室町時代を知るならこの本(*この書評では「当座会」については言及しないことにする。) -桜井英治『室町人の精神』を読む-

 桜井英治『室町人の精神』(オリジナル版)を読んだ(厳密には再読)。

室町人の精神 (日本の歴史)

室町人の精神 (日本の歴史)

 

 内容は、紹介文にある通り、

公武にわたる権力争いから、家同士の確執・不義密通・自殺未遂・祟りと癒しまで、一見愚行とみえる行いは、いかに歴史を書きかえたのか。財政・相続・贈与・儀礼のしくみを解明しつつ三代将軍足利義満の治世から応仁・文明の乱後までを描く

という内容。
 わりと厚めの歴史書だが、グイグイ読ませる良書。

 室町時代を知るなら、とりあえず、この本を読むべし。

 (まあ扱っている時代は、義満から義政あたりまでなのだけれど。)

 以下、特に面白かったところだけ。
 (とりあえず、多くの人が書評で注目していた「当座会」については、ここではあえて書かないことにする。)

公武統一政権のデメリット

 義満が公家社会にデビューし、公武権力の一体化を確立して以来、将軍はもはや武士の味方ではなくなった (158頁)

 将軍が公家社会にデビューするということは、公家の庇護をもせねばならないことを意味した。

 そして、寺社本所領保護政策は、その権力構造の上に立つ将軍権力が宿命的に背負い込んだ「宿命」であった。*1

 ゆえに、将軍はやがて守護勢力の支持を失うこととなる。

 公武権力の一体化は、かえって将軍の権力を弱体化することにもつながったのである。*2

村(惣中)の発展

 領主層と肩を並べたのは軍事力だけではなかった (186頁)

 既に惣中(の上層部)は、武将の書状かと見まがうばかりの文面をしたためることができた。
 いくさの作法や外交文書の書式まで体得していたのである。*3

神仏と連歌の深い関係

 こうした神々との交流という側面は連歌にも色濃く認められるところである。 (229頁)

 連歌は、法楽や供養、祈願などの神仏・冥界との交信手段として用いられることも多かった。*4

 また、15世紀前半には「神託連歌」が流行している。

 神が神託として下した発句・脇句を元にして催す連歌のことである。

蓮如の「失敗」

 だが、その責任の一端は蓮如自身にもあった。(365頁)

 蓮如は、不透明な秘密結社のごとき戦略をとることを忌避していた(「秘事法門」)。

 だが、一向宗門徒は、ついに宗教的自治を行うに至った。

 その原因は顕如自身にもあった。

 たとえば、門徒との対等関係をうたうものの、ではなぜ門主門徒を指導できるのか、なぜ蓮如の家系が門主の地位を独占できるのか、ほとんど何も説明していない。*5

 また、蓮如の平易で明快な教えが、かえって、門徒たちを不安にさせたのである。
 自分が信心決定を得ているのか確信が持てずに苦悩していた門徒が多かった。
 その結果、門徒たちは門主への盲目的な忠節に駆り立てられた面があるという。

 

(未完)

*1:著者(桜井)は、義満の皇位簒奪説には否定的であり、

「義満の上皇待遇」と「義嗣の即位」とは全く次元の違う事柄で、この学説への批判は、櫻井栄治氏の「そもそも皇統は天皇(の血)から発生するものであって上皇(の号)から発生するものではない。この最も基本的な理解を忘れた点に『義満の皇位簒奪計画』説の誤りがあったといえよう」(『室町人の精神』〕という言に尽きている。 

(引用は「楠正行通信 第88 号」より孫引きhttp://nawate-kyobun.jp/masatsura_tusin_88.pdf )。まあ著者の名前(「櫻井"栄"治」!)が間違っているのだが。。

*2: CloseToTheWall氏も本書書評(但し文庫版 https://closetothewall.hatenablog.com/entry/20120408/p1 )で引用された箇所が、実に重要である。

後花園天皇は明らかに幼少の将軍家家督にかわって幕府を指揮していた。足利義満が推し進めた公武の一体化は、かつて将軍家による朝廷支配を実現させたが、その同じ構造が当初は予想だにしなかったであろう天皇による幕府支配というまったく逆の事態を出現させたのである。公武の一体化という構造がもつこの可逆性を人びとはこのときはじめて眼前にしたのであった

*3:本書には、海津西浜惣中から菅浦惣中へ送った書状等が紹介されている。その菅浦惣中における惣の代表である「オトナ」について、竹内光久は、「署判からみるオトナの実態 : 近江国菅浦を事例として」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005746494 で、以下のように書いている。

村落内において、経済的に上位であり、運営に必要な読み書きという実務能力を備えた者が村落の中核にあったという一般的な理解とはまるで違う構造の村落だった (引用者中略) そして、菅浦においては、識字力や経済力より優先されるものがあった。それが構成員としての年数であった。 (引用者中略) 惣構成員として惣に貢献すること、その年数が上がるにつれて、惣内でも序列が上がり、意思決定の場に参加する権利を得られる。 (引用者中略) サインは、字を書ける者であれば花押であり、字の書けない者であれば略押、といったようにそれぞれの識字力に応じたものになるが、花押を据えられる者も略押しか据えられない者も、つまり経済的な格差はあっても、意志決定の場においては同じ一票だったということである。

当時の惣中の実態を知るうえで興味深いものであるので、ここで紹介しておく。

*4:長谷川千尋によれば、

連歌は中世の詩ですから、当時の宗教的な観念や実利主義とも無縁ではありません。例えば、神仏に手向けて楽しませる法楽、さらには、安産・新宅造営・戦勝・旅中安全・病気平癒などの祈祷、故人の追善など生活の様々な場面で折に触れて張行され、人々はその効能を信じていたのです。

ということである(「連歌の世界へ」https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/148397/1/2000_tenjikai.pdf )。

*5:そして、真宗側の理路はおそらく以下のようなものに移行するであろう。

①中世末・近世初期以後の親鶯・本願寺法主=生き仏信仰の浸透と②法主門徒が家長と家族の関係をなす本願寺教団の擬制的家観念により、親鴛=大先祖(始祖)=弥陀仏、歴代法主=列祖=弥陀仏となり、門徒にとって弥陀仏を崇めることは同時に先祖を崇めることでもあったとされる。

(上野大輔「書評 児玉識著『近世真宗と地域社会』」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006598332 )。すなわち、法主は生き仏であり、「先祖」でもある、という考え方である。

 天皇制、という言葉が頭をかすめるであろう。

 以上、2020/4/26に訂正を行った。