小津・ゴダール・女たち 蓮實重彦『映画論講義』(2)

■小津は躍動する■
 試みに、「無声映画と都市表象 帽子の時代」という章を見てみるとどうなるか。この章では、映画における帽子の位置づけを、グリフィス、バルネット、フォード、ムルナウらの映画における帽子をたどることで探求しています。無声映画が、大衆社会が成立しつつある都市を帽子で表象しており、それがトーキー出現以降なくなっていったのは、大衆社会自体の爛熟によるものだ、と要約できる本章において、小津作品が出てきます。
 そのひとつ、『その夜の妻』では、和服姿にソフト帽をかぶらされる妻が描かれており、この取り合わせは、著者が「痛ましい」というジャネット・ゲイナーのかぶる田舎じみた帽子以上に、本章の作品の中で特異なシーンとなっています。名監督たちの映画のなかで、一際畸形なものとして目立っているはずです。
 「「白壁のゴダール」から「ランプシェードのゴダール」へ」という章でも同じことが言えます。60年代のゴダールが、陰影のない白壁を頻出させ、ソフト帽を女性の頭に乗せ続けたのに対して、80年代のゴダールは、陰影をもたらすランプシェードへを登場させるようになり、ソフト帽を女性のではなく、ゴダール自身の頭へのせていく、と要約できる本章でも、小津は登場します。
 ゴダールよ、お前より先に、すでに女性の頭に男性もののソフト帽をかぶせた映画監督がいるのだ、と。ゴダールの、光源と帽子をめぐる本章において、小津はやはり特異点となっていますゴダールのランプシェードについて、それに惹かれた人間としては、もっと多く言及したいのですが、ここではそれを自粛しましょう。
 ともあれ小津映画は本書において、時に畸形な、時に先駆者的な存在として振舞っています。「ある場違いな「出会い」について 賈樟柯の『世界』に触発されて」の章では、小津映画の音楽までもが、賈樟柯の映画に出現することに言及されているのですから、本著での「小津」という存在の、章を跨いだ躍動振りには眼を向けるべきでしょう。
 さて、では、本書ではどのように小津は扱われているのか。小津映画について「小津安二郎とその「憤る女性たち」」の章では、娘を嫁にやるという「父」の立場ではなく、嫁にやられる「娘」の立場から読み解いています。著者は、それを映画の画面を見ることに忠実になることで、遂行しているのです。娘が布きれを首筋から振り払うとき、その「憤り」が見えてくる。
 この細部は、「父」の映画が、「娘」の映画でもあることを、教えてくれるのです。それは、この細部が、はっきり映画のプロットに関るというよりは、プロットの進行の上で見えにくくなる性質のものであるため、著者さえもなかなか気づかなかったものでした。しかし、このような運動的細部があるからこそ、映画は人をひきつけるのです。
 また著者は、小津作品に登場する女たちの、ものを拾い上げる動作が、身体的優位を誇示するものだとしています。女が男の着ていたものを拾う動作を、たやすく男女差別だといってしまっては、映画を見たことにならないのです(そのはしたない振る舞いは、著者が本著のインタビューで述べていた、「現実」や「表彰不可能性」をばかりつぶやくことと同じで、はしたないのです)。映画を見ることとは、自分が抱いてしまう先入観を、自分の瞳によって突き破る試みにほかなりません。
 本著での、「小津」という存在の章を跨いだ躍動振りに応答するかのように、小津映画の女たちは、眼を凝らせば、小津映画への先入観を覆すような躍動する運動を行っています。本著において、「小津」は躍動しています。

(続く)