人権、あるいは企業献金について 樋口陽一『人権 (一語の辞典)』(1)

樋口陽一『人権 (一語の辞典)』三省堂 (1996/04)

■国家が生んだ人権、あるいは企業献金について■
 本著は、少ない頁数ながら、ぎっしりと内容の詰まった名著です。人権を、思想的な観点から、そして、法制度的観点から読んでいるのが特徴です。本書に関するすばらしい書評として『乱読ノート 〜出町柳から哲学の道へ〜』様もありますので、こちらもご覧ください。
 重要な点は、「国家」の存在を基盤とする「国民」の主権こそ、人権主体としての「個人」を成立させたのだ、という点です。
 人権宣言には、実は、結社の自由は書かれていません。つまり、フランス革命においては、結社の自由というのは、重要視されていない、というか敵視されていたのです。この、国家と個人との間にある、あらゆる中間集団(組合や、教会勢力を中心とする諸々の共同体)は、革命(「人権」の確立)において邪魔なものとして退けられます。(家族制度だけは例外的に組み込まれることになり、これがフェミニズムから批判される原因にもなります。)
 中間集団を壊して個人と切り離し、国家と個人との紐帯を強化する。それが完了した後、「諸個人の自由な意思でとりむすぶ近代的結社」が、国家からの自由をバックに作られるのです(43頁)。国家の認める自由を背景として、自由なる「個人」が誕生し、その自由を背景として結社が作られる。デュルケームの言う中間集団というのは、この国家と個人との紐帯を前提とした集団を指すのでしょう。
 中間集団(結社)を壊して、個人と切り離した痕跡は、現代でも法的な問題として現れています。革命期の憲法には、結社の自由は書き込まれていなかったため、1901年の結社の自由法が、憲法としての効力を持っています(42−43頁)。この痕跡は、フランス革命が生んだ「人権」の特徴を反映しています。
 しかし、日本ではかえって、その意義が認められず、結社=法人が「自然人と同じ意味で憲法上の権利の主体として扱われる」(44頁)ことになります。それにより、会社の政治資金の寄付が事実上容認(1970年八幡製鉄事件最高裁判決を参照)されてしまうのです。現在まで続く、企業の政治的献金の問題は、このような、結社=中間集団と個人との切り離しに学ぶことがなかった日本の歴史に、依拠する面が小さくないのです。

■人権のフィクション性の擁護■
 そもそも人権とは、「自己決定という形式と、個人の尊厳の不可変更性という実質価値内容の、緊張にみちた複合」である(58頁)といいます。例えば、妊娠中絶や臓器移植の問題の場合、何でも決められる意志と、意思で左右しちゃいけない個人の尊厳とがぶつかり合う。その緊張こそ、人権の要諦なのです。そしてこの緊張した綱渡りを処理する仕事が、実定法学の領域だといいます(59頁)。
 人権を建前であるとして批判する例が多いのですが、まず、この緊張具合を忘れて、批判することはできません。
 人権が建前であることの重要性にも触れています(63頁)。例えば、動物に人権的な権利を認めようとしたとき、その人が、意思主体としての人間という考えを建前に過ぎないと批判して、代わりに「苦痛の主体」という概念を導入するとしましょう。これに対しては、その時点で主張する人は、苦痛さえも感じないような症状の患者を権利主体から排除している、と反論できます。
 要は、人権はフィクションにすぎないという主張は、たいていの場合代替として持ち出されるもの自体も、少なからずフィクションを含みこんでしまうので(「伝統」という概念のフィクション性も考えよ!)、より重要なのは、フィクションを含むか否かではなく、あくまでもそのフィクションの機能振りなのです。使えれば、使うべきだし使えなくなったら改良すればいいのです(このあけすけな言い方は、ちと無防備ではありますが)。

(続く)