人びとの離乳年齢は、単純に土器や植物質食物の利用のみで決まるわけではなく、社会構造やライフスタイルなどにも影響されると考えられます。」という研究結果を発表している(「縄文時代の離乳年齢 -離乳食の利用は離乳を早めたか?-」http://www.kyoto-u.ac.jp/ja/research/research_results/2016/161110_3.html )。 

*6:「時代も場所も全く異なるが、近年のアフリカで、輸出用の奴隷を獲得する目的で部族間の戦争が激化したことはよく知られている。弥生時代の倭においても、交易の対価としての生口を獲得するための戦争がなかったかどうか、今後の大きな課題である」と、吉田孝自身も、アフリカでの事例を想起していたようである(ブログ・「買書とつんどくの日々」よりhttps://plaza.rakuten.co.jp/shov100/diary/201905270000/ )。「近年」がどのあたりを想定しているのかは、わからないが。

*7:吉田孝「倭の女王と交易」(直木孝次郎編『史話日本の古代 2』(作品社、2003年)108頁)は、「やや大胆に憶測すれば」、倭人は生口を朝鮮半島の鉄と交換していたのではないかとし、近世アフリカのように倭でも公益の対価として生口獲得を目的として戦争があった可能性を示唆している。「説」というより、仮説というべきところか。

 以上、この註は2020/3/19に追記した。

*8:菊田千春によると、「一般に,日本語が古典語から近代語への転換期を迎えるのは中世,室町期とされている。中でも近代語への転換として重要なのは,連体形終止の拡大・一般化が進んで係り結びの消失が決定的になったことと,格助詞ガが,明確に主格表示として用いられるようになったことが挙げられる」とのことである(「主格ガの確立と近代日本語の成立:助詞のプロファイルと制約の競合という観点から」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004088590 )。研究上の常識であるのは間違いない。