マルクス主義・リルケ・ショー 藤田省三『全体主義の時代経験 (著作集6)』(2)

■「マルクス主義のバランスシート」■
 本論の目的は、宮崎哲弥による、藤田省三の意見の引用の仕方の問題です。
 宮崎哲弥が引用したのは、「マルクス主義のバランスシート」という、藤田省三の、経済学者・塩沢由典との対談です。この対談はどんな内容だったのでしょうか。
excel ビジネス・ソフト請負 読書日誌」様が、これを上手にまとめています。基本的に、この対談は、お互いかみ合っていないため、読みづらいです。その点で、これをなんとか要約できたのはすごいです。
 塩沢の主張は、ここでは基本的に、【マルクス主義批判】に傾いています。ざっくり要約すると、【マルクス経済学は、「計画経済」を過信し、資本主義経済を甘く見た。そのエリート主義も批判すべきだ。彼らは、自分の考えを他人に押し付けている。何より、資本主義体制に比べ、自浄能力がなかったのだ。】乱暴な要約ですが、おおよそ以上のようになります。
 これに対して藤田は、ある程度マルクス主義を弁護し(批判的指摘も忘れていませんが)、その上で、日本における経済的な体制を批判しています。塩沢の意見に対して、マルクス主義を擁護しつつ、その主義の弱点も指摘することで、藤田はバランスを取ろうとしているようです。

 では、宮崎哲弥が引用した藤田省三の発言部分は、どのような場面でしょうか。それは、塩沢が、日本の社会では、「人びとがなんとか平穏に暮らしているのに、あなたたちは本当はこんなに不幸なのですよ、おせっかいなことを言う必要はないのではないか。」と述べる段階でです。
 藤田省三森鴎外への言及は、ここでなされるのです。藤田は鴎外のエピソードについて、次のように述べています。
 リルケの戯曲『家常茶飯』をなぜ翻訳したのか、と新聞記者に鴎外は質問される。画家の姉は、母親に尽くすが、これは孝行ではない、とされている。これはどういうことなのか、と。鴎外は、バーナード・ショーの『悪魔の弟子』を例に挙げる。『悪魔の弟子』では、ある男が、別の反逆者に間違われ処刑されることとなるが、彼は抗弁せず、受け入れようとした。鴎外は、その男を動かしたのは、「仁とか義とか、そういうものとは違う別の或るものなのだ」と述べる。
 つまり、バーナード・ショーの『悪魔の弟子』に鴎外が言及したのは、リルケの戯曲『家常茶飯』の謎解きをするためだったのです。ヂックが「仁とか義とか、そういうものとは違う別の或るもの」によって行動したように、画家のモデルも、「孝行」というのとは「違う別の或るもの」によって母親に尽くしたわけです。
 藤田省三は、【主従】ならば【従】のほうに着目し、【従】であるバーナード・ショーの話に注目しているわけです。ここに藤田の【転用】があります。ちなみに、『家常茶飯』は、今風に訳すと、『日々の暮らし』ぐらいの意味になるようです。

 次に、鴎外と記者とのやり取りをまとめた「現代思想」という文章を見てみましょう。藤田省三は、これを実は参照しています。
 画家の姉は、「一身を犠牲にしておっ母さんを大切にして」いる。しかし、「孝という思想は跡形もなく破壊せられて」いる。その後、バーナード・ショーの『悪魔の弟子』を例に挙げ、画家の姉をとおして、「孝」について鴎外は述べていきます。
 「孝でも、また仁や義でも、その初(はじめ)に出来た時のありさまはあるいは現代の作品に現れているような物ではなかった」だろう。「それが年代を経て、固まってしまって、古代宗教の思想が、寺院の掟(おきて)になるように、今の人の謂(い)う孝とか仁義とかになったのではあるまいか」。作者のリルケも、「現代詩人」たちに同じく、「随分敬虔(けいけん)なような、自家の宗教」を持っていたのではないか。
 鴎外は以上のように、リルケの戯曲について述べているわけです。藤田は、上記について、きちんと踏まえて書いています。そして、鴎外の言葉を紹介したあと、いま失われている感覚が、バーナード・ショー『悪魔の弟子』に出てきた男の姿勢だ、と藤田は思うわけです。その姿勢に、「偶然にくる或る不幸」を引き受けるという姿勢を、藤田は見るのです。

(続く)