近代的「性欲」の誕生(ともあれ、一語の辞典シリーズは、今後も読み継がれるべきである。) -小田亮『性 (一語の辞典)』を読む-

 小田亮『性 (一語の辞典)』を読んだ。

性 (一語の辞典)

性 (一語の辞典)

 

 内容は、「20世紀最大のテーマの一つ『性』。男女の性愛を表す『性』という言葉は、どのようにして生まれたか。そして『性』は、日本人の考え方・生き方をどう変えたか」というもの。
 三省堂の「一語の辞典」シリーズは、薄いのに中身は濃いことで知られているが、本書もそれにあてはまる。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

性欲の「物象化」

 性欲という装置の成立によって、その場で終わる行為や状態としての〈色情〉は、個人の隠された内面としての〈性欲〉へと変えられていく。 (引用者略) 男色は単なるある場面・ある時の行為ではなく、そのような行為をうながす〈性欲〉をもっている個人=人格が問題視され、異性愛者とは絶対的に区分された〈性欲〉を所有する「同性愛者」というアイデンテイテイが成立する。 (62頁)

 あくまでも状態や行為であったものが、個人の属性のようなものに変化する。
 個人の中に「性」が、本質的なものとして「物象化」されていったのである。*2

性的不能という強迫観念がもたらすもの

 その根底にある男の恐怖とは、つきつめれば、性的不能などといった形で現われる、性欲を正しく使えないことへの恐怖であり、性の主体化が脅かされるという恐怖に他ならなかった。性欲の装置においては、性関係の失敗が、男にとって能力や自信の喪失に、すなわち自らを主体として確証することの失敗につながるからである。それゆえ、自分自身の性欲をもとうとしたり、いたずらに男の性欲を刺激し翻弄するような女性、すなわち男性の主体化を脅かすような女性は、「下層の粗野な女性」「娼婦」「妖婦」として、すなわち「異常な女性」として排除されなければならなかったのである。  (80頁)

 性の主体化を脅かすような女性は、「娼婦」・「妖婦」として、「異常な女性」として排除される。*3
 一方、性的な存在でも、性的要求をしない女性は、「母性」として配置されることとなった。*4

「全身的性感」に対する注目 

 中国やインドの古代文明における性愛術でも「接して漏らさず」、つまり性交しても射精しないことが重要とされていた。それは男性の養生のためと説明されているが、男性の快感のプラトー期(高原期)を生みだすための術でもあっただろう。いずれにしろ、そこでも愛撫などによる全身的性感が重視され、性器性欲が目標とする射精が必ずしも最終目標とされていなかったのである。 (113頁)

 性器性欲至上主義は、やはり近代的なものにすぎないのかもしれない。*5

 

(未完)

 

*1:個人的には、樋口陽一『人権』を特に薦めたい。

*2:杉浦郁子は、論文「「女性同性愛」言説をめぐる歴史的研究の展開と課題」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006353594において、次のように述べている。

1960 年代に「レズビアン」は主に「人」を指す言葉となった。それは、女性間の性的な「行為」や「関係」のみならず、その関係へ誘われる「人」という存在、さらには個人の内面にあるとされる「性欲」への関心を呼び起こす。 (以上、一部を省略して引用)

このように、「レズビアン」においては、このような「内面化」現象が1960年代になって見られたのだという。

*3:先の杉浦論文によると、

ヘテロセクシズムは「男の性欲は能動的でなければならない」という強迫観念を作りだす。男の性的主体化は女を性的客体とすることに依存しているため、男の能動性に支配されない女の性欲が恐れられることになる

とのことである。なおこの論文の当該箇所では、本書『性(一語の辞典)』が参照されている。

*4:高橋由季子は、性の二重基準について、次のように要約している(「〈運命の女ファム・ファタール〉と妖精のイメージ」 http://www.danceresearch.ac/taikai/20131208_D.pdf(PDF) )。

19 世紀、ブルジョワジーが家庭に関して新しい概念を創り出した。家庭における娘(処女)、妻、母という役割に貞淑で献身的な良妻賢母像を求めた。ブルジョワ社会が模範とする女性像を「聖母」像に見出したのである。貞淑さを妻に求めた家父長制度は「誘惑するもの」として娼婦に性的魅力を求めた。性の二重基準である。性の二重基準は女性を2つのジャンル、「聖母」と「誘惑するもの」に分割した。

本書における「母性」とは、性の二重基準における「聖母」と対立しない、むしろ親和的な、濾過されたタイプのセクシャルな存在、と考えるべきであろう。 

*5:著者は、論文・「ポルノグラフィの誕生――近代の性器的セクシュアリティ――」において、以下のように述べている(https://garage-sale.hatenablog.com/entry/20111223/1324607498 )。

そのような性器的(男根的)セクシュアリティの絶対化が、男の全身的な性感と受動的な性的快楽の認知を阻害していること、そして、ポルノグラフィは男根的セクシュアリティの幻想を維持する働きをしていると同時に、ポルノグラフィの中の女の社会的人格喪失に自分の性欲を同調させるという特殊な形で男たちに受動的な性的快楽を与えているのではないか

そして、「現代男性の攻撃的・競争的な男根的セクシュアリティは、受動的・依存的な口唇的あるいは全身的セクシュアリティの抑圧によるものである」としている。

 ただし、ポルノグラフィについては、受動的であるという点はともかくも、「全身的性感」は十分でなく、この点については、ポルノグラフィだけでは解消は出来そうにないのが難点と言えようか。