テマティスム映画批評と、監督の個性 蓮實重彦『映画論講義』(3)

■ホークス・フォード・ルノワール、及び主題の現れ方について■
 小津映画に見られた、女たちの優位という意味でならば、ハワード・ホークスにも同じことが言えるかもしれません。著者は、「転倒=交換=反復 ハワード・ホークスのコメディについて」の章で、ホークス映画を理解するためには、彼のコメディーを見るべきだといいます。
 そして、男性の弱さ=女の強さという論理が、少しづつその要素を「交換」しつつ律儀に「反復」されていく様を、コメディの中に見ていきます。「転倒」の主題に対して、男性はうまく適応できずに敗北するのに対して、女たちはそれに身体的に上手に順応してしまう。男たちは、言葉でなんとかで抵抗を試みますが、これも失敗に終わる始末です。このように、ホークスのコメディでは、「転倒=交換=反復」の主題が律儀に働いています。
 ちなみに、このような主題への律儀さに対して、ジョン・フォードは逆を行っています。「ジョン・フォードと「投げること」」の章では、「投げる」ことについて、さまざまな登場人物の様々な感情が、たやすく一定の主題として律儀に収まりきらずに、その身体的な運動に備わってしまう様を述べています。この「投げる」ことは、プロットや主題からは外れることが多いけれども、しかしながら、その運動性ゆえに、魅力的な細部なのです。
 ジャン・ルノワールの映画の場合も、二人とは異なる細部です。その映画から、「ジャン・ルノワールまたは「枯れ木」と「笛」」の章で著者は、片や不吉さと死、別離を招く枯れ木と、木片やステッキが立てる音という「枯れ木」の主題と、生命と自由と愛の溢れる、「木の笛」の主題、この二つを見出しています。樹木という存在が、片やマイナスのベクトルを持ち、片やプラスのベクトルを持つという、驚き。形をかえただけで、対照的な主題へと変貌し、「異なるものの豊かな共存の可能性」が示される。
 本章においては、「本書のその他のテクストも、多かれ少なかれ、かなりの削減が行われており、ここが残念といえば残念であるが、だからといっていささかも価値を減じるものではない」という重要な言葉も含めて、『Incidents(偶景)』様のルノワールへの言及をぜひ見ていただければと思います。本章への思い入れには、胸が熱くなります。
 こうして三人の映画における主題のあり方を見ていますと、各々まったく異なるのがわかります。一方に主題への律儀さ、一方に主題へ収まりきらない運動、一方に異なる主題の共存。主題論的な批評というのが、単に頻出する主題を見つけてことたれりとするものではないことが、よくわかるはずです。主題の現れ方が、その監督の特色そのものを反映してしまうのです。本当に優れた主題論的批評とは、その主題の内容によってのみ特色を反映するだけでなく、主題の現れ方もまたその特色をあらわにするのです。言わずもがなのことですが、念のため。