外国人に、素朴な丸太小屋風の藁で覆われた小屋みたいに言われていた伊勢神宮。 -井上章一『伊勢神宮』を読む-

 井上章一伊勢神宮』を読んだ。

伊勢神宮 魅惑の日本建築

伊勢神宮 魅惑の日本建築

  • 作者:井上 章一
  • 発売日: 2009/05/15
  • メディア: 単行本
 

 内容は、紹介文の通り、

神宮はいかにして日本美の象徴となったのか 明治初年、「茅葺きの納屋」とされた伊勢は、20世紀に入り「日本のパルテノン」として世界的評価を受ける。民族意識モダニズム、建築進化論の交錯を読解する

というもの。
 伊勢神宮の言説史を追う上では、読まれるべき内容。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

外国人にがっかりされていた神宮

 これについてはたいていの外国人が、おとしめてきた。 (151頁)

 戦前において、タウトは外国人の中で比較的珍しく神宮を褒めた人物である。
 というのも、当時、たいていの外国人に、素朴な丸太小屋風の藁で覆われた小屋みたいに言われていたのだから。

 アーネスト・サトウも、がっかりしたという。 (154頁)

 明治初年に日本へ来た欧米人は神宮の粗末な作りにあきれていた。
 サトウは、その様はあまりにも簡素で弱々しい、と書いている。*2

美化された神宮

 日本のモダンデザインじたいに、せまい民族主義があったというしかない (201頁)

 伊勢神宮の好奇な意匠をモダンデザインと重ね合わせた、太田博太郎の話である。
 彼の議論は「狭い」民族主義的議論に陥ったが、当人に自覚はなかっただろう、と著者はいう。*3
 彼自身はむしろ進歩的なことを書いている、と思っていただろう、と。
 なお、そんな太田でさえも、きれいな茅を選別して一本一本並べている様を、工芸品のようだと批判し、こうした上等の材料を用いたのは明治以降にすぎず、これは「明治全体主義政権の一つの具体的表現」(368頁)だと述べている。

 今日の神宮は、たいへん高級な檜材をつかっている。 (206頁)

 節目の無い四方柾の檜である。
 しかも建て替えには当代一流の名匠が関わる。
 現代の神宮は手の込んだ工芸品のようになっている。
 だが、江戸期にはそこまでの仕事はされていなかった。
 使われる木材も節目のあるもの。
 ずっと安上がりに、しあげられていたはずだという。

「モダン」な感じに「修正」。

 そこではモダンデザインへよりそった加工が、ほどこされた。 (366頁)

 20世紀の話である。
 角南隆は、神宮の創建当初は金具などなかったが、それが天武天皇以降多くなった、と主張した。*4
 そこで、金具を、福山敏男らに同意を得て、二、三割減らしたのである。
 こうして、「シナ」風の装飾や東照宮に向こうを張ったという装飾は、削られた。
 神宮の荘厳さを増すためにである。
 その処置を谷口吉郎堀口捨己らは喜んでいる。
 前のものをそのまま作り直すと伊勢神宮についてよくいわれるが、実際は、かならずしもそうはなっていない。
 それを示す一例である。*5

神宮に法隆寺の影

 福山敏男は、神宮に法隆寺の影を読みとっている。 (307頁)

 神宮の妻飾りに、法隆寺金堂のそれがとりいれられていることを、福山は突き止めた。
 神宮には、大陸的な仏教建築の感化が、及んでいたのだという。*6

そんなにきれいな訳もない

 伊藤延男がためらいをしめしている。 (367頁)

 今の神宮は鉋できれいに仕上げている。
 しかし、古くは槍鉋を用いていたから、表面はもっと凸凹していたはずである。*7
 伊藤は、伊勢神宮のきれいな仕上げを、無条件に古代と結び付ければ誤る、というのである。

時代遅れのものをあえて選んだ?

 棟持柱のある高床という形式は、その古さが買われて、えらばれた。 (441頁)

 古臭いからこそ、当時の日本の国に気に入られたのではないかと著者はいう。*8
 7世紀末あたりかどうかは不明だが、9世紀にはこの時代遅れの形式で神宮が建てられたのだろう、と。
 あえて、古いものを選択的に選んだとして、当時の日本側の意志を見るのである。

 

(未完)

*1:ところで、近年の中で、読んで面白かった伊勢神宮関連の論文は、数元彬東大寺僧徒が見た中世の伊勢神宮」(https://ci.nii.ac.jp/naid/120005972268 )かと思う。本論とは直接関連はしないが、ぜひご一読を。

*2:鈴木英明は、アーネスト・サトウ神道観について、次のように述べている(「日本の国際化を考える : 江戸から東京へ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006304542 )。

1874(明治7)年2 月、日本アジア協会(72 年7 月設立、英米系の日本研究団体)で外交官サトウが「伊勢神宮」と題して発表した。 (引用者中略) サトウは、「神道には道徳律がないというヘップバーン(ヘボン)氏の意見に同感である。……」。 (引用者中略) 彼ら欧米人の神道理解は、チェンバレンの解説と変わりはなく、神道は宗教でないというものであった。

当時の神道の扱われ方が、そもそもこのような感じである。

*3:太田博太郎は、『法隆寺建築』(1949年)で、法隆寺の中にもモダニズム風の簡素美を読み取っている。そしてそれらは「日本的意匠」であり、「日本人の感覚」であって、「支那」的でも、ギリシアやインドからの伝播という仮説に対しても消極的である。(以上、著者井上の「法隆寺の「発見」」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000901638(179頁)を参照・引用した。)

*4:もちろん、根拠は薄弱である。

*5:稲賀繁美は、次のように述べている(「古寂びを帯びる《束の間》フランスから見る伊勢神宮(その2):『日本の美学:時の働き――痕跡と断片』ミュリエル・ラディックの著書をめぐる公開円卓会議より」https://inagashigemi.jpn.org/achivements/serials/aida/ )。

近世に至るまで、造替にはきちんとした図面などなく、禰宜と宮大工との口頭の協議で、細部の意匠、装飾品の選択、建造物の配置が変更されることもあった様子である。

参照されているのは、福山敏男『神社建築の研究』である。
 これは、あくまでも近世以前の話であり、井上著でも言及されている事柄である。「改変」は近代だけでなかったことを示すため、一応引用しておく次第である。

*6:伊藤行は、「神宮正殿の妻の形式が,法隆寺金堂の当初のそれに大体に於いて一致することは注意すべきである」と述べている(「伊勢神宮の研究1」https://ci.nii.ac.jp/naid/120002835396 )。参照されているのは、福山の論文「神宮正殿の成立の問題」である。こうした福山の見解に対しては、後の時代においても比較的肯定的に受け止められている(例えば田村圓澄『伊勢神宮の成立』(吉川弘文館、2009年)213頁)。

*7:槍鉋を使用した場合の削り跡は、こちらのページhttps://www.konarahouse.jp/blog/archives/2689 を参照。

*8:著者井上自身も次のように述べている(鼎談(井上章一安藤礼二青井哲人)「伊勢神宮を語ること、その可能性と不可能性──式年遷宮を機に」http://10plus1.jp/monthly/2014/03/issue01.php )。

こんなに古いものをなぜ伊勢神宮は引きずって再編したのかということが問われるべきですね。8世紀は中国からの文物が届き、中国風の建物が並び出している頃ですが、わざわざ伊勢の奥の方にこういった古めかしいものをこしらえたということです。

長髪ルックは、ウッドストックでもまだ15パーセント程度しか普及していなかった -サエキけんぞう『ロックとメディア社会』を読む-

 サエキけんぞう『ロックとメディア社会』を読んだ(本当は再読)。 

ロックとメディア社会

ロックとメディア社会

 

 内容は、紹介文の通り、

エルヴィス・プレスリーの衝撃的なメジャーデビューから半世紀、ロックはテレビ、ヴィデオ、ネットといったメディアの進展とともに世界中の若者に浸透し、かつメディアの拡大を支えてきた。/深くつながるロックとメディアの進化! そこに「社会」を読む。

というもの。
 音楽家である著者の手になる本書だが、音楽論というより、音楽を通じた社会学っぽい感じである。
 以下、特に面白かったところだけ。

長髪ルックが少数派だったウッドストック

 長髪ルックは、ウッドストックでもまだ一五パーセント程度しか普及していない (80頁)

 映画『ウッドストックがやってくる!』の映画パンフに依拠している。*1
 記録映画『ウッドストック』は、長髪男性をマークして映し込んだらしい。
 実際のウッドストックの会場では、八五パーセントの男性が、頭髪が短く目立たない服装の普通の人だったようだ。
 その後、一九七三年のワトキンズ・グレン・サマー・ジャムなどの映像では、間違いなく長髪だらけの人ばかりとなっている。
 この時点では、既に実態的に、長髪の男性が多く駆け付けていたのだろう。

ライブハウスの歴史と「総立ち」

 このマナーが定着したのも、パンク・ムーブメントがもたらした (128頁)

 客が「総立ち」で客が熱狂する光景について。
 ロックのライブで総立ちが常態化するのは、ライブハウスの登場が原因だという。*2 *3

ディスコと階級

 こうしたヒエラルキーの存在がディスコの特徴 (164頁)

 ディスコは階級別に存在していた。

 著者は、ニューヨークにあったディスコ・「スタジオ54」(およびそれをモデルにした映画『54 フィフティ★フォー』)を念頭に、そのように述べている。

 どのディスコにも特別席であるVIPルームがあったのが、その象徴だという。
 これが、ディスコののちに発展する、「クラブ」(ハウスやテクノ)との違いだとしている。*4

 もちろん、こうした見方に対して、反論は可能であろうが。*5

バンドブームの「遺産」

 バンド・ブームも急激な衰退ではあっても、さすがにGSとは違って跡形もなくかき消されるというほどではなかった。 (242頁)

 バンド・ブーム(1980年代後半期)の功績とは何だったのか。
 それは、全国にライブハウスと楽器屋の数を増やし*6、中学や高校にバンドを公認化させ、ライブの総立ちを当たり前にしたことである。

 音楽のインフラ作りに貢献したのである。

 

(未完)

*1:ウッドストックの熱狂と精神を今に伝え、変わりゆく人々を描く一大プロジェクトの始まり」という題の、映画『ウッドストックがやってくる!』の紹介記事には次のようにある(http://intro.ne.jp/contents/2010/12/18_1939.html )。

シェイマスが打ち明ける。「ウッドストックに向かった人たち全員が、長髪に揉みあげでマリファナを吸っているヒッピーだったわけではないんだ。一般的にはそういう写真が一番多く出回っているけどね」。そう考えたスタッフはさらなる数値化を試み、各地のイベントを渡り歩くヒッピーたちが一番最初に会場にたどり着き、ロングヘアを含む大学生がそれに続いて、そして残りの85%は高校生など髪も短く目立たない服装のごく“普通”の人々だったという結果を割り出した。

ここでいう、シェイマスとは、ジェームズ・シェイマスのことで、映画『ウッドストックがやってくる!』のプロデューサー兼脚本家である。

*2:兵庫慎司によると、ライブハウスにおけるテーブルとイスの有無の関係は、次のようになる(「ライブハウスには昔、テーブルとイスが当たり前にあったーー兵庫慎司が振り返るバンドと客の30年」https://realsound.jp/2015/06/post-3397.html 
。以下、引用と参照は、この記事に依る。)。

 まず、ライブハウスでテーブルとイスが出ているところは、地方を中心に(そして現在も)ある。一方、東京だと、「狭いからテーブルとイスなんか置いてたら採算が合わない」こともあってか、基本オールスタンディングである。

 関西(の都市圏)だと、「テーブルとイス」「イス」「スタンディング」の3パターンがあり、「普段はテーブルとイス、人気あるバンドの時はイスだけ、もっと人気ある時はオールスタンディング」である。また、パンク系でも、「大阪の西成にあったエッグプラント」は「作りつけみたいなイス席」がある。これが、筆者(兵庫)が関西圏に引っ越した1987年以降に目撃した情報である。
 そして、兵庫は、「なぜそれまではなるべくテーブルとイスを置きたがったのか」という方向で考え」て、

オールスタンディング=危険、と思われていたからです。たとえば観客が将棋倒しになって3人が亡くなったラフィン・ノーズ日比谷野外音楽堂(1987年)。野音だったからイス席だったのに、一部の観客が自席を離れてステージ前に押し寄せたから起きた事故だったのだが、実はパンク系などのバンドのライブの場合、これに近いことが各地で起きていたのだと思う

と述べる。

 なるほどと思う。じっさい、1980年代以前から、スタンディングは、危険視されていた。ある時期までの日本では、コンサートでは客席から立ってはいけない、立つと混乱を呼び起こすから、と規制されていたという三宅伸一の証言がある(三好「ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ 日本公演の表と裏」『文芸別冊 ボブ・マーリー』(河出書房新社、2012年)、160頁)。三好が言及しているのは、1979年のウェイラーズ来日公演に関連してである。

*3:1979年に「新宿ロフト」のライブ「ドライブ・トゥー80's」で、定員以上の客が来たので、総立ちに切り替えたのが、総立ちがスタンダードとして確立したはじめである。と、このように著者は「一説」として紹介している。このライブイベントについては、以下の記事が詳しい。http://www.eater.co.jp/siryou/dt80.htm

*4:著者は本書で、ディスコとクラブの違いについて、ハウスやテクノは後者に属するものとして定義している。すなわち、「スタジオ54」がディスコ、「パラダイス・ガレージ」がクラブ、という分類をしている。

*5:ウェブサイト・『HEAPS』の記事 「誰をも歓迎した「たった2年間のパラダイス」 NY・70年代ディスコ・シーン、狂乱と享楽のダンスフロアにあった真実とは」 には、次のような記述が存在する(https://heapsmag.com/interview-with-photographer-bill-bernstein-nyc-70s-disco-scene-two-years-inclusive-paradise-welcoming-all-races-genders-democracy-on-dancefloor )。

スタジオ54とパラダイス・ガラージの性質は対照的ではあるものの、人種や性別、職業など多様性をフロアに招きいれる「インクルーシブネス」という点では、何一つ違いはなかったというビル。ドアを開ければ、誰もが入り乱れることのできた空間だった。/そんなディスコの一歩外は、人権運動に揺れていた。世界規模で広がっていたフェミニズム運動「ウーマン・リブ」や黒人公民権運動、ゲイ解放運動の幕開けとして有名な1969年の「ストーンウォールの反乱」。まるで平等の祝杯を上げたいかのごとく、生い立ちのまったく異なる人々が一堂に介し交差した場こそが、ディスコだった。ビルの言葉を借りれば「民主運動のダンスフロア」だったのだ。

理想化されている感もなくはないだろうが、一応の事実、事実の一側面ではあるはずである。

*6:ただし、ライブハウスについては、経営者が変わる、場所の移転、などの見えない部分での変化は激しかったという( 宮入恭平『ライブハウス文化論』(青弓社、2008年)52、53頁)。また、ライブハウス増加にともなって、あまり評判のよろしくないノルマ課金も登場してくるわけだが。前掲宮入著は、1980年代後半以降、ノルマ課金が確立されたとしている(29頁)。

悪臭都市だった平安京から、汲みとり式便所と京野菜の話まで(あと、その他諸々の話題) -高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』を読む-

 高橋昌明『京都〈千年の都〉の歴史』を読んだ。

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

京都〈千年の都〉の歴史 (岩波新書)

  • 作者:高橋 昌明
  • 発売日: 2014/09/20
  • メディア: 新書
 

 内容は、紹介文の通り、

平安の都、日本の〈千年の都〉として、今も愛される京都。しかし今の京都には、実は平安当時の建物は一つも残っていない。この都はいかにして生まれ、どのような変遷をたどり、そして「古都」として定着するに至ったのか? 平安京誕生から江戸期の終わりまでその歴史をたどり、「花の都」の実像を明らかにする。

というもの。
 結果的に、「臭い」話ばかり取り上げるが、もちろん、それ以外の話題も、読みどころありである。

 以下、特に面白かったところだけ。

悪臭都市・平安京

 平安京も相当な悪臭都市だった (54頁)

 平安京の溝渠には、人間の排泄物も流されていた。
 ただでさえドブ化しやすいのに、そのうえ、溝沿いの家からは、汚水が垂れ流しとなっていた。
 これが初期平安京の姿であった。*1

糞便と死体だらけ

 餌としての糞便や死体が豊富だったからである (56頁)

 京の都にはなぜ、野犬が多かったのかといえば、そうした野犬の餌が豊富だったからである。
 人口密集地でのこうした環境は、疫病をはやらせる原因となった。
 京都は神泉苑ですら、「不浄の汚穢」が行けの中に充満していたようだ。*2
 また、『玉葉』にも京都の不浄の様子が、記録されている。*3
 もちろん、一九世紀半ば過ぎまで、パリでもロンドンでも、世界の都市は人畜の糞尿、汚水まみれではあったが。

汲みとり式便所が生んだもの

 京都に汲みとり式便所が普及し、並行して街頭排便の習慣が過去のものとなってゆく (194頁)

 やがて、近郊型農業への対応として、汲みとり式便所が本格的に成立するようになる。*4
 フロイスも、日本では人糞が肥溜で腐熟されて、畑に投入されることを、記している。
 公衆便所で排泄された屎尿は、近郊農民に売却されて、町の運営経費に充てられた、と考えられる。 京野菜、たとえば、九条ネギ、堀川ゴボウ、鹿ケ谷カボチャなどの前史には、こうした汲み取り式便所の普及があったのである。

YOUは何故に上皇に?

 上皇ならそれから解放され、自由にふるまうことができたからである。 (72頁)

 なぜ、上皇法皇になって、政治を行ったのか、その理由である。*5
 上皇になるは、御堂流(摂関家)に埋没していた天皇一家を、「王家」という自立した存在として立ち上げることを意味していた。
 天皇だと政治や祭祀や儀礼の面で、行動を制約されることが多かった。*6

大徳寺が五山を離れた理由

 大徳寺室町時代中期の永享三年(一四三一)、五山から離れ、在野の立場に立つ禅寺(林下)の道を選ぶ。 (152頁)

 なぜ、五山から離れたのか。
 幕府によって五山第一の寺格を大幅に下げられたことなどが原因である。
 在野となって、権力に密着して世俗化し、漢詩文や学問の世界に向かった五山の禅を厳しく批判した。*7
 坐禅に徹して、独自の立場に立った。
 その大覚寺を代表するのが、一休宗純である。*8
 反骨の大徳寺禅を、堺の豪商に広め、彼らの援助で、灰燼に帰した方丈や仏殿兼法堂の再建をなした。

 

(未完)

*1:稲場紀久雄は、日本古代の歴代の首都について、次のように述べている(「三大環境危機と下水道 」http://www.jca.apc.org/jade/demae20index.html )。

悪臭は、皇居にも遠慮なく侵入した。歴史学者は、「穢れた悪臭とは死人の臭いか」と書いている。「死者の臭い」が絶対なかったと断言しないが、当時の都市は大量の糞便から立ち上る悪臭でむせ返るようだった。 (引用者中略) 藤原京平城京平安京も、道路という道路には水路が設けられていた。この水路系統は、水が都市全域をなるべく均一に流れ下るように体系的に整備されていた。これを下水道と称すれば、わが国の当時の首都は世界でも屈指の下水道完備都市だった。ところが、用排兼用の水路だった。人々は悪疫でばたばた倒れ、恐怖に慄いて、首都は放棄された。

*2:小右記』によると、

長和五年六月条/十二日甲申、巳の剋ばかり、束帯して摂政殿に参じ、則ち以て謁し奉る。(中略)余申して云く、『神泉苑竜王の住所なり。(中略)先日蜜々件の苑を見るところ、四面の垣悉く破壊し、不浄の汚穢池中に盈ち満つ。 (引用者中略) 』と。

とある(ウェブサイト「忠臣蔵」より。http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/0151_0200/0170.htm )。本書でも、『小右記』の当該箇所が引用されている。

*3:荒木敏夫によると、

玉葉』建久二年(一一九一)年五月十三日条が記す以下のような状況が生まれてくるのは、充分に考えられることであろう。/又神泉苑、死骸充満、糞尿汚穢、不可勝計云々、仍慥明日明後日之内、可洒掃之由、仰別当能保卿。/ひとつの行き着いたところ、それはかつての禁苑であった神泉苑の地は、「死骸充満、糞尿汚穢」に満ちた場に化している。もはやそれは、王権の独占的利用の場であり、王権の遊宴の地でもあった過去の姿を思い起こすのが難しくなっている姿である。 

とある(「神泉苑と御霊会 : 禁苑の変質とその契機」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006793521 )。

*4:山崎達雄は、次のように講演で述べている(「京都の屎尿事情」http://sinyoken.sakura.ne.jp/sinyou/si020.htm )。

肥料として屎尿を活用するには、運ぶ道具、つまり桶が必要です。小泉和子さんらの「桶と樽の研究会」によれば、桶は12世紀から13世紀頃に大陸、中国から伝わり、15、6世紀には関東に伝わりました。京都では14世紀頃です。桶が広く使用され始めたのは南北朝、鎌倉期あたりで、この頃になると、屎尿は桶で運ばれ、肥料として使われたと推測しています。 (引用者中略) 近世になると、屎尿は広く肥料として使われたことは確かであります。

ただし、やはり屎尿を運ぶのは大変であったようで、

近世は、今以上に不便ですので、京都に屎尿を汲み取りに行くのは大変であったことは容易に想像できます。このため、農村に屎尿を手配するため、京都に屎問屋が生まれいます。この屎問屋は、交通の要所、当時は、船運が盛んでありましたので、高瀬川沿いや伏見に生まれています。

*5:厳密にいえば、上皇法皇のなかでも、天皇家(「王家」)の家長たる「治天の君」が政治をするのだが。

*6:ある書評によると、岡野友彦は、次のようなことを書いているという(以下、ブログ・『雑記帳』の岡野友彦『院政とは何だったか』に対する書評から引用している。https://sicambre.at.webry.info/201402/article_7.html )。

建前上、ともかく前近代において律令制度は有効でしたから、国土・国民はすべて天皇のものとされている以上、その一部を改めて天皇の私有地とすることはあり得ませんでした。/そこで、天皇家が建立した寺院や内親王荘園領主としたり(女院領・御願寺領)、天皇譲位後の財産としての「後院領」という形式をとったりせざるを得ず、天皇家の家長がそうした荘園を確実に領有するためには、早く譲位し、上皇という自由な立場に就く必要がありました。

実に明快な説だと思われるが、岡野説がどの程度、他の研究者に支持されるのかは、正直分からない。
 また、岡野自身によれば、この説自体の原型は、石母田正『古代末期政治史序説』までさかのぼるという(岡野著・28頁)。

*7:ただし、斎藤夏来は室町期の大徳寺の実情について、次のように述べている(「五山十刹制度末期の大徳寺 : 紫衣事件の歴史的前提」https://ci.nii.ac.jp/naid/110002362353 、以下、註番号等を省いて引用を行っている。)。

大徳寺は、室町幕府の管理下にある五山叢林(官寺)とは一線を画するいわゆる林下(在野)の禅院になったともいわれ、 あるいは天皇・ 朝廷に住持職が帰属する「公家の寺」になったともいわれる。 しかし注意しなければならないのは、同寺に拠る大灯派門徒南禅寺という五山最高の禅院の権威をいかに自らのものとするかという問題にあくまでも腐心し、 その目的のためには朝廷を利用することも、その権威を蹂躙することも顧みず、一方室町幕府は、同寺をあくまでも十刹格の禅院として扱おうとしていたという事実である。 (引用者中略) 大徳寺は住持補任という点で幕府から自由であったが、南禅寺をいわば国家最高の禅院とみる観念からは自由ではなく、 したがって南禅寺を管理・ 掌握する幕府からも完全に自由ではありえなかった。

そう簡単に室町幕府の権力から自由には、なれなかったのである。

*8:上田純一によると、一休らの大徳寺による堺布教は、横岳派の当時の動向に即応したものであるという。

 横岳派は、大宰府崇福寺を拠点とし、そのネットワークは博多、兵庫、京都、堺などに広がっていた臨済宗の一派である。当時、横岳派と大徳寺派は、交流があった。

 堺商人は、大徳寺の反五山派や庶民的禅風を慕っただけでなく、博多を拠点とする横岳派のネットワークに参入して、対外(大陸)貿易のつてを得るという経済的利益を目論んだ可能性があるという。

 以上、上田『九州中世禅宗史の研究』(文献出版、2000年)、103~106頁に依った。

「一億総特攻」に続かずに、残った本土の日本人が、特攻者たちを都合よく物語化した -一ノ瀬俊也『戦艦大和講義』を読む-

 一ノ瀬俊也『戦艦大和講義』を読んだ。久々に。

戦艦大和講義: 私たちにとって太平洋戦争とは何か
 

 内容は紹介文の通り、

1945年4月7日、特攻に出た大和は沈没した。戦後も日本人のこころに生き続ける大和。大和の歴史は屈辱なのか日本人の誇りなのか。歴史のなかの戦艦大和をたどりながら戦後日本とあの戦争を問い直す。

という感じである。
 面白く痛快だった。

 以下、特に面白かったところだけ。

帆を張ってやってきた黒船

 彼らの軍艦は石炭節約のために外洋では帆を張り、米国東海岸から二〇〇日余をかけて、ようやく日本へとやって来た (24頁)

 岡田英弘の著作*1が参照されている。
 ペリー来航時の蒸気船は、まだ発達の過渡期にあった。
 帆船に積む荷量や、大砲の数、航海性で、劣っていたのである。
 蒸気船としても、大西洋横断も汽走だけではおぼつかないレベルにあった。
 帆を張ったのは、そのためである。*2
 また、ペリーの蒸気船は、武力において三流であったという。

日露戦争の別の要因

 朝鮮を勢力下に収めれば日本は儲かる、ということ (45頁)

 安全保障だけが、日露戦争までの、日露間の相互対立の原因ではない。
 日本は朝鮮に釜山と京城を結ぶ鉄道会社を作り、利益を得ようとしていた。*3
 鉄道で日本の綿布を、内陸まで安く大量に運んで儲けようとしていたのである。
 その会社「京釜鉄道会社」の株を買って出資していたのは、主に日本の中小商人や地主であった。
 外務大臣小村寿太郎が、ロシアと対立してでも朝鮮を確保すべき理由として、安全保障以外に挙げたのがこの会社の存在である。*4

海軍に甘い?

 なぜかくも甘かったのか (127頁)

 終戦後の『真相箱』等において、日本の旧海軍に対しては甘かった、という話である。

 なぜ、旧海軍に甘くなっていたのか。

 近年の研究によると、占領軍総司令部内の民間情報教育局というプロパガンダ部門は日本海軍寄りであったという。

 太平洋戦争の戦史を作るにあたって、マッカーサーら陸軍の戦いを軽視し、海軍主体の戦いとして描いたようだ。

 両国海軍を主体にした以上は、「日本海軍褒め(但し、米海軍の方が凄い!)」になるのは当然といえば当然である。*5

あるはずだった「戦艦ヤマト」の中の遺骨

 松本によれば、当初案ではヤマト改造時に船体内から戦死者たちの遺骨が出てくるコンテも描かれましたが (182頁)

 戦艦大和の戦死者たちの、「宇宙戦艦ヤマト」での位置づけである。
 西崎義展(プロデューサー)かスポンサーの意向によって、コンテの内容は登場しなかった(どちらも責任を押し付け合ったらしい)。*6
 遺骨、戦死者の影は排除される結果となった。*7 *8

戦前戦後の連続性 -賃金篇-

 戦時下日本の各工場における時間給導入を「戦後的な<私益>意識の成立」とみています (188頁)

 有馬学(歴史学者)の指摘である(『帝国の昭和』)。
 戦時下、各工場は熟練工不足となる。
 そこで、出来高給を非熟練工に有利な時間給に改めた。*9
 結果、労働者からすると、滅私奉公という建前に反して、適当にサボってもお金がもらえるようになったのである。*10
 ・・・滅私奉公とは、なんだったのか。

無理筋の恩着せ

 そこで本土が沖縄と大和の「一億総特攻」に続くことなく降伏した史実は無視されています。 (196頁)

 平間洋一が『歴史通』に書いた文章*11に対する、著者の言葉である。
 米軍基地に反対する沖縄が、かつて大和が身を挺して救援に向かった「心」を忘れたのか、というのが、平間の文章の内容である。
 まあ、要するに、無理筋の恩着せである。*12
 著者は「一億総特攻」に続かずに、残った本土の日本人が、特攻者たちを都合よく物語化したことを鋭く批判している。

既に想像されていた「特攻」

 実は一老大佐が平時に思いつく程度の平凡な発想でしかなかった、とも言えます。 (239頁)

 1932年の水野広徳『打開か破滅か 興亡の此一戦』の話である。
 この予言的な小説において*13、米空母の甲板を破壊して飛行機の発着を不可能にするための「行き切り」飛行が「志望」によって決行される様子を描いている。
 特攻は既に発想されていたのである。*14
 切羽詰まったエリート参謀がひらめいたようなものでは決してなかった。

小山悌と戦後

 われわれの設計した飛行機で、亡くなった方もたくさんあることを思うと、いまさらキ27がよかったとかキ84がどうだったと書く気にはなりません (296頁)

 陸軍の戦闘機・隼を作ったのは、零戦を作った三菱のライバル、中島飛行機の技師・小山悌だった。*15 *16
 彼らは堀越たちと違って、弁明はできなかった。
 堀越たちが、自分たちは一生懸命優秀な飛行機を造ろうとしただけ、あの戦争は指導者たちが悪いと言い続けたのと対照的だった。

擬人化から消えるもの

 軍艦を擬人化することで、(本物の)人間たちの悲惨な死や敗北を後景化、もしくは「なかったこと」のように隠すことができる (163頁)

 そして、軍艦が擬人化されると、そこにいたはずの乗船員たちの存在は曖昧になってしまう。人は悲惨な、救いようのない出来事からは目を反らしたくなるものである。*17
 擬人化はそうした際に便利である。
 なお、本書によると、明治時代から軍艦が擬人化されていたという。*18

 

(未完)

*1:『西洋化の構造』

*2:加藤祐三は、次のように述べている(「幕末維新をどのようにとらえるか」https://www.teikokushoin.co.jp/journals/bookmarker/index_200401h.html )。

蒸気軍艦2隻は、外洋では帆走して石炭を節約してきたが、伊豆沖を通過すると蒸気走に切りかえ、あらゆる武器を動員、全艦に臨戦態勢を敷いた。

 最初のペリー来航の際に来た蒸気船は、ミシシッピとサスケハナの二隻である。その後、ペリーの日本再訪時に、蒸気船・ポーハタンも加わった。以上、念のため。

*3:ウェブサイト・「1945への道」は、京義本線(ソウル~新義州間)について、次のように述べている(「「日本が朝鮮に鉄道を敷いてやった」という言説について」http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/KOR10-railway.html )。

どうにか自分の手中に収めたい日本政府は、大韓鉄道会社に資金を貸し込む形で間接支配の足がかりを得ます。小村寿太郎外相は1903年11月9日、在欧州の在外公館に次のように通知しています。/『京義鉄道敷設権獲得はわが対韓経営の要項として、…直接の方法に依り…譲与を得るは実際■々難し■事情に有…差当り間接の手段に依りてなりとも之が実権をわが手に収むることとし、在韓公使に於て右方針に依り内密尽力の結果、■■大韓鉄道会社との間に本邦人網戸得哉の名義を以て借款契約に関する権利を取得…』    (■は私には判読不能。アジア歴史史料センター Ref.B04010923700)/敷設権の獲得が韓国経営の要、直接支配が無理なら間接にでも、という趣旨を明確に述べています。

以上が、日露戦争前の状況である。

*4:著者・一ノ瀬は、石井寛治『帝国主義日本の対外戦略』(の96-108頁)を参照して、本文のごとく述べている。

 その石井著をみると、小村寿太郎が1903年6月に御前会議に提出した対露交渉意見書が紹介されている。その中身は、およそ以下のとおりである(孫引きとなるが、内山正熊「小村外交批判」から、それを引用する。https://ci.nii.ac.jp/naid/120006510433 1968年の論文である。)。

若シ他ノ強国ニシテ該半島ヲ奄有スルニ至ラハ帝国ノ安全ハ常二其ノ脅カス所トナリ到底無事ヲ保ツ可ラス、此ノ如キハ帝国ノ決シテ忍容スル能ハサル所ニシテ之ヲ予防スルハ帝国伝来ノ政策トモ云フヘク、又一方二於テハ京釜鉄道ノ完成ヲ急グト同時二京義鉄道敷設権ヲモ獲得シ進ンテ満州鉄道ト連絡シテ大陸鉄道幹線ノ一部トナサザル可カラス

*5:著者は、田中宏巳『消されたマッカーサーの戦い』(吉川弘文館、2014年)に依拠して、そのように書いている。

 田中の言い分だと、『太平洋戦争史』の場合、「第6.7回でマッカーサーのフィリピンを取り上げているが、これはフィリピン戦より日本軍の残虐性の強調のためだけとしか思えない」ということになる。

 ただし、田中著は、その推論が「全体的に話があちこちにとんで繋がっていない」し、また、「米海軍よりになったかというと海軍の広報によって日本軍を破る海軍と海兵隊のイメージをアメリカ国民に植えつけたから」というが、「でも中公新書の『マッカーサー』ではマッカーサーの戦いは米国民に広く知られて英雄扱いされたとある」という風に、やはり、手落ちなところが否めない。(以上、ブログ・『読書日記 とその他ちょっと』の田中著書評 https://derkomai.blog.fc2.com/blog-entry-208.html より、参照・引用を行った。)

 実際に田中著を読んでみたが、その感想に同意できる。

 いっぽう、賀茂道子は『太平洋戦争史』について、次のように述べている(「「日本人は洗脳された!? 右派論壇で語られるGHQ占領政策WGIP」の実像とは?」賀茂道子×荻上チキ▼2019年3月20日放送分 TBSラジオ 荻上チキ・Session-22」『書き起こし保存庫』http://edelection.jugem.jp/?eid=46 )。

米軍の司令官は海軍のニミッツと陸軍のマッカーサーが2人いたのですけれど、マッカーサーの戦争史なのですね。マッカーサーが指揮を取ったフィリピンの戦いなどが詳しく書かれていて、ニミッツの指揮下にあった沖縄戦サイパン戦・ガダルカナルなどはそれほど詳しく書かれていないという状況になります。

こちらは米国陸軍(というかマッカーサー)寄りだった旨を書いている。

 実際賀茂は、『ウォー・ギルト・プログラム』(法政大学出版局、2018年)において、『太平洋戦争史』の真珠湾攻撃から敗戦までのうち、マッカーサーにとって重要なフィリピン戦に2章も費やした一方、ミッドウェー海戦サイパン戦(チェスター・ニミッツ指揮)に関する記述が少ないことを挙げている(148、149頁)。

 残虐行為についても、賀茂は、フィリピン戦の章で「バターン死の行進」や「マニラの虐殺」がとり挙げられていることを認めているが、ページにして2頁に過ぎず、「南京虐殺」に比べてわずかである点を挙げている(同147頁)。

 個人的には、賀茂の言い分のほうが正しいように思われる。

*6:ブログ・「逆襲のジャミラ」は、次のように書いている(「宇宙戦艦ヤマト ~戦死者への鎮魂歌」http://takenami1967.blog64.fc2.com/blog-entry-123.html )。

氏 (引用者注:松本零士) が手がけた初期のコンテのなかには、「大和の外板を外すと中から戦死者の遺骨がたくさん出てくるシーンを描いておいた」そうだ。/そうすることで、氏にとっての『宇宙戦艦ヤマト』は「戦死者への鎮魂歌」となる、はずだった・・・・。/・・・はずだった、というのは、完成した映像からは「遺骨」のシーンが全部カットされたからだが

参照されているのは、松本零士宇宙戦艦ヤマト伝説』である。

*7:「戦争も国家も、すでに一九七〇年代前半の時点で、多くの日本人にとっては確固たる『悪』」ではなく、曖昧な、一種のロマンの拠り所のようなものになり果てていた」(本書213頁)。だからこそ、本書で紹介されるような「大和」物語が世に出たのだ、と著者は述べている。

*8:なお、佐野明子によると、「『ヤマト』ファンたちは、作品の関連情報を収集して楽しむ、あるいは二次創作を行う、「オタク」的な消費を始めていた」。その一方、現実の戦争に関しては関心が向けられて行かなかったようだ。以上の指摘は、佐野の論文「戦艦大和イメージの転回」に依拠するもので、塚田修一「文化ナショナリズムとしての戦艦「大和」言説 : 大和・ヤマト・やまと」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005479424 )からの孫引きである。

*9:戦時中の賃金形態は、法政大学大原社会問題研究所, 編著 『日本労働年鑑 特集版 太平洋戦争下の労働者状態』によると、

第一に、全体としてみると「定額制」(=時間給)のほうが「出来高制」や「時間割増払制」(=能率給)よりも多かった。時間給中では、とりわけ「日給」が圧倒的に多かった。/第二に、それにもかかわらず時間給以外の支払形態が重要な意味をもつ産業がいくつかあった。それらは、金属、機械、紡織、鉱山の諸産業であった。とくに、紡織、炭坑業では、いずれの比率によっても、出来高払制のほうが時間給を凌駕していた。

という(「第三編 賃金と賃金統制 
第二章 賃金構造  第六節 賃金形態」https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/research/dglb/rn/rn_list/?rn_class=0 )。

*10:ただし、増地庸治郎が既に述べているように、時間給は、作業高に基づく賃金制度に比べ、「友誼的関係と社交的結合を増進する傾向」がある点も、注意すべきだろう(増地庸治郎『賃銀論』(千倉書房、1939年 )37頁)。時間給が労働者の連帯を生み出しやすい仕組みでもあったことは、比較的理解しやすいだろう。

*11:https://ci.nii.ac.jp/naid/40017273700 

*12:「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ」という、昭和天皇の言葉を想起すれば十分だろう(木戸日記研究会編『木戸幸一関係文書』東京大学出版社、1978年(四九八頁)なお、原文はひらがなではなくカタカナ表記である。)。

 根本的に、「戦果」を求めた側に責がある(昭和天皇は「粛軍」の前に「戦果」を求め(1945年2月時点)、同年3月の沖縄戦が行われた)。

 より正確な経過は、李炯喆が次のように述べるとおりであろう(「終戦と無決定の本質」
http://reposit.sun.ac.jp/dspace/handle/10561/682 *註番号を省略して引用を行った。)。

敗戦よりも軍内部の革新勢力による共産革命が最も深刻なので,国体護持を唯一の条件として一刻も早く戦争終結を図るように促し,天皇の勇断で陸軍内の革新勢力を一掃して軍部を立て直すように進言した。 (引用者中略) しかし,天皇は近衛に国体についての軍部との相違(2月9日梅津参謀総長の上奏)と共産革命に対処した陸軍内の粛軍と人事について質問し,「もう一度戦果をあげてからでないと話は中々難しいと思う」と消極的な反応を示した。天皇は梅津の「米国の皇室抹殺論」には疑問を持ちながらも終戦を外交手段に訴えるためにも台湾戦に期待を寄せた

こうして、3月の沖縄線に進んだのである。

*13:この小説は東京空襲まで予言している

*14: ウェブページ・「MV STORIA」は、『打開か破滅か』を、

開戦劈頭サンフランシスコ攻撃に向かった艦隊は、当初の目的を果たすものの帰還の際に追撃を受けて危機に陥るのだが、そこから脱するのは二人の飛行将校が生還の見込みのない片道攻撃に向かったからとなっている。 (引用者中略) 「特攻」が既に描かれているのである。

と紹介している(http://mv-storia.my.coocan.jp/ntr-mizuno-shosi.htm )。

*15:なお、引用部の出典は、鈴木五郎  『不滅の戦闘機 疾風』(光人社、2007年。元は、サンケイ新聞社出版局、1975年)である。

*16:なお、戦後の小山について、小山悌を主役とした小説の作者・長島芳明は、

岩手富士産業は経営に傾き、小山さんのもとに情報が集まらない状態まで孤立しました。悲しいかな、小山さんは技術屋や上司としては一流でしたが、社長や役員としては二流以下だったようです。

と評している(「主役の親族から頂いた「銀翼のアルチザン」の感想と小山悌さんの戦後」http://blog.livedoor.jp/nagasimayosiaki/archives/cat_566446.html?p=3 )。一応、遺族と連絡を取ったうえで上記のように書いているようなので、おそらくそれは事実と思われる。

*17: 吉田満戦艦大和ノ最期』について、塚田修一は、

ここで指摘しておきたいのは、この「悲劇」の物語は、具体的な「敵の姿や顔」が一切現われない、自己完結的な性格を有しているということである

と述べている(前掲「文化ナショナリズムとしての戦艦「大和」言説」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005479424 )。この自己完結性自体は、擬人化における自己完結性に近似するものがあるように思われる。悲劇からは敵の姿が消え、擬人化からは味方の乗船員の姿が消えるという違いはあるが。

*18:小林清親の手になる戦争諷刺画の連作である「日本万歳 百撰百笑」は、野田市立図書館の頁などで見られる。https://www.library-noda.jp/homepage/digilib/bunkazai/a.html 

少女マンガにおける少年愛・「かわいい」と権力・キャラクターの不死性(*岡崎京子論については、本稿では論じていない。) -杉本章吾『岡崎京子論』を読む-

 杉本章吾『岡崎京子論 少女マンガ・都市・メディア』を読んだ。

岡崎京子論 少女マンガ・都市・メディア

岡崎京子論 少女マンガ・都市・メディア

  • 作者:杉本 章吾
  • 発売日: 2012/10/24
  • メディア: 単行本
 

 内容は、紹介文の通り、

高度消費社会との応答のなかで、少女・女性像はどのように提示されたか。時代状況の再検討と、マンガ・テクストの丁寧な分析をとおして照らし出す、本格的マンガ批評

というもの。
 ただ一読して、メインの岡崎京子論よりも、脇道(?)話題の方がより面白く読めた。
 なので、以下に書かれるのは、岡崎京子とその漫画の話題ではなく、もっと抽象的な漫画論に関する事柄である。
 (べつに、杉本の岡崎京子論がつまらなかったというわけではない。)*1

 以下、特に面白かったところだけ。

少年愛と「妊娠」

 少年同士であるならば妊娠の心配がなく、少女が性行為を享楽の対象として享受できる (52頁)

 しかし、『風と木の詩』が少女に人気を博した理由として、上記のような論点が出てくることはなかった。
 荷宮和子は、評論家の性別にその原因を求めている。*2
 つまり、男性評論家たちには、「妊娠」等の側面が、見えていなかったのである。

「かわいい」と権力

 「かわいい」が孕む権力性 (121頁)

 「かわいい」という言葉は、触れたい、庇護したいという欲求である。
 そして、支配したいという欲求を孕み、それが対象を自分より下、劣等な存在とみなすことにも通じてしまう。
 そして「かわいい」という言葉は、そうした潜在的な支配性を、隠す言葉でもある。*3

「不死性」はキャラクターのデフォルトなのか?

 その不死性そのものが、キャラクターから過去と未来を奪い去り、「いま、ここ」へと封じ込める、「イデオロギー」的産物であることを、ここで説得力豊かに論じている (335頁)

 古典的書物である、アリエル・ドルフマン,アルマン・マトゥラール『ドナルド・ダックを読む』(晶文社)に対する評である。
 大塚英二は、「記号的身体」における不死性、肉体的苦痛からの自由を、キャラクターの本質として定義した。
 その原点として想定されているのは、ディズニーのアニメに出てくるキャラクターである。
 そして、これに対して、キャラクターに肉体的苦痛、不死性を付与した手塚治虫は、画期をなした存在とされる。*4
 だが、ドルフマンとマトゥラールは、「不死性」はむしろ可能性を封じられた結果に過ぎないとして、それが、キャラクターの本質とするのには、否定的だった。
 ドルフマンとマトゥラールの議論には批判も多いが*5、こうした鋭い問いかけは、やはり再評価に値するように思われる。

 

(未完)

*1:「チワワちゃん」論や『ジオラマボーイ・パノラマガール』論は、ウェブ上でも、著者の論文を読むことができる。特に後者は、割と好きな論である(「郊外化されたラブストーリー : 岡崎京子ジオラマボーイ・パノラマガール』論」https://ci.nii.ac.jp/naid/120000835737 )。

*2:門傳昌章&ルーシー・フレイザーは、 次のように、藤本由香里の言葉を紹介している(「星の瞳に映るオルタナティブ: 「典型的』少女マンガの再評価を目指して」https://www.academia.edu/16285453/%E6%98%9F%E3%81%AE%E7%9E%B3%E3%81%AB%E6%98%A0%E3%82%8B%E3%82%AA%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%83%8A%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96_%E5%85%B8%E5%9E%8B%E7%9A%84_%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%81%AE%E5%86%8D%E8%A9%95%E4%BE%A1%E3%82%92%E7%9B%AE%E6%8C%87%E3%81%97%E3%81%A6_The_Alternative_Reflected_in_Starry_Eyes_Negotiating_Mainstream_and_Alternative_Qualities_in_typical_Sh%C5%8Djo_Manga_ )。

少女マンガにおける少年愛、そして読者の現実から切り離された舞台で行動する美少年は、肉体的な暴力や妊娠、そして社会的烙印といった「性という危険物を自分の体から切り離して操作するための安全装置、少女にとって飛ぶための翼であった」とまで言う

参照されているのは、藤本の『私の居場所はどこにあるの?少女マンガが映す心のかたち』である。
 それに対して、門傳&フレイザーは、「少女を含む読者は少年愛ものを、自らの女性性を否定するのではなく、逆に肯定しながら視覚的・官能的快楽を得るために読むという可能性も否定できない」と反論し、ローラ・ミラーの意見を引いて、

「現実、フィクションに関わらず、中性的もしくはゲイの美少年に対する(女性ファンの)関心を、特殊で解明が必要な事柄と見なすことは、女性が(魅力的な男性に)抱く率直な、エロティックな関心の可能性を否定する」ことだと警告している

という。
 たしかに、その側面は否定できない。しかし、やはり少年愛において妊娠のリスクが不在である点は、引き続き重く見られてよいように思われる。「男が『避妊をしないから』子供が生まれない」という荷宮和子の言葉(『宝塚バカ一代 おたくの花咲く頃』(青弓会、2009年)111頁。)が、いまだに十分通じる国の女性読者を考えれば、そういわざるを得ないところがあるように思う。

*3:西村美香も、「かわいい」について、「対象物をまるで所有物のように自分の配下に置き,上から見下すかのような感情ですらある」ことを認めており、そして、「『かわいい』と言われる側も実はそれを巧みに利用している」とする。そして、

とりもなおさず「かわいい」という言葉がそう言っておけばとりあえず安心,そう言うことでその場をしのげるという都合のよい政治的用語であるからに他ならない

と規定する。西村は、日本の「かわいい」の実態をそのようにとらえて、海外での「かわいい」の実態との差異を論じているが、ここではおいておく(以上、西村の論文・「かわいい論試論(2)かわいい論の射程」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006555102 を参照、引用した。)。
 ただし、三橋弘次& Burdelski Matthew は、「若い女性が好き勝手に『かわいい』を乱用し、『かわいい』を消費しているというのは、ステレオタイプに過ぎない」と、その手の論調に批判的である(「「かわいい女の子」はいかにして可能か--保育士と子どもとの相互行為分析 」)。

山根や増淵のような論者は、「かわいい」を「女の子」言葉として扱い、彼女たちの「かわいい」の乱用や「かわいい」への執着を日本語や日本文化の貧困化としてみなした。だが、実際には、「女の子」を「かわいい」に執着させる規範的な仕組みがあるのであり、この点を看過すれば、「かわいい」研究のいずれもステレオタイプの謗りを免れないであろう。

 「かわいい」という言葉は、規範的構造によって作られるものでもあるのだ。

*4:ただし、大塚はインタビューで、田川水泡のらくろ』が、さらに先駆的存在であることを述べている(「大塚英志インタビュー 工学知と人文知:新著『日本がバカだから戦争に負けた』&『まんがでわかるまんがの歴史』をめぐって(3/4)」https://sai-zen-sen.jp/editors/blog/34-1.html )。

結果としてのらくろはミッキーみたいな身体だったら普通は高いところから落ちても死なないのに、のらくろは戦場で負傷して単行本一巻分負傷しているという展開になっていったり、挙げ句「思うところがあって」陸軍を去っていったりとかね。 (引用者中略) 歴史や身体みたいなものを意識した瞬間にそこには個人が出来上がるから、のらくろは個としてのキャラクターを描くみたいな。そこに初めて成功したってことなんだよね。

*5:ドナルド・ダックを読む』のディズニーに対する文化帝国主義批判はよく知られている。たしかに、ジョン・トムリンソンのいうように、テクストの隠されたイデオロギーが、実際の読者(例えばドルフマンの故国であるチリの読者)にどの程度影響力があったのかは、はっきりしていない。
 むしろ、ディズニー文化は、読者(受容者)に押し付けられているのではなくて、彼らは積極的に参加しているのだ、と平野順也は述べている(「消費社会と崇拝される「二次的審級」―ディズニー精神の分析を中心に―」http://www.caj1971.com/~kyushu/publication_kcs_05.htm )。

消費者といての個人レベルでも<加担者>としての渇望が生じているということである。孤独で無邪気な個人が他者と「関係」を持つことができるのは<加担者>として消費に参加することによってである。 (引用者中略) このような消費のイデオロギーである物神崇拝的倫理を実行することにより<加担者>として、ディズニー文化の拡張に努めるのである。 (引用者中略) ディズニーランドでは複雑な社会問題に取り組む必要などない。たとえ戦争中であったとしても、イッツ・ア・スモール・ワールドに行くだけで世界は一つであるという甘い幻想を抱かせてくれる。誰が、どのような問題を、どのような方法によってといった疑問は考えなくてよい。

 無論、平野自身が述べているように、ディズニー及びそれに関するテクストが、イデオロギーと無縁というわけでもない。むしろ、よりたちの悪いイデオロギーではあろう。自発性とイデオロギーの相性が悪いものではないことは、ナチス等の例を挙げるまでもない。

御土居は、京都の内外を分ける社会的排除の象徴でもあった。(それから、「堀川ごぼう」の自生説について) -梅林秀行『京都の凸凹を歩く』を読む-

 梅林秀行『京都の凸凹を歩く』を再読。

京都の凸凹を歩く  -高低差に隠された古都の秘密

京都の凸凹を歩く -高低差に隠された古都の秘密

  • 作者:梅林 秀行
  • 発売日: 2016/04/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

  内容は、

豊臣秀吉由来の「御土居」をはじめ、凸凹ポイントで見つめ直せば、京都のディープな姿が出現する。 3D凸凹地形図と、古地図・絵画などの歴史的資料で紹介する、街歩きの新しい提案。

というもの。

 すでに多くの人に知られる本ではあるが、まあ、よい本なので取り上げたい。

 以下、特に面白かったところだけ。

今より北にあった「祇園

 絵画資料を見る限り、花見小路を中心とした現代の祇園お茶屋街は、江戸時代には存在しなかった (21頁)

 江戸期には、竹藪が茂っていたらしい。
 資料は、横山華山の「花洛一覧図」である。*1
 四条通沿いや四条通より北にあったお茶屋が、四条通の南に移転したのである。
 明治近代に、花街は京都の外に、という方針となった。
 他の都市でも同じ動きがあったようだ。

堀川ごぼう聚楽第

 堀川ごぼうは別名「聚楽ごぼう」といって聚楽第の堀跡に捨てたゴミから大きく育ったごぼうに由来(50頁)

 江戸期の京都の聚楽第は、畑と空き地であった。

 堀川ゴボウの自生説については、書くと長いので、注に回す。*2 *3 *4

 採土場でもあった。
 「塵捨場」*5でもあったらしい。

御土居と「周縁」 -在日コリアン-

 御土居のすぐ隣に旧朝鮮初級学校がある風景には、歴史的な根拠がありました。 (94頁)

 近代において、在日コリアンは3K業種に従事せざるを得なかった。
 京都の場合、西陣織などの繊維産業の末端作業、鉱山や鉄道建設などの土木作業といった低賃金低待遇の業務についた。*6
 特に京都市北部は、戦前期まで在日コリアンが集まっていた地域であった。

 彼らは差別などを理由として、周縁部の「御土居」周辺に集まって住むこととなった。
 結果的に彼らは、京都の境界線に住んだことになる。

御土居と「周縁」 -被差別部落-

 御土居は境界線として、その内側の市街地に住める人とそうでない人を分けていった (95頁)

千本北大路交差点の北側にある「楽只地区」、そこは御土居のすぐ脇にある。
 江戸期は蓮台野村と呼ばれた被差別部落だった。
 江戸中期に、京都市街地近くから移転させられたのである。
 彼らは江戸期には、「小法師」、御所の清掃や牢獄の番役などを務めた。
 革細工や太鼓梁などの皮革業が盛んで、雪駄などの製造補修には牛皮が必要なため、大きな収入源となった。*7
 この御土居は、京都の内外を分ける社会的排除の象徴でもあった。

 本書の良い点は、そうした事実を隠さずに書いていることである。

 

(未完)

*1:早稲田大学図書館の古典籍総合データベース(後述のURL)で閲覧可能である。https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru11/ru11_01169/index.html
 地図は、北を左側、南を右側としている。鴨川が、北から南へ流れ、四条の東側にある大きな目立つ建物が祇園社である。その西側の四条通沿いに、お茶屋が見える。一方、現在の祇園に当たる場所は、確かに竹藪である。
 著者も参照している、出村嘉史,川崎雅史「近世の祇園社の景観とその周囲との連接に関する研究」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130004039347 )に、わかりやすい図が載っている。
 なお、本書には横山華山という表記はない。まだ彼の名前を有名にした横山華山展(2018~2019年)をやる前だったためであろう。今だったら名前を書いていただろうと思う。

*2:公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所の「京都歴史散策マップ」の項目「19.聚楽第」には、

堀川ごぼう 聚楽第を取り壊した堀跡に栽培されたことから聚楽ごぼうとも言われます。1年間手間をかけてできる高級品です

との記述が見える(https://www.kyoto-arc.or.jp/heiansannsaku/jurakudai/rekishisansaku.html)。これは自生説ではない。

*3:堀川ごぼうについては、レファ協に既に情報があり、「堀川ごぼう自生について記述した和古書は見つからなかった」、「1694年の時点では、堀川付近はまだごぼうの産地ではなかったのではないか」としている(URL:https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&lsmp=1&kwup=%E5%A0%80%E5%B7%9D%E3%81%94%E3%81%BC%E3%81%86&kwbt=%E5%A0%80%E5%B7%9D%E3%81%94%E3%81%BC%E3%81%86&mcmd=25&mcup=25&mcbt=25&st=score&asc=desc&oldmc=25&oldst=score&oldasc=desc&id=1000075091 )。

 ただし、1680年代の『雍州府志』には、八幡牛蒡の話題に続けて、「今京都北野並小山堀川所々産者亦為宜」とあり、当時、堀川でも牛蒡を育てていたと記述がある。また、元禄六年刊・『西鶴置土産』には、「堀川牛蒡ふとに」と出てきており、この時点でもすでに「堀川牛蒡」という存在が出現していることがうかがえる。産地として有名でなくても、栽培されていた可能性は否定できない。

 で、近代。1915年の『京都府誌 上』によると、聚楽ゴボウや堀川ゴボウというのは、およそ300年前越前の「阪井郡」より種子を得て、京都市裏門通出水の白銀町に蒔いたのが始まりという(当該書579頁)。調べた限り、堀川牛蒡の来歴について、はじめて明確に言及されるのはこの本である。

 福井の阪井郡となると越前白茎ごぼうが想起されるが、仮にこの伝承が正しいとすると、来たのは品種的に、越前白茎牛蒡ではなく滝野川牛蒡の系統であろう。

 『京都市特産蔬菜』(京都市農会、1934年)には、堀が塵芥で埋められ、その埋立地に百姓が越年牛蒡を作ったのが始まりであって、そうしたところ偶然大きな牛蒡ができた、と伝承を紹介している(当該書39頁)。また、杉本嘉美『京都蔬菜の来歴と栽培』(育種と農芸社、1947年)には、同じような伝承を伝えつつも、元禄八年出版の『本朝食鑑』には堀川牛蒡に関する記録がなく、明治二十年ごろにはその記録が見えることを伝えている。

 はじめて堀川牛蒡と聚楽第の堀跡との話が出てくるのは、調べた限り1934年である。また、上記のどちらの本も、食べ残りの牛蒡を捨てた、ということは書いていない。最初から越年牛蒡を作るつもりで植えている。

 広江美之助『源氏物語の植物』(有明書房、1969年)では、口伝では聚楽第の埋め立て地に作られたのが起源で、「堀川辺」にゴボウを捨てたところ、正月ごろに、太い大きなゴボウになったのがはじめと伝える、という(212、213頁)。この段階でゴボウを捨てたことになっている。

 林義雄『京の野菜記』(ナカニシヤ出版、1975)では、豊臣政権滅亡後に堀だけが残り、堀は付近の住民がゴミ捨て場として使い、その後その埋立地に、付近の農民がごぼうを植えたところ、大きなごぼうがなった、としている(81頁)。

 京都市/編『京都の歴史 5 近世の展開』(学芸書林、1979)によると、堀跡は塵芥で埋められ、畑地となって牛蒡が植えられた(588頁)。越前坂井郡から種子を得て、今の白銀町あたりに蒔いた。そしてその堀跡から、異様に太い牛蒡が取れるようになった。ゴボウを地中で越年させて太く柔らかいものを栽培したのだという。この「越年牛蒡」は自生ではなく農民の工夫によるものと、この本は説明する。上記の説を総合したものであろう。

 そして、『京都大事典』(淡交社、1984年)は、聚楽第の堀を埋める塵芥中に巨大に生育しているのを発見して、栽培が始まった、としている。

 以上のとおりである。

 調べた範囲のことであるが、少なくとも、ゴボウは偶然捨てたり、自生したものが巨大化したのではなくて、最初から越年牛蒡として育てるべく植えたものが、その始まりであることはおよそ間違いなさそうである。また、江戸期には、すでに「堀川牛蒡」なる存在が、一応はあった(現在のものと同じ系統のものかは不明)ことも。

*4:1778年ごろの『京都名物 水の富貴寄』にも、堀川牛蒡の名前が出てくる。18世紀にも、堀川牛蒡の名前自体は確認される。以上念のための追記。2022/1/12付

*5:『京都御役所向大概覚書』(1717年ごろ成立)より。

*6:高野昭雄は、

京都の風物詩としても知られてきた。だが、この友禅流しの仕事は、蒸しの仕事とともに、戦前から主として朝鮮人労働者によって担われてきた仕事であることは一般的にはあまり知られていない。

とし、

当時の西陣で就職差別は日常的な現象であった。それでも京都市では、多くの朝鮮人が繊維産業に従事していった。

と言及している(「京都の伝統産業と在日朝鮮人http://khrri.or.jp/news/newsdetail_2017_08_30_94.html )。

*7:後藤直は、

蓮生寺の記録には「替地により宝永5年、蓮台野に移転」とあり楽只小学校の沿革史によると「本学区は旧芦山寺の北木瓜原野口に住んでいた妙玄尼が宝永5年に蓮台野に土地を求めて移転した」とある。野口を吸収した蓮台野村は1709(宝永6)年、二条城掃除役を廃止されたかわりに他の穢多村と同様に牢屋敷外番役を命ぜられ六条村組下として人足をだしていく

と、蓮台野への移転についてまとめている。また、皮革業については、

村人たちは人足として行刑役をつとめてはいるが、それだけで生活が保障されたわけではないく、皮なめしや雪駄直しで生計を立てていた。

という、生活に必要な副業というようなニュアンスで、記述を行っている(以上「蓮台野村の形成についての考察 : 被差別部落「千本」のルーツを考える」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006422906より。)。

「なぜおれに一〇〇メートル駆けさせないか」(by岡本太郎) そして、大商会頭の出身地から大阪経済の浮沈を思う -梅棹忠夫『民博誕生』を読む-

 梅棹忠夫『民博誕生 館長対談』を読んだ(だいぶ前に読んで久しい)。 

 内容は、梅棹とゲストたちとの対談なのだが、某密林のレビューにある通り、「本書は民博完成に関った人々との対話だが、けっこう博物館に関係ない話もしている」。

 しかし、そこが面白かったりもする。

 以下、特に面白かったところだけ。

「なぜおれに一〇〇メートル駆けさせないか」

 なぜおれに一〇〇メートル駆けさせないか (43頁)

 岡本太郎の言葉である。
 生まれつき足の長いやつが走る訓練してテープを切っても「人間的じゃない」、と岡本太郎は言う。
 それよりも、何十メートルも後ろを「短足岡本太郎」が歯をくいしばって走っている方がよほど「人間らしくてうつくしいんだ(笑)」。*1
 たしかに、こういうものの方が、よほど見ごたえはありそうである。

国際化とは何か

 ここにしかないりっぱなものができれば、世界のために意味がある (217頁)

 木田宏の言葉である。*2
 これに、梅棹も同意している。*3
 国際化とは、飛行機で往復したり、国際交流したりすることではない。
 その国の誇るべきものであることが国際的である、と。
 例として、『源氏物語』等を挙げている。
 もちろん、くだんの官製の「クールジャパン」とやらが、真に「国際化」なのかというと、もちろんそんなことはないのだろうが。*4

大阪は、大阪の外の人間が支えた。

 大阪商工会議所の会頭の出身地をみたら、大阪人はふたりしかいないですね。 (254頁)

 司馬遼太郎の言葉である。
 本が出た当時、明治期の田中市兵衛と昭和期の森平兵衛のみが、大阪出身だった。
 大阪は、よそのひとがやってきて商売をしている、と梅棹はいう。
 たしかに、五代友厚も、薩摩の士族である。
 大阪商工会議所ビル前の銅像三体は、五代、土居通夫、稲畑勝太郎、いずれも、大阪出身ではない。
 これが、往時の大阪の経済界であった。*5

 

(未完)

*1:岡本のオリンピック観の一側面として、篠原敏昭は、次のように書いている(「ベラボーな夢 岡本太郎における祭りと万博」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006616337 *注番号を削除して引用を行った。)。

彼 (引用者注:岡本太郎) はオリンピックに巨額の予算がつぎこまれることが気に入らなかったのだ。なぜ気に入らなかったのか。オリンピックが、誰もが参加できる祭りではなくて、「チャンピョン達のためだけ」のものだったからである。

なお、この箇所で参照されているのは、岡本「半身だけの現実/代用時代」である。
 篠原は、岡本のオリンピック観の別の側面についても言及している。

*2:木田は戦後、若手文部官僚として、社会科特別教科書『民主主義(上・下)』の編集にも携わっている。その件で面白いのは、第1章の「民主主義の本質」を、宮沢俊義に任せたら中身が硬すぎたので、やむなく、宮沢の先輩の尾高朝雄に執筆を引き受けてもらった、というエピソードである(谷口知司ほか「木田宏と教科書「民主主義上・下」について : オーラルヒストリー等の木田教育資料から」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004750811、21頁 )。

*3:ところで、民族学博物館ができたころ、もっとも痛烈に批判したのは、おそらく、赤松啓介であろう。赤松は、「危機における科学」で例えば次のように述べている(以下、犬塚康博「国立民族学博物館:「フォーラム」を睥睨する「神殿」 「アイヌからのメッセージ」展の吉田憲司フォーラム論批判」 より、孫引きを行っていることを、予め断っておく。http://museumscape.kustos.ac/?p=414 )。

民族学博物館」の対象が,殆んど昔の植民地民族,今の後進民族を主としているのは、どういうわけなのか。欧米民族学博物館,あるいはギリシャ民族博物館,フランス民族博物館等があってもいいのではないか。ところがギリシャ,フランスその他の先進諸民族の場合は,それが「美術館」なのである。私が梅棹忠夫に聞きたいのは、それがどうして「後進民族美術館」であってはいけないのか、ということだ。

 現在の民族学博物館には、ヨーロッパ展示も存在しているし、赤松に対して応答できている面はあるが、それでも、赤松の問いは現在でもなお、耳を傾けるべきところがあるように思う。

 例えば、「いかに生きるべきか、市民の問いに答え得るものでなければ『科学』とはいえない」という言葉がそれである(赤松「危機における科学」(『赤松啓介民俗学選集 第5巻』明石書店、2000年、151頁))。

*4: 今更言うまでもないことだが、黄盛彬の「クールジャパン」評が事態をおおよそ言い表しているだろう(「クール・ジャパン言説とテクノ・ナショナリズムhttps://ci.nii.ac.jp/naid/130005071332 )。

That is, after all, the cool Japan discourse along with technonationalism has been functioned as an ideology for the protection of vested interests of established industry and media conglomerates.

 「クールジャパン」の代表的存在(?)であるアニメについての話も一応書いておく。2000年までアニメの海外売り上げは順調に伸び、後半は減少、2010年代前半は低迷していたが、後半には売り上げは伸びている。背景には中国市場の存在があり、その浮沈が、日本アニメ産業における海外売り上げを、左右しているようだ(以上、一般社団法人日本動画協会「アニメ産業レポート2019 サマリー(日本語版)」https://aja.gr.jp/jigyou/chousa/sangyo_toukeiの2頁に依拠した。) 。「クールジャパン」の沙汰も中国市場次第、である。

*5:その後、大阪出身者として、佐治敬三サントリー)、大西正文(大阪ガス)、野村明雄(大阪ガス)らが、大阪商工会議所の会頭になってはいる。本書刊行後、2020年時点で、7名が就任しているが、うち3名が大阪出身ということになる。
 さらに、現会頭の尾崎裕は、宝塚出身で大阪府立北野高等学校卒なのだから、広義には大阪出身と言えないこともない(まあ、無理な言い方ではあるが)。
 こうした変化が、80年代以降の大阪の経済的気運を反映したものなのかどうかは、今後検討することにしたい(たぶんやらない)。
 そして、それ以上に注目すべきは、本書刊行後、会頭を務めるのが、サントリーと銀行 (大和銀行(当時)) を除いて、大阪ガスと鉄道会社出身者ばかり、というところであろうが。
 なお、公益企業ばかりが関西経済界のトップである事に対する批判は、既に行われている(以下のURLを参照http://www.elneos.co.jp/0508sf2.html )。