「物語」批判、または書物の退屈さについて 蓮實重彦『文学批判序説』(1)

蓮實重彦『文学批判序説 小説論=批評論』河出書房新社 (1995/08)

 書物は「読もうと思えば誰もが読めてしまう」退屈なものである、と「物語=書物=文学」の章は述べます。当時でも現代でも、おおよそ世の中が、読みにくいものを嫌い、読みやすいものをありがたがる世の中にあって、著者はそういいます。これはなぜなのか。
 「読もうと思えば誰もが読めてしまう」のは、それが、「物語」そのものだからに他ならない。「物語」によって、語っている人間が、読んでいる人間が、支配されてしまうからだ。そのように、「物語としての法 セリーヌ中上健次後藤明生」の章は述べます。書物の退屈さとは、物語の退屈さに他ならない、と。
 物語を人が語るのではない。物語が人に語らせるのだ。人はそこから逃れられない。打ち勝つことなどできない。物語の勝利は、司法の場や、権力の場にさえ響き渡っている(「権力」さえも「物語」に従属する!!)。物語は決まって勝利する、と。
 人は語るのではなく、物語に、言葉に、語らされる。これをひとつの主題として、本書はつづられていきます。セリーヌは物語の犠牲者そのものだった。ではどうしたらいいのでしょうか。
 勝利・敗北という、支配・被支配関係の転覆によってではなく、あくまでその関係に従順に振舞いながら、その関係の「あやうさ」を現出して見せること。例えば、中上健次後藤明生は、そんな物語自体を模倣しようとする「倒錯的」な方法を試みます。すなわち、「物語の他動詞的な圧制を模倣」することで、戦略的に応対しようとするのです。
 本書は、この二人の作家を特権的人物として遇します。例えば、「中上健次論 物語と文学」の章を見てみましょう。
 片や、女陰や河川のごとき「密着」と、片や男根や焔のごとき「距離」という、中上作品に一貫する二つの記号に、引き裂かれていく『枯木灘』の主人公は、片や、甘美ながら息苦しくもある「密着」する言葉・物語や血縁に犯され、片や、不可視ながらあたりに偏在する視線と噂・物語の「凝視」に犯されます。そして、この二つの間で中吊りになって荒れ狂うしかなくなります。
 彼は、自然との無媒介な合一によって、なんとかこの二つをやり過ごそうとしますが、あえなく、近親相姦と父親殺しという「物語」に捕縛されます。やがて、「父」の物語から息子「秋幸」の物語へと譲位が完成し、やはり物語が勝利します。反復される物語の暴力性を語る主人公が、物語に暴力的に犯されていく、この痛ましさに著者は目をそぐのです。
 一方、「『挟み撃ち』、または模倣の創意 後藤明生論」の章はどうでしょうか。後藤の『挟み撃ち』では、物語自体を模倣することで、物語にお決まりの「欠落の提示とその充填」、すなわち、喪失したものが回復するというあのお決まりのプロットを回避しにかかります。これも確かに物語だが、そうたやすく物語の勝利に貢献などしてやらない。記憶の「空白」は埋められようとするが、埋められないまま、逸脱と回避ばかりが続いて、「空白」の周りを迂回するだけです。
 この二人に、著者は「物語」への「抵抗」(という風にいってしまうと、これもいかにも「物語」に似てしまうのですが)の実践を見るのです。物語の支配からの、「卒業」も「退学」もしないこと、せめて、物語の支配から「遅刻」をすること。

(続く)