蓮實重彦による志賀直哉擁護 安藤健二『封印されたミッキーマウス』(2)

 Wikipediaでは、蓮實重彦が志賀を擁護している、と説明がありました。具体的には、どのようなものだったのでしょうか。鈴木や丸谷が志賀の主張のずさんさに対して真面目に反論したのに対し、蓮實は、そのずさんともいうべきところを擁護します。
 残念にも、手元に、蓮實が志賀を擁護した一章を含む『反=日本語論』がありません。ですので、今回は、あるブログでこれに言及しているものをもって、蓮實の主張の代用とさせていただきます(「わかれゆくゾケサたちのドゥバド」『クマカカの架空の楽器庫』様より)。
 蓮實は、藤枝静男の小説『欣求浄土』の、主人公の幼年期のエピソードに言及します。その内容は、

「金剛石も磨かずば/珠の光は添わざらん」とはじまる歌をコウゴウのキンタマをうたったものだと思いこんでいた」(「わかれゆくゾケサたちのドゥバド」)

というものです。そして蓮實は、上記のエピソードに触発されて次のようにいうのです。 

「われわれの日々の言語体験は、知識と無知、正確さと誤謬、理性と非理性、正常と狂気といった、ただもううんざりするほかはない二元論そのものを遥かに超えた豊かな混沌としてあるはずなのに、あたかも、それが知識による無知の充填、正確さによる誤謬の修正の場であるかに事態が進行して」しまっていることを指摘したいだけなのだ、と。(「わかれゆくゾケサたちのドゥバド」)

そして話題は志賀のフランス語公用語論に移ります。
 

蓮實は、「荒唐無稽」な志賀の日本語放棄論を「飽きたからでも、厭けがさしたからでも、不便だと思うからでもなくそれを無上に快適な環境として住みついているが故に、あるとき「日本語」ならざるもののさなかで目覚めてみたいと思う書く人の夢」として肯定するのだ。(「わかれゆくゾケサたちのドゥバド」)

 日本語に「無上に快適な環境として住みついているが故に、あるとき「日本語」ならざるもののさなかで目覚めてみたいと思う書く人の夢」として、志賀の荒唐無稽さを肯定するのです。
 確かに、蓮實の藤枝静男への言及は心を打ちます。(注1)
 しかしながら、志賀の発言を読むと、蓮實の発言を完全には首肯できません。では、肯定できない点は、どの点でしょうか。
 その前に、一度、批評家である大杉重男の志賀、丸谷、蓮實への批判を見ていくことにしましょう。(大杉重男/森有礼の弔鐘──『小説家の起源』補遺(抄))。
 「朝鮮語を日本語に切換へた時はどうしたのだらう」という志賀の主張を丸谷才一は批判しています。この志賀批判に対し、大杉重男は、丸谷の反論の不用意さを指摘しつつ、こう述べます。

現実に何世代かに渡る強制的な教育があれば、人はある言語を捨てて別の言語に移り得る。志賀の言葉が示しているのは、今ここで日本語を使っていることの根源的偶然性である。この偶然性は英語や朝鮮語やフランス語その他どのような言語を使っている人々にも等しくつきまとっている。

つまり、言語という、私たちにとってたやすくは他の言語に切り替えがたい存在も、しかし、時間・世代を経れば、自発的・強制的にかかわらず、移り変わりうるのです。この点の指摘は示唆に富みます。
 では蓮實への批判はどうでしょうか。大杉は、先の蓮實の主張を批判し、次のように述べます。

志賀は「日本の国語が如何に不完全であり、不便であるか」を「四十年近い自身の文筆活動」の中で「痛感して来た」と述べているのであり、日本の国語を「無上に快適な環境として住みついている」のではない。

(続く)

(注1)藤枝静男に対する蓮實重彦の批評については、「蓮實重彦」(『藤枝静男 年譜・著作年表』様)もご参照ください。