考えようによっては、ソメイヨシノという存在も伝統にのっとったもの、と言えなくもない ―佐藤俊樹『桜が創った「日本」』を読む―

 佐藤俊樹『桜が創った「日本」』を久々に読んだ。

 内容は紹介文通り、

一面を同じ色で彩っては、一斉に散っていくソメイヨシノ。近代の幕開けとともに日本の春を塗り替えていったこの人工的な桜は、どんな語りを生み出し、いかなる歴史を人々に読み込ませてきたのだろうか。現実の桜と語られた桜の間の往還関係を追いながら、そこからうかび上がってくる「日本」の姿、「自然」の形に迫る。

というもの。
 ルーマンが読めなくても、この本はちゃんと読めるので、ご安心を。
 それにしても、この本、ソメイヨシノを弁護する本、と読めなくもない。

 以下、特に面白かったところだけ。

地域ごとのサクラの種類

 近畿地方はやはりヤマザクラが多いが、長野県ではエドヒガシが目立つ (8頁)

 元々地域によって桜の種類は違っていた。
 東北地方だと、平泉の束稲山の桜はカスミザクラ、「たきの山」(現在の山形市)はオオヤマザクラが咲いていた。*1

人工的空間としての吉野山の桜

 江戸時代、吉野山はたしかに桜の名所だったが、幕末から明治初めにはすっかり衰微してた。 (44頁)

  著者は、山田孝雄『櫻史』などをもとに、そう述べている。

 吉野の桜は、人手をかけないと維持できない人工的空間であり*2、天然林には桜山と呼べるような桜の混生はまずない。*3

 あまり知りたくなかったエピソードではある。*4

靖国神社に不足していた「日本」性

 そこに一つ欠けているものがあるとすれば、意外に思うかもしれないが、<日本>である。 (87頁)

 靖国境内は江戸の盛り場と西欧の公園が混在する「公園」だった。*5
 和風、欧風、中国風の庭園に、梅桃桜牡丹などの花が咲く場所。*6
 そんなアイテムの一つが桜だった。
 西欧起源でもない、江戸起源でもない、日本のオリジナリティを求める視線は、少なくとも明治のある時期までは、そこには無かったのである。

明治の人は、散る桜に思い入れはなかった?

 散り方には一切言及がない (97頁)

 桜が散る所に注目されるのは、明治おいては余り見られない傾向である。
 けっこう見方は、当時様々だったようだ。
 例えば、海軍教育本部『海軍読本』(明治38年)の場合*7、軍人を桜に例えるのは、派手で泣く美しく咲いて人の目を喜ばせたり、材や樹皮も生活に役立つところで、散り方には一切言及はない。

 また、同書の「靖国神社」の章では、桜について一切触れられていない。*8

 遠くから見れば雲ようで、近くから見れば麗しく、人の目を喜ばせる、と言う風に、美しさには言及されるのであるが。
 桜、軍人、ナショナリティという連関こそあるが、現在想像されるものとはやけに違うのである。

「環境破壊」が生んたサクラの光景

 平城京(奈良)や飛鳥の周りで桜が目立っていたと考えるのは、的外れではない。 (169頁)

 桜は、森や林の空き地に生え、森が回復すると消える。
 だから、都市が出来て木が大量に伐採されると、サクラは増える。
 万葉人たちがたくさんの桜を鑑賞したのは、むしろそのころからすでに、天然林から薪や炭になる木を切っていたからである。*9
 「自然破壊」の結果なのである。

 著者は、谷本丈夫の「万葉人がみた桜」(林業科学技術振興所編『桜をたのしむ』)をもとに述べている。

サクラの「クローン」技術は伝統。

 クローンで殖やすというのは、吉野山の「千本」の景観と同じくらい旧い、伝統的なあり方なのである。 (198頁)

 桜を接ぐ事実は藤原定家の日記に出て来る。*10
 それは、吉野山の「千本桜」と同じくらい古い、というのだ。
 元々、桜は自家不和合性である。
 つまり、「雌雄同株の植物で、自家受粉では受精しない」わけである。
 そのため、特徴的なサクラをそのまま増やすためには、接ぎ木するしかないのである。*11
 考えようによって、ソメイヨシノという存在も、伝統にのっとったもの、と言えなくもないのである。

 

(未完)

*1:平泉町教育委員会「国指定名勝 「おくのほそ道の風景地 金鶏山・高館・さくら山」 保存活用計画(案) 令和2年3月」(https://www.town.hiraizumi.iwate.jp/index.cfm/25,6044,117,235,html )という計画書によると、

全く植樹していない箇所の植生は、カスミザクラとエドヒガンが混在しており、当時のさくら山の景色であったと思われる

という。「さくら山」とは、 同計画書によると、

駒形峰から南の束稲山へと連なる山域は、西行の古歌を通じて吉野山にも比肩する桜花の名所として著名となり、広く『さくら山』の名が普及した。

とのことである。

*2:茨城県桜川市ヤマザクラ課の「ヤマザクラ通信vol.12」には、次のようにある(https://mykoho.jp/article/%E8%8C%A8%E5%9F%8E%E7%9C%8C%E6%A1%9C%E5%B7%9D%E5%B8%82/%E5%BA%83%E5%A0%B1%E3%81%95%E3%81%8F%E3%82%89%E3%81%8C%E3%82%8F-no-341%EF%BC%882019%E5%B9%B412%E6%9C%881%E6%97%A5%E5%8F%B7%EF%BC%89/%E3%83%A4%E3%83%9E%E3%82%B6%E3%82%AF%E3%83%A9%E9%80%9A%E4%BF%A1vol-12/ )。

吉野山と桜の結びつきは、今から約千三百年前にさかのぼります。当時は、山々に神が宿るとされ、吉野は神仙の住む理想郷として、修験道の聖地になりました。/その尊像を刻んだのが山桜の木であったことから、これが「ご神木」となり、参詣する人たちにより「献木」として植え続けられ、厳重に保護されてきたことで、吉野山は花見の名所として知られるようになっていきました。/このように植えられた山桜は、今では三万本と言われており、気温の上昇とともに咲き上がる様子を「下千本」「中千本」「上千本」と表現するのも、吉野山ならではです。/こうして見てみると、吉野山は人の手によって植えられた人工の桜山であり、日本全国の桜の名所づくりの走りであったことがわかります。

 ただし、「献木」の件について、著者・佐藤は、伝説ではないか、と述べている(佐藤著44頁)。

*3:東口涼ほか「奈良県吉野山の土地利用の変遷と旅行雑誌から見た景観受容の変化」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130004444027 )は、次のように書いている。

土地利用と景観の変遷を見ると,明治の頃は田畑の割合が比較的高く,現在のように斜面一面見渡す限りの桜という景観ではなかった可能性が示唆された。つまり明治のころは田畑が広がる山に桜の密植地が存在するという景観だったと考えられる。 (引用者中略) 時代を経るごとに田畑の山林化と桜樹林の拡大が並行して進み,上述のような景観から,現在のような斜面一面の桜樹林と人工林の景観へと変遷してきたのである。

*4:ところで、幕末で吉野山、となると、連想されるのは、天誅組の吉村虎太郎の辞世の句・「吉野山 風に乱るる もみじ葉は 我が打つ太刀の 血煙と見よ」である。吉野山は紅葉でも有名だが、幕末もおそらく紅葉していたのだろう。

 ところで、この歌、後世の創作ではないかと指摘されている(青山忠正『明治維新史という冒険』(思文閣出版、2008年)、128頁)。

*5:ちなみに、靖国神社の桜の三分の一はヤマザクラであるらしい(153頁)。上野公園でもソメイヨシノは半数に満たないという。となると、東京育ちの人間でも、身近でソメイヨシノ以外の桜を見ていることになりそうだ。

*6:著者は次のように論じている(「社(やしろ)の庭 招魂社-靖国神社をめぐる眼差しの政治」https://ci.nii.ac.jp/naid/110004999166 )。

明治三一年には競馬場が廃止され,三九年には陸海軍省が「諸商人出届並弁舌等ニテ衆人ヲ集ムルコトヲ許サズ」という禁止令を出す.欧風や中国風を交えた内苑の庭園様式も大改造される.

*7:該当する箇所は、海軍教育本部『海軍読本. 巻2』(明治38年)の「第九 桜」の項目である。

*8:該当する箇所は、海軍教育本部『海軍読本. 巻1』(明治38年)の「第二十九 靖国神社」の項目である。

*9:池谷祐幸は次のように述べている(「桜の観賞と栽培の歴史―野生種から栽培品種への道―」https://ci.nii.ac.jp/naid/110009823853 )。

この時代に桜の鑑賞が始まった理由として、古代都市の誕生により建築用材および薪炭材の需要が激増し、それまでは照葉樹林であった都市周辺の森林が伐採されて二次林化した結果、桜の木が目立つようになったためであるという説がある

 参照されているのは、Kuitert の "Japanese FloweringCherries"である。
 ただし、「二次林化で増えた花は他にも躑躅(つつじ)や藤などが考えられ、万葉集でも詠まれている。これらの花の中から特に桜が選ばれた理由は分からない」という。

*10:接木は、文献上では平安時代の『月詣和歌集』が初出とされる。そこには、平経盛が八重咲きという特別な形質を持つサクラの枝を、接木するために他家に所望したという記述がある。

この記述により,八重咲きという当時は稀な変異形質で,かつ種子が生じにくい株から穂木を得ることが目的であったことがわかる。

また、定家の日記・『明月記』には多くの接木をした記述が残され,特に八重桜の接木の記述が目立っているという。以上、参照・引用ともに、七海絵里香ほか「造園樹木における接木技術の歴史および技術継承に関する研究」(https://ci.nii.ac.jp/naid/130007013318 )に依拠した。

*11:今関英雅は次のように書いている(「サクラ属の交雑の割合について(植物Q&A)」https://jspp.org/hiroba/q_and_a/detail.html?id=2309 )。

サクラ属の自家不和合性はS遺伝子座にある花粉と雌しべの対立遺伝子が同じ型のときにおこり(不和合)、違った型のときはおこらない(和合)となるものです。同じ種であっても遺伝子の型は同じでなく、たくさんの違いがあります。DNA鑑定で人の個体判別が出来るのも、ヒトという種であってもその遺伝子の中身は違うのが普通だからです。それと同じでヤマザクラオオシマザクラなどという種の中にはS遺伝子座の中身は何種類かの型で区別できる違いがあります。そのため、野生の種であっても同じS対立遺伝子型同士では自家不和合性を示しますが、異なった遺伝子型では受粉が成立します。ソメイヨシノはすべてがクローンですのでそのような遺伝子型の違いがないために自家不和合性がはっきりと現れているだけです。

日本イエズス会による軍事計画の実現性は、皆無に等しく、文字通り”絵に描いた餅”だった ―高橋裕史 『イエズス会の世界戦略』を読む―

 高橋裕史イエズス会の世界戦略』を読んだ。

イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)

イエズス会の世界戦略 (講談社選書メチエ)

  • 作者:高橋 裕史
  • 発売日: 2006/10/11
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

イエズス会はなぜ非ヨーロッパ世界の布教に成功したのか? 彼らが日本やインドなどで採用した適応主義政策とは? 布教活動のために貿易や不動産経営で生計をたてる宣教師たち。信者と資産保護のための軍事活動。「神の意志」実現のために世界を巡った「イエスの同志」の聖と俗に迫る。

というもの。

 当時のイエズス会ってあの時代の日本で何をしてたんだ、というのがわかる本。*1
 その経済的基盤などの話も載っている。*2

 以下、特に面白かったところだけ。

形式美好き(?)の日本人

 日本人は外面的な事柄や礼拝の儀礼、立派に整えられた儀式に非常に心を揺り動かされる。 (123頁)

 ヴァリニャーノの意見である。*3
 彼によると、彼らはそういった要素に過失があると、教化されずに憤るのだ、という。
 日本人は形式美を尊重するのだ、と彼は悟ったのである。*4

 我々の聖なる法に関する諸事を正しく理解し、東洋全域の中で最良のキリスト教徒となるには、最適な国民なのである (94頁)

 ヴァリニャーノは、日本のキリスト教徒としての将来性に期待を寄せていた。*5

 日本イエズス会が財政難や日本人に対する蔑視観から、日本人聖職者の養成を次第に否定してゆき、日本人のイエズス会入会を厳しく制限した (135頁)

 しかし、日本人を「最良のキリスト教徒」(byヴァリニャーノ)と認識していたイエズス会も、徐々に、日本人の入会を厳しく制限していったのである。*6

イエズス会(ヴァリニャーノ)における「人種差別」

 イエズス会への入会志願者としてはもとより、将来の司祭としても「不適格者」である、と排除された (38頁)

 インドにおけるイエズス会(ヴァリニャーノ)の排他性に関する話である。
 現地住民の血が濃ければ濃いほど、会から排除された。
 また、改宗を強制された在インドのユダヤ人たちも、イエズス会に入会させることをヴァリニャーノは、拒絶している。
 インドの現地住民は劣悪な存在だという排他的な人種選別があったようだ。*7 *8
 もちろん、こうした差別は、イエズス会のみに限った話ではないわけだが。

イエズス会武装の正当化と「軍事計画」

 スコラ正当戦争理論を踏まえた指示であると解してよい。 (224頁)

 イエズス会は、そうした、理論的方針をとった。
 トマス・アクィナスが完成させたスコラ戦争理論では、「自衛戦争」は認められた。*9
 イエズス会会員の生命と試算が大きな危険にさらされているのなら、自衛は自然法でも容認される、と。
 そんなわけで、長崎を武器や弾薬で要塞化し、長崎住民に武器を持たせることは、正当化されたのである。
 そして、イエズス会の日本における軍事活動は、イベリア国家との軍事的つながりの強化とともに、徐々にその度合いを強めていく。
 (当初からそうであったのではない、というのが著者の主張である。)*10

 日本イエズス会による軍事計画の実現性は皆無に等しく、文字通り”絵に描いた餅”にすぎなかった (245頁)

 イエズス会が日本に本格的な軍事力の導入と行使を検討し始めた頃、すでにポルトガルは国力を失い、フェリペ二世に併合される事態に陥っていた。
 にもかかわらず、日本イエズス会では少なからぬ宣教師が武力行使を主張した。
 結果的に、托鉢修道会との確執が目立ったこともあって、日本から追放されるに至った。
 軍事行為も托鉢修道会との抗争も、どれもイエズス会が自身を守るために取った自己防衛策が発端であった。
 しかし、それが益々イエズス会を追い込んでいったのである。

 イエズス会は日本のみならず、インドにおいても軍事活動に携わっていた (237頁)

 イエズス会はインドにおける戦争遂行や和平の調停に関与していた。

 ただし、これもまた彼らからすれば、およそ「自衛」のためであったことになるだろう。

 

(未完)

 

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*1:イエズス会関係で最近読んで面白かったのは、櫻井美幸「初期のイエズス会と「イエズス会女」 : なぜロヨラは女性会員を禁止するに至ったか」だ(https://ci.nii.ac.jp/naid/120006473149 )。本稿の内容とは直接関係はしないが、しかし、おすすめである。ぜひ。

*2:ただし、今回のレビューでは一切この点について触れないが。

*3:ただし、本書(高橋著)にも書いてあるように、ヴァリニャーノは、日本人は、偽善的でうわべを取り繕う国民である、なぜなら、日本人は幼いころから本心をあらわにしないことを分別あることとしているからだ、とも述べている(258頁)。

*4:ただし、ヴァリニャーノは、日本の諸宗教が普遍的原理に乏しいのは、日本人が諸事物に共通する本質的な属性を抽象化する能力を欠くからだ、と述べてもいる(高瀬弘一郎「『キリシタン思想史研究序説--日本人のキリスト教受容』井手勝美」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007410772、126頁。井手『キリシタン思想史研究序説』(ぺりかん社、1995年)の20頁も参照。)。
 ヴァリニャーノは、日本の神仏への信仰が普遍的原理に乏しいことを、日本人の抽象的能力の不足が原因とした。そう主張することで、これまで日本でそうした信仰が存在していたことを、「正当化」したわけである。(なお、フロイスも『日本史』で、禅宗の徒も一切の哲学的議論や思弁的理屈を好まず、手に捉えられる具体的見証を要求したと述べているという(前掲井手著、45頁)。)
 彼の日本人の外的な形式美に対する指摘は、日本人に上記のような内面的能力が不足しているという主張と、どこか対応しているように思える。

 ことによったら、ヴァリニャーノはそうした日本人観を信じ込むことで、これまで日本においてキリスト教が信仰されていなかったことをうまく説明しようとしたのかもしれない。そして、それを埋め合わせるようにして、外的な形式美云々に着目したのかもしれない。
 まあ、これは想像に過ぎないのだが。

*5:ただし、ヴァリニャーノも、第二次日本巡察時には、イエズス会内の日本人イルマン(助修士)の聖職者としての資質に、強い疑問と不満を表明している(本書258頁)。参照されているのは、上掲井手『キリシタン思想史序説』である。

*6:ただし、入会制限の原因は、協会側に起因する問題のほかに、同宿(聖職者に仕え、各種の聖務や雑務にあたる日本人の信徒を指す)たちの側にも見過ごせない問題があったことを著者は指摘している(135、136頁)。

*7:ヴァリニャーノは、ポルトガル領インドの住民のうち、「純粋」のインド人はイエズス会に入会させるにふさわしくないとした、と井手勝美も指摘している(前掲井手著、97頁)。

*8:浜林正夫は、本書書評において、次のようにまとめている(https://ci.nii.ac.jp/naid/110007043909 )。

インド人に対する評価は低く,イエズス会へ入会させてはならないとされる.これに対して,ヴァリニャーノは,日本人は白色人種のひとつであり,洗練されていて礼儀正しく,「最良のキリスト教徒」と見ているという.つまり,インドは布教の対象ではなく,貿易の拠点であり,日本こそ布教の主な対象であったということになる

実際には、ユダヤ人を強制改宗させている(あるいは、過去にさせた)のであるから、「インドは布教の対象ではなく」云々は、厳密にいうのであれば言い過ぎだと思われる。あくまで、イエズス会からの排除、というのが重要である。

*9:著者自身は、2017年の論文で次のように述べている(「フランシスコ会士によるローマ教皇の「軍事行使権」論について : Fray Martin de la Ascencionの『Relacion』の分析」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006329888 )。

特にアウグスティヌスの正戦論は、後の時代の正戦論の骨格を提示し、トマス・アクィナスの正戦論にも大きな影響を及ぼすことになったことは、周知のところであろう

*10:平井上総は、本書書評で次のように、本書の内容をまとめている(https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/46713 )。

日本に対するイエズス会ポルトガル・スペインとの軍事的つながりは、当初は薄かったものが、同会が自衛のため「他力本願」から「自力本願」へと方針を転換することにより「段階的にその度合いを深め」ていったのであり、「イベリア国家の海外征服事業の一翼」に一元化すべきではない、と著者は指摘している。

 もちろん著者自身も、「ポルトガルの国家利害の『代弁者』ですらある」(80頁)と、ヴァリニャーノ(*1582年書簡に依拠)がまるでポルトガル国王の能吏のように働いたとしており、イエズス会ポルトガルは相互の利害が一致していたため協力し合ったと述べている。が、軍事的なつながり自体は、そこまでではなかったのである。

すごいタイトルだが、わりあい内容はまともであるように思う ―岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』を読む―

 岡本茂樹『反省させると犯罪者になります』を読んだ。

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

  • 作者:岡本 茂樹
  • 発売日: 2013/05/17
  • メディア: 単行本
 

 内容は紹介文の通り、

犯罪者に反省させるな―。「そんなバカな」と思うだろう。しかし、犯罪者に即時に「反省」を求めると、彼らは「世間向けの偽善」ばかりを身に付けてしまう。犯罪者を本当に反省に導くのならば、まずは「被害者の心情を考えさせない」「反省は求めない」「加害者の視点で考えさせる」方が、実はずっと効果的なのである。「厳罰主義」の視点では欠落している「不都合な真実」を、更生の現場の豊富な実例とともに語る。

という内容。
 著者は、反省文をただ書かせるだけでは、真の意味での内省的「反省」は得られないと述べている。*1
 すごいタイトルだが、わりあい内容はまともであるように思う。

 以下、特に面白かったところだけ。

被害者の心情を理解させることの逆効果

 このプログラムは、ある意味では、社会での生きにくさを増加させることにつながってしまい、社会不適応を促進しているのかもしれない (87頁)

 浜井浩一『2円で刑務所、5億円で執行猶予』という本からの引用である。
 ある研究結果を引用している。
 それによると、被害者の心情を理解させることは、彼らがいかに社会的に非難されることをしたかを理解させることであり、結果、加害者側に大きな重荷を背負わせることになるという。
 そして、こうしたプログラムは再犯を促進しさせると述べる。*2

自分の本音と向き合う

 往復の手紙ではなく、「自分から相手へ」の形でロールレタリングを書き進めることが有効である (106頁)

 著者としては、ロールレタリングは心の中にため込んだいやな思いや感情を吐き出すところに効果があるという。*3
 著者の方法は、加害者を自己中心的な意識に留まらせ、他者への顧慮を失わせるようにも思える。
 しかし、著者は他人の目を気にすることは、

結局は自分のことを考えているのです (192頁)

という。
 他人からよく見られたいという意識が隠れているというのだ。
 それもまた一種の「自己中心的」なありかたである。
 著者は、他人の目ばかりを気にしているのではなく、自己(の本音)に向き合うことから、始めさせようとするのである。*4
 その困難さは、語るまでもないだろう。

非行はチャンス、弱さは「財産」

 子供の問題行動はチャンス (50頁)

 子供が問題行動(非行)を起こしたか考える機会を得られる、というのがその理由である。
 しんどい気持ちを「発散」する側面もあるようだ。

 よく話してくれたなあ (186頁)

 子供が不満やストレスといった否定的なことを話すのは勇気がいることである
 本人にとって、恥ずかしいことであるからだ。*5
 だから、子供が本音を言えたら、よく話してくれた、ありがとう、ということが重要だと著者は述べる。*6

 自然と出る弱さは、その人にとって「宝物」とさえ言える。 (206頁)

 弱さというのは、意識して作れるものではない。
 それはその人固有の「財産」であるという。*7
 そして、その「財産」は人とつながるためには欠かせないのだ、と。*8
 至言というべきであろう。

 

(未完)

 

*1:著者自身は次のように述べている(「学部共同研究会 私の研究 受刑者に対するロールレタリングを用いた支援の研究 : 反省と更生に導くための重要な視点」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005952388 )。

反省文を書かせることは一番やってはいけないことだと思っています。反省文を書かせると「すみませんでした,申し訳ありませんでした」となって何も深まらない。自分の内面を見ない。立派な反省文を書けるものほど悪いという考え方もあります。少年院は再犯率が7割くらいある。そういう少年の反省文を見ると立派な反省文が書ける。矯正教育がうまくいっていないのは反省させようということが大事にされて,立派な反省文が書けたことでヨシとなっている。表面ではちゃんとしたものを書いて裏で舌を出している状況になっている。

*2:著者(岡本)は次のように述べている(「受刑者支援にエンプティチェア・テクニックとロールレタリングを導入した面接過程」https://www.ja-gestalt.org/information/thesis/thesis-g.html 
*註番号を省略して引用を行った。 )。

疫学的手法を用いて,犯罪対策の効果を研究しているキャンベル共同計画によると,「被害者の心情を理解させるプログラムは,再犯を防止するどころか再犯を促進させる可能性がある」という驚くべき報告をしている。この研究に携わっている浜井は,「あくまでも仮説であるが」と断ったうえで,再犯を促進させる理由として「被害者の心情を理解させることは,ある意味では彼らがいかに社会的に非難されることをしたのかを理解させることであり,自己イメージを低めさせ,心に大きな重荷を背負わせることになる。 (以下、引用者中略) 

なお、岡本は言及していないが、当該の計画のなかでも、怒りのコントロールを取り入れたプログラムの方は、再犯を防止したという(浜井浩一『2円で刑務所、5億円で執行猶予』(光文社、2009年)、85頁)。

*3:浜口恵子は次のように述べている(「中学生の自尊感情へのロールレタリングによるアプローチ」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005625019 )。

岡本(2012)は、「RL の最大の効果はカタルシス効果にある」とし、否定的感情をため込まず、外に出すことが大切と述べている。さらに、否定的感情が吐き出されると、肯定的感情に気づき、自己理解が得られると述べている

参照されているのは、岡本の『ロールレタリング: 手紙を書く心理療法の理論と実践』である。

*4:岡本自身は次のように述べている。

RL で自分の本音を出すと,自分の中に押し殺してきた感情に気づき,自分にとって問題となっていた影の部分が見えてくるようになる.自分のことが分かるようになると相手のことも理解できるようになる.相手が理解できると,相手の弱さや弱点がみえてきて自然と相手に優しくできる

出典は先述した『ロールレタリング』、朴順龍「韓国におけるロールレタリング技法を活用した受刑者教育プログラムの開発及び効果に関する研究」(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11050156 )からの二次的引用である。

*5:「本音を訴えれば悪く評価され,弱点を暴かれるような感じがして率直な気持ちで接することができないという治療者に対する秘密」という点は、先述した朴順龍論文も、言及している。その論文で参照されているのは、春口徳雄「ロール・レタリング(役割書簡法)による感情移入に関する考察」である。

*6:著者自身は、「さびしさ,辛さ,ストレス,悲しみをどう吐き出させるかが臨床家として必要なことだと考えています」と述べている(前掲岡本「受刑者に対するロールレタリングを用いた支援の研究」 )。

*7:著者は次のように述べている(前掲岡本「受刑者に対するロールレタリングを用いた支援の研究」 )。

固く心に誓う。これも必要ですが,固く心に「もうやりません」と誓うのも必要ですが,ストレスを生む。頑張らないといけない。弱さを見せたらいけない,しっかりしないといけないパターンになる。これだけでは弱い。「人にどんなに頼って生きていけるか」というところにいくのが私の改善指導の目的になっています。

*8:中村裕子は次のように述べる(「バルネラビリティ概念の考察─ソーシャルワーカーの実践への示唆─」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006583651 )。

そういった「弱さ」の肯定的な主張に対し,児島(2013:124)は「『弱さ』のすべてを肯定してよいものか」と投げかけ,「弱さ」の意味内容を精緻に整理する必要性があるとしている。貧困や孤立などへの陥りやすさといった特性という意味での「弱さ」について,「放置することの許されぬものである」と指摘し,身体そのものの「弱さ」とひとつながりに論じるべきではないと断じている。また,個人の「弱さ」なのか,社会の「弱さ」であるのかといった区別をつけて吟味するべきであるとしている。確かに,「弱さ」による相互の承認は人のつながりを生むとされるが,それが何故生じるのかという構造については議論の余地があるように思われる。

 「弱さ」が人と人とのつながりを生むとしても、そこでいわれる「弱さ」とは具体的に何なのか、その吟味を欠かすことは出来ない。また、なぜ「弱さ」による相互承認が人のつながりを生むのか、という問題については、また追って論じていきたいと思う(たぶんやらない)。
 なお、上記引用部で参照されているのは、児島亜希子「理論・思想部門(2013年度学界回顧と展望)」である。

満漢全席なるものが、清朝の宮廷で皇帝に出された事実はない(その他諸々の話題) -石橋崇雄『大清帝国』を読む-

 石橋崇雄『大清帝国』を読んだ。

大清帝国 (講談社選書メチエ)

大清帝国 (講談社選書メチエ)

 

 内容は紹介文の通り、

満洲族の一小国が、飽くなき革新力により、巨大な中華世界を飲み込む。その力は中華世界を越え、中央アジアへ進出し、イスラムをも取り込んだ空前の大版図を築く。華夷秩序を超越する世界帝国の体現者=清朝。それは、満・蒙・漢・蔵・回五族からなる、現代中国の原型だった。康煕・雍正・乾隆の三代皇帝を中心に、その若々しい盛期を描く。

という内容。
 大清帝国の多民族性を軸に、ヌルハチから乾隆までたどっていく、というのがメインである。
 初心者にも安心の中身である。
 だが、今回は、本書の主軸をあえて避けて、諸々書いていきたい。*1

 以下、特に面白いと思ったところだけ。

満漢全席は、宮廷で皇帝に出されてはいない

 満漢全席なるもの、清朝の宮廷で皇帝に出された事実はない (18頁)

 清朝の宮中では、満席(計六等席)と漢席(計三等席と上・中席の五類)からなるが、一緒に出されることは禁じられていたという。*2 *3 *4

 満漢全席は、1764年の李斗『揚州画舫録』に記された「満漢全席」の語が初出だろうという。*5
 そして、揚州を中心に18世紀中葉の江南で始まり、民間で広まっていった。
 背景には、乾隆帝六度にわたる大規模な南巡にあるのでは、と著者はいう。
 江南は、本書でも重要なものとして扱われているが、詳細は実際に読んでみてほしい。

清朝も称えた鄭成功

 清朝でさえ。彼を称え、諡号を贈り、廟の建設を許可したという (142頁)

 鄭成功は、台湾を新たな拠点とした。
 そして、その後、台湾をオランダから解放した英雄として、廟にまつられることとなった。
 清朝も彼を称えた。
 諡号を贈り、廟の建設を許可してもいる。*6
 いうまでもなく、日本でも人気は高い(『国姓爺合戦』等の演目)。

ダライ=ラマの称号と茶馬貿易

 ダライ=ラマの称号に象徴されるように、チベット仏教界とモンゴル民族とは深い関係を持つようになった。 (143頁)

 アルタン=ハンがゲルク派に改宗した際、ソナム=ギャツォに与えた称号が、ダライ=ラマである。

 「海」を意味するモンゴル語の「ダライ」、「師」を意味する「ラマ」の合成である。*7

 アルタン=ハンの改宗をきっかけにモンゴル全域にチベット仏教は広まった。

 

 本書では、ダライ=ラマ5世の話も出てくる。
 彼は清朝に対して、危機感を覚え、外モンゴルも含む、全モンゴル勢力を傘下に置いて、清朝に対抗しようとした。
 三藩のうち呉三桂と結んで清朝をけん制しようと図り、清朝に無断で雲南側(呉三桂)と茶馬貿易などを行っている*8

 

(未完)

 

*1:主軸を知りたい人は、楠木賢道による本書書評を参照願いたい。https://ci.nii.ac.jp/naid/110002363446 

*2:松本睦子「北京料理と宮廷料理について」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110009555490 )も、論旨は著者と異なるが、「満漢全席」が宮廷料理と異なるものだと述べている。

*3:ウェブサイト・『エグゼクティブ・パートナーズ』の記事・「中華料理の楽しみ方」には、次のようにある。

清朝初期の頃は満席しかなかったが、康熙帝(在位1722~1861)の時に漢席も用いられるようになった。その後、宮廷の宴席は満席、漢籍,奠籠、誦経供品の四大席に定められた。満席は上位3等級と下位の3等級の計6等級に分けられていた。上位三等級大席は皇帝、皇后、妃嬪の死後の追悼宴、次に下位の三等級大席は三大節(冬至、元旦、清明節)、皇帝の結婚披露宴、各国の進貢施設に賜る宴や降嫁する公主達の宴席などであった。漢席は皇帝が大学を視察する時、文武の試験官が試験場に入る時、書籍の編纂完成日などの宴席であった。

やはり、満席と漢席は分けて行っていた、という書き方である。

*4:さらに。

 「光明日報」の記事「想象之外:歴史上的清宮宴」(http://epaper.gmw.cn/gmrb/html/2019-01/26/nw.D110000gmrb_20190126_1-10.htm )によると、「大清会典」の73巻「光禄寺」などの資料には、満席と漢席はシチュエーションごとに細かく分かれていた(そして、宮廷で同時に行うことはない)ことを示す記述があるようだ。

 記事に出てくる李宝臣氏は、「満漢全席」というのは清滅亡後に、民間の店が清朝の宮廷の資料をもとに始めたものであって、清朝とは関係がないのだ、という立場である。これは、清朝と満漢全席とのつながりの薄さを指摘する点で、著者(石橋)の見解と親和的である。

*5:なお、早稲田大学古典籍総合データベースの『揚州画舫録』(https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru05/ru05_01120/index.html )の第四巻の該当箇所を見ると、「満漢席」と表記されている。

*6:1700年に、康熙帝鄭成功

「明室の遺臣に係り、朕の乱臣賊子に非らず」と、特に勅して鄭成功及びその子、経の両棺を故郷の中国福建省の南安に帰葬せしめ、廟を建てた。 (引用者中略) 明に最後まで「忠節」を尽くしたと、その「忠節」に着目してこのような措置を取った

 その後、1875年に、清朝政府によって、台南に「明延平郡王祠」が創建される。清朝政府(光緒帝)は、

鄭成功に「忠節」の諡を追号すると共に鄭成功の専祠を勅建し、国家の祀典に列し、春秋 2 祭を行うことを決定した。

こうして、「私廟(祠)としての『開山王廟』は、官廟としての「明延平郡王祠」に改変せしめられた」。「明延平郡王祠」創建を奏請したのは沈葆楨である。この人物は、「日本による台湾出兵に対抗して、清朝政府から3000人の軍を率いて台湾に派遣された国防、外交の欽差大臣」であった。
 以上、中島三千男「歴史・伝統の三度の創り替え -台湾 明延平郡王祠、開山神社を素材に-」より参照、引用を行った(https://irdb.nii.ac.jp/01292/0004076986 )。

*7:吉水千鶴子はソナム=ギャツォに与えた称号について、次のように述べている(「チベット仏教の世界 : 仏教伝来からダライ・ラマへ」ttps://ci.nii.ac.jp/naid/120005723554 )。

フビライの子孫アルタン・ハーンより「ダライ・ラマ」の称号を贈られた。「ダライ」とはモンゴル語で「広い海」を意味し、チベット語の「ギャンツォ」と同義である。チベットやモンゴルには海はないので、実際には湖を指す。

 『広報いずみさの (令和元年8月号)』の「国際交流員オギー通信」によると、

ウランバートル市から北部671㎞に位置するフブスグル県にあるフブスグル湖は、琵琶湖の約4倍透明度が高く、地元人から母なるダライ(海)と呼ばれ愛されています。

とのことである(http://www.city.izumisano.lg.jp/shiho/backnumber/2019/aug.html )。やはり、「ダライ」という語は、湖と親和的な言葉であるようだ。

 そのチベット語の「ギャムツォ(ギャツォ・ギャンツォ)」(rgya mtsho)もまた大海を意味しており、mtsho では湖を意味する。また、その言葉は、サンスクリット語の「サーガラ」、すなわち、大海や大きな湖を意味する言葉をも、連想させる。

 そういえば、中国語でも「海」は、「大きな湖」をも意味するはずである。また、日本でも、諏訪湖を「諏訪の海」と呼ぶ例もある。

*8:増田厚之も、呉三桂が「独自にチベットとの茶馬貿易を行っている」としている(「中国雲南の西南地域における茶の商品化―明清期の普▲・シプソンパンナーを中心に―」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005685560 *「▲」は、さんずいに耳と書く。)。 

個人的には、この小池和男批判が一番面白かったような気がする。(*日本女性の労働を歴史的にみる良書) ―濱口桂一郎『働く女子の運命』を読む―

 濱口桂一郎『働く女子の運命』を読んだ。(再読)

働く女子の運命 (文春新書)

働く女子の運命 (文春新書)

 

 内容は、紹介文の通り、

失われた20年以降、総合職というコースが用意された代わりに、“転勤も労働時間も無制限"に働けという。 さらには「少子化対策と女性の活躍」を両立させる、ですって――!? いったい女性にどうしろと言うのでしょう。 本書では富岡製糸場から戦争時、職業婦人、ビジネス・ガールといった働く女子の歴史を追いながら、男性中心に成功してきた日本型雇用の問題点を探っていきます。

というもの。
 2015年の本だが、内容は古びていない。
 日本の女性の労働を歴史的に見る良書である。
 以下、特に面白かったところだけ。

渋沢栄一と工場法の賛否

 有名な渋沢栄一氏も (引用者中略) 反対意見を主張しています。 (37頁)

 戦前の工場法についての話である。
 この法律は、何度も法案を作成しては業界の猛反対でつぶされた。
 渋沢栄一も、一方的な道理によって欧州のコピーのようなものを設けるのは反対、と主張していた。
 なお、著者も自身のブログで言及していたように、後年渋沢栄一は賛成に回るわけであるが、しかしながら、相変わらず企業家たちは反対したのである。*1

近江絹糸の人権争議

 戦後日本の労働争議で労働側が勝った事例自体がないに等しい (49頁)

 女性中心の労働運動が勝利を収めた数少ない争議、それが1954年の近江絹糸の人権争議である。
 労働組合側が全面勝利を収めたほぼ唯一の事例でもあるという。*2

結婚退職慣行の確立

 一九五七年には結婚退職慣行が確立します。 (53頁)

 トヨタの例である。
 一九五〇年の葬儀の時にかなりの女子を「排出」(追い出し)している。
 そして、入社時に結婚退職誓約書を提出させ、退職特別餞別金制度を設けた。
 結果、以降は事務系女子の平均年齢は20歳前後と若年短期型になった。
 辻勝次『トヨタ人事方式の戦後史』を参照して、そのように述べられている。*3

小池和男の知的熟練理論に対する批判

 実際に実行できたのは大企業だけであって、中小零細企業になればなるほどそんな高い給料は払えないから中年になると賃金カーブが平たくなるしかない (127頁)

 小池和男の知的熟練理論は、中小零細企業には当てはまらない、という指摘である。
 まあ、考えてみればその通りである。
 大企業正社員の中年社員と、中小企業の中年社員とで、賃金カーブに大きく差がつくほどの、それが正当化できるほどの熟練度なんて、普通に考えればあるわけもないのだ。
 そんなに熟練しているはずの中年社員を、不景気になったとたんにリストラ対象にするのは、おかしいはずなのだから。*4 *5
 個人的には、この小池和男批判が一番面白かったような気がする。

男女同一労働同一賃金原則が生まれた現実的背景

 できれば男の職場に女を入れたくないという気持ちに基づいた主張だった (146頁)

 ジョブ型社会で男女同一労働同一賃金が主張された背景である。
 いってしまえば、女の賃金が安いと、そっちが雇われてしまうから、賃上げしてしまおう、という発想である。
 それは欧州でも米国でも同様だという。*6

 日本型以外のジョブ型社会の男女平等政策 (157頁)

 そんなわけで日本以外での男女平等政策では、男女同一労働同一賃金はあまりにも当然である。
 だが、それだけではいかんともしがたい。
 そこで、同一価値労働同一賃金*7ポジティブ・アクション*8などの「いささか問題を孕んだ政策」を進めているのが現状だとしている。

残業代関係なく、働かせてはいけない時間

 ヨーロッパの週四八時間はそこで残業が終わる時間です。 (232頁)

 週48時間まで、残業時間もふくめて、仕事をさせることが可能になるのであって、それ以上は原則不可である。

 かつ、毎日必ず11時間仕事から離れて過ごす時間を、確保しなければならない。*9
 日本とはえらい違いである。
 これは、以前の著者の著書でも述べられていたはずの事柄だったと思うが、とても大事なことなので、念のため書いておく。

 

(未完)

 

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*1:http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2019/04/post-9402.htmlにおいて、著者は渋沢栄一の工場法賛成について言及している。なお、その後の経過については、谷敷正光によると次のとおりである(論文「「工場法」制定と綿糸紡績女工の余暇--工場内学校との関連で」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006610530 )。

綿糸紡績連合会は深夜業禁止規定(同法実施 10 年後に深夜業を禁止する)に猛烈に反対し,法案通過の見込みがたたず,政府は明治 43 年2月「調査修正」を名目に同法案を撤回している。

深夜業の扱いがネックとなった。結果、「『工場法』公布にもかかわらず,紡績業にとって 20 数年間何ら影響を受けることなく,劣悪な労働条件は存続した」と谷敷は書いている。

*2: ところで、本書にも出てくる話題であるが、この人権争議の労働側の要求項目には、仏教の強制絶対反対というのが存在している。会社が押し付けたのは、浄土真宗西本願寺派の教義であった。

 ただし、実態としては、

近江絹糸の企業力が拡大強化されていく中で地域の宗教者に対して社長の経営方針が色濃く反映されるようになり、教育方針に注文がつくようになり、宗派の教義に忠実で熱心な宗教者と社長との間に対立が生まれ、だんだんと離れていくことになったものだった。会社としては、社の経営方針を受け入れる者に限定するようになっていった。

という具合だったようだ(朝倉克己「人権争議はなぜ起きたか」https://uazensen.jp/sinior/history/ )。

 なお、九内悠水子によると、近江絹糸の経営者である夏川自身が、熱心な浄土真宗の信徒であり、郡是(グンゼ)製糸の工場においてキリスト教によって教育をしていたのを見て、自社では仏教で実践しようとしたきっかけのようである(「三島由紀夫『絹と明察』論 : 駒沢とコミュニティの関わりについて」https://ci.nii.ac.jp/naid/120005367849、134頁)。

*3:遠藤公嗣による、当該書書評https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2012/toc/index.htmlによると、

女性社員の定年到達者が非常に少ないことである。1957 ~ 74 年合計の女性採用者数は 5246人であったが,その定年到達者数は 52 人であって,到達率は 0. 98%であった(305 頁)。

また遠藤は、「大企業における女性社員の定年到達者数と到達率が研究文献で明示されたのは,これが最初であろう」とも述べ、本書を基本的に高く評価している。

*4:著者は、次のように述べている(「日本型雇用と女子の運命」http://hamachan.on.coocan.jp/suirensha.html )。

労働経済学からこれを援護射撃したのが小池和男の知的熟練理論であった。大企業と中小企業の年功カーブの上がり方の違いをその労働能力の違いから説明するこの理論は、その「能力」を企業を超えた社会的通用性を欠いたミクロな職場の共同主観に立脚させることによって、あらゆる待遇の格差を客観的検証の不可能な「能力」の違いで説明できる万能の理論となった。 (引用者中略)  しかし、その前提の存在しない日本にこのロジックを持ち込むと、実際には上述の経緯によって産み出された生活給的年功賃金制を、その経緯を表面上抹殺して「能力」の違いで説明してしまうものになってしまう。

*5:遠藤公嗣は、次のように言及している(論文・「賃金」https://oisr-org.ws.hosei.ac.jp/oz/contents/?id=2-001-9000493 )。

小野旭(1989: 第1章)は,賃金の計量分析によって,「熟練」が賃金カーブ=「上がり方」の説明力として弱いことを示した。すなわち小野は,年功賃金の決定要因は「熟練か生活費保障か」と問題設定し,「賃金センサス」個票の計量分析によって,勤続年数などの「熟練指標」よりも年齢が賃金カーブの形成に大きい説明力をもつことを実証した。そして,年齢が大きい説明力をもつことを生活費保障のためと理解したのである。 (引用者中略) 野村正實(1992: 13-14)はまた,小野旭(1989: 第1章)に依拠しつつ,小池の賃金論を批判する興味深い仮説を提出した。すなわち,「知的熟練」が大企業(男性)生産労働者「ホワイトカラー化」をもたらすという小池の議論を,いわば逆転して,「賃金カーブが『年齢別生活費保障型賃金』になったことが」歴史的に先行し,それが与件となって「企業に,男性労働者にたいして直接労働者であってもある程度の技能形成をおこなわせ」たと仮説を述べたのである。この仮説を支持したのは,たとえば遠藤公嗣(1993a: 45-46)や大沢真理(1994: 65-68)であった。

 基本的に、本書(濱口著)の小池的・知的熟練理論に対する立場は、一応は、この小野旭以降の研究的系譜に与するものといえるだろう。

*6:以下、労働政策研究・研修機構の『雇用形態による均等処遇についての研究会 報告書』(https://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000001h5lq-att/2r9852000001jh4z.pdf )より、「EU諸国等における雇用形態に係る不利益取扱い禁止法制等の現状」から引用する。

1957 年EEC(欧州経済共同体)設立条約(ローマ条約)119 条に、各加盟国は、同一労働に対して男女労働者の同一賃金原則が適用されることを確保するものとする旨の男女同一労働同一賃金原則が定められていた。/○ これは、元々は、低賃金の女性労働者の雇用がソーシャル・ダンピングを引き起こし、市場競争を歪めるという考え方から導入されたもので、経済統合のための手段であって、社会的目標を掲げたものとは考えられていなかったといわれる

実際、

ローマ条約の批准交渉において 119 条の挿入に熱心だったフランス政府は、当時、自国の繊維産業を、低賃金女性労働者を有するベルギーとの競争から守ることを意図していたといわれる。

として、著者・濱口『増補版EU労働法の形成』が参照されている。というか、この個所を書いたのは、報告書の執筆者の一人である、著者・濱口なのだと思われる。

 なお、ローマ条約のくだりは、本書(『働く女子の運命』にも登場する。)

*7:「同一価値労働同一賃金」について、上田裕子は次のように説明している(「試論『同一価値労働同一賃金』原則を検討するにあたって論点整理 」(『雇用におけるジェンダー平等』)http://www.yuiyuidori.net/soken/ )。

「同一価値労働同一賃金」原則とは、かりに異なる仕事(職種・職務)であっても、その価値が同一または同等の価値とみなされる仕事(職種・職務)であるものに対して、性別や雇用形態にかかわらず同じ賃金を支払うことを求める原則である。別の表現をすれば、同じ労働でなくても、類似の経験、就業期間、知識、体力、意欲や諸能力の水準が同じような異種間の労働には、同等の賃金がしはらわれるべきである、という要求の原則である。これまでの同一労働同一賃金原則では、異種業務であれば異なる賃金でよいことになるが、同一価値労働同一賃金原則は男女間あるいは雇用形態間の格差是正に有効だとされている。しかし、同原則を運動に取り入れることについては、90 年代から熱い議論がされているにもかかわらず、いまなお決着をみたとはいえない。同原則を実現するに当たって仕事の価値をどのように評価するのかという難問があり、その評価手法の問題は賃金形態・体系にまで問題が及ぶことから、運動の現場においても研究者の間でも賛否の議論が続いている。

「同一価値労働同一賃金」のラディカルなところは、まさにこの点である。

*8:ポジティブ・アクション」、すなわち、一方の性に対する特別措置について、黒岩容子は次のように書いている(「性平等に向けての法的枠組み─EU法における展開を参考にして」https://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2014/07/ )。

ポジティブ・アクションについては,すでに1976 年男女平等待遇指令 2 条 4 項で,平等な機会の実現のための一方の性に対する特別措置は許容される,と規定されていた。しかし,一方の性に対する優遇措置は,他の性にとっては不利益扱い(逆差別)となるために,EU 法上許容される優遇措置の内容および範囲が問題となってきた

*9:2017年の「日本学術会議 経済学委員会 ワーク・ライフ・バランス研究分科会」による「労働時間の規制の在り方に関する報告」には、次のようにある(http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/division-16.html。以下、註番号などを省いて引用を行った)。

週 48 時間の上限に関してはオプト・アウト(労働者の事前の個別合意により適用除外とする制度)が認められているが、オプト・アウトを導入しているイギリスでも最低で 11 時間連続の休息時間の規定は存在し、時間外労働に対する実質的な制約として機能している。一方、日本では労働基準法において法定労働時間(1 週 40 時間・1 日 8時間)の規定(32 条)や 6 時間を超える労働における休憩時間(34 条)、休日(35 条)の規定はあるものの、「休息時間」の概念は存在せず、「自動車運転者の労働時間等の改善の基準」(平成元年労働省告示第 7 号)において休息時間についての言及があるのみである

当該箇所では、著者・濱口の論文・「『EU 労働時間指令』とは何か (特集 労働時間の国際基準)」が参照されている。残業代を払おうが払うまいが関係なく、長時間労働が禁止される、という点が肝心である。

日本語が「ぼかした表現」を好むことの文法的な背景。(あと、相席では黙っていたい。) ―井上優『相席で黙っていられるか』を読む―

 井上優『相席で黙っていられるか』を読んだ。

相席で黙っていられるか――日中言語行動比較論 (そうだったんだ!日本語)

相席で黙っていられるか――日中言語行動比較論 (そうだったんだ!日本語)

  • 作者:井上 優
  • 発売日: 2013/07/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 内容は、紹介文の通り、

「娘と息子、どっちがかわいい?」日本人が首をかしげる中国人の質問。「これ誰の?―うーん、誰のかなあ」実は不思議な日本人の答え方。中国人の妻との日常生活を通じて、数えきれない「あれ?」と出会ってきた著者が説く、「こう考えれば理解しあえる」!さまざまな場面で応用できる、対照言語学的「比べ方」のすすめ。

という内容。
 比較文化論としても大変面白い一冊。
 中国語がわからなくても、楽しく読める。

 以下、特に面白かったところだけ。

中国人の耳は加点方式

 中国人の耳は、減点方式ではなく、加点方式で (31頁)

 上記は、新井一二三『中国語はおもしろい』からの引用である。
 中国語は、各地方出身者間の意思疎通が目的なので、そうなっているようである。
 というのも、中国の各地方の「方言」同士は、かなりバラバラであるからだ。
 欠点をあげつらうような意地悪な聞き方をしないというのは、日本語圏に比べて、良いところであるように思う。*1

「天秤型」対「シーソー型」

 しかし、これはあくまで日本人の感覚である。 (136頁)

 日本人は、聞き手との関係を大切にしているので、「こうだ」と言い切ることをしない、とよく言われる。
 しかし、著者は必ずしもそうではないのではないか、という。
 例えば、中国人は、会話の流れを途切れさせないために、相手の発話に見合った内容の発言をする。
 そのために、「こうだ」と言い切る。
 それは相手が次に何を言うかを決めやすく、会話を持続させるためである。
 相手がレスポンスすることを前提に、返答がしやすいよう調整しているのである。
 逆に、日本人は、相手と気持ちを共有するのが先だとして「こうだ」と言い切らない。
 相手との関係のバランスを崩さないためである(まるで天秤のようである)。
 中国人も日本人と同じように聞き手との関係を大切にしているが、そのやり方が異なるだけなのであるという。

 「ここまでは同じだが、ここから先が違う」と言うほうが公平だと思う (180頁)

 「集団主義的」対「個人主義的」といった見方ではなく、まずそれぞれの特徴を相対化できる共通の枠組みを考え、そのもとで違いを説明する方がよい、と著者はいう。
 例えば、日中のコミュニケーションの方法の違いについて。
 「天秤型」対「シーソー型」*2というとらえ方は、日中どちらも、自分と相手が対等の関係にあることを重視してコミュニケートするという、共通の枠組みを考える。*3
 そして、そのコミュニケーション様式の違いを、相手との距離感が違うために、その関係の保ち方が異なる、と説明する。
 こうした方が、硬直的かつ本質主義的な不毛な議論をせずに済む。

玄関での立ち話

 中国の家屋には、日本の玄関のような空間はない (143頁)

 玄関は家の外と内の中間地帯である。
 道であった知り合いと立ち話をするのと同じ感覚で、会話ができる場所である。
 そういう意味でいうと、中国には日本の玄関のような空間はない。
 玄関で話をするという感覚がないのである。*4
 著者の妻(中国出身)は、立ち話というのは会話のうちに入らないのだという。

はっきり言い切らないことの文法的背景

 しかし、この説明は表面的な違いを強調しすぎていると思う。 (167頁)

 日本語と中国語・英語などとを比較した場合の話である。
 日本語では、英語のような表現と異なり、「明日結婚できる」とはいわず、「明日にでも結婚できる」という。
 だが、英語では、名詞レベルではtomorrowでよく、can やifなどを用いて、文全体としては「明日」を可能な一つの例として示す。
 例えば、

She can marry her young man tomorrow if she like. 

のように。*5
 一方、日本語では、名詞レベルで可能な一つの例であることを示さないといけない。
 そこで、「明日にでも」となる。
 日本語が「ぼかした表現」を好み、英語や中国語は「明確な表現」を好む、といわれたりするが、実際は、文法的背景が存在するのである。
 ほかの言語では、名詞がかなり広い意味をとれるのに、日本語だと名詞は狭い意味しか取れないというわけだ。*6

 

(未完)

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*1:上野惠司は、次のような興味深い体験をしたようである(「中国語とはどんな言語か」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006029370 )。

1972年に日本と中国の国交が回復する10年ほど前のことであったので、学習環境にも恵まれていませんでした。/せっかく学んだ中国語を試してみるチャンスが全くありません。そこで細々と行われていた民間貿易の中国船がたまたま東京湾に停泊するのを聞きつけて、煩瑣な手続きを済ませたうえで同学と上陸してくる船員を待ち受けて、一緒に街を散歩しながら会話を試みましたが、悲しくなるほど通じません。正確に言いますと、こちらが話しかけた内容は伝わっているらしいのですが、戻ってくる返答のことばが、さっぱり聴き取れないのです。

だんだんわかってきたことですが、中国国内でさえまだ普通話が普及していない時代で、しかも乗組員の多くは山東、浙江、福建といった方言地区の出身であるうえに、必ずしも高い教育は受けていない、いわば海の荒くれ男たちです。通じないのは、こちらの学力不足だけが原因ではなかったかもしれません。

ここで注目すべきは、「こちらが話しかけた内容は伝わっているらしいのですが、戻ってくる返答のことばが、さっぱり聴き取れない」というところである。著者は普通話で話しただろうし、相手もそれに応じて普通話を使ったはずである。両者ともに、たとえ片言になったとしても、普通話で会話をしたはずなのである。
 しかし、著者(上野)の中国語を一応相手は理解することができたのに、相手の「中国語」を著者は聞き取れなかった。このとき著者は、「加点方式」で相手の「中国語」を、聞き取ることができなかったわけである。この当時の著者(上野)には「加点方式」で話すような習慣がなかった、あるいは、それが可能になるだけの言語的習熟度が足りなかった、ということになるのではないか。

*2:前者は、関係の水平性をなるべく動かさないことを重視するやり方。日本的なコミュニケーションの取り方である。後者は、上下運動が一定のペースで持続していく、例えば、貸し借りを交互に作り合って行くことを志向するようなやり方。中国的なコミュニケーションの取り方である。

*3:唐瑩は、自身の博士論文において、次のように述べている(「中・日母語話者同士の 会話展開の対照研究 ―初対面場面の会話データをもとに―」https://ci.nii.ac.jp/naid/500001048900 なお、著者・井上はこの博士論文の指導教授を務めている)。

会話には、「話題を展開させる」という側面と「会話参加者の関係を維持する」という二つの側面がある。井上(2013)の説明は、中国語は会話の「会話参加者の関係を維持する」という側面を日本語より重視しているということを述べたものと言えるが、本研究の知見をふまえると、本研究において明らかになった日本語会話と中国語会話の相違は、つまるところ次のようにまとめられるだろう。

・日本語は会話の「話題を展開させる」という側面をより重視し、中国語は会話の「会話参加者の関係を維持する」という側面をより重視する。

 「天秤」と「シーソー」の話は、このように深められて研究がなされている。

*4:柳田国男『明治大正史世相編』の「出居の衰微」の項目を見る限り、出居(客への応待等に使われる部屋)のようなものが必要なのは門構えのあるレベルの家の話であって、小さな家では、戸口の立ち話で用を弁じた、とある(朝日新聞社 編『明治大正史. 第4巻 世相篇』(朝日新聞社、1930年)・150、151頁)。
 柳田に言わせれば、日本の庶民は昔からから玄関(戸口)で立ち話をしていたことになる。

*5:森山卓郎は次のように書いている(「例示の副助詞『でも』と文末制約」https://ci.nii.ac.jp/naid/120006595216 )。

同論文 (引用者注:後述する寺村秀夫の著作のこと) には,英語との対照もなされており,日本語では「あしたにでも」というように例示的な意味(寺村の用語では「提案」)を表す場合にも,英語では,/  (17)She can marry her young man tomorrow if she likes.(寺村1991)/のように,特別な標識はなしに聞き手の判断にゆだねる,といった興味深い指摘がある。

ここ参照されているのは、寺村秀夫『日本語のシンタクスと意味 第3巻』(くろしお出版、1991年)である。これは本書(井上著)も同じく参照している著作である。

*6:ただし、研究社 新英和中辞典での「tomorrow」の項目には、「(近い)将来には」という意味も載っており、"People tomorrow will think differently. "という文例が出ている。tomorrowだと、そういった「近い将来」という意味でも使用できる。
 一方、「明日」を「近い将来」という意味で使用するには、「明日はわが身」や「明日を担う若者」のような隠喩的な方法の場合にはとることができる。だから、先の分を、「近い将来結婚することができる~」と訳すことも不可能ではない。
 ただし、先述した寺村の出したケースでは、その「すぐに」ということを強調するには、「明日にでも」の方がよりニュアンスが出る。これは会話文なのだから、やはりそのニュアンスを出すべきであろう。

 なお寺村は、「ある女優の紹介記事」だとして、"She can marry her young man tomorrow if she likes"に言及しているが、実際の出典はサマセット・モームの短編小説「ルイーズ」であろう。

ある意味では、マンスプレイニングを論じた先駆的な本ともいえる。 ―タネン『「愛があるから…」だけでは伝わらない』を読む―

 デボラ・タネン『「愛があるから…」だけでは伝わらない』を読んだ。

 内容は紹介文の通り、

男と女の心のすれちがいはお互いの会話スタイルの違いから来る。その違いを頭に入れ、自分の考えが正確に相手に伝わる頭のいい話し方といい関係を手に入れる方法を紹介。会話の成功と失敗の差がわかる。

というもの。
 原題は、”That's not what I meant!”だったはず。
 よく知られている本ではあるが、改めて読んでみた。*1

 以下、特に面白かったところだけ。

「マンスプレイニング」の背景

 しかし、それを男がとうとうと語るとき、女の目に「会話」はしばしば「講義」と化す。 (176頁)

 著者によると、女にとって今日の出来事を詳細に話すのは、情報自体が重要だからではなく、それを聞かせあうことが、互いの身辺を気遣う「関与」の証となるからである。
 それを話せるだけで孤独感は癒される。
 だが、男たちに重要なのは、情報そのものだと著者はいう。
 男たちが「有意味」な情報を語るとき、それは講義と化す。
 それが「権力」のメタメッセージになってしまうという。
 「マンスプレイニング」という言葉を想起してもよいだろう。*2

 自分の独演会になりそうなときも要注意。 (212頁)

 もちろんこうした、「独演会」は、男女の間のみならず、同性(女性同士であっても)であっても、年齢の上下、職階の上下、国籍の別、などでも発生しうることである。
 著者は次のように提言している。
 相手がしゃべり終えた、もしくは、話す意図がないと判断する瞬間から、6つ数えて口を開こう、と。

近すぎる関係がトラブルを生む

 単に二人の「関係」が変わった結果である。 (147頁)

 恋愛期間中の場合は、互いに離れた位置から始まって、相手が自分に近づこうとする信号(≒コミュニケーション)を送りあう。
 しかし、長い結婚生活では、互いに近い位置に立って、相手が自分から離れようとする信号を監視する。
 そして、もはや夫婦関係にならなくなれば(離婚すれば)、相手への期待値も低まり、もはや完璧な理解を求める必要もなくなる。
 つまり、お互いの距離が近いほど、相手への期待値が高まるほど、すれ違いが生まれやすくなるのである。*3

 会話スタイルの変更は疎遠な相手にほど通用しやすい (219頁)

 なので、自分流の自然な話し方を意識的に変えるには努力がいる。
 しかし、よく会話をするパートナーや家族に対して、一日中そうでは疲れてしまう。
 ゆえに、会話スタイルの変更は、身近な相手であるほど難易度が上がるのである。*4
 幸福な家庭生活への道は険しい。

批判されたら、「傍観者」の立場をとれ

 批判する側と、される側では、やりとりをちがったレベルでとらえる。 (198頁)

 前者は個々の行為のみに注目する。
 だが、後者は自分の全人格への評価と考えやすい。
 親は子を愛すればこそ苦言を呈するが、聞く方は自分はダメなやつだと受け取る。*5

 不思議にも、批判の受け手ではなく「傍観者」の立場をとったとたん、彼女の気持ちは楽になった。 (206頁)

 もし上記のような事態になったら、どうすればいいか。
 著者は提案する。
 自分が批判されていると思うのではなく、相手に対して傍観することを考えるべし、と。
 「自分と同じ名前(呼称)の別の人」が批判されているのであって、自分はそれを傍らにいてみているだけ、という姿勢である。*6
 批判されているのが自分ではなく別の誰かと考えれば、心へのダメージは軽減する。

 

(未完)

*1:蘇席瑤は、

言語使用の男女差に注目したマルツとボーカー(Maltz and Borker 1982)およびその後のタネン(Tannen 1991)は、男女間での談話スタイルには多くの違いがあるため、誤解が生じやすく、その男女差の起源は、幼児期に同性の友達との間で築いた談話スタイルであるとしている。この考えは文化差異論(difference theory)と呼ばれている。 

と、タネンの仕事について言及している(「台湾における「言語・ジェンダー研究」 : 文献レビューを中心に」https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/handle/2115/68799 )。
 また著者はそのあとに、

しかし、キャメロン(Cameron 1998)が研究者たちに強く呼びかけたように、協力と競争は表裏一体である。研究を行う際に、男性語ならきっとより競争的で、女性語ならきっとより協力的であるという先入観に当てはめて判断するのを避けなければならない。 (引用者中略) 一般社会では男女に対する見方がある程度理解されているために、人々は場面ごとに異なる性別役割を採用しているのである主張する。この考えはポストモダン理論(post-modern theory)またはパフォーマンス理論(performance theory)と呼ばれている。

とも書いている。

*2:「マンスプレイニング」と名付けられる以前に、その現象が既にデボラ・タネンの本(“You Just Don’t Understand”のほう。)に出てくる、という指摘もある(以下の記事を参照https://matteroffactsblog.wordpress.com/2014/07/10/explaining-mansplaining/ )。
 また、タネン自身は、マンスプレイニングに関連して、Zoomでの遠隔会議はマンスプレイニングを悪化させるだろうと指摘している。 ASHLEY LYNN PRIOREの記事“Mansplaining and Interruptions: Online Meetings Exacerbate Gender Inequities in the Workplace”という記事には次のようにある(https://msmagazine.com/2020/04/22/mansplaining-and-interruptions-online-meetings-exacerbate-gender-inequities-in-the-workplace/ )。

Deborah Tannen, a Georgetown University professor of linguistics and the author of eight books on women and men in the workplace, knew that Zoom conferencing and other forms of remote working wouldn’t change the problem and probably make mansplaining and male conversation domination worse./In person, “women often feel that they don’t want to take up more space than necessary so they’ll often be more succinct,” said Tannen./Online platforms allow men to mansplain, interrupt and dominate meetings more?and now more than ever before, women can’t get a word in.

*3:パートナーは、自分の予想したほどには、自分のことを理解してくれてはいない、という事実については、以前ニコラス・エプリー『人の心は読めるか?』へのレビューで言及したことがある。

*4:鬼丸正明は、齋藤純一『公共性』(岩波書店、2000年)を参照して、次のように述べている(「公共圏と親密圏 : スポーツ社会学及び社会学における公共圏論の動向」https://ci.nii.ac.jp/naid/110007628726)。

「親密圏は、「相対的に安全な空間」(……)として、とくにその外部で否認あるいは蔑視の視線に曝されやすい人びとにとっては、自尊あるいは名誉の感情を回復し、抵抗の力を獲得・再獲得するための拠りどころでもありうる。」(前掲書、98 頁)/齋藤は、対話が成立するためには、自分が語る意見に耳が傾けられる、少なくとも自分の存在が無視されないという経験が必要であり、それを可能にするのが親密圏である。そこで得られた自尊あるいは名誉の感情こそが、否認の眼差しをはねのけて、自己主張や異論の提起を可能にするのであるとする。

 家族を含め親密圏は、「自尊あるいは名誉の感情を回復」し、「自分の存在が無視されないという経験」ができる場所である。リラックス(laxはラテン語で「ゆるんだ」の意味)の場である親密圏においては、それゆえに、会話スタイルの変更が難しいのだろうと思われる。

*5:先の註に出たニコラス・エプリー『人の心は読めるか?』(2015年版)によれば、人は、「周りの人からの評価を、実際より厳しく予想」(159頁)するものである。じっさいには、「あなたの失敗はそんなに注目されていない」のだ。ここに、批判する側とされる側とのギャップが生じる。

*6:以前紹介した、YOUメッセージとIメッセージの例でいうなら、相手が言う”YOU”を自分ではないほかの誰かとして、やり過ごしてしまう方法だ、と言える。YOUメッセージとIメッセージについては、以前、橋本紀子編『こんなに違う!世界の性教育』へのレビューで言及したことがある。