利休は何がすごかったのか、そして織部には何が継承されたか -矢部良明『古田織部の正体』を読む-

 矢部良明『古田織部の正体』を読んだ。

古田織部の正体 (角川ソフィア文庫)

古田織部の正体 (角川ソフィア文庫)

 

  内容は、紹介文にある通り「千利休亡きあと茶の湯の天下一宗匠となった古田織部。侘びから一転、豪快にして軽妙洒脱な織部焼をはじめ、茶の湯に新奇の流行を巻き起こした武将織部の数寄の極致と、慶長年間の乱世を生きた実像を描く」という内容。
 織部の実像を、厳密に史料批判をして堅実に描いている良書。*1

 以下、面白かったところだけ。*2

利休は何がすごかったのか、そして織部

 現在の通念では、茶碗と建盞・天目を上格とし、単に茶碗といった場合、その他もろもろ以下雑多の下格を十把一からげにした呼称であった。 (引用者略) もともと室町時代の正統の茶の湯では、和物の道具は一体に低く評価されていた (引用者略) ところが千利休が出て、唐物中心の名物茶碗ではなく、新たに茶碗を創案して安価にて多くの茶人に供給し、かつ正統の茶の湯の美学だけは備わっていなくてはならないと考えるにいたって、日本の創作茶碗が建盞・天目を超えて正格の茶碗と認知されることとなった。 (92頁) 

 よく知られた、利休の画期的な功績の話である。*3
 また、茶碗や花入や水指、建水などにも、利休は工夫を凝らした。
 室町時代茶の湯の価値観からすれば、茶壺や茶入れ、墨跡や釜などが第一級であり、茶碗や花入などはそれ以下の扱いとなっていたが、第二級のそれらにも、利休は光を当てた。
 そして著者曰く、織部はそうした師の「画期」の方向性を受け継ぎつつ、師のコンセプチュアルな「不易」の茶の湯ではなく、ファッショナブルな「流行」の茶の湯を志したとする。
 二人の連続的な面と断続的な面である。

茶の湯は、「貧乏プレイ」

 もともと茶の湯は大金持ちの道楽であったし、常にその趣きをもって今日におよんでいる。特に武野紹鴎が指導した天文年間(一五三二五五)から弘治・永禄・元亀年間を経て天正十年まで、豪華一点張りの会席料理が風摩 (引用者中略) 天正十年、六十歳の還暦を迎えた千利休は、忽然と質素倹約の支持もあって茶人たちを納得せることに成功した。世にいう「一汁三菜」の思想である。これについても『山上宗二記』は、「会席の料理は、金品をかけて、一見、粗末を装うようにせよ」と記す。ここには、利休思想の本音と建前が見え隠れする。 (218頁)

 利休の茶の湯改革は、あくまでも大金持ちの数寄者が主役であった。
 利休は、質素さを強調したが、あくまでも、それは「装い」であった。
 茶の湯は基本、そういう「装い」の芸であった。*4

織部と武人の茶

 織部発案の鎖の間はこうして、武家式正の茶席として江戸幕府のもとにあって確定したのであった。室町時代の唐物尊崇の歴史が鎖の間で蘇ったのである。その基本態をセットしたのもまた、織部であった。ここに武将茶人織部の面目が映っている。/かぶく時代相のもとで、創意にふけって人心を酔わせた魔術師・織部ではあったが、 実は、唐物を主体にした武家式正の古典茶の湯を復活させるという一面もあったことは、忘れることはできない。 (250頁)

 けれん味あるイメージでとらえられがちな織部だが、とうぜん武人であり、こうした側面を持っていた人である。*5 *6

(未完)

*1:利休と織部の近代における受容については、依田徹『近代の「美術」と茶の湯』が大変興味深い。この本によると、利休が、現在のような「茶の湯の中心的存在」として語られるようになるのは昭和期から(長谷川等伯に対する評価の上昇とも相関しているという)であり、織部が再評価されるのは戦後からのようだ。

*2:織部のことについては、ブログ・「なにがし庵日記」が本書(の原本版)書評https://plusminusx3.hatenadiary.org/entry/20090313/1236898166 を書いているので、ぜひそちらをどうぞ。

*3:趙容蘭は次のように言及している(「数寄道具の一考察 『山上宗二記』の茶道具目録を中心に」(PDF)http://www.japanese-edu.org.hk/sympo/upload/manuscript/20121015074859.pdf )。 

茶の湯の始まりは、厳しい茶の湯美学の原理に従って中国到来の唐物が主役だったが、侘び茶の時代になってその美意識が深化され、千利休の目聞きによって和物の道具や朝鮮の道具にも意味を与え、数寄道具が名物以上の価値を持つようになった。これは唐物が大流行して所有者が急増し、輸入の限界による唐物の品切れ現象の対応する新しい試図としても解釈できる

*4:石塚修によると、「明治期に「金持ちの貧乏人ごっこ」と揶揄された茶人たちのあり様を、西鶴は早くに認め、活写している」という(「『西鶴諸国ばなし』巻五の一「灯挑に朝顔」再考 茶道伝書との関係を中心に」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000840731 )。やはり、茶は「プレイ」なのである。

*5:四国新聞」の2016年9月15日付の報道https://www.shikoku-np.co.jp/national/culture_entertainment/print.aspx?id=20160915000399 によると

武将で茶人の古田織部(1615年没)の親族の家譜に、徳川秀忠織部に格式を重んじる武家流の茶法を定めるよう命じたとする記述があることが15日、古田織部美術館(京都市北区)の調査で分かった

ちなみに秀忠は、ブログ・「なにがし庵」https://plusminusx3.hatenadiary.org/entry/20140412/1397262834 によると、

織部の直弟子で、自分の代で徳川の茶の湯を完成させ、終了させてしまった男。/旗本の子孫の方々が、茶の湯の正統を千家や遠州石州でなく、秀忠で終わったと認識しているのもむべなるかな、という事なのかも知れない。

という感じの人である。

*6:ただし、神津朝夫『茶の湯の歴史』によると、武家以外でも同時代において鎖の間は使用されているという(当該書204頁)。また、武家がみな、いつも鎖の間を使っているわけでもないようだ。