ブックガイドより註の方が重要? 柄谷行人ほか著『必読書150』(2)

柄谷行人による田山花袋『蒲団』紹介
 『蒲団』の内容自体はフィクションなのは周知だが、「明らかなのは、これが世間に衝撃を与えるという目的をもって書かれたということ」である。世間受けを狙う花袋。書いた内容なら作者は恥ずかしくなかった。だが、「彼は文壇的競争心のためなら何でもやってしまう自分の心だけは「隠した」」。
 小説を書いた人間の、世間受けを狙う姿勢を批判しています。この批判に対して反批判はあるでしょうが、この批判は実に鋭く面白いです。一言で言うと、【花袋=俗物になり切れなかった男】となるでしょう。真の俗物なら、文壇的闘争心もむき出しにしても気にすらしないはずです。

岡崎乾二郎による宮沢賢治銀河鉄道の夜』紹介
 「見慣れた日常を科学者の目で観察し、理科の教科書のような平易な文体で即物的に記述しなおすこと。そしてどこか外国語のような名称でそれを呼び直すこと。」これが彼の武器だ。
 いやあ、身も蓋もない。彼の特徴(小説の秘密?)を、うまく掴んでいます。もっとも、同じ方法を使っても、宮沢賢治のように小説を書けるわけじゃないので、注意してください。当たり前ですが。
 もちろん岡崎は、宮沢賢治ファシズムとの関連性についても触れています。

■絓秀実の中野重治『村の家』紹介
 吉本隆明『転向論』の【大衆 対 知識人】の構図による同書読解を批判しています。実は主人公の父親もまた「小役人」ですでに「知識人」だし、「村」=前近代という読みは短絡的だ、とする指摘には注目です。この小説については、絓の『1968年』もお読みください。

柄谷行人による後藤明生『挟み撃ち』紹介
 「他人は君が思うほど、君のことを気にしていない」。「君が、他人が見ていると思って気取っているのに、実は誰も君を見ていなかった」。これが自意識の滑稽さだ。対して後藤が書いたのは、自意識の滑稽さの中でも、「見るー見られる」の関係ではなく、「笑うー笑われる」の関係だった。
 【自意識の滑稽さ】というものを、まず語っておき、その上で、後藤の小説の特徴とつなぐという、優れた紹介です。言い換えれば、【君は、他人に笑われていると思って恥ずかしがっているのに、実は誰も君を笑うどころか相手にさえしていない】。相手にさえされていないのに、恥ずかしがる自分。なんと恐ろしいことか。

以上、大体こんなもんでしょうか。岡崎の和辻哲郎『風土』紹介や、島田のホメロスオデュッセイア』紹介(批判?)も面白いです。渡部のサド『悪徳の栄え』紹介も、ドゥルーズを引用して、陵辱の即物性と哲理的演説(討論)との関係を、論理自体の鋭利さが犠牲者の身体を切り刻む責め具と同じ「欲動の極み」を帯びる、と説いていて、鋭い。サドの本は、女王様に罵倒されたい方にこそ、お勧めの本です。

 最後に、本書に関して一言。
 絓秀実は、ヘーゲルの翻訳については、平易で知られる長谷川宏訳よりも、難解で誤訳の多い金子武蔵訳のほうが、「注が本文の倍の量」(イポリットの解説に過ぎなくても)あり、難しい分、読めばその分だけ考えるだろう、と述べています(25頁)。
 なるほど、いいこといってます。それじゃあ、必読書を人に読ませるだけじゃなくて、自分たちで、リストアップされた本に対して、翻訳は無理でも、せめて、注を「本文の倍の量」掲載してみるというのはどうでしょうか。
 『アンチ・オイディプス』とか、『失われたときを求めて』とかだと難しいかもしれませんが、上田秋成『胆大小心録』とか、ゴーゴリ『外套』、谷崎潤一郎春琴抄』、折口信夫死者の書』とか、『ランボー詩集』とか、デュラス『モデラート・カンタービレ』とか、短い本なら、いっそ注を書いて、掲載してみたらどうでしょう(挙げたのは小説ばかりですけど)。
 もっとも、そんな時間がないから、こんなリストを作ったのでしょう。教師は忙しいようです(書いてくださる勇者を募集中です)。
 そのほか、創造性は語れないが「情報の圧縮というのは技術で語れる」(42頁)という岡崎の発言はためになります。「同じ一つの本から、まったく見解の異なる要約を三種類出せ」という方法も含めて。
 「実際の本から、Webの検索に引っかからないような見落とされた細部を拾い上げて使うという技はあるかも」という岡崎の言葉を、本blogは実践しているつもりなのですが、なかなかうまくいきません。技術を磨かないといけない、ということでしょうか。

(終)