鹿鳴館のイスラム様式から、モダニズムと軍国主義の関係まで -井上章一『現代の建築家』を読む-

 井上章一『現代の建築家』を読んだ。

井上章一 現代の建築家

井上章一 現代の建築家

  • 作者:井上 章一
  • 出版社/メーカー: ADAエディタトーキョー
  • 発売日: 2014/11/26
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

明治に生まれ、モダニズムの波を越えて、現代に至る日本の建築家たち。日本の自我は、どのように建築や都市にあらわされてきたか。建築家のあゆみを、社会のありようから考える、画期的な日本近代化論としても読める一冊

である。
 アマゾンレビューにもあるように、安藤忠雄評価が割と高いが、安藤については今回は取り上げない。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

鹿鳴館イスラム様式

 鹿鳴館にインド・イスラム風の形がまぎれこんでいることは、あまり知られていない。 (49頁)

 コンドル作の鹿鳴館の話である。
 二階の正面ベランダにイスラム様式の形が見て取れる。*2
 コンドル、伊東忠太、タウトが、いずれも「オリエント」な様式に行きついたことが、本書で言及されている。

媚びと威張り

西洋にたいしては、エキゾティシズムをくすぐり媚を売る。だが、東アジアにたいしては、西洋化をなしとげたかのような姿で、いばって見せた。 (227頁)

 博覧会の日本館は、以上のような帝国の姿勢を垣間見せた。
 西洋で開かれる万博ではエキゾティックにふるまう(19世紀末のシカゴ万博の「鳳凰殿」が特に有名だろう)。
 その一方、東アジアの植民地では、総督府はモダニスム建築だった。
 1933年の満州博覧会の日本館は当時の現代的な様式だし、1940年の朝鮮大博覧会でも、日本館は、モダンな造りであった*3。 
 片方に媚び、片方に威張っていたのである。

モダニズム軍国主義

 日本趣味へ手をそめた建築家に、こういう文句をのこした者は、ひとりもいない。当時は、モダニストのほうが、より好戦的にふるまった。 (253頁)

 帝冠様式等に関する話である。
 実際、分離派の瀧沢真弓は、1934年に、「日本精神はあの軍人会館の様式に存るのではなく、あのわが海軍の軍艦の様式にある」と述べている(94頁)。
 著者は、日本趣味へ手をそめた建築家よりも、前川国男の方がよほど当時の臣民と軍国主義を分かち合っていると述べている。*4

関東大震災をきっかけに

 大阪の漫才という芸能が、たとえばこのころに首都圏へもちこまれている。 (355頁)

 関東地方は、大阪の笑芸は受け入れてこなかった。
 だが、関東大震災のあとのラジオ放送は、関西弁の「お笑い」を流し出す。*5 *6
 同じく、料理についても、関西風の味付けも、同じころに東京へ押し寄せている。*7

 

(未完)

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*1:安藤については、飯島洋一『「らしい」建築批判』を超えるような感想がまだ思いつかないので、何か思いついたら書くかもしれない。

*2:河東義之は、コンドル設計の旧岩崎邸について、

洋館内部で注目されるのは,一階の婦人客室にイスラム風の意匠が用いられていること,また日本の火灯窓をあしらったような意匠もみられ,このあたりはコンドルの日本文化の研究,あるいは西洋と日本との間のイスラム様式を比較的早くから日本に提案していたことの現れであると言われています。

と述べている(「コンドルと邸宅建築- 生活文化史を視野に入れて-」https://swu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4948&item_no=1&page_id=30&block_id=97 )。イスラム様式というのは、コンドルにとって、「西洋と日本との間」、「西」と「東」をつなぐ建築様式であった。

*3:前者については、『満州大博覧会案内』(1933年)に、建物の姿が載っている。詳細は、ブログ・「古書 古群洞」の記事https://kogundou.exblog.jp/22920202/ の画像を参照。その特徴は、同博覧会の「土俗館」(満州諸民族の生活文化を示すような品が展示された)の建物と比較すればわかりやすい。「土俗館」については、山路勝彦「満州を見せる博覧会」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110006484720 )に、その写真が載っている。

*4:松隈洋『建築の前夜 前川國男論』に関するスライドによると、「前川國男『日誌』に記された言葉」は、以下の通り(https://www.aij.or.jp/jpn/design/2019/data/2_1award_009.pdf(PDF) )。

「建築新体制について大東亜戦は史代転換の戦争にして日本は世界に対してその担当者たるの責任をもつ今茲に世界史の形而上学的原理の上より之を見る時は自然中心の古代 神中心の中世 人間中心の近代とに分つ事を得べし今日近代史の終焉として茲に大東亜戦争の世界史的意義を見る時今日本の闢く新しき史代の原理は何であるか、此の原理を真実在として生き抜かるべき形而上学的原理は何であるか二千年の西欧的各史代の有った諸原理の裡に形而上学的有的世界の一切がすでにつくされたるを見る時茲に新しき原理は無の世界に見出されねばならぬ此の原理を中心に統一秩序をもった生活文化の相を新秩序と呼ぶ。そして此の文化の支柱により国家の倫理が確立され国家の独立が顕彰されるかうした生活文化の確立がそれに相応しい建築の母胎である」1942年1月18日

なんか、近代の超克みたいなことを言っている。以前書いた「日本的国際法」云々の者たちと異なるのは、前川がいちおう戦後の建築界で確たる成功を収めたところである。
 モダニスト軍国主義の関係については、以前、井上の『つくられた桂離宮神話』に関するレビューで言及したことがある。

*5:後段の料理の件も含め、これは井上のデビュー作『霊柩車の誕生』からずっと言ってきたことである。実は「帝冠様式」についても、既にこのデビュー作で持論を述べていたはずである。

*6:ただし、逆に関東大震災で、東京から三代目柳家小さんらが関西に移住・巡業したりしているので、相互交流という面も、なくはない(『こちらJOBK NHK大阪放送局七十年』(日本放送協会、1995年)53頁)。なお、同書によると、ラジオが上方ことばを変えたという。例えば、当時は録音機材の性能が悪く、マイクに乗りやすい声や楽器の音になるよう工夫する必要が生じたという。また、芸の内容も、昔は「墨字の芸」(毎回ごとに味わいが変わる)だが、今は「活字の芸」(毎回同じ調子)になったと菊原初子が証言しているようだ(同頁)。

*7:なお、関東大震災後、関西料理が関東に進出した当初は、東京人には関西風の昆布出汁や淡口醤油は不評だったようである(奥村彪生「料理屋の料理」(高田公理編『料理屋のコスモロジー』(ドメス出版、2004年))70頁)。