「モンゴメリー・クリフ(ト)問題」と葛藤の気配 蓮實重彦『映画論講義』(1)

蓮實重彦『映画論講義』東京大学出版会 (2008/9/27)

 本著は、『整腸亭日乗』様が述べているように、30年前の『映像の詩学』のリメイクとして捉えることのできるだろう「口語篇」です。
 もちろん、「シンポジウムや講演会のほとんどが、DVDやVHSによる作品の抜粋上映をともなうもの」であり、「いささか「講義」めいたもの」だというのですから、「著作」という表記自体、その点で不実ですが、一応これが「書かれたもの」である以上、これ以降「著作」の表記をさせていただきます。

ジャック・ベッケル擁護、または複数の葛藤■
 まず著者は、序章である「「モンゴメリー・クリフ(ト)問題」について 映画史のカノン化は可能か?」の章で、近年の若い観客から、映画史家や批評家まで、映画的・映画史的な知識への無知が蔓延していることを語り、それへの対抗として、映画史的「カノン」(絶対に映画においてみておくべき古典的作品)を提示すべきかどうか、を問うています。
 それに対して著者は、「何かによって権威づけられている作品をみて、無数に存在している作品の中からしかるべき数の作品に限定し、それを自分の周りにおいて置けば安心だと思うような風潮」(11p)を指摘し、問題は映画史的な知識への無知以上に、一つの権威に安住して、それで事足れりとすることの方により根深い問題を見ています
 「複数の声が欠けると、たった一人の人間の言葉に反発したり、その言葉を頭から信じてしまったりという貧しい状況に陥りかね」ない(14、15p)のです。
 だからこそ著者は、息苦しさを開放するためには「カノン」は提示するなんてことをしちゃいけない。複数の視点(著者にとっての、南部圭之助植草甚一飯島正の三名!)に触れることで、それによって自分の強張りから解放されることが重要だ、というのです。共闘ではない、複数の声によって。
 著者もまた、複数の声のひとつとして、こちらを扇動してきます。「ジャック・ベッケルを擁護せよ」、と。ジャック・ベッケルへの世界的な無視に対し、著者はいらだちながら、このベッケルに対する連綿と続いた事実上の批評的無視を指摘します。生誕100年でも、本国はベッケルについてほとんど何もせず、そこで、自分自身が、しかも日本で、国際シンポジウムを行うこととなります。
 かつて著者自身が、先に挙げた批評家たちから、ハワード・ホークスを肯定してもいい、アメリカでのフリッツ・ラングを肯定してもいい、と学んだ体験と同じように、私たちに、ベッケルを素直に肯定してもいい、と呼びかけるのです(ただし、著者の声は、いつにもまして「どす」が効いています)。「ジャック・ベッケルの旗のもとに」という文章で、彼の作品に偏在する、「平手打ち」の主題を論じながら、それを行います。
 蓮實重彦は、複数の声のひとつとして、こちらに、向かってくるのです。
 もちろん、蓮實重彦はそんなに甘くありません。彼は、なによりも、教育的な「抑圧」の人でした。彼の映画への厳しさは、本著の青山真治との対談で、いかんなくさらけ出されています。複数であることとは、無差別とは別なのです。
 少なくとも、「複数の視点」とは、映画に関する秩序を形成するのではなく、映画に関する葛藤を投げかけるもののことでしょうから、「複数の視点」がこちらに与えるのは、「権威」による安住ではなく、諍いのはじまりに他ならないはずです。「複数の視点」とは、それを受け入れるか否かを問う暴力的葛藤を生むものでもありますし、それを肯定したとしても、ほかの人との間に闘争的な諍いを生むこともあります。著者は、いつでも、このような葛藤を生む扇動を行っています。
 「「モンゴメリー・クリフ(ト)問題」について」の章での言葉を、まともに受け取ってはならないのです。ベッケル擁護も含め、本書の言葉にはどれをとっても、待ち受ける葛藤の気配が漂っています。

■安住なき動体視力■
 また、著者は映画史的な無知・教養のなさを肯定しているのではありません。著者は、「リアルタイム批評のすすめ」というインタビュー記事(ネットで見れます)で、「映画においてはデジタル化が進みどの時代の作品でも観られるという幻想に冒されつつあるが、たとえばプリントが消失してしまった作品は観られない」として、「知らない作品があるということに人々は楽観的になっているとする」と批判します。
 見たい映画を見るために自ら動こうとしない、この不幸を著者は指摘しています。「現在は、自分がまだ何を知らないかということを知らないまま生きてしまうことが可能な時代なのだ」というその声は、やはり「権威」という語彙には収まりきらないものです。映画とかかわることにおいて、「安住」など縁の遠い言葉なのです。
 だからこそ、「「自分はホークスを知らない」とあるとき思い立った人がホークスを見ることができれば、それはすごく刺激的な体験だ」と著者は言うのであり、本著は、ハワード・ホークスを、ジョン・フォードを、ジャン・ルノワールを、小津安二郎を、溝口健二を、グル・ダットを、ダニエル・シュミットを、クリント・イーストウッドを、彼らを擁護し、彼らの映画へと人々を扇動するのです。
 その方法はいうまでもなく、著者自身さえ完全には理解していない映画というもの、無数の細部からなっているこの存在の、せめてある細部に触れていくことで、その映画を目覚めさせることです。映画の「動体視力」による擁護、これにほかなりません。

(続く)