『反=日本語論』は志賀直哉を救う 安藤健二:『封印されたミッキーマウス』(3)

 確かに志賀は、「日本の国語が如何に不完全であり、不便であるか」を「四十年近い自身の文筆活動」の中で「痛感して来た」と述べてます。
 しかし、そんな不完全なはずの言語に四十年近くも付き合うことができたのですから、「無上」というのはいいすぎでしょうが、「快適な環境」という蓮實の表現は、適切というべきでしょう。そもそも、あらゆる文学者を含む言語の使い手は、自分の言語の不完全さに思いを抱くことがあるでしょう。志賀のこのぼやきは、贅沢者が、もっと高級な物をほしがる様に似ています。蓮實の主張は、「欠如」(およびその「充填」)ではなく、「過剰」を肯定した彼自身に相応しい主張なのです。「日本語で良い文章が書け」ても、「フランス語で書」きたいとつい思ってしまうことは、十分ありえます。また、そもそも「文章」や「文学」において、「良い」というのはどういうことなのか、そういった点をまず検証すべきでないでしょうか。
 さて、森有礼が「一挙に日本語を廃棄しようとした」、という大杉の主張については、別の機会に検討しますが(直裁にいえば、この指摘は大杉の無知によるものです)、いずれにせよ、大杉の蓮實への批判は、妥当とはいいがたいようです。
 だとすれば、蓮實の主張に対して指摘せねばならないことは何か。それは、志賀の荒唐無稽ぶり自体ではなく、その不徹底ぶりです。
 フランス語を公用語として選んだ理由を、フランスという国の文化の進歩度で決めてしまったのは、諒恕できなくはありません(現代において、この理由によってフランス語を肯定する人は少ないでしょう)。また、かれが、「私自身は今の国語以外には出られない」としてフランス語を使うつもりがないことも、諒恕しましょう(志賀の主張を「夢」とする蓮實の主張は、これによって補強されるでしょう、出ないと救いようがありません)。
 しかし彼がフランス語を、「尺貫法」や「メートル法」の比ゆを使って、「小学生の教育」への配慮を始めてしまったとき、「夢」を見る人・志賀は、教育評論家・志賀へと変貌します。あくまで、「尺貫法」や「メートル法」という、「ものさし」としての言語の側面ばかりを見るにわか評論家志賀は、フランス語と日本語との荒唐無稽で突拍子もない夢の遊戯に、考えを及ぼしえないのです。かれはそのとき、「夢」を見忘れたのです(はっきり言ってしまうと、志賀は真面目ぶって、つまんないのです)。
 では、「夢」を見忘れていた男を救うのはなにか。それは、たとえば藤枝静男の「コウゴウのキンタマ」であり、『反=日本語論』において、"chercher"という言葉を言い換えるのに、「迎えに行く」ではなく、「探す」といってしまった子息・重臣の振る舞いでしょう。日本語内の、またはフランス語と日本語との、荒唐無稽で突拍子もない言葉の夢の遊戯が、志賀の不徹底さを救うのです。
 志賀の「夢」、ことによったら志賀自身さえも気づかなかった「夢」は、藤枝の小説の一片や、蓮實の息子の言葉によって、顕在化したといえるでしょう。その意味で、『反=日本語論』とは、荒唐無稽な夢を忘れた志賀を、ほかの言葉や登場人物たちが救う「救済」の書でもあるのです。要するに、志賀直哉をこうしてイジり倒した蓮實は、優しい人なのです。

(了)

(追記)
 蓮實による志賀直哉の救済の試みとして、『「私小説」を読む』の「廃棄される偶数 志賀直哉『暗夜行路』を読む」もご覧ください。