「現実が見えてないのはどっちだ」という話 -魚川祐司、プラユキ・ナラテボー『悟らなくたって、いいじゃないか』を読む-


 魚川祐司、プラユキ・ナラテボー『悟らなくたって、いいじゃないか』を読んだ。

悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)

悟らなくたって、いいじゃないか 普通の人のための仏教・瞑想入門 (幻冬舎新書)

 

 内容は紹介文にある通り、「では出家したくないのはもちろん、欲望を捨てたくない、 悟りも目指したくない『普通の人』は、 『苦』から逃れられないのか? 『普通の人』の生活に、ブッダの教えはどう役立つのか? 瞑想をすると何が変わるのか? タイで30年近く出家生活を送る日本人僧侶と気鋭の仏教研究者が、 スリリングな対話を通して『実践する仏教』の本質に迫る」という内容。
 タイトルが実に刺激的だが、内容は、なるほど、と思わせるもの。

 特に面白かったところだけ。*1

「責任」を他人に預けるな

 これは宗教的実践に関する「価値相対主義」とは、もちろん真逆の話です。(57頁)

 唯一の正しいことを常に教えてくれる誰かを想定することで、価値判断の責任を他者に預けてしまってはならない、というのである。
 自分が立っている現在地と目的地を正確に把握して、歩いている己の判断と責任に常に自覚的である仕方で実践にかかわることが望ましい、と。
 宗教というものにかかわる際、忘れてはならない大事なことだと思うので、ここに紹介しておく。
 そして、これは宗教に限らない話でもある*2

現実が見えてないのはどっちだ

 彼らにとっては、むしろ仏教を理解しない凡夫のほうが、煩悩によるイメージに鼻先を引き回されて、ありのままの現実を直視することから逃避し続けている存在 (89頁)

 仏教を現実逃避だと評価する人たちについての話である。
 僧侶側からすれば、ミャンマーの瞑想センターで指導している人たちは、現実に正しく対応するために瞑想を教えている。
 つまり、僧侶の方からすれば、現実が見えていないのは、非難をしてくる「凡夫」のほうなのである*3

選択できる余裕を

 仏教的な意味での自由というのは、基本的にこの「選択できる余地」をつくるもの (179頁)

 気づきの力が育っていれば、縁によって生じる煩悩にそのまま従ってしまうことはない。
 強烈な衝動の支配力にストップをかけて「これは本当に私を幸福にしてくれるのか」と冷静に判断して選択する心の余裕ができる、という。
 いっそサティを学校の必修科目にする手もあるかもしれない*4 *5

 「欲」というものが「怒り」という減少に転じていく機序 (204頁)

 例えば、ある人に「早く会いたい」という願う場合。
 その願いが満たされないと、切なさや悲しみが生じる。
 その悲しみを自分が受け止められないと、I want toではなく、You have to と、相手の責任に転嫁してしまう。
 もし、I want toという欲が生じてきたら、それに気づいておけば、怒りに発展することもない。

いまここを楽しむ

 「遊び」には力を抜いて、本来の結果や利益などに囚われず、「いま・ここをただただ楽しむ」というニュアンスがあります。 (201頁) 

 サティは、「遊ぶように行う」べしという。
 「遊ぶように行う」こと、タイ語では「タム・レンレン」という。
 そうすると、集中しすぎたり、特定の意味や状態にこだわることが自然に減り、囚われのない自由な感覚で楽しみながら気づいていけるという*6*7

人を見て法を説く

 でもそれは当然のことなんですね。 (223頁)

 ブッダの「対機説法」の話である。
 救いを求める人の資質や能力や状況といった「機」に対して適切な法を説くことが、ブッダの言わんとするところだという*8
 そのため、一つ一つの説法を比べると、矛盾するところも見える。
 しかし、それは当然ではある。
 現代の世界に伝わる様々な形の「仏教」(宗派)も、そのようなブッダ臨機応変に説かれた法の内容をそれぞれに受け継いでいると考えれば、それらが実際の人々の苦からの解放に役立っている限り、否定する必要はない。
 逆に、それらの「機」に応じた説法を、言葉の定義を固定化させて解釈を一義的に統一すると、説法に 存在していた生き生きした教えの可塑性や柔軟性は失われ、凝固した教えを金科玉条のように奉って他者に押し付けるようなことになってしまう。
 そうして、苦の種をさらに増やしてしまうかもしれないのだ。

(未完)

*1:今回も例によって、それが対談する二人のどちらの発言であるのかは、あえて伏せておく。まあ、読めばわかる人にはわかる。

*2:山も山(宮田秀成)氏は、本願ぼこりについて、次のような話をしている(ブログ「安心問答(浄土真宗の信心について)」よりhttps://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/20100325/1269458649 )。

「親に叱られるから」と思っている子供は、親が叱らないとなればやりたい放題にやるでしょう。「叱られるとか」「叱られない」は、子供視点の理屈です。本願をほこり、悪をやりたい放題にするというのは、阿弥陀仏大慈悲心を忘れた言い方です。「親が悲しむか」「悲しまないか」は、親視点のことです。そうなれば、世の中での振る舞いは、決して悪にほこるようなことになってはならないところです。

他者に価値判断の責任を預けないためには、引用部にある「親視点」を心がけることが重要なのかもしれない。というのも、他者に価値判断の責任を預けてしまうのは、とても「自己中」なことだからである。 

*3:「私たちが生きるとは、そういう苦悩する人生を生きることなのです。その意味では、仏教は私たちを苦悩から逃避させるのではなく、苦悩の正体に目覚めさせ、苦悩する人生を引き受けて立ち上がらせていく教えなのでしょう」という尾畑文正の言葉(東本願寺ホームページよりhttps://www.higashihonganji.or.jp/sermon/word/word30.html )にも通じる(やや文脈は違うのだが)。

*4:国語算数理科サティ。いや、宗教色をぼかして、「マインドフルネス」という名前になるかもしれないが。

*5: 日本テーラワーダ仏教協会は、「サティと感情のシャットアウトの違い」として、以下のように回答しているhttps://j-theravada.net/dhamma/q&a/qahp73c/

実在に今の瞬間にこころに、怒り、欲、悩み、などの感情があるのです。それが悪です、煩悩です。それも退治する。「感情・感情」と実況する。又は、どのような感情かと解っているときは、その感情の名で実況する。例えば怒りだと解ったら、「怒り、怒りか怒りの感情か」ですね、実況の言葉は

もちろん、このラベリングをするタイプのサティのオルタナティブ(代替案)として、本書の著者の一人であるプラユキは、チャルーン・サティをも薦めているのだが。これについては、詳細、本書をご参照ください。

*6:著者の一人であるプラユキ・ナラテボーは、師から次のように言われたという(以下、ブログ・「ヒデユキナカオのblog」の記事からの孫引きhttp://blog.livedoor.jp/hideyukinakao/archives/9290508.html )

タム・レンレンでな。空腹感や欲、いらだちや焦り、そのような感覚や感情、また思考が生じてきても、あるいはそういったものにわれを忘れてしまっても、マイペンライ(気にしなさんな)。『ありがとう』と言って、そこから学ばせてもらえばいいんだぞ

*7:宮本マラシー『『サヌック:中級タイ語の会話と文法』(http://www.aa.tufs.ac.jp/ja/training/ilc/ilc-list/20143 )の135頁に、「タム・レンレン」のタイ語における文法的な説明が載っている。以上、2020/10/8にこの項目について、追記・加筆を行った。

*8:アルボムッレ・スマナサーラ(長老)は、次のように述べている(「対機説法は最上の特効薬」https://j-theravada.net/dhamma/kougi/kougi-139/ )。

対機説法とは、相手の性格や能力、素質に応じて、相手が理解できるように法を説くことで、これはちょうど医者が病人に的確な薬を処方するのに似ています。風邪をひいている人には風邪薬を、胃の調子が悪い人には胃薬を、頭が痛い人には頭痛薬を与えるように、お釈迦さまは出会う人々の性格や能力、素質に応じて、その人の問題が解決するように的確に教えを説かれたのです。

そして後述されるとおり、本書では、その対機説法の理が、仏教が各宗派に分かれている現状に対しても適用されることになる。著者の一人・魚川の玉城康四郎論(論文「玉城康四郎の仏教哲学--死生観と他者論を中心として」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001700500 )も、そうした文脈において読まれるべきであろう。