鉄道をめぐる、茨城と柳田國男の話 原武史『鉄道ひとつばなし』(1)

原武史『鉄道ひとつばなし』講談社 (2003/09)

 この本についてはすでに、本書の魅力を伝える書評が存在しています。それを見ると、その人がどこを気に入って読んだのかがわかります。

 たとえば、『三遊亭らん丈のらん読日記』様は、東京駅があの場所にある理由を説明する箇所を取り上げ、

 いうまでもなく、“天皇が地方訪問の際に利用する玄関駅として、1914年に開業したものであり、”それが証拠に“当初は宮城(皇居)に面した丸の内口しかなかった”のです。かくして、首都圏の中心は東京駅になったのでした。

と、まとめます。また、御召列車への生徒の例に対する規律の厳しさを挙げ、

 こういう記述=文部省訓令をみると、日本も今ある独裁国家をシニカルに見るわけにはいかなくなるのです。

と述べています。
 『aki's STOCKTAKING』様は、現在の新宿・京王八王子の形が出来上がった経緯を、大正天皇の陵墓である多摩御陵への路線からみる「大国魂神社京王線」の章や、天皇の神格化とともに聖蹟桜ケ丘と名称が変わって以降、戦後もそのまま名前が残っており、その聖蹟桜ケ丘に京王本社が建っていることを記した「聖蹟桜ケ丘という駅名」の章に注目しています。

 早速面白かったものを挙げてみようと思いましたが、挙げたい話が多すぎて、書ききれません。
 「関西では「園」は住宅地を意味する」という小ネタに始まって(私も実は誤解していました)、「東京よりもはるかにバスが発達しており」、「急行や快速に当たる座席バス」というのがあるソウルのお話、新幹線「ひかり」と「のぞみ」の名前の由来が、植民地時代の釜山と奉天を結ぶ急行の名前に由来しているという事実(一〇二頁)、 「中央本線の車窓に魅せられ」た著者の感慨(大いに共感します!)、出口王仁三郎の東北地方巡教にみる戦略(昭和天皇行幸を意識した周到さ!)などなど。面白い話がふんだんにあります。

 「取手に住み、時々常磐線を利用していた坂口安吾」が、その区間から見える拘置所、刑務所に注目し、この「不思議に心を惹かれる眺め」は『日本文化私観』を生んだといいます。大変興味深い。
 さらに茨城つながりで、茨城県が鉄道でも産業でも、関東のほかの県に後れを取っていることと、昭和初期の農本主義の勃興との関連への考察も面白い(一二八〜一三〇頁)。著者は、水戸郊外で「愛郷塾」を開いた橘孝三郎の思想を生んだ土壌を、遅れた地域に住んでいたからこそ、東京の「異状な膨大」に鋭敏にならざるを得なかった点に見ています。なるほど。
 柳田國男と鉄道という取り合わせも、意外なようで実は意外ではない組み合わせです(柳田國男とは「近代」の人なのです)。戦時中「毎週水曜日を散歩の日と定め、小田急の下り電車に乗って多摩川を越え、郊外へ出かける」柳田國男の『先祖の話』は、1943年の11月に、「新原町田で降りてバスを待っていたときに、地元の材木商と交わした会話がヒントになったといわれる」(七二頁)。彼の著作は、近代と、その近代の発明たる鉄道から眺めるとき、また別の相貌を見せます。
 また、日本の鉄道は、沿岸部に多くの港町があるために沿岸線に沿って鉄道が敷かれますが、皮肉にもそれが、「たくさんの港」を無用にし、「幾つかの産業」を遠のかせた理由だという柳田の指摘(二六四頁)も興味深いです。朝鮮社会が農民を主体としていて、漁民は蔑視されていたことから、鉄道はあまり沿岸部には敷かれなかった(二六五頁)という事実と対比されると、より興味深くなります。

(続く)