「大学者、道学先生に説教される」の巻 -井上進『顧炎武』を読む-

 井上進『顧炎武』を読んだ。

顧炎武 (中国歴史人物選)

顧炎武 (中国歴史人物選)

 

 内容は、紹介文の通り、「異朝に仕えることなく、激動の明末清初を生きた顧炎武。彼の学問と生涯を通して、17世紀中国の真実をさぐる」というもの。
 顧炎武自身以上に、17世紀中国社会を描くことに力点が入っているようである。
 以下、面白かったところだけ。

大学者、無理な解釈をする

 顧炎武といえば清代考証学の開祖、これはもう定まった評価以上の、ひとつの事実であるとさえ言えよう。だがだからといって、彼の言うことは何でも考証ずくめで、確かな証拠にもとづくものばかりだ、とはならない。 (242頁)

 たとえば、『論語』の「われに乱臣十人あり」という周の武王の言葉である。
 この場合の「乱」は「治」という意味である。

 孔子は続けて「婦人あり、九人のみ」という。
 著者によれば、武王の母がいるので、実質九人という意味である。

 だが、顧炎武は周王朝を興すのに夫人の力が必要だったはずはない、伝写の誤りか何かに違いない、と書いたという。*1
 著者は、「この『婦人あり』に対する疑問など、文献的証拠は皆無、ありていに言えば、全くの臆説である」という。
 ただし、著者の言うように、「この様な全くの臆説と精密な考証は、決して相容れぬものではな」く、それどころか「古人の意」に関する臆説は精密な考証の前提ですらあった。*2

大学者、道学先生に説教される

 こんなことになったわけは、顧炎武が仏教を頭から排撃し、朱子学と仏教の関係を全く認めようとしなかったからである (248頁) 

 ある道学先生(李氏)と論争し、実質顧炎武は敗れた。
 その理由は、顧炎武が朱子学と仏教との関係を認めなかったためである(「体用」論に関することだったようだ)。*3
 そして、李氏は、程子の言葉を引き、内に求めず外に求めるのは聖人の学ではない、と古今の字句ばかりに執心する顧炎武を諫めた。
 大学者が、道学先生に説教されたのである。

清代考証学の背反

 新しい国家を夢想し、理学を否定しながら、しかも旧来の体制教学たる朱子学を護持した顧炎武は、真に清代考証学の開祖であった。 (262頁)

 清代考証学の立場では、古い注釈を尊重しつつ、文字、音韻、訓詰から経書を、文献学的に研究する。

 ところが、最終的に明らかにされるべき聖人の道、あらゆる行動を支配する規範は、欽定の正学「程朱」(朱子学)によってすでに与えられている、としたのである。
 彼らはひたすら、ものやことの考証に没頭したが、けっきょくのところ、朱子学を承認しつつ非朱子学の学問をやる、という背反を行ったのである。*4

 

(未完)

*1:『集注』には、「(引用者略) 其の一人を文母と謂う。劉侍読以為、子に母を臣とするの義無し。蓋し邑姜ならん。九人は外を治め、邑姜は内を治む」 (引用者略) とある」ようである。つまり、朱子は、武王の母ではなく、武王の妻である、という解釈をとった(「Web漢文大系」よりhttps://kanbun.info/keibu/rongo0820.html )。尊敬する朱子に対してさえ、字句の解釈に関してならば、顧炎武は異を唱えたのである。それもかなり合理的とは言えない理由によって。

 ところで、渋沢栄一は、「婦人とは殷人を指し」、「此の内膠鬲は殷の人なれば真の周の臣は九人のみである」としている。「支那の如き時々国体の変る国と万世一系の我が国とは比較にならない」というアレな言葉もつけて(以上、「デジタル版「実験論語処世談」」https://eiichi.shibusawa.or.jp/features/jikkenrongo/JR051a04.html

 ちなみに、安井息軒『論語集説』(の「泰伯第八」 https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%AB%96%E8%AA%9E%E9%9B%86%E8%AA%AC/%E6%B3%B0%E4%BC%AF%E7%AC%AC%E5%85%AB )は顧炎武の言葉の詳細について言及しているが、その近くの箇所に、「衛氏古文、作有殷人焉。而韓退之直指為膠鬲」とある。もっとも、息軒はその解釈に与してなさそうに読めるのだが。

*2:その理由については本書を参照のこと。読めば、考証学の成立する知的環境が決して「イデオロギー・フリー」なわけでもなかったことが、わかるであろう。むしろ、そうした「臆説」があったからこそ、精密な考証が許されたという時代の背景も。

*3:A・チャールズ・ ミュラーは次のように述べている。 

朱子学者たちは、本来的には純粋な心とその種々の現れに対して体用関係を(主として「理気」の概念を経由して)適用しているが、 (引用者略) このパラダイムは、『大乗起信論』、『金剛三昧経』、東アジアにおける仏性に関する註釈の系譜、そして華厳教学の「理事」の形而上学の発展などを受けて初めて、「純粋な心と種々の現れ」という意味で適用されるようになるのである。朱子学のその他の重要な諸概念と同様に、「理気」の概念や、「体用」の朱子学的な理解などは、それ以前の中国仏教における展開を抜きにしては考えられない。

(「インド仏教の中国化における体用論の出現」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006411964 ) よく知られていることではあるだろうが、一応念のため。 

*4:渡邉大によると、「顧炎武の学問の特徴である、博学かつ実証主義的な手法は、必然的に対象の拡大や精度の向上を目指すものとなるため、実学を志向した顧炎武の学問の中には、当初から、考拠のための考拠へと向かう傾向が胚胎されていたのであった。」(「顧炎武の考拠と経世 : 『日知録』「郡県」条をてがかりに」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006533769 ) 考証学自体に当初から、「背反」を生む芽は存在したのである。考証の自己目的化である。