星岡茶寮においては、牛肉のすき焼きは提供されなかった、ということらしい。 -『魯山人と星岡茶寮の料理』を読む-

魯山人星岡茶寮の料理』(柴田書店)を読んだ。

魯山人と星岡茶寮の料理

魯山人と星岡茶寮の料理

 

 内容は、おおざっぱにいうと、解説文にある通り、

カラー頁では戦前の婦人雑誌のレシピで再現する星岡茶寮の料理、現代の料理人が魯山人作の器に盛るといった料理企画、星岡茶寮のパンフレットや販促材料などを紹介。モノクロ頁では資料編として、料理を中心として魯山人の半生を探るとともに、魯山人が料理について語った新資料やレシピを採録

といった内容。

 今回は、モノクロ頁の部分のみを取り上げることにする。

 以下、特に面白かったところだけ。

もっと材料の本来の味を活かせ by 魯山人

 これからはもっと材料の本質を生かして技巧も大切ではあるが、本来の味を失わぬよう調理すべきである (125頁)

 「日本料理の本質とその欠点」(北大路魯山人)より。
 日本では野菜を軽視しているが、野菜くらい貴いものはない。
 また、日本料理はあまりに材料より技巧に重きを置いているが、その結果今日の衰退を招いたのだ、と魯山人は書いている。
 魯山人に言わせれば、当時の日本料理は材料本来の味を生かしていなかったのである。*1
 現在の日本料理に対する語られ方とはずいぶんと違うものである。
 出典は大正14年(1925年)の「婦人画報」。

中華風の料理を出していた魯山人

 恐らくこの頃がターニングポイントだったのではないだろうか。 (102頁)

 かつて、魯山人は、中華風の料理を出し、中華風の装飾に凝っていた。*2
 だが、器は染付や色絵の磁器を手掛けていたのが、土物主体に傾斜していく。
 昭和5年には荒川豊蔵が美濃で織部や志野を焼いた窯を発見し、魯山人が発掘に乗り出す。
 この頃には、中国文化から脱却していたと本書は見ている。*3

牛肉のすき焼きは提供されなかった?

 星岡茶寮においては、牛肉のすき焼きは提供されなかったと想像される (113頁)

 魯山人といえばすき焼きであるが、星岡茶寮では提供されなかったのでは、と。
 新聞広告などに歌われてきた名物料理は、スッポンと狸汁である。
 また、『星岡』誌に不定期に載るその月の使用素材リストに、鴨肉と猪肉はあっても牛肉は一切登場しないという。*4

 

(未完)

 

  • SmaSurf クイック検

*1:木下謙次郎『美味求真』(1925年)は、日本の料理は材料の本来の味をロクに吟味せず、料理に補助味砂糖のようなものを乱用している、と批判している(256、257頁)。魯山人とおよそ同時期の似た意見である。

 一方、金原省吾『表現の日本的特性』(1936年)には、1935年12月号の『星岡』に掲載された大村正夫「日本料理の味」が引用されている(138、139頁)のだが、大村によると、日本料理は材料を活かすことに力を入れ、「支那料理」や「西洋料理」とはそこが違う旨が述べられている。この大村は俳優ではなくて、医学博士のほうであろう。日本料理も十年で随分と出世したものである。

 東四柳祥子は、1926年の波多野承五郎『古渓随筆』には、日本料理は材料にわずかに手を加えるだけで完成する「生地料理」だとする言説がみられることを、指摘している(「「日本料理」の誕生」(西澤治彦編『「国民料理」の形成』)、2019年、168頁)。日本料理のこの手の「再評価」は、このあたりからのようだ。

*2:もちろん、真鍋正宏が述べるように、ある時期まで魯山人が中華風料理に凝っていたことは(白崎秀雄が書いているように)周知の事柄ではある(「大正の美食/谷崎潤一郎『美食倶楽部』 食通小説の世界(4)」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005630881、107頁 )。

*3:「料理と食器」(1931年)https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50008_37774.html で魯山人は、以下のように述べている。

わたしの見解をもってすれば、中国料理が真に世界一を誇り得たのは明代であって、今日でないというのは、これも中国の食器をみると分る。中国において食器が芸術的に最も発達したのは古染付にしても、赤絵にしても明代であって、清になると、すでに素質が低落している。現代に至っては論外である。むべなるかな、今日私たちが中国の料理を味わって感心するものはほとんどない。

興味深いのは、まず、当時の中華料理が否定的に言及されていることである。既にこの頃は彼の中でかなり「中華風」離れが進んでいたのだろう。さらに興味深いのは、明代褒め、清代批判を行っている点である。というのも、この手の趣味は、永井善久「志賀直哉『万暦赤絵』論 "古典的作家"の完成」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120001441343 )が紹介するように、「昭和初年代は、万暦赤絵を中心とする赤絵が一大ブームとなっており、しかもそのブームは山中商会によって半ば演出されたもの」であり、

久志卓真は、「支那の陶磁の鑑賞(一九)」(『日本美術工芸』、昭二六・一二)という文章の中で、「我国には清朝宮窪の精品の真価を知る人が稀であつて、支那陶磁といふと嘉靖、万暦以外には雅味のあるものがないといふやうな偏見を持つ人が多いが、事実公平な意味で支那陶磁を鑑賞するならば陶磁工芸の頂点は康煕末、雍正であつて、そこに中心をおかなければ支那陶磁の正当な鑑賞は皿八って来ないといふことを知らねばならない」と、「私」や志賀の嗜好に典型的に窺える陶磁器鑑賞のあり方を厳しく批判している。

のである。久志のような研究者から見ると、そういった趣味は、悪し様に言えば素人めいたものだった。ただし、魯山人は、万暦赤絵より古赤絵のような、茶の趣味により近いもののほうをより好んだようであるが(魯山人「古器観道楽」https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/55109_69324.html 参照)。

*4:もちろん、星岡茶寮を追放される前から、魯山人は、すき焼きの作り方について、言及している。1933年の「星岡」に載った「料理メモ」https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50011_37666.html には、牛肉屋のすきやきとして、

*東京の牛肉屋のタレは悪い。出来合いのタレの中に三割くらいの酒と、甘いから生きじょうゆ一割くらい加えること。/*ロースやヒレを食う時は肉の両面を焼くべからず。必ず片面を焼き、半熟の表面が桃色の肉の色をしているまま食べること。/*豆腐、ねぎ、こんにゃくなど、いっしょにゴッタ煮する書生食いの場合は別。/*ロース、ヒレはタレをよくつけて鍋で焼く。汁の中に肉を入れるのではない。

などとある。