「脳科学」の限界と「科学的」であること 榊原洋一『「脳科学」の壁』(2)

 著者は、認知症の人への認知能力低下防止のためのアプローチが、そのまま健常者の認知能力向上につながるかどうか、疑問を呈します。また、認知機能の低下が抑えられた原因は、音読や単純計算自体ではなく、そのプロセスでの、実験者同士、または、実験者と介護者との交流にあったのではないか、といいます。第一、脳のある箇所の血流量が増えたとえしても、それがそのまま活性化を意味するわけではないし、脳のある箇所の血流の増加と神経繊維(シナプス)増加との関係も分かっていない、と述べます。
 著者は、「脳機能局在」論に対して、脳の各部位が相互に連携しつつ、もろもろの機能を実現している、というネットワーク的な発想をとります。例えば、自己意識の中枢は脳に局在するのではなく、脳の多数の部位が活動して自己意識が発生すると考えます。そして、自身の考えと、ダニエル・デネットやアントニオ・ダマシオらとの考えの親近性について触れています。さらに著者は、単純な運動さえも「脳機能局在」をしてはいない、と述べています。
 脳科学ブームに距離を置くために、本書は、特に脳科学初心者にとってはありがたい書物です。「脳機能イメージング」を一つの源流とする脳科学ブームにたいして、その常備薬として、使えるかもしれません。「脳機能イメージング」は、脳機能を「解明」するというよりも、「理解を一段と」進めると理解すべきだと著者はいいます(一六二頁)。
 脳科学の安易なブームに批判・検討をする本としては、ほかに河野哲也『暴走する脳科学』があります(内容の重複も見られます)。ただし、河野が哲学的(ないしアフォーダンス的)観点から批判的な視点を持つのに対して、本書の著者は、発達神経学の観点から脳科学ブームを検証しています。河野の著作とともに、本書は読まれるべきでしょう。
 ただ、「行動や思考が可能になるのは、脳の中枢だけでなく、そこから脳内の他の部位や、脊髄を通じて身体の筋肉にまでつながる回路がすべて正常に機能したときだけなのである」(八〇頁)という言葉は、その「正常」という表現が瑕疵となっていると思います。下條信輔『「意識」とは何だろうか: 脳の来歴、知覚の錯誤』の読者にとって、この「正常」という言葉は至らないものであるからです(あくまで「至らない」だけです)。「来歴」と「錯誤」をキイワードとする下條の著作は、「正常」という概念そのものを揺らがせる本であったはずです(この本についてもいつか書きたいと思います)。
 最後に、本書の主題からは外れるのですが、科学の実験に関する話にも触れておきます。著者は、「脳機能イメージング」での実験の不備を批判するのに、ラットに薬を注射してその効果を検証する実験を例に挙げます。薬を注射する実験では、片方のラットに薬を注射して終わりではなく、もう片方に「注射だけあるいは生理的食塩水の注射を行うのが通例」です。それは、「痛みを伴う注射という行為が、何らかの影響を及ぼす可能性が否定できないから」だ、と著者は書いています(一一四頁)。反証を想定して常にそれに対応する姿勢を、「科学的」と呼ぶのでしょう。