日本国憲法と【納税の義務】 番外編2(藤田省三『全体主義の時代経験 (著作集6)』)

番外編1(藤田省三『全体主義の時代経験 (著作集6)』)へ寄せて

 「税金を納める」という義務を権利と見誤った人の割合が42.2パーセントにも達しているのである。これは義務意識の浸透を表しているのではなく、憲法上の権利と義務の分別という、公の基本原理に関する日本人の無関心と無知を象徴する数字と解すべきだ。

このように、宮崎哲弥は述べているようです(『あさってのほうこうBlog』様)。
 税金を納めるのは、憲法上義務のはずなのに、権利だと勘違いしている日本人が多い、と。これは、義務の権利の分別という「公」の原理の無知に他ならない、と。なるほど手厳しいです。
 試みに、別の人の文章を引用しましょう。孫引きですが、お許しください(以下、『創価王道』様)。

 日本の憲法には「納税は国民の義務」という条文がありまして、例によってお上に従うのが大好きな日本人は、これをありがたく遵守しています。一方、アメリカ合衆国憲法には「議会は税を課し徴収することができる」としかありません。
 欧米諸国において憲法とは、国民の権利と国家の義務を規定したものなのです。日本はまるっきり逆。国民に納税しろと命じるずうずうしい憲法は世界的に見てもまれな例です。

 言うに及ばず、これは、名著・パオロ=マッツァリーノ『反社会学講座』の一文です。そもそも、【納税=義務】ということ自体、殆どの欧米諸国の憲法には載っておらず、【義務】という言葉よりも、控えめな表現なのが特徴だそうです。
 二つを比較すると、宮崎の場合、納税は憲法上義務のはずなのに、権利だと勘違いしているのは、義務の権利の分別という「公」の原理の無知だ、という国民への批判となり、一方、パオロ=マッツァリーノの場合、【納税=義務】なんぞは、そもそも欧米の憲法には殆どないのに、日本人はお上に従うのが好きなようだ、という揶揄となります。似ていますが、ニュアンスが違います。
 片や宮崎の場合、日本国民の、憲法上の「公」の原理への無知が批判されるのに対し、一方、パオロ=マッツァリーノの場合、欧米と日本との比較から、日本国民のお上への服従意識が揶揄されるわけです。この、批判と揶揄とが違うわけです。後者の場合、欧米と日本との比較を、入れています。
 宮崎哲弥が、日本国憲法における【納税の義務】の、欧米に比べての特異さを、知っていたかどうかは分りません。もし宮崎がその事実を知らなかったとしたら、【「公」の原理】云々より先に、その事実を勉強すべきでしょう(彼は【無知】だったことになります)。もしその事実を知っていたとしたら、「憲法上の権利と義務の分別」への無関心は事実だとしても、彼は【納税の義務】の他国における実情を読者に隠匿していたことになりますから、読者への親切さに欠けています(先に、欧米諸国の憲法における【納税の義務】の実態を教えてやれよ、と思います)。
 彼の広範囲に亘る知識を考えると、おそらく後者のはずです。宮崎は、日本国民の無知を批判するために、意図的に、【納税の義務】に関する実態を隠したのだと思われます。別に批判はしませんが、【憲法上の権利と義務の分別】云々を批判する以前に、日本の憲法自体おかしくない?、という指摘はないのかよ、と思ったのは事実です。

(続く)