蓮實重彦

「アメリカ」が「西欧」・「西洋」と等価でしかない日本の知識人の系譜 -ジャズと「アメリカ的」であること- 蓮實重彦『随想』(2)

■ジャズと「アメリカ的」であること、あるいは抽象的な日本の知識人たち■ 某団体への怒りで終わる本書ですが、その内容は大まかに、小説と映画への言及の二種類に分かれます。いつもどおりですね。 しかし、今回は珍しくジャズについても言及していたりしま…

1864年の「虚構」への知的賭け/1936年の「変化」を忘れた「改革」 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(10)

■「虚構の物語」への知的な賭け、1864年をめぐって■ 自分はどんな時代を生きているのか。あけすけにいうなら、同時代でもある「近代」とは何か。これが第10章で、蓮實が問うとする事柄です。 自分は、同じフランスの19世紀でも、「バルザックやスタンダール…

歴史学における「偶然」の問題 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(9)

■伊達千広『大勢三転考』、または歴史書をめぐって■ 第9章で山内は、歴史叙述について考察します。歴史叙述というものが、そもそも「国家」(狭義の政治的勢力)の存在を強く意識するところから出発している事実を語る山内は、「史書」(「史料」と区別され…

ヴァレリー・ラルボーにおける第三共和政のパリ 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(8)

■コスモポリタニズムの不可能性と可能性■ 蓮實が行ったのは、究極のコスモポリタンの登場する小説を示すことでした。ヴァレリー・ラルボー『バルナブースの日記』の主人公は、ありえないような【セレブ】です。大変裕福な南米の家の出の彼は、親の遺産を相続…

【正しい】母国語?、【国家的】と【国際的】のあいだ 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(7)

■第二帝政時代の「国家的」と「国際的」■ 第8章では、蓮實が、「国家的」・「国際的」の語彙に関する問題や、「コスモポリタニズム」の可能性と限界について考察しています。 まず蓮實は、フローベールの小説・『感情教育』において、「国家的 - national - …

共存のための寛容と「自尊心」、スミルナのオナシスについて 蓮實重彦・山内昌之『われわれはどんな時代を生きているか』(6)

■スミルナのオナシス■ 第7章では、山内が、大富豪として名をはせたアリストテレス・オナシスと、彼の出身地スミルナにおけるある出来事を取り上げています。オナシスは、アナトリア半島のスミルナ出身で、ギリシア系のひとでした。当時のスミルナは、オスマ…

エリア・カザンの「転向」と、メディア的批判 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(5)

■エリア・カザンの「転向」と、余裕の問題■ 第五章で山内は、先の50年代のアメリカ映画という話の続きとしてエリア・カザンを取り上げ、ギリシア系移民という彼の立場の弱さ(「ネイティブ」の人間に比べて移民出身者であることの寄る辺なさ)が、やがて転向…

赤狩りとアメリカ映画の死、及びアンソニー・マンの「西部劇」 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(4)

■赤狩りと、ハリウッドの黄昏■ 第4章では、第2章のその後を扱っています。第3章での中世スペインの言及に対して、蓮實は「20世紀の首都」崩壊以後の、スペイン・マドリッドへ焦点を当てます。 ロサンジェルスが「20世紀の首都」たりえたのは、30年代中期か…

いかがわしき都・コルドバと、エル・シッドの真実 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(3)

■「世界の首都」コルドバ■ 第三章で山内は、蓮實の挙げた1940年代のロサンジェルスに対して、諸民族はもちろん、イスラム教とキリスト教さえも如何わしく共存していたハイブリッドな10世紀から11世紀にかけての「大都市」コルドバを提示します。当時は、今と…

ベンヤミンと、批評家の【知的な賭け】 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(2)

■1940年代のロサンジェルスにおける豪華さ■ ヒッチコックやフリッツ・ラングのような監督や、グレタ・ガルボにマルレーネ・ディートリッヒなどの俳優は無論のこと、『春の祭典』のイーゴリ・ストラヴィンスキー、『三文オペラ』のカート・ワイル、『死刑執行…

多文化主義の弱点と、世界の首都 蓮實重彦・山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』(1)

・蓮實重彦/山内昌之 『われわれはどんな時代を生きているか』講談社 (1998/05) 本書は、フランス文学者であり映画批評家である東京大学学長(当時)と、同大学のイスラーム史を専門としながらもそれ以外の分野にも博学で知られる教授による、「往復書簡」と…

映画は追悼しない - ダニエル・シュミットと"ヘップバーン" 蓮實重彦『映画論講義』(6)

■ダニエル・シュミット、または追悼ならざる追悼■ 「ダニエル・シュミットは死なない 追悼を超えて」の章を見てみましょう。 著者はまず、亡くなったダニエル・シュミットの映画について、次のように言います。男性が女性を後ろから抱える姿勢が愛を生じさせ…

グルダットと、映画への道 蓮實重彦『映画論講義』(5)

■グル・ダット、あるいは映画の道を目指さない幸福について■ 「大胆さと技法について」の章は、映画の覇権をめぐる緊迫した雰囲気を脱して、単純かつ楽天的とも取れるテーゼを述べています。映画において大胆さが許されるということ、それは、技術の問題だ、…

イーストウッドと50年代映画 蓮實重彦『映画論講義』(4)

■映画の覇権と、イーストウッドの行方■ 「21世紀の映画論」の章では、「伊藤大輔から山中貞雄への覇権の移行」というテーゼが出てきます。このテーゼは、映画の視覚的効果重視から、視覚効果の物語への従属へ、という世界的な流れをあらわしています。著者は…

テマティスム映画批評と、監督の個性 蓮實重彦『映画論講義』(3)

■ホークス・フォード・ルノワール、及び主題の現れ方について■ 小津映画に見られた、女たちの優位という意味でならば、ハワード・ホークスにも同じことが言えるかもしれません。著者は、「転倒=交換=反復 ハワード・ホークスのコメディについて」の章で、…

小津・ゴダール・女たち 蓮實重彦『映画論講義』(2)

■小津は躍動する■ 試みに、「無声映画と都市表象 帽子の時代」という章を見てみるとどうなるか。この章では、映画における帽子の位置づけを、グリフィス、バルネット、フォード、ムルナウらの映画における帽子をたどることで探求しています。無声映画が、大…

「モンゴメリー・クリフ(ト)問題」と葛藤の気配 蓮實重彦『映画論講義』(1)

蓮實重彦『映画論講義』東京大学出版会 (2008/9/27) 本著は、『整腸亭日乗』様が述べているように、30年前の『映像の詩学』のリメイクとして捉えることのできるだろう「口語篇」です。 もちろん、「シンポジウムや講演会のほとんどが、DVDやVHSによる…

物語から少し離れて 蓮實重彦『文学批判序説』(3)

著者にとって、物語でない、物語から逸れてしまう要素とは何でしょうか。それは、「虚構の磁場」の章で語られていた、「日常言語」と「詩的言語」に明確な境界線などなく、せいぜい、「事件として環境を垂直に貫くできごと」だけがある、という言葉であるは…

小説論≒物語論 蓮實重彦『文学批判序説』(2)

物語を人が語るのではない。物語が人に語らせる。人はこのとき、客体であり、間違っても主体などではない。人はそこから逃れられない。だから物語に従順に振舞いながら、その関係の「あやうさ」を現出して見せること。中上健次と後藤明生は、そんな物語自体…

「物語」批判、または書物の退屈さについて 蓮實重彦『文学批判序説』(1)

蓮實重彦『文学批判序説 小説論=批評論』河出書房新社 (1995/08) 書物は「読もうと思えば誰もが読めてしまう」退屈なものである、と「物語=書物=文学」の章は述べます。当時でも現代でも、おおよそ世の中が、読みにくいものを嫌い、読みやすいものをありが…

『反=日本語論』は志賀直哉を救う 安藤健二:『封印されたミッキーマウス』(3)

確かに志賀は、「日本の国語が如何に不完全であり、不便であるか」を「四十年近い自身の文筆活動」の中で「痛感して来た」と述べてます。 しかし、そんな不完全なはずの言語に四十年近くも付き合うことができたのですから、「無上」というのはいいすぎでしょ…

蓮實重彦による志賀直哉擁護 安藤健二『封印されたミッキーマウス』(2)

Wikipediaでは、蓮實重彦が志賀を擁護している、と説明がありました。具体的には、どのようなものだったのでしょうか。鈴木や丸谷が志賀の主張のずさんさに対して真面目に反論したのに対し、蓮實は、そのずさんともいうべきところを擁護します。 残念にも、…

志賀のフランス語公用語化論 安藤健二『封印されたミッキーマウス』(1)

安藤健二『封印されたミッキーマウス 美少女ゲームから核兵器まで抹殺された12のエピソード』洋泉社 (2008/05) この本についてはすでに、優れた書評が存在しているので(たとえば、『積ん読パラダイス』様など)、ですので、今回はあまり言及されない内容に…