グルダットと、映画への道 蓮實重彦『映画論講義』(5)

グル・ダット、あるいは映画の道を目指さない幸福について■
 「大胆さと技法について」の章は、映画の覇権をめぐる緊迫した雰囲気を脱して、単純かつ楽天的とも取れるテーゼを述べています。映画において大胆さが許されるということ、それは、技術の問題だ、と。
 ある人物の回想の場面なら、役者に特殊メイクさせて、回想させていい。ワンショットで取ってもいい(しかも、安上がりになる可能性もある!)、同時録音なしでもいい(予算が安上がりになる!)。ショットごとに衣装や髪形を変えてもいい(観客は馬鹿である!)。カメラの影が画面に映ってもいいんだ(画面に強度があれば気にならない!)。当然、イマジナリーラインを守らなくていい。女たちだけでいい、男なんて出なくても問題ない。画面を全く割らなくてもいい。逆に割りまくってもいい。唯一つ、技術さえあればいい。それがありさえすればいい。
 この恐るべき単純なテーゼは、ただひとつ、技術の問題だと述べているのです。しかし、技術とは何でしょうか。「グル・ダットの全貌に向けて」というすばらしい章を見てみましょう(必見です!!)。グル・ダットは、「大胆さと技法について」の章にも登場しています。
 著者は、グル・ダットの映画の中では、登場人物の身振り・振る舞い・感情に合わせて、メロディーが「同語反復的に同調」してしまうことを指摘します。キャメラも、音楽も、踊りも、それを「二重三重に誇張してみせる」のですが、これも「そこまでやることないんじゃないか、とは思わせない」というのです。彼の映画は動くことをやめません。風が、カーテンや、女性の髪や衣装やヴェールを揺らし、雨が振り落ち、木漏れ日が光と影を形作り、男たち女たちは場所を移動し、それに合わせてカメラも移動します。「何かが絶えず艶めかしく動いている」のです。そしてその画面に、グル・ダットの独特な歌声が響き渡ります。
 まさに、これぞ「技術」というべきでしょう。本章では、50年代の国際映画祭では、「ある国民がごく普通に受け入れ、それを消費し」にくいような作家は国際的には認知されにくく、その作家の例が、日本の小津、インドのグル・ダットであり、彼らの映画は、アメリカ映画的な「あらゆる国の、どこの文化にも適用できるような大きな枠組み」で構成されている、と重要なことも述べられていますが、ここではそれはおいておきましょう。
 ともあれ、技術さえあれば、大胆であることは許されるのです。演出が「二重三重に誇張」されていても、技術が許すのです。画面を割りまくってもいいのです。技術がある限り。動くことをやめない彼の映画のなまめかしい画面が、その大胆さを助けます。
 しかし、「そこまでやることないんじゃないか、とは思わせない」技術とは、恩寵に近いものでしょう。努力は必要な条件となるが、十分な条件ではない。技術とは、映画を愛した人ではなく、映画に愛された人だけがもつことのできるもののはずです。それは、自分の自己研鑽の末にもやってくるとは限らないような、「小手先」という形容詞を許さない厳格なものです。
 著者はこれまで、技術も足らずに撮ることを厳しく「抑圧」していたはずです。「大胆さと技法について」の章は、その意味では、「抑圧」そのものです。グル・ダットをはじめ採る作家たちは、映画に愛されていた。あなたはどうか、と。
 この章は、映画美学校の受講生を相手にした講義なのですが、これを聞いた受講生たちは、幸福なのか、不幸なのか。もちろん、受講生たちは、そんなことは百も承知で聞いていたはずです。ともあれ、映画を撮る機会など一切ない人間には、上の両章はとても面白く読めました。

(続く)


(追記)
 本稿に関しては、「映画美学校発言集」(『映画美学校』様)が必見です。
 蓮實重彦は、グリフィスの「映画の父」たるゆえんを、「彼が普通の映画作家だったから」だといいます。「与えられた条件の中で自分自身の表現をどこまで高めていくかという、いわば、最良のための努力をたえずしていた監督」であり、ゴダールでさえも同じである、と。「「相対的によりよい表現がある」ということ、これは幻想かもしれません。だが、それを信じなくては映画は成立しません。」という言葉は、映画に関る人間の存在条件(のはず)です。
 具体的には、例えば、高橋洋の「音が奪われたらこの画って何秒もつの?っていうことを、DVっていう便利な機械のおかげでみんな考えなくても良くなっちゃったんですね。でもこれは映画にとってかなり致命的なことで。やっぱり不自由から出発した方が人間はいろんな事を考えるんです。」という言葉から、まず「技術」を考えるべきでしょう。なお、サイレントを経験したことの強さについて、前回論じましたのでご参照を。
 さらに、『ラルジャン』の「極めて周到な編集、次から次へと省略していく方法」と、『現金に手を出すな』の「ほとんど省略しない方法」を比較する青山真治は、「題材にとって何が適切なのか、題材が何を要求しているのか、ということを真剣に考えると、こういう両極端の事が起こってしまう」と説明し、「この題材を選ぶ生理が、この技法、この省略法、この話法を選んでいるというふうに言っていい」と述べています。どの題材を選ぶのか、という「生理=人生」の問題が、「技術」の礎といえるのです。映画にとって「技術」とは、その人の「人生」そのものまでも問われる試練のようです。自分の「生理」にあった題材を、それにともなう技術を。
 テオ・アンゲロプロスの言葉、「果たして、映画は私を望んでくれているか?」「映画は私を欲してくれているか?」という疑問は、もう言わなくてもわかることと思います。