なぜフィリピンの子供たちは、エビの頭を食べるのか 出雲公三『カラー版 バナナとエビと私たち』(1)

出雲公三『カラー版 バナナとエビと私たち』岩波書店 (2001/10)

 「日々の生活のなかで口にするあふれるような食品の向こうに、どんな人たちの暮らしが息づいているのか、どんな問題が起きているのか」。この問題提起がテーマとなる本書では、小学生たちが自ら足を運んで(親や祖父母のポケットマネーですけどね)、自分たちが食べているエビやバナナの作られる生産地を、眼で、そして体で体験し、そこから、自分たちの世界とそこで出会った世界とが、つながっていることを発見するのです。
 という風に、いざ書いてみると、まあ実に、あんまり面白くない解説になります。もっともっと、『エビと日本人』・『バナナと日本人の』姉妹編であるこの漫画は、面白いのです。特に、絵がうまい。これについては、「個人的には、ネグロス島の森林の書き込みとエビの腹脚の正確さに感心しました」と述べる『サヘルの森 機関誌』様の意見に賛同するほかありません。
 この漫画においては、特に、ディテールがこちらへと強く訴えかけます。例えば、フィリピンのネグロス島の子供たちが、お弁当のおかずに、エビの頭を食べるシーンです。なぜ、エビの頭なのか。漫画は、養殖エビの身の部分が日本に輸出されていることを伝えます。フィリピンの子供たちは、その残った頭を食べるのです。
 フィリピンの子供はエビの頭を食べ、日本の子供は身を食べる。これが、先進国と発展途上国との格差を示しているのです。
 ちなみにこのシーンのあとで、その話を思い出した日本の子供たちが、沈黙して、お箸に持つエビフライを見て考えるシーンがあります(36頁)。しかし、その沈黙も、父親が日本産のエビのてんぷらを持ってきて、すぐに止んでしまいます。深刻になりすぎないこと。考えさせても、深刻にはさせないこと。これが本書の、教育的な呼吸なのです。ほかのシーンについては詳述しませんが、本書はこの呼吸で、書かれています。
 しかし、教育的な自粛を優先する本書において、最もすばらしい場面はどこか。それは、主人公である少年がインドネシアで、マングローブが伐採されているのを目撃する場面です(49−52頁)。なぜ、ここがいいのか。
 少年は、それを目撃する前に、生水を凍らせたであろう氷の口にします。彼は、伐採されたマングローブを目撃したあと、腹を壊し、晩飯の地元のエビやカニを食べられなくなります。その夜はなかなか寝付けず、池の上にあるトイレで、眠い目で用を足します。ここで空を見た少年は、たまたま外にいた父と、会話します。池の上のトイレで排泄したものをエビが食べるかどうか、少年は父に尋ねます。しかし、その池は水量の調節用であってエビはいない、と父は返答するのです。 

(続く)