「転用」の問題 藤田省三『全体主義の時代経験 (著作集6)』(3)

■「転用」について■
 藤田は、「偶然にくる或る不幸」を引き受けるという姿勢に言及した後、マルクスがいた時代のことを語ります。彼がいた当時の、「失業者の社会的不幸」を放っておけない感覚について語るのです。また、「現代でいえば、地球上にそれと似たことが横倒しの関係になって大規模に存在していると思う」とも述べています(144−145頁)。
 分りづらいので話を整理すると、塩沢由典は日本の社会について、「人びとがなんとか平穏に暮らしているのに、あなたたちは本当はこんなに不幸なのですよ、おせっかいなことを言う必要はないのではないか。」と問います。これに対して藤田省三は、それでも、彼らは不幸ではないか、と主旨の答えなわけです。
 この【放っておくけない】という感覚がマルクスの時代にはあり、「地球上にそれと似たことが横倒しの関係になって大規模に存在している」という「現代」に、その感覚は求められている、というわけです。
 塩沢は【不幸だ、と彼らにいうのは、おせっかいじゃないでしょうか】という立場であり、藤田は【でも、やっぱり「不幸」な彼らを放っておけない】というかたちとなります。問題となるのは、「偶然にくる或る不幸を引き受ける」という姿勢と、【放っておけない】という感覚との整合性です。いまいち噛み合っていません。この二つ、やっぱり直接にはむすびつかないものでしょう。
 事実、バーナード・ショー及び鴎外の話は、浮いているのです。最終的に、塩沢が、「他人の不幸を背負って行動する」時の「エリート主義」を指摘することで、この対決は、塩沢に軍配が上がった格好になります。【放っておけない】という感覚は、「他人の不幸を背負って行動する」時の「エリート主義」に対する批判に負けています。
 ?「偶然にくる或る不幸を引き受ける」という姿勢と【放っておけない】という感覚との不整合、?「他人の不幸を背負って行動する」時の「エリート主義」という塩沢の批判の優位、この二つを理由として、バーナード・ショー及び鴎外の話は、対談の中で孤立した位置に、とどめられたわけです。藤田と塩沢の対談の中で、バーナード・ショー及び鴎外の話は、孤立した存在であり、これに宮崎が注目したのは、主従のうち【従】の方に目を向けたといえるのです。
 まとめましょう。森鴎外は、リルケの戯曲を説明するために、バーナード・ショー『悪魔の弟子』を用いました。これに対して藤田省三は、【主従】ならば【従】のほうに着目し、【従】であるバーナード・ショーの話に注目します。ここに藤田の【転用】があります。さらに宮崎哲弥は、一応マルクス主義擁護として使用された、バーナード・ショー『悪魔の弟子』の話(しかも、脇役だったもの)を、ナショナリズム(の超克)論に、さらに【転用】します。
 要するに、藤田省三も、宮崎哲也も、脇役である話を、主役に持ってくるという【転用】をしているわけです。サブ的存在をメインに引っ張ってきた、と。本ブログも、このような【転用】を、彼らのように行いたいと考えています(ただ、藤田の場合は、あんまり有効な効果を挙げていませんし、宮崎の場合も、正直、特攻隊員とルワンダの少女たちの例に負けている印象です)。
 ひとまず、【転用】という事態を指摘して、「マルクス主義のバランスシート」への言及については終了します。

■「安楽」への全体主義
 本書『全体主義の時代経験 (著作集6)』についても、何か書いておきます。藤田は本書において、「生活様式における全体主義」、「安楽」への全体主義を批判しています。可能な限り苦痛・不快を一掃しようとする現代社会の傾向を批判しようとするわけです。これにより、「自己批判能力」が失われていく、と。(ですから、宮崎哲弥の言う「パラサイト・ナショナリズム[=一言でいえば、お上が何とかしてくれる!]」と、「『安楽』への全体主義」は、厳密には異なります。後者は、お上云々とは直接は関係ないのです。)
 内容を見ると一見、『無痛文明論』を思わせますが、その筆は、彼独特の文体に支えられて、単純な結論を下そうとはしておらず、その筆遣いそのものが、【自己批判】を促しているといえるでしょう。
 この「安楽への全体主義」については、稲葉振一郎山形浩生の両名が、東浩紀の「動物化」論の先駆と位置づけながら、「ここに安住していることが危険だとか、道徳的にも間違っているという言い方はしにくい」点を指摘して、「「安楽への全体主義」は良くないとか言うためには、藤田とは違った道具立てが必要だ」と述べています「現代日本教養論(第3回)「動物化」論と「安楽への全体主義義」(1)」(『東洋経済オンライン』)。
 おおよそ両名の言うとおりのことと思います。批判の方法が難しいのが、藤田の言う「安楽の全体主義」という存在なのです。ちなみに両名は、藤田の第三世界・地球環境の先進国による搾取に対しても、批判をしていますが、これについては、いずれ別の機会に言及します。
 問題は、彼らの適切な指摘ではなく、彼ら二人を含む、「「安楽」への全体主義」を論じる人たちの陥りうる陥穽なのです。

(続く)
2009/8/7 修正済