『必読書150』を読む際の3つの注意点 柄谷行人ほか著『必読書150』(1)

柄谷行人ほか著『必読書150』太田出版 (2002/04)

 話題になった本ですので、これに関する紹介は不要と思います。
 感想は一言、【この本で取り上げられた必読書って、誰が読むんだ?】となるはずです。これは、選んだ当人たちが言っているのですから間違いないです。みんな、これをこれをと選んでるうちに、こんな誰が読むのか不明なリストになったわけです。事実、選者の一人である奥泉光は、全部は読んでいないと告白しています。この本を読んでむかついた人は、この選者はこの本を読んでないだろうな、という風に邪推してもかまいません。
 とりあえず本書を読む際、使う際の注意点について書いていきましょう。なお、リストとして挙げられた書物のいくらかについては、個人的な思い入れを書くとキリがなくなってしまうので、今回は自粛します。

?集団で読みましょう。
 68年当時は、学生は、「サークルなんかに入れば、学習会と称して読まされた」と、絓秀実は述べています(13頁)。いわばそこで、知識(教養?)を共有し、競争した、と語ります。懐古趣味入っている気もしますが、本書もその雰囲気に沿って、読書会において読まれるための書物と考えられるべきでしょう。
 後の頁で、コンペのような競争する共同的な場の重要さが語られていることも、(お楽しみサークル的ではない競合的な)読書会で読まれる必要を物語っています。本書は、だから一人で読まれるのではなく、複数の人が読書会のような形で、読みあい、その知識を共有し、また競争しあう場所で、読まれる必要があるということなのです。奥泉も、書物を通してその内容を語ること、他者と関ることの重要性を述べているのですから(220頁)。

?全部を読まなくてもいいのです。
 「最後まで読む必要はない、読んでダメならすぐやめろ、その代わり、即その次の本を見なさい」と、渡部直己は述べています(23頁)。自分にぴったり合う本を深く読めばいいのだ、と。奥泉もあとがきで、これと思える書物に出会ったら、「リストにこだわらずに、同じ作家著述家の作品を読み進むのがいい」と、芋づる式の読書を推薦しています(219頁)。
 極端にいえば、リストの書物全部を読んでダメなら、それでいいのです。まあ、そうなった場合は、己の無能さを恥じるべきだ、と思いますけどね。

?カノン(聖書)のように読む必要はありません。
 この本に納められた本の中には、批判すべき対象として選ばれたものもある、と岡崎乾二郎は述べています(19頁)。一旦読んでおいて、それを批判して乗り越えることによって、知の基礎を作ろうというのです。その基礎の欠落を岡崎は憂い、「むしろ凡庸さを通過することこそが重要」だというのです。
 だから、すべての書物を、まるで文字通りカノンのように、つまり、一字一句聖書のような厳密さと思い入れを以って読む必要はありません。こんな書物はくだらない、と思うこともあるはず。こんな本はあとで知識がついたら批判してやる、という野心も大事です。場合によっては、このくだらない本を批判できる、別の武器(書籍)はないか、という風に嗅覚を働かせる訓練になるかもしれません。

 以上、三点を注意点として挙げました。この三つを守ってリストの本を読んでいけば、(たぶん、)あなたの知性を磨き上げることのできる書物に出会えると思います。
 本書では、リストの各本に、選者の紹介文(推薦文)が寄せられています。そこで、そのなかでも、特に面白かった文章を挙げて、紹介(紹介の紹介)をしてみたいと思います。

柄谷行人キルケゴール『死にいたる病』紹介
 信仰していると思っていても、「実は絶望している」し、絶望をどんなに自覚しても、「そこから出られるわけではない」。もはや、【死に至る病=絶望】からは抜け出せない。もうここまで来ると、「あまりに絶望的なのでいっそ楽しくなる」。
 なんてすばらしいキルケゴール紹介なんでしょう。絶望から抜け出せない悪無限のループの中で、もう楽しくなるしかない。どこか、スピノザのことを思い起こさせる紹介です。

浅田彰デリダ『グラマトロジーについて』紹介
 内的思考が、文字(外的なもの)となって他者に読まれるとき、内的思考と文字として読まれたものとの間に、ズレが生じる。これ自体は、経験的に私たちにも理解できます。
 デリダのさらにすごいところは、そもそもそのようなズレが、実は内的思考のなかに、すでに宿っているのだ、と指摘したことです。デリダは、【純粋な内的思考VS不純な文字】という対立を脱構築し、純粋なはずの内的思考にはすでに、ズレを起こさせる因子が存在しており、これが「差延」だ、というのです。浅田は、そのあたりを簡潔かつ要点を押さえて解説しています。さすがです。

(続く)