「靖国化」していた摩文仁の丘と、それから、沖縄料理が不味いと言われた時代について -多田治『沖縄イメージを旅する』を読む-

 多田治『沖縄イメージを旅する』を読んだ。

 内容は、紹介文の通り、

青い海、白い砂浜、穏やかな三線の音。「基地の現実」を一手に引き受けてきた島で、こうした南の楽園像は誰によって、いかにしてつくられたのか。数々の風景を通じて、沖縄のいまを探る

というもの。
 沖縄の現在抱かれるイメージと、過去の実像との間にある断層を、いくつも見つけることができる。

 以下、特に面白かったところだけ。

靖国化」と沖縄戦の語り

 五〇年代後半から六〇年代前半にかけて、沖縄戦の語りは軍隊中心の戦史が主流になった。 (97頁)

 実際この時期に、軍を顕彰する慰霊塔が林立するようになる。*1
 五〇年代後半の沖縄の「靖国化」には、遺族年金給付開始が、影響している。

 米軍統治下の沖縄にも適応させるため、いかに献身的に軍に協力したかを、より強調する必要があったのである(98頁)。*2

結局「日本国民」の物語

 興味深いのは、戦前の軍国主義と戦後の反戦平和という、相矛盾する日本国民の物語に、ひめゆりはともに奉仕する役割を与えられていたことだ。 (99頁)

 今井正監督の『ひめゆりの塔』(1953年)の話である。
 沖縄処分以来、「日本人になる」ため苦心してきた沖縄の固有性が、すっかり忘れ去られてしまっているのである。*3
 結局、日本国民(そこに沖縄の歴史的な固有性はない)の物語に奉仕していることになる。

 靖国神社と同様、国に殉じた「戦没者」という抽象化された存在が、崇め奉られる場所になっていった。つまり、慰められるのはいつも、訪れる「日本人」の方なのだ (105頁)

 結果起こったのは、ひめゆりの塔の「国民主義」化だった。

沖縄料理が「不味い」と言われた時代

 九〇年代のヘルシー志向に「長寿」や「健康」というキーワードが結びついたことで、沖縄料理は脚光を浴び始めた。 (172頁)

 沖縄料理は、それ以前は、「グロテスク」な存在だった。*4

「沖縄の心」とモンパチ

 だがその一方で、モンパチが沖縄で認められたのは、全国で売れたからではないのか、という鋭い指摘もある。 (222頁)

 売れる前は「こんな奴らに沖縄の心なんてわかってるはずないだろ」などと言われていたようだ。
 それが、2018年には、モンパチフェスに知名定男が出演するほどである。*5

 時代は変わる。

 

(未完)

*1:北村毅は、次のように述べている(「沖縄の「摩文仁の丘」にみる戦死者表象のポリティクス 刻銘碑「平和の礎(いしじ)」を巡る言説と実践の分析」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007501170 )。

1960年代、丘の上に立て続けに各県の慰霊塔が建立きれ、それぞれのお国自慢を競い合う様は、「慰霊塔コンクール」と嫌誇されたほどであった。後述するように、これら慰霊塔の碑文は、いずれも、「殉国者」や「愛国者」を奉賛する調子に貫かれていたため、1970年代に入ると、この摩文仁の丘の変化は、「靖国化」と呼ばれるようになる。

*2:当時の観光ルートについて、吉田竹也は次のように解説している(「地上の煉獄と楽園のはざま―沖縄本島南部の慰霊観光をめぐって―」http://rci.nanzan-u.ac.jp/jinruiken/publication/ronshu.html)。

1960 年代当時の観光のモデルルートは、次のようなものであった。まず、初日に南部の戦跡をめぐる。ひめゆりの塔摩文仁の丘がそのメインスポットである。 (引用者中略) 最終日は、舶来品ショッピングで物欲を満たす。そして、これら昼間の観光に加えて、夜は沖縄の料亭で食事し、琉球舞踊を鑑賞し、歓楽街に繰り出すのである。とりわけ、かつて遊郭があった那覇の辻地域は、夜のメインスポットであった。日本では、1957 年に売春防止法が施行されたが、沖縄においてそれが適用されるのは日本復帰を待ってからであり、米軍関係者を相手として定着した売春宿は、当時沖縄を訪れる本土の日本人観光客にとって、いわば合法的な性産業であった。男性観光客や商用や視察など仕事で訪れる人々の中には、昼はひめゆりの塔で殉国した無垢で純潔な少女の姿に落涙し、夜は売春街を訪れるという者がいたことになる。

非常に重要なことであると思うので、長いが引用しておく。
 そして、菅野聡美

ひめゆり学徒と売春婦、両者は対照的なようで酷似している。どちらも過酷な運命にたいして懸命に対処するが、自らに課せられた困難の理不尽きと根源を問うことはなく (引用者中略) 声高な批判や責任追及をしない存在であるがゆえに、本土側が安心して受け入れることができた。彼女らの悲劇、彼女らを「そうさせた」主体・原因は不問にしたまま、同情や共感をよせることができるのである。

と、論じている(「戦後沖縄イメージの探究」 http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/listitem.php?index_id=69495 )。この点も重要なので、やはり引用する。

*3:佐藤忠雄は、1982年版の「ひめゆりの塔」(同じく今井正監督作)について、1953年版以後に新しく出てきた、沖縄と本土の関係などの問題が描かれないままであることを指摘しているという(仲程昌徳「「ひめゆり」の読まれ方 映画「ひめゆりの塔」四本をめぐって」https://ci.nii.ac.jp/naid/120001372359 14頁)。また、櫻澤誠は、映画「ひめゆりの塔」について、次のように述べている(「沖縄戦」の戦後史--「軍隊の論理」と「住民の論理」のはざま」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006551910 *以下引用符を削除して引用を行った。)。

映画「ひめゆりの塔」は、沖縄戦ひめゆりの悲劇というイメージを定着させていく。御国のために純真無垢に尽くした。崇高なイメージ。学徒出陣した学生や、特攻隊に対するイメージに通じるものとして理解されたといえる。まさに「ひめゆり学徒隊のアイドル化」が生じるのである。また、この映画には、米軍そのものが具体的に登場しない。

*4:吉村昭は、沖縄県は食べ物がまずい、という話は半ば定式化しており、自分もそうした考えを抱いていたが、実際には沖縄の家庭料理がうまいことを知ったという(『味を訪ねて』河出書房新社、2010年、94頁)

 この文章の初出は、1982年7月である。

 また、『聞き書沖縄の食事』(農山漁村文化協会、1988年)の月報において、永六輔は沖縄は料理がまずいと述べる本土の人間を批判し、沖縄の家庭料理は実はうまいと指摘している(月報・11頁)。

 両者ともに、沖縄の料理がまずいと言われた原因について、本土の人間は沖縄でよそゆきの料理ばかりを出されていたからではないか、つまり、おいしい家庭料理を食べられなかったからではないか、としている点で共通している。

*5:「【速レポ】モンパチフェス<WWW!! 18>、知名定男「彼たちは、実は私を受け継いでいるんです」」https://www.barks.jp/news/?id=1000176124