続・では、「党」なき政治は可能か、という問い -坂口安吾『堕落論・日本文化私観』を読む-

 坂口安吾堕落論・日本文化私観 他二十二篇 』 (岩波文庫)を再読。

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

堕落論・日本文化私観 他二十二篇 (岩波文庫)

 

 内容は「作家として生き抜く覚悟を決めた日から、安吾は内なる〈自己〉との壮絶な戦いに明け暮れた。他者などではない。この〈自己〉こそが一切の基準だ。安吾の視線は、物事の本質にグサリと突き刺さる」というもの。
 以前安吾について書いたが、まだ書き足りないので、書いてしまおう。*1

対話と団結なしに

 蓋し直接民衆の福利に即した政治家は地味であり、大風呂敷の咢堂はそういう辛抱もできないばかりか、その実際の才能もなかった。 (引用者略) 政治というものは社会主義とかニュー・ディールとか実際に即した福利民福の施策を称するものである。彼にはそういう施策はない。 (212頁)

 「咢堂小論」より。
 安吾の中では、衣食と礼節は連結しているようである。
 なるほど、では安吾自身は、どうやって実現させるつもりだったのだろう。
 政治を。
 尾崎行雄に党の感覚がなかったと指摘するのは正しいとして*2、では徒党を嫌った自分自身はどうだったのか。*3

 日本に必要なのは制度や政治の確立よりも先ず自我の確立だ。 (引用者略) 自分自身の偽らぬ本心を見つめ、魂の慟哭によく耳を傾けることが必要なだけだ。自我の確立のないところに、真実の道義や義務や責任の自覚は生れない。 (引用者略) 政治は人間生活の表皮的な面を改造し得るけれども、真実の生活は人間そのものに拠る以外に法はない。 (215頁)

 安吾には、政治(制度)が人を変えるという契機がほとんどない。
 安吾は「自我」から政治への方向はあっても、その逆は軽視されている。
 そもそも、どういう政治的経路で、「社会保障」を増強するつもりなのか。*4
 この件については、以前書いたことなのでこれ以上繰り返さない。

再び特攻隊について

 特攻隊の勇士はただ幻影であるにすぎず、人間の歴史は闇屋となるところから始るのではないのか。未亡人が使徒たることも幻影にすぎず、新たな面影を宿すところから人間の歴史が始まるのではないのか。そして或いは天皇もただ幻影であるにすぎず、ただの人間になるところから真実の天皇の歴史が始まるのかも知れない。 (227頁)

 1946年時点*5では「幻影」と呼称していたが、、1年後*6に見解が変わるらしい。
 安吾における特攻隊の問題点については、既に先に書いたことなので、やはり繰り返さない。

堕落が依存を断ち切る

 堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格一の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落は常に孤独なのであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。 (239頁)

 堕落は孤独をもたらす。
 依存を断ち切るという点で、安吾はそれを肯定している。*7
 かれの、この出発点自体は、一切誤っていなかったはずだと思われる。

(未完)

*1:なお、安吾の「日本文化私観」にドライアイス工場が登場するが、これはおそらく日本ドライアイスの工場であり、その工場については、『昭和炭酸50年史』(1994年)や『炭酸の魅惑 昭和炭酸30年の歩み』(1974年)などで、その姿を見つけることができる。本書書評と関係ないが、あまり言及する機会がないので、ここに書いておく。

*2:ところで、尾崎行雄はかなりの尊王家でもあったのだ。例えば、栄沢幸二「ファシズム期における尾崎行雄ナショナリズムhttps://ci.nii.ac.jp/naid/120001870788等参照。とても尊王家とは言えなかった安吾と比較すると面白いかもしれない。 

*3:念のため述べておくが、尾崎行雄は単なる理想家ではなく、現実的に政策を進める人物でもあった点に注意が必要である。姜克實「尾崎行雄と軍備縮小同志会 : ワシントン会議前後の軍備制限論」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005526628 )には、次のようにある。「国内の與論大勢を配慮して、軍備そのものを否定せず、財政負担や、国際関係など国益中心の視野から同情を集める、現実主義的軍縮論といえる」。「一九二〇年代初頭の現実的かつ堅実な軍縮與論の先頭に位置し、実際に日本社会に及ぼした影響もかなり大きいと評価できよう」。

*4:安吾は「咢堂小論」で次のように述べている。

閥とか党派根性というものは日本人の弱点であって、それによって日本の生長発展が妨げられてきたことは痛感せられているに拘らず、敗戦後、政治に目覚めよといえば再び党閥に拡がる形勢を生じ、正しい批判と内容の目を見失おうとしている。

なるほど、安吾は根っからの党派嫌いである。ではいかにして、「議論」は生まれるのか。彼に欠けているのは、個人と議会以外の要素、例を挙げれば、個々人同士の対話であり、デモ活動であり、労働組合であり、政治哲学学的に言えば、広義の「公共圏」といった類の概念である。そういえば、安吾が「デモ」に真正面から言及したものは、おそらくないと思われる(小説などの類に、その名前だけは出たことはあるが)。彼には個人と政治や制度とをつなぐ回路(媒介)がほとんど不在なのである。

*5:堕落論

*6:「特攻隊に捧ぐ」

*7: 安吾は、「文学のふるさと」( https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html ) で、「モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、この『ふるさと』の上に立たなければならないものだと思うものです」と述べている。そして三つの物語を例に、それらが「私達に伝えてくれる宝石の冷めたさのようなものは、なにか、絶対の孤独――生存それ自体が孕はらんでいる絶対の孤独、そのようなものではないでしょうか」としている。孤独こそ、彼の文学等の原点だった。もちろん彼は、

アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから

とも述べている。だが、彼は「大人の仕事」を十分にしたのであろうか。これが本稿の主旨である。