入江泰吉とビニール鹿の関係、それから、古都税の顛末、ついでに信仰について。 -碧海寿広『仏像と日本人 宗教と美の近現代』を読む-

 碧海寿広『仏像と日本人-宗教と美の近現代』を読んだ。

仏像と日本人-宗教と美の近現代 (中公新書)

仏像と日本人-宗教と美の近現代 (中公新書)

 

 内容は紹介文にある通り、

明治初期に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐、すべてに軍が優先された戦時下、レジャーに沸く高度経済成長期から、“仏像ブーム”の現代まで、人々はさまざまな思いで仏像と向き合ってきた。本書では、岡倉天心和辻哲郎土門拳白洲正子みうらじゅんなど各時代の、“知識人”を通して、日本人の感性の変化をたどる

という内容。
 近代において、「美術」という近代的な見方・考え方と、信仰の対象であった仏像とが、どのように関係していったのか、大変読み応えあり。
 仏像好きの方は絶対に読んでおくべき本ではないだろうか。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

奈良の風景写真とビニール

 だが、こうした入江の写真に描かれた世界は、現実の奈良には存在しない。 (179頁)

 入江泰吉の仏像写真はほとんどが、奈良の風景写真とセットである。
 入江は、周囲のビル群やビニールハウス*2などは構図から外したり、靄や薄闇のなかに紛れ込ませたりして、風景を撮った。
 同時代の人々も、撮影した大和の風景から徹底的に排除した。
 そうした意味でのフィクション的「古代」の世界なのである。*3

信仰と模倣・追体験

 けれども、その信仰の本質について自信をもって語ることが、彼女にはできたのである。 (209頁)

 白洲正子は自分が仏像に対して感じる美しさには、かつての信仰と通じる部分があると信じることができた。
 それは、巡礼した昔の人々の行動を、彼女が反復し、彼らの内面を何度も模倣したからである。
 模倣というのは、実は本書の重要なテーマではないか。
 信仰とは、特に仏教は、「師」(釈迦や各宗派の祖、等々)の言行を模倣・追体験するものであるのだから、当然のことではあるのだが。*4

古都税と観光

 そこを訪れる人びとの大半は、その寺院が存続しなければ自らの信心の場が奪われる信仰者ではなく、寺院の一時的な楽しみしか求めていない観光客だ。 (221頁)

 嵯峨野の常寂光寺の事例である。
 古都税廃止後も、志納金方式での参拝を続けた結果、拝観収入が大幅に減収し、1988年4月から定額拝観を復活させることとなった。
 実はその半年前に、志納の目安額を出入り口に掲示したらしいが、200円に対して、志納額の一人当たり平均は116円であり、目安には届かなかった。
 「お布施」だと、信者ならざる観光客にはその額くらいしか払わないのである。*5 *6

 

(未完)

*1:著者については、五来重論などが、大変面白く読めた(「仏教民俗学の思想 : 五来重について」https://ci.nii.ac.jp/naid/110006292175 )。ぜひご一読を。

*2:あまり関係のない話題であるが、奈良でよく売ってるビニール鹿の話をしたい。

 産経新聞の記事https://www.sankei.com/west/print/150922/wst1509220009-c.html
によると、「杉森社長によると、ビニール鹿は、大阪府池田市の業者が商品開発し製造。業者の廃業に伴い一時期、台湾で作られたが現在は中国製」だという。しかも、「ビニール鹿がいつ誕生したかは不詳だが、大和路を愛した写真家、入江泰吉が昭和30年に撮影した1枚の写真が手がかりになりそうだ」とのことである。

 入江は、ビニールハウスは構図から外しても、ビニール鹿はちゃんと撮影したようである。さらに、「昭和56年以降からは現行のデザインに定着」したようで、「男はつらいよ」第1作目(昭和44年)の作品には、マイナーチェンジをする前のビニール鹿が登場している(以上、ブログ・「Magical Mystery Nara Tour」の記事http://naratour.blog.jp/archives/1073329643.html を参照した)。 

*3:しかし、ビニールハウスの後ろに古墳、というのも、いかにも奈良らしい光景ではあるように思う。ブログ・「日本妖し巡遊紀行」https://himepius.exblog.jp/5505272/ の掲載された画像がまさにそれに当てはまる。 

*4:模倣・追体験という点については、例えば、著者自身の論文「哲学から体験へ : 近角常観の宗教思想」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007657966 の次の一説を想起すべきであろう。ただし、こちらの論文の場合は、「言語」が主題である。

釈尊親鸞といった真宗仏教史における至高存在の体験の言語に、 自己の人生を投影した近角の体験の言語、 それに対しまた自己の実体験を重ね合わせ、 さらなる体験の言語を生成していく信徒たち。 この体験の言語空聞を、近角は自らが生きる時代に構築し、 自身の宗教活動の基盤とした。

*5:とあるブログhttp://saysei.dreamlog.jp/archives/9951752.html を見ていたら、

出入り口にかつて多くの寺が古都税反対で拝観お断りをしたときに、それをしないでお志だけいただくという「志納金」の形をとってオープンさを貫いた常寂光寺のような見識のあるお坊さんがいた寺がありました。植物園などは志納金制度にしてもいいんじゃないだろうか、という気がします。

との言葉が載っていた。しかし、実際は本書に載っていた通りである。まあ、府立植物園は良いところだと思うが。 

*6:当時の住職・長尾憲彰によると、志納金制度は、古都税の話の前からやりたいと思っていたことだったようだ(長尾「寺の再生 常寂光寺に立って」(『思想の科学』1986年9月号、思想の科学社、81頁)。

 以上、この註は2020/3/28に追記した。